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第11話

「どう? 疲れたっしょ」


 芝生に寝ころぶ僕を見下ろして、スゥは笑う。


 お互い汗びっしょりになって、僕もスゥも、着ていたTシャツを脱ぎ捨てていた。


「てかさ、前から気になってたけど、ウチ汗臭くね?」


 Tシャツを脱いだスゥの胸元にはカラフルな色合いのビキニの水着と、形の良い谷間。


「こういう生活してるとさ、めったにシャワーも浴びれんし。臭かったらごめんね」


 確かに汗のにおいはする、だけどその匂いには、全く不快なものではなく、スゥ自身の甘い香りに交じるほのかな汗の香りに、僕は眩暈のような幻惑を覚えた。


「すごく、いい匂いだよ」


「ちょっと、やめろし」


 そういってスゥは笑いながら、僕の肩をつついた。


「今うちが教えたメニュー、毎日やってれば、絶対強くなれるし」


「うん。ありがとう、スゥ」


 その瞬間僕の中で、聞くまいと無意識に抑え込んでいた想いが形となった。


「スゥは、いつまで東京にいるの」


「んー、もうそろそろ、東京とはおさらばかな」


 スゥは、背筋を一伸びしてそう言った。


「明後日くらいには、横浜あたりに行こうと思ってんだよね、って、そんな顔すんなし」


 そういうと、スゥは僕の頬に、指をさす。


「やることやったら、また東京に来るつもりだし。そしたら、またどっかで会えるっしょ」


「僕も一緒に連れていって」


 僕はまた、心の中に押しとどめていた僕の思いを、言葉にして表した。


「スゥを手伝うことくらいはできるから。ゼファーがあれば、もっと楽に旅ができるよ」


スゥは僕の言葉を聞いて、一瞬沈黙したかと思うと


「まじうけるし」


そう言ってケラケラと笑った。


「ごめんごめん。なんか嬉しくて逆に笑えるし。まじ感動。超嬉しいよ、そう言ってくれて」


僕に向けられたその笑顔は、婉曲的にではあるが、しかしはっきりと僕の申し出を断っているんだということを悟った。


「明後日の夜、見送りに来てくれたら嬉しいな」


「スゥ、僕は――」


「――おにぎりとかコーラとかがあれば、なお嬉しい」


 スゥの笑顔は、僕の言葉を遮った。


※※※※※


 次の日の朝、僕の体に、今まで経験したことがないような痛みが襲う。


 こんなに激しい筋肉痛を経験したことは、生まれて初めてだった。


 だけどその痛みは、僕が生きているということを実感させてくれる。


 そしてその痛みがもたらす、生きているという実感は、僕が自由な存在なんだ、そのことを、文字通り痛いほどに主張する。


 だけどその自由は、明日の夜消え失せてしまう。


 僕がなすべきことは、わかっている。


 無断で長期間、学校にもお母さんにも行き先を告げずに――


 しかも、無免許のままゼファーにまたがって――


 しかも明日は、終業式当日――


それはつまり、僕にはこの時を置いてはほかにないってことだ。


※※※※※


 スゥが東京を去る日、明日にはお母さんが返ってくるというその日。


 体中にまとわりつく筋肉痛を感じながら、終業式が終わった。


「おはよ」


 僕に声をかけてきたのは、日南さんだった。


「おはよう、日南さん」


 あの一見以来、僕は日南さんと一言も口をきいていない。


 挨拶をかわす程度はした、したのかもしれないけど、ほとんど記憶に残っていない。


 席に着いた日南さんはイスの角度をずらし、無言のまま僕の顔を見つめ、そして言った。


「ごめんなさい」


 いったい何のことかわからない僕は、首をかしげる。


「この間のことよ、ほら、あの時の」


「えと、別に謝られることなんて、何一つないんだけど」


「私には、あるの」


 その口調には、クールさの中に、ほんの少し強さが含まれていた。


「何だか、煽るみたいになっちゃったから。だけど、そういう意味じゃないから。あなたがどうしてバイクが好きなのか、ちょっとだけ気になったから」


「別に気にする必要なんて、ないよ」


 僕は首を振った。


「お詫びってわけじゃないけど、もしよかったら、今度一緒に、高校野球の応援に行かない?」


 そんな僕をたしなめるように、日南さんは口元に小さな笑みを作る。


「先輩に誘われてて、困ってるの。言ったでしょ、私、そういう気持ちに敏感だって。あなたが一緒に来てくれれば、相手を変に傷つけることもなさそうだから」


「気が向いたらね」


 精一杯心の動揺を隠そうとした僕の言葉は


「そうなることを祈ってるわ」


 その一言で、全て覆されてしまった。


―――


 家に帰った僕は、ベッドに寝転び、天井を眺めていた。


 日南さんと、高校野球の応援。


 日南さんと一緒に出掛けて、同じ空間で同じ時間を過ごす、僕の胸は張り裂けそうな歩道に、興奮している。


 だけど、僕の本当にやりたいことは、それじゃない。


 僕はポケットから財布を取り出すと、その中にしまっていたゼファーのキーが、まるで岩陰からやどかりがのぞきこむように、僕の前にその姿を主張する。


何かが待っている、ここではないどこかで。


ゼファーだけが僕をそこに連れて行ってくれる、根拠のない確信が、僕の心に根を張る。


 その時、僕の耳元に、強い音が響いた。


 僕はベッドから体を起こし、周囲を確認する。


 すると、がたがたと部屋の窓が音を立てる。


 僕は窓を開ける。


 強い風が、吹いた。


 熱く、湿り気を含んだ、嵐のような突風が。


―――


 僕はまた、ガレージに足を運んでいた。


 そして、あの日風が吹いた、ガレージの奥へと進む。


 そこには、毛布を掛けられたままのゼファー。


 そのさらに奥に足を進めた僕が見つけたのは、一つの革製のバッグだった。


 間違いない、それはバイク雑誌で見た、バイクのサドルバイクだった。


 僕はサドルバッグを持って、僕の部屋へと戻って行った。

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