目が覚めると、そこは病室だった。
「あ! 目が覚めたんですね!」
驚いた。そう言ったのは、安達叶恵さんだった。
てっきり、あのまま現場で別れてそのまま……と思っていたのだ。
「叶恵、さん……。あの、いろいろと、ありがとうございました」
「いいんですよ! それより、具合はどうですか? 気落ち悪いとか、ないですか?」
酷く心配そうにそう言ってくれる叶恵さんに、僕は「大丈夫です」と答えた。
「よかったぁ……!」
安達さんは無邪気な笑顔を見せる。僕は思わず、息を飲んだ。
――天使だ。彼女は、天使なんだ。
僕は事故に遭ったせいもあって、余計にその気持ちが心に残った。
そんな僕の気持ちを知らずに、彼女は微笑みながらこう言う。
「私の会社が病院の目の前なんです。相澤さんのことが気になって」
彼女はいろいろと話しかけてくれる。僕のことを気遣ってのことだろう。
そんなところが、また天使のようだった。
「あ、ごめんなさい。相澤さん、目が覚めたばかりなのに、こんなに話しかけちゃって。疲れちゃいますよね。今、お医者さんか看護師さんを呼んできますね」
「――行かないで!」
僕は思わず大きな声が出てしまった。叶恵さんはびくりと肩を震わせ、目を大きくしてこちらを見ている。
「あ、あの……。もうちょっと、一緒に居てほしいなって……」
気持ち悪いだろうか。気持ち、悪いだろうな。そう思いながら彼女を見ると、彼女はふわりと微笑んだ。
「……いいですよ。きっと起きたばかりで不安なんですね。もうしばらく、一緒にいますから、ね」
天使のような人と、僕はこの空間を共有している。周りは白くて、他の色なんてほとんどない。本当に、天国というものがあるのなら、きっとこういう白い空間だろう。
だが、彼女のような心優しい人を前にして、一抹の不安を覚える。こんな物騒な世の中だ。僕のように突然事故に遭うこともある。もしかしたら、彼女の優しさを利用する輩がいるかもしれない。この優しさは、とても繊細で、良くも悪くも人を惹き付けるのだ。そう思うと、僕はこう思わずにはいられなかった。
――彼女の優しさを、守らなければ。
数日後、僕は退院した。
退院まで、叶恵さんは何度も病室へ訪れてくれたし、連絡先も交換した。こんなことを言っては怒られるかもしれないが、事故のお陰で、僕は叶恵さんと出会うことが出来て嬉しかった。そのことを叶恵さんに伝えると、「もう! そんなことを言って! 結構な大怪我なんですから、休んでください!」と怒ってくれたのだった。なんで、こんなにも優しい人が僕と同じ空間にいてくれるのかわからなくて、不安だった。いつ消えてしまうのだろうかと、僕は肩を落として黙っていると、叶恵さんは「ち、違うんですよ! 出会えたことは嬉しいんです! でも、事故が嬉しいって言うのは、違うと思って!」と必死に言うものだから、僕は笑ってしまった。そして彼女も笑う。僕は、僕達は、とても幸せだった。
数日振りに家へ帰って、金魚がどうなっているのか不安を抱えながら、硝子越しに見てみる。水槽が少し汚くなっていたが、金魚は元気に泳いでいた。まるで、「平気だよ」と言うかのようにくるりと弧を描く。僕はその金魚の姿に安堵し、先に水槽の掃除や餌やりをしてから、自分の腹ごしらえをした。そしていつものように、風呂に入って眠りに就いたのだった。
退院してから何度目かの朝、いつものコンビニに寄って、弁当を選んでいると、背後から声を掛けられる。
「相澤さん!」
振り向くと、そこには叶恵さんが立っていた。
叶恵さんは落ち着いた薄いピンク色のカーディガンを羽織って、下には白いワンピースを着ていた。
「叶恵さん。今日はお仕事は……」
「今日はお休みなんです」
なんだか楽しそうにそう言う彼女に僕も少し嬉しくなった。
「へえ。では、どうしてここに?」
「家が近いんですよ。だから、朝ごはんを買いに来たんです。……実を言うとね、私、家から近いところって理由だけで会社を決めたんです」
悪戯がバレてしまった子供のように、幼い笑みを浮かべる彼女が、愛おしい。
「でも、それ僕もわかりますよ。僕も大学を選んだ理由が、家から近いから、だったんです」
「じゃあ仲間ですね!」
「ええ」
腕時計を見てみると、いつもより五分程時間が過ぎていて、予定を崩すことが大の苦手な僕からしたら、とんでもない出来事なのだが、叶恵さんと一緒にいられるこの時間の方が、僕には大事だった。
「あ、そっか。相澤さんはお仕事ですよね。引き留めちゃって、すみませんでした」
「いえ、ではこれで」
僕は会社に向かう。今日は天使のような彼女の休みの姿を見ることが出来た。良いことがありそうだ。
その夜、僕は会社から帰宅する途中、いつものコンビニに寄って晩飯を買う。あわよくば彼女に会えないかと、そんな下心を持って。まあ、そんな下心はダメだろうとさすがに思ったが、神様というものはよくわからないものだ。
彼女が、いた。
「叶恵さん」
朝と違って、今度は僕から声を掛ける。
「相澤さん! 偶然ですね。もしかして、晩ご飯ですか?」
「そうです」
このうきうきと弾む心が、彼女に感じ取られなければいいのだが。
「実は私も晩ご飯を買いに来たんです。休日だから、少しくらい家事をサボってもいいかなって思って」
恥ずかしそうに笑う彼女……。ああ、僕が守らなければ。この純粋無垢な優しい天使を。
「もし、よければ、この後時間があるので、家まで送りましょうか。もう遅いですし」
変質者でもいたら大変だろうと、親切心からそう申し出る。
「え、でも悪いですよ」
「悪いなんて、そんなこと思わないでください。事故の時、たくさん助けてもらいましたし」
「でも……」
「送らせてください」
叶恵さんは息を吐いて、困ったように笑った。
「じゃあ、お願いします」
そして僕達は晩ご飯を買い終わると、叶恵さんの家まで歩いていた。
「今日も暑かったですね」
僕が話しかけると、叶恵さんは「そうですね。でも……」と言って、立ち止まる。どうしたんだろうと見てみると、叶恵さんは空を指差す。
「見てください。星空、凄い綺麗でしょう? 今日はラッキーな日です」
叶恵さんは子供のような無邪気な笑みを浮かべて僕を見る。
叶恵さんの、この笑顔を守りたい。
「ふふ。この辺りでもういいですよ。もう家は目の前です。今日は送ってくださってありがとうございました」
「いえ、女性の夜道の一人歩きは危ないですから。では、また」
「はい」
そう言って叶恵さんはセキュリティが強そうなマンションに入って行った。これなら、危なくはないだろうと思ったが、一つ肝心なことを忘れていた。
もし、叶恵さんが騙されて、一緒にマンションに入ってしまったら、どうしようもないではないか。だとしたら、僕の使命は変な輩が叶恵さんを襲わないように、見守り、助けなければならない。たとえそれが、毎日だったとしても……。
家に帰ると、硝子の中の金魚はいつものように泳いでいた。餌をやるとぱくぱくとそれを食べる。見ていると癒される。爪で何度か硝子を叩くが、金魚はそんなこと気にならないといった様子で、僕のいる反対側に行ってしまった。可愛いやつだ。