目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
第4話

「時間通りに帰るように、言っておいたはずですが」


 その日家に帰った僕に、お母さんは待ち構えていたようにそう言った。


 いつもは仕事で帰りは遅いはずなのに、その日はどういうわけか、僕より早く帰宅していた。


「えと、ごめんなさい。だけど、ほんの少ししか遅れてないと思うんだけど」


「それならば、せめて連絡くらいよこしなさい。いいですね」


―――


「食欲がないようですね」


 気が付けばお母さんが、僕のことを真っすぐに見つめていた。


「今日遅くなったのは、どこかで間食をとったのではないですか。外でだれが作ったかわからないようなものを口にするのはお止めなさい。いつも言っているはずです。勝手に、どこかに行かないように」


「わかりました」


 僕には、そう答えるので精いっぱいだった。


「食事中です。ポケットに手を入れるのはおやめなさい」


 僕はその言葉に従い、ポケットのナイフから手を離した。


※※※※※


月面生活のようなゴールデンウィークが過ぎ去り、新緑はその色をさらに濃いものにして、夏の日差しを眩しく照らし返ようになっても、僕の生活は相変わらずだった。


二日前からお母さんは、出張でいない。

僕はまたガレージで過ごすことになるんだろう、その日も僕の視線は、意識は、全て日南さんの後姿、ブラウスから透けて見える下着に集中していた。


「何?」


 気が付けば、日南さんは振り向いて、いつもと変わらないクールな表情で、僕を見ていた。


「ねえ、最近、私のこと見てるよね」


いや別に、なんでもない、そんな何でもない誤魔化しの言葉すら口にさせないほどに冷静に、いやむしろ冷酷というべきか、日南さんの視線は僕に突き刺さる。


「勘違いとかじゃないから。私、結構そういうの敏感だもの」

まるで僕の中の全てを見透かしているかのようなその視線に、僕は微動だにさえできない。


「もしそういう気持ちを私に持ってるっていうんなら、あらかじめ言っておいて。そういうふうに思っておけば、別に見られても気にはならないから」


「そんなんじゃない」


 かろうじて僕は否定の言葉を絞り出したけど、全くの無意味であることが、日南さんの視線から痛いほどに伝わってくる。


 その瞬間、僕の心の中に、恥ずかしさと、怒りと、喜びと、罪悪感と、あらゆるものがないまぜになったような感情が爆発する。


「日南さんには、絶対わからないよ」


 子どものような捨て台詞だけを残して、僕は教室を去った。


―――


 僕は家に帰る気が起きず、ただひたすら渋谷の街を、うつむきながら歩く。


 ポケットに、ナイフを握りしめながら。

自動車の行き交う騒音の中に、徐々にたくさんの人たちの声が入り混じり、喧騒を形作る。


その喧騒の中の、様々な会話がそのまま、僕の心の中に入り込むようだ。


うんざりだ、勝手に人のこと見透かしやがって、みんな消えてしまえ、僕はだれにも聞こえないようなボリュームで呟く。

僕は顔を背けてナイフを握りしめたまま、行く当てもなく雑踏を通り過ぎていった。


―――


 気が付けば、周囲はとうに暗くなっていた。

僕は渋谷の裏通りの、そのまた裏の、今まで一度も足を踏み入れたことがないところにいた。


 僕の目の前には、若い男女の一群。

はち切れそうな豊かな胸元とS字を描く腰のくびれを持つ女性は、

自分自身の肉体を見せびらかす。


屈強な肉体を持った男性は、半そでから筋肉の盛り上がった腕と、幾何学文様を描くタトゥーを誇る。


他者の肉体が、僕の心を、そして僕自身の肉体を圧倒する。


僕の体は硬直し、細かな震えが広がって行く。


 僕は目をそらして鞄を抱えて、小走りにその人たちの横を通り過ぎようとした。


 すると、僕の方がその男の人たちの一人にぶつかった。


 絶対にぶつからないように、距離をとったはずなのに。


「いてーな」


 明らかに、故意に僕にぶつかってきたその男の人は、大げさに腕を抑えてそう言った。


「なんか、やたらいい制服着てんじゃん」


「どう見たってお坊ちゃんだろ、こいつ」


 男たちは僕を見下すような、いやな笑みを浮かべた。


 僕は足早にその場を立ち去ろうとするけど


「どこ行くんだよ」


 男たちに、行く手をふさがれた。


「あの、ぶつかったのは謝ります。そこを通してもらっていいですか」


「出せよ、イシャリョー」


「持ってんだろ、金」


 駆け出そうとする僕のみぞおちに、熱く重い痛みが走った。 


「ほら、出せよ。これ以上痛い思いしたくなかったらさ」


 僕の脇腹に、スニーカーの先が突き刺さる。


 僕は若者たちに囲まれて、何度も蹴られ、殴られる。


 女の人たちは、冷酷な笑い声を僕にぶつける。


 口の中が切れて、錆びた味がする。


 瞼の上が切れて、右目の視界が赤く染まる。


 僕は今、生まれて初めて、具体的な現象を伴った憎悪と軽蔑に襲われている。


 すると、悪意を持った怪物が、僕の意識の中に侵入し始める。


 その怪物は、僕のポケットにある、無機質な何かに気がついた。


 怪物に支配されたぼくは、ポケットの“それ”に手を伸ばす。


そうだ、憎悪を持った相手に、その憎悪を込めた一撃を返したって、何が悪いんだ。


「なにしてんの、あんたたち」

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?