「なにしてんの、あんたたち」
高く透き通るような声が、どこからか響く。
そこには一人の女性の姿。
日に焼けた黒い肌、ジーンズのショートパンツに黒のタンクトップ、明るく脱色された髪にストローハット。
「その子から離れなよ」
思いがけない声の主は、大きなリュックサックを背負った、僕が普段接することのないタイプの少女だった。
「その子どう見たって中学生っしょ。そんな大人数で袋にして、恥ずかしくないの、あんたら」
少女の姿を見た若者たちは、下品な口笛を吹く。
「ちょうどいいんじゃね?」
「ああ、この女も、一緒にもらっていけば――」
その少女は、自分の肩に乗せられた男の腕を振り払った。
その抵抗が男たちのプライドを傷つけ、男たちは、今度は力ずくでその少女の腕をつかむ。
その瞬間、鈍い音が響いたかと思うと、男はその場にしゃがんでうずくまっていた。
左手をつかんだ腕を少女は軽業のように振りほどき、その固く握られた右の拳が男の鼻先にめり込んでいたことを、かろうじて僕は認識していた。
振り向きざま、少女はバレリーナのように足を高く上げ、その長くて細い脛をもう一人の男の首に巻き付けるように蹴り上げる。
その男もまた、すとんと膝から崩れ落ちた。
「呼ぶよ、警察」
少女の構えたスマホの前に、男たちの体は固まる。
「そしたらあんたらどうなるかわかるよね? あることない事口にして、あんたらを社会的に抹殺してやるんだから」
少女の一喝に男たちはひるみ、倒れた仲間を連れて、そのままその場から姿を消した。
この数分間のことを、僕もまた呆然と見ていることしかできなかった。
「大丈夫?」
そういって少女は、ペットボトルの水をつけたタオルで僕の額の傷を拭く。
痺れるような痛みが走る。
「切れてるだけじゃないね、打撲とか。だけど大丈夫、これくらいならすぐに治るよ」
「え、と、大丈夫、多分」
情けなさと恥ずかしさに消え去りたかったけど、体が痛くてそれすらもできなかった。
「あの、ありがとうございました」
「なんてことないし。ほら、うがいしな」
少女はタオルを包帯のようにして僕の額にまくと、口に水を含ませてうがいをさせる。
水を吐き捨てると、それはオレンジ色に染まっていた。
「あの時、何かドーグ出そうとしたでしょ」
少女は僕の右手をつかみ、そう言った。
「ほら、ポケットん中、見してみ」
その言葉を僕は一切否定できず、素直に頷きナイフを見せた。
「やっぱしね」
少女は小さくため息をついた。
「ナイフはね、そもそも喧嘩のための道具じゃないっしょ。生活を便利にするための道具なんだし。ほれ、見てみ」
そのナイフには、はさみとかコルク抜きとかのこぎりとか、いろんな刃が丁寧に折りたたまれていたことに、今まで僕は気が付いていなかった。
「もし君がそれを取り出してたらさ、きっと命のやり取りをするところまで行っちゃってたはずだし。そこまで行ったらもう、喧嘩じゃすまないってこと、覚えときなよ。それに――」
すると表情の険しい表情が、一転して微笑みに変わる。
「そんなもんのために使ったら、ナイフがかわいそうっしょ」
その言葉を聞くと、僕の目に少しずつ涙がにじんできた。
「けど僕は、弱っちいから」
僕のその言葉、その表情を見た少女は
「もしよかったらさ、これ、うちにくれない? うちさ、ほら――」
少女は背中に背負う、リュックサックを指し示した。
「――旅してるんだ。こういうの一個あると、めっちゃ助かるし。ダメ?」
その少女の微笑みに、僕は思わず頷いてしまう。
「サンキュ」
そういって少女はナイフをリュックサックのポケットに入れると、リュックサックを背負いなおして、暗がりの中に姿を消していった。
―――
家に帰った僕は、洗面所で顔を確認する。
ところどころ腫れて、擦り傷もできている。
お母さんが出張から帰ってくるころには、治っていてくれればいいんだけど、そう考えて、消毒液で傷口をぬぐった。
だけどそんなことよりも、僕の頭の中には、渋谷の路地裏で僕を助けてくれたあの少女のことが離れなかった。
一般的に言うところの、”ギャル”ってタイプの女の子、身長は僕なんかより高くて、胸も大きくて腰もくびれていて、それに、喧嘩も強かった。
“旅してるんだ。こういうの一個あると、めっちゃ助かるし。ダメ?”
そして僕がポケットの中でずっと握りしめていた、あのナイフを持って行ってしまった。
何で僕は、あの時何の疑問も抱かずに、ナイフを渡してしまったんだろう。
ここしばらくずっとと僕が肌身離さずポケットの中に入れて、握りしめていたナイフを。その疑問を持ったまま、いつものように僕はガレージのカローラへと足を運んだ。
―――
ラジオをつけて、目を閉じる。
だけどその日は、いつも僕の握りしめていたナイフはない。
そのナイフは、あの女の子の手の中に――
あの子は、僕のナイフを使って何をするんだろう。
旅をするといっていたから、パンを切ったり缶詰を開けたり、何かしらの役に立つことは間違いないだろう。
あの子の綺麗な指が、僕がずっとポケットの中で握りしめていたナイフに触れている、僕がずっと、前ポケットに隠していたそれに、そんな妄想が、僕の中に湧き上がる。
まるで僕のその、一番敏感な部分に、指が這っているようなそんな思いにとらわれる。
すると僕のその部分に、今まで感じたことのないような感覚が走る。
その部分はまるで熱せられた鉄の棒のように硬く、熱く滾り始める。
次第にその感覚は具体化し始め、あの少女が僕を胸に抱いたまま、その部分に何度も何度も、指を這わせるイメージが浮かび上がる。
ナイフを見つけた時とは違う、僕が僕自身に還っていくような感覚、興奮の中に柔らかさと温もり、自分がこの世のすべてに許容されているような感覚。
すると深い闇の奥底から、暖かく湿った風が、僕に向かって吹き付けた。
その瞬間、僕の中で何かがはじけた。
目を開けた僕は、自分自身の体の違和感に気が付いた。
ズボンの中を確認すると、僕は慌てて、ポケットからティッシュを取り出した。
初めてのにおいが、僕の鼻を刺激する。
それが何か、どういう時に放たれるか、僕だって知らないわけじゃない。
僕にとって初めてのそれが、今この場所で――
ガレージが揺れたかと思うと、気流の鳴る音がする。
突風でも吹いたのだろうか、僕はカローラから降りて、その音がどこから来ているのか耳をそばだてると、それは、ガレージの奥から来ているような気がした。
僕は足元のガラクタをかき分けるようにして、その方向へと進む。
すると薄暗がりの中からぼんやりと姿を現したのは、ほこりやカビをたっぷり含んだ、煤けた毛布だった。
「これは――」
毛布をめくった僕の目の前に、確かに“それ”があった。
全体が黒く塗装された、鈍い光を反射させるタンク、革張りのサドル、そして、それを支える二つの車輪と、昆虫の触角のように突き出た二つのハンドル、それは、古びたバイクだった。
自電車でいうサドルの前のふくらみ、タンクみたいなところには、アルファベット。
Z-P-H-Y-R
僕の視線は、心は、この真っ黒なタンクの鈍い輝きに一瞬で占領された。
ハンドルは自転車と一緒みたいだから、きっとこの握る部分はブレーキだろう。
サドルは思った以上に奥行きがあって、二人乗りをすることだって可能に見える。
傍らを見ると、ヘルメットが、しかも二つ見つかった。
一つはフルフェイス型で、もう一つはいわゆる半帽キャップっていう、子どものころ自電車に乗る時にかぶっていたのと同じようなタイプのもの。
そのフルフェイス型のヘルメットの横には、狼のステッカーが貼ってあった。
それをかぶってみると、僕の頭に、頬に、ぴったりと吸い付く。
スタンドを立てたまま、僕はバイクにまたがる。
僕の心に強い風が吹きつけたような、言葉にしがたい高揚感と全能感が、体中の毛穴からあふれ出た。
その瞬間、ある記憶が、僕の中に呼び起された。
僕は部屋に戻ると机の引き出しをあけ、その奥深くにしまってあったものを取り出した。
それは、一つのキー。
けどそれは家のティンブルキーなんかとは違う、へりのギザギザした、古いタイプのもの。
それは机の奥にしまわれたまま、完全に僕の記憶の中から失われていた。
だけどどういうわけか、強く吹いた風が、その存在を思い起こさせた。
間違いない、その確信とともに、僕は部屋を出ってガレージへと向かえば、鍵はキーホールに、驚くほどスムーズに挿入された。