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第10話

「よっ、今日も元気そうじゃん」


 翌日も、そのまた翌日も、僕はスゥからゼファーの乗り方を教えてもらい、その見返りとしてコンビニでご飯を提供した。


あの日から三日目、時速四十キロ程度の速度だったけど、直線からカーブ、そして安全なブレーキ、僕はゼファーを手足のように操れるようになった。


途中で一学期の期末試験が挟まったけど、僕はゼファーと、多摩川の橋のたもとで暮らす家出少女、スゥという存在に夢中になっていた。


―――


「マヨネーズってさ、一人で生きてくには最高の食いもんじゃね?」


 その日の教え賃の一つ、エビマヨネーズの握り飯をあっという間にスゥは平らげる。


 周囲には、僕のスマホから流れるレニー・クラヴィッツ。


「カロリーがあって、酸味もあって、何につけても美味く食えてさ。もし今自由になる五百円があったら、新鮮なマヨネーズ一本買うし」


「わかったよ。プレゼントするよ、マヨネーズくらい」


「ん、なんか催促したみたいで悪ぃね」


 食後のスゥの笑顔は、見ている僕まで、純粋で幸せな気分にしてくれた。


「けどわんこくん、あんまりご飯食べてないじゃん。普段からそうなの?」


「僕、基本的に少食だから」


「中学生の男の子なのにね。そういえば、わんこくんは、何かスポーツとかやってないの?」


「全然」


 僕は首を振った。


「習い事と言ったら、塾とか勉強だけ。スポーツは、ずっと見るだけだったよ。スゥは、何かやってたの? 喧嘩とか、すごく強いみたいだけど」


「ウチ、空手を習っててさ、全国大会にも出て、結構いいところまで行ったんだ」


「本当に。すごいね」


「そのあと少しだけボクシングもかじったし、そのほかにもまあ、色々かな。ここまでJK一人で旅して来たんだし。それなりに自信がなくちゃね。じゃあさ、好きなスポーツとかは?」


「すごくニッチな感じになるけど、高校野球、かな。やったことは、ないんだけど」


「じゃあさ、野球部に入ればいいじゃん」


「絶対無理だよ。まともにキャッチボールすらやったことのないんだから」


「やってみなくちゃ、わかんないじゃん。中学の野球部なんだから、未経験者だってたくさんいるはずじゃん」


「できるわけ、ないよ」


 僕の言葉に、思わず力がこもる。


「それに野球部に入りたいなんて言ったら、お母さんに反対されるに決まってる」


 僕の言葉を聞いたスゥ深いため息をつくと、


「あのさ、こういうこと言って気分悪くさせちゃったら悪いんだけどさ」


 僕の目をまっすぐに見て言った。


「何でそこでお母さんが出てくるの? 関係ないじゃん。わんこくんのことでしょ?」


「スゥは、僕のお母さんのことを知らないから、そんな無責任なことが言えるんだ」


 その時の僕は、自分でも情けないほどにむきになって、スゥに反論をした。


「これからも、ずっとそのままなの?」


 スゥの静かな、だけど強い口調は、僕の言葉を押しとどめた。


「何でもかんでもお母さんのせいにして、自分自身から目を逸らしたまま生き続けるの?」


 スゥのその視線と言葉は、僕の心臓を鷲掴みにした。


「今後も、わんこくんの身の回りには、こないだよりもよりもっと痛くて怖いことが起きると思うの。そうやって痛い事や怖いことから逃げるの?」


 そういうとスゥは、僕の両頬を軽くつまんで小さく笑った。


「そんなマジ顔なんなし」


 スゥはそういって笑いながら、僕の首に腕をかけた。


「よっし、いい機会だ」


 そういうとスゥは、立ち上がって僕に手を差し出す。


「ウチが、鍛えてあげる。わんこくんをね。喧嘩の仕方、教えてあげる」


「無理だよ、僕には」


「大丈夫。わんこくんは、男の子なんだから。女のウチより、絶対強くなれるから」


―――


 僕たちはテントを出ると、数メートルの距離を取って向かい合う。


「じゃあまずは、パンチの打ち方だね」


 距離を取り向かい合う僕に、スゥはそういった。


「素手でパンチをうつには、拳をしっかり作るの」


 そういってスゥは僕に掌を開いて見せ、小指の先を掌の上端部につけ、小指から薬指、中指、人差し指と続け、そして一気にその指を折り曲げて、そして最後に、その指を抱え込むようにして、親指を折り曲げて見せる。


 僕も、左手で補助をしながら、隙間なく詰め込むように、指を掌に折りたたむ。


 そのたびに、僕の指から枯れ枝を折るような乾いた音が鳴る。


「素手でパンチをするとき、少しでも隙間があると骨を折っちゃう可能性もあるし。だから、しっかりと握りこまないとダメ。何かあたっとき、すぐに拳を作れるように慣らしておいて」


 スゥに倣って左の拳を握りこむ僕を見届けると、スゥは僕に近づいて


「左足を、一歩前に出して。そのあとそれに合わせるように、上体の半身を切って」


 僕の体に手を当てて、細かくその位置を指示する。


「じゃあその体勢のまま、両手を上にまっすぐ上げて。上げたらそのまま下に下ろして、両拳で拳をガードするように構えて」


 その言葉通り僕が構えを取ると、左拳を、拳五つ分くらい前の位置に修正する。


「これでよし。これも、自然に拳が来るように体に覚えこませておいてね」


 そういうとスゥは、僕の肩を軽くもみ、叩く。


「けど、脇が開いてる。肩に力が入りすぎ。リラックスしないと、いいパンチは打てないよ」


 そういってスゥは僕の隣に立ち、僕とまったく同じ構えを取る。


「見ててみ」


 拳の音なのか、それともスゥの呼吸なのか、風邪を切るような音が僕の耳に響いたかと思えば、スゥの左拳は気持ちよく前方に伸びる残像を残し、再び顎の位置に戻されていた。


「ジャブっていうの。聞いたことあるでしょ。左の拳で、まっすぐに相手の顔面を貫くの」


 するとスゥは、まったく同じ動作を何度も僕の目の前で繰り返してみせる。


「強く打とうと思う必要ないし。スナップを聞かせて、パンチと同じ速さで引き戻すことを意識してやってみて」


 僕は言われた通り、左拳を何度も何度も前に繰り出す。


 自分ではできているつもりだったけど、体の軸がぶれてる、とか、パンチが左にそれてる、とか、スゥはその都度、僕の体を修正する。


 単純な動作は、すぐに僕の華奢な左肩を重くし、痺れを走らせ、スゥの示す構えを作ることすら困難にしていく。


「そんなに硬くなっちゃだめだし。ほら、一回構え解いて。肩回してストレッチしてみ」


 その指示に従い、僕は肩をぐるぐる回し、大きく息を吐いた。

 そして再び構えを作り、スゥの指示に従い、一心不乱に拳を振るう。


「ん、そうそう。もっとシャープに、スピードをつけて」


 気が付けばスゥの姿は僕と向き合い、僕の拳はスゥの、タオルを巻きつけた左掌で小気味よい音をならす。


 その音に僕の心と体に、言葉にできないような快感が走る。


「ナイス。いい調子」

スゥの心地いい笑顔が見たくて、再びその音を聞きたくて、僕の拳は中空を切る。


その後、僕は右の拳、右ストレートを教えてもらう。


 左の拳は剃刀に、右の拳は、僕の体重をすべて預けたハンマーになる。


そしてその二つの織りなす、地球上で最も簡単なコンビネーションを、スゥの掌は心地く受け止める。


ワンツー、ワンツー、自分自身の肉体を、自分自身以外の何かに爆発させる初めての経験、僕の全ては、その経験の中に集約されていく。


 スゥの掌が、瞬時に遠のく。


「喧嘩の時、バカみたいに止ってる奴なんていないし。それに、体重移動をすれば、もっとパンチは重くなんの。ウチのこと、追っかけてみ」


―――


 一時間以上、パンチのコンビネーションの練習を繰り返した僕にスゥは、シャドウボクシングの仕方とか、腕立てに拳立て、腹筋背筋、スクワットとか、いくつかの自重トレーニングなんかを教えてくれた。

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