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第3話

 教室の机の脇にカバンをかけると、朝学習の英単語テストの勉強をするために単語帳を開く。


 周りのクラスメートたちはそれぞれ塊を作って、楽しそうにおしゃべりをしながら、単語帳をめくっている。


僕は僕一人で、ぶつぶつと発音をつぶやいたり、いらなくなったプリントの隅にスペルを練習したりする。


 教室内の空気が変わった。


 おはよう、おはよう、と、教室中から声が上がる。


 柔らかな微笑を返しながら、おはよう、と一言返した女子生徒の姿に、教室中の男子生徒、いや女子生徒からも、ほう、というため息が漏れたような気がした。


 その女子生徒は、僕の目の前の机にカバンにかけると


「おはよう」


 僕に挨拶をした。


「おはよう、日南さん」


日南さんの髪の毛はいつも以上に黒くてつやつやしていて、切れ長の目からは、長いまつげがきらきらと輝いて見えた。


日南さんは僕のクラスメートの女の子だけど、僕どころか、クラスのだれよりも大人びた雰囲気を持っていて、高校二年生くらいには見える。


 日南さんには、いろんな噂が飛び交っていた。


 お父さんが世界的な自動車メーカーの重役だとか、何度もモデルやアイドルにスカウトされたりとか、大学生の先輩に告白されて、それも全部断ったりとか。


四月の新しいクラスの発表前、みんなが日南さんと同じクラスになりたくて、色めき立っていたことを今も覚えている。


 日南さんの美少女ぶりは学校の中でもとくに有名で、よく高等部の先輩たちが、ちらちら教室の中を覗き込んだり、時にはダイレクトに教室の中に入って誘いの声をかけることもある。


けれど日南さんは、いつも手慣れた感じでそれをあしらっていた。


 日南さんの席は僕の一つ前だから、学校にいる僕の視線は、日南さんの後姿に独占される。


 教科書を読むふりをしながら、板書をノートするふりをしながら、僕の視線は日南さんの後姿にくぎ付けになる。


日南さんはいつも通り、制服の白いブラウスを着ていたけれど、その日はとても色味の強い下着をつけている。


赤か黒か、もしかしたら紫か、とにかくブラウスの薄い布地から、ものすごく鮮やかなブラジャーの色が自己主張する。


僕の勘違いや思い込みなのかも知れないけれど、そこにはハートのような水玉のような、とにかく小さなポイントが、数えきれないほどついている。


このパターンは、およそ四日ぶりだ。


僕の左手は、ポケットの中に。


それは僕の体温にあてられて、硬く熱く、その存在を主張する。


僕は一日中、それを握り締めていた。


―――


 お母さんがいつも指定した帰宅の時間に合わせて、僕は学校を後にする。


渋谷から電車に乗って一時間、図書室で借りたヘミングウェイの短編集を読みながら、僕の家の最寄り駅に到着する。


「ただいま」


 遅くなると言ったお母さんからの“お帰りなさい”の声は、当然ない。


 これもいつも通りのこと、僕はスマホで“ただ今帰りました”、とお母さんに連絡をして、制服から着替えた。


―――


 冷蔵庫の中にある、ラップに包まれた料理のあれこれを、何往復もするようにして電子レンジで温める。


 僕の家には夜、お母さんがいないことがほとんどなので、いつも一人で夕ご飯を食べている。


かといってお母さんがたまに早く帰ってきて二人で夕ご飯を食べる時も、一人で食べる時とそれほど変わりがない。


そもそも、僕達の間に会話が一切ないから。


お母さんは食事中に会話をすることが嫌いだし、そもそもお母さんの機嫌を損ねてまでお母さんに話したいことなんて、僕には存在しない。


温めたおかずを、僕はテーブルの上に並べる。


お母さんが夕食に作るご飯は、いつものことながら、お母さんが帰ってきてから食べる量をとり分けたとしても、とても僕一人では食べきれないほどの量になるから、僕は必ずと言っていいほど、そのほとんどを残すことになる。


残すことに罪悪感はあるけど、客観的に見たって、中学生が一人で食べきれる量じゃない。


お母さんだって大概全部食べ切れずに、結局捨ててしまっている。

僕はいつものようにその量に四苦八苦しながらも、食べられる分だけを自分自身のノルマとして胃の中に流し込んだ。


―――


 玄関を出ると、小雨がぱらついていた。

僕は急ぎ足で家の奥にある、今は誰も使う者のいないガレージのシャッターを開ける。


 不快な錆び付いた金属音が、僕の鼓膜を震わせる。

かがめて入れる程度にまでシャッターを上げ、僕は滑り込むようにその中にもぐりこんだ。


 真っ暗な中、すでに感覚で位置を把握している電灯のスイッチを押すと、裸の蛍光灯がガレージの中を照らす。


 ほこりとカビ、錆びた鉄とオイルの匂いの充満する空気。

そこに見えるのは乗るものがいなくなった、ところどころ錆のついた古いトヨタ・カローラ。


 お母さんの帰りが遅い日、僕はガレージの中、カローラの中に潜む。


 初夏の気候の中、ガレージの中にも少しだけ夏の暑さが忍び寄って来る。


 少しだけ汗ばみながら、僕はカローラの中に体を小さく縮こまらせた僕は、ポケットからそれを取り出した。


 その僕の指に、ごつごつとした金属製の、無機質な感覚と重み。


 それは、僕の掌から少しはみ出る程度の柄を持った、赤いラバーで柄が加工された、折りたたみ式のナイフだった。


 一年生の終わり頃、このガレージで過ごしていた時、偶然カローラの床に発見したものだ。


最初にこれを手にしたとき、早くこれを手放さなければ、そう僕は考えた。


だけどそのナイフは、まるで僕の掌に吸い付いたように僕を離さなかった。


こんなものを持っていてはいけない、何か良くないことが起きる予感がする、そう考えたが、どうしてもそれを手放すことができない。


僕はあきらめ、それをデニムのポケットにしまい込んでいた。


それ以来、どこに行くにもこのナイフが、僕の前ポケットに存在するようになった。


催眠術にでもかけられたかのように、ナイフのくぼみに爪をかけ、その刃を開いてみる。


その鈍い光はあまりにもリアルすぎて、いつも僕はかえってそれがおもちゃのナイフなんじゃないかっていう風に錯覚する。


誘われるようにその先端に吸い寄せられた僕の左手の人差し指がそれに触れると、その先に、水風船のようにぷっくりと真っ赤な血が膨らむ。


そこで再び確信する。


今僕は、本物のナイフを手に取っているんだ、と。


そしてナイフを握ったまま、僕は目を閉じる。

僕の瞼の裏に描き出されるのは、ブラウスから透けて見える日南さんの下着色彩の強さ。


それはあくまでもヴィヴィッドに、いやもはや、サイケデリックとでもいうべき激しさで、僕の心の一番深い部分を刺激する。

想像の中の僕もまたナイフを握る。


目の前には、制服姿の日南さんの姿。


日南さんはあくまでもクールに、その大人びた体を勝ち誇るように髪の毛を書き上げる。


その存在自体が、まるで僕を挑発しているかのようだ。


あなたなんかに、何もできやしないでしょ、無言だが雄弁に、その肉体は日南さんの心の中を、無力な僕自身を告発しているような気がした。


感情を爆発させた僕は、ナイフをふるって日南さんを切り裂く。

服を、下着を、そのつややかな髪の毛を、僕はナイフで切り刻む。

切り裂くたびに少しずつ、日南さんの白い肌にスリットが入り、赤い血がにじむ。


日南さんのその気の強そうな目で僕をにらみ、あなたの思い通りになんてならない、視線でそう主張をする。


だけどその視線は、僕をいっそう高ぶらせ、僕はさらに激しくナイフをふるう。


それでも日南さんは僕に屈服することなく、気の強い視線と言葉を僕にぶつけ続ける。


それがの、あなたみたいな人に、私をどうこうできるはずはないんだから、と。


僕は無力感と屈辱、そして日南さんの白い裸体ににじむ赤い血の跡に、興奮を覚える。


気が付くと、誰かが、日南さんに刃をふるう僕を見つめている。


恐る恐る振り返ると、それはお母さんの顔だった。


叫び声をあげた自分自身の声が、いつも僕を変実世界に引き戻す。


僕はため息をつき、ナイフの刃を戻してポケットにしまう。


不健全だ、そんなことは、僕だってわかっている。


だけど、僕自身にもどうしようもない、僕自身にも逆らうことのできない、得体のしれない何かが心の底から這い出して来ることを、食い止めることができない。


 それに僕自身が飲み込まれてしまったとき、僕はどうなってしまうんだろう、僕は、僕ではない何かになって、身の回りのあらゆるものを破壊しつくしてしまうんじゃないだろうか、僕を支配したその感覚は強迫観念と罪悪感となって、心の中に湧き上がっていた。

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