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第2話

六時三十分は、スマートフォンのアラームが鳴る時間。

だけど僕は、そのアラームが鳴るきっちり五分前に目が覚めてしまう。


僕は首筋を抑えて、アラームを切った。


洗面所で顔を洗って髪の毛を整えると、鏡には十四年間見慣れた、何一つ変哲のない顔。


中学二年生に進級したての、細くて青白くて、僕の記憶にある僕自身よりもいっそう貧弱な、この世で最も卑小で恥ずべき僕の顔。


―――

制服に着替えた僕は階段を下りて、キッチンへと入った。


「おはよう」


「おはようございます」

すでに朝食の用意されたテーブルに、僕を待ち構えるようにして座るのは僕のお母さん。


「あなたも早く、おあがりなさい」


お母さんの表情は何ひとつ変わらない、これもまた、僕にとっての日常。


頷いてイスに腰かけた僕が、いただきます、と両手を合わせると、その僕の様子を確認してようやく、箸を手に取るお母さん。


いつも僕は、食事をとりながら食事に食べられている、そんな感覚にとらわれる。


食べながらに食べられ、生きながら消化されていくような、ねじれた感覚、お母さんと食事をとるときは、常にそれを感じていた。


「あなたは今日、何時に帰ってくるの」


お母さんは食器を食洗器に入れながら僕に訊ねた。


「えっと、多分、五時くらいには」


「下校は三時半だと聞いているけれど。それまで、どこで何をしているの」


「具体的に何をするって考えているわけじゃないけど、なんとなくそれくらいかなって」


「もし何か用事ができて予定より遅くなる場合は、必ず連絡を入れなさい」


 僕のお母さんは、雑誌の編集長を勤めているから、締め切りなんかが近くなると、結構遅くなることが多い。


「今日も帰りが遅くなるから。食事は作っておくから、勝手に食べてなさい」


「わかりました」


 短く、端的に僕は答えると、ダイニングを出た。


―――


 自分の部屋に戻り、身支度を整える僕。


 今日の授業に必要な教科書類が揃っていることを確認して、机の引き出しを開ける。


 そしてそれ・・を手に取り、ポケットの中に入れる。


―――


 登校するときは、必ずお母さんが玄関まで僕を見送ることになっている。


「いってきます」


 はっきりと端的に、お母さんに僕の言葉を伝えるときの、一種のルールみたいなものだ。


「一所懸命勉強なさい」


 僕の言葉と表情を確認するようにした後、お母さんは


「勝手に、どこかに行かないように」


「わかってます」


 お母さんのその言葉は、僕の心の中に、何十年もたったシールみたいに張り付いている。


そのとおりだ、僕に勝手にどこかへ行く権利なんて、ないんだ。


背中にへばりつくような視線を感じながら玄関を出るけど、結局どこに行こうが、僕の周りの空気が希薄であるのは変わりがないだろう。


僕は、ポケットのそれを握り締める。


お母さんに、先生に、警察にでも見つかったら僕自身の破滅につながる、それでも僕はそれを、手放すことができない。


―――


 私鉄からJRに乗り換えておよそ一時間半、渋谷の中にある大学の構内にある、中高一貫の大学付属中学、そこが僕の通う学校。


 桜の花びらが鬱陶しげに舞う中を、同じ制服を着た周囲の生徒たちは、自分の顔見知りやクラスメートを見つけては、おはようとか何とか声を掛け合う。


僕は誰かに声をかけられもせず、声をかけることもせず、まっすぐに教室を目指す。


もともと僕はクラスの中では目立たないし、友達らしい友達なんか一人もいない。


けどこれは、今に始まったことじゃない。


思い返してみれば、僕自身の記憶がはっきりしだした頃からだ。


保育園に通っていた時も、僕には放課後公園とかで一緒に遊ぶような友達はいなかった。


小学校に入ってからもそうだ。


僕が通っていたのは公立の小学校で、今思い返せば結構荒っぽい環境にいたように思う。


クラスの中でいじめられたり、場合によっては殴られてるような子もいたりした。


だけど僕は、幸いと言うべきなんだろうか、目立たな過ぎてその標的からすら外されていた。


クラスのガキ大将に殴られたり、掃除ロッカーに閉じ込められたりしているようなクラスメートを持て助けるどころか、やられているのが僕でなくてよかった、そう考えて胸をなでおろすような小学生、それが僕だった。


今思えば、お母さんに言われるがまま塾に通って中学受験をして、こんな大都会の大学付属の中学校を受験したのも、それが理由だったのかも知れない。


結局僕はまた誰とも打ち解けることができずに一人ぼっちのままだったけど、それでも煩わしい人間関係に悩まされないだけ、ましだろう。

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