彼女は硝子越しに見る金魚のようだった。ひらひらとしたその尾鰭を揺らし、優雅に泳ぐ。人の目を惹くその金魚は、一体誰のものなのだろう。
そもそも、金魚は観賞魚だ。見られるためだけに生まれた、人工的な生き物。そうであるならば、やはり、生かすも殺すも、人間の手でなければいけない。
彼女が金魚ならば、人間の僕が……。
僕の可愛い金魚。僕だけの、可愛い、美しい、金魚。硝子越しではなく、いつか、僕の手の中で死ぬまでずっと一緒にいてやろう。
こつん、こつん……と、爪で透明な硝子を叩く。
「おーい、行って来るよ」
僕はぼそっと声を掛けた。しかし相手は何も言わない。それはそうだろう。相手は金魚なのだから。
玄関先で靴を履き、鞄を持って扉を開ける。外の日差しが目に入り、少し痛みを感じた。
「今日も暑いな」などと呟いて、鍵を閉める。鍵が掛かった音がすると、僕はドアノブを握って本当に開かないか、鍵は閉まったのかと確かめる。
ガチャガチャと耳障りな音がして、ようやく鍵がしっかり掛かっていると確認し、問題ないとわかると僕は胸をほっと撫で下ろして歩き始めた。
今日は得意先をいくつか回らなければならない。時間を無駄に出来ないのだ。
そんなことを思いながら、いつものように近所のコンビニに入り、新聞を一部と弁当を一つ買った。
「ありがとうございましたー」
店員の気の抜けるような声を背に、目の前の横断歩道を渡る。チカチカと信号が点滅しているが、信号が赤に変わるまでには渡り切るだろう。そう思って歩いていると、右側から来た大きなものが僕の体を宙へと投げ、いつもの静かな朝は一変したのだった。
女性の悲鳴が聞こえ、次に集団登校をしていた子供達の叫び声があり、会社へ行く人々達の視線などを浴びている。それは誰か……? 一瞬わからなかったが、それはどうやら自分が受けているものらしいとわかった。ただ、状況がどうにも理解出来なかった。しかし、事故に遭ったのだと少しずつ分かって来ると、体中に痛みが走る。どこか怪我をしたらしい。ああ、そうだ。それよりも、会社に連絡をしなければ。遅刻すると、ただそれだけを言わなければ。
そう思い、スマホを取り出そうとポケットに手を入れようとした。しかし震える手は上手く動いてくれない。どうしようか。そう思っていると、誰かが僕のその手を掴んだ。
「大丈夫ですか……! 意識はありますか!」
その声の主は僕の手を掴んだ女性だった。
どこかの会社の紺色の制服を着た、ふんわりとした印象の若い娘。
「聞こえていますか。もうすぐ、救急車が来ますから、しっかりしてください!」
女性は可愛らしい顔を悲痛な表情を浮かべて、僕の手を両手でしっかりと握ってくれた。
僕は返事をしようと口を動かすが、どうにもこうにも、喉が張り付く。声が、出せない。それでもどうにかぱくぱくと口を開けている、女性は耳を僕の口元に寄せた。
「会社に、……連絡、を……」
僕がそうなんとか声を出すと、女性は「わかりました!」と言って、僕のスーツのポケットを探り、スマホを取り出すと「ど、どこに掛ければいいですか?」と画面を見せてきた。会社で登録してあると、言おうとしたが、救急車のサイレンが聞こえた。
「あ、救急車、来ましたよ! もう大丈夫ですからね! お名前……、そうだ、お名前聞くのを忘れていましたね! あの、お名前を教えてください!」
「あい、ざわ……相澤、修一……です」
「相澤さんですね! わかりました!」
遠くから、パトカーと救急車の音がした。
それを聞きながら、僕はぼんやりとした頭で今の状況を整理していた。
「相澤さん、しっかりしてくださいね! 大丈夫! きっと大丈夫ですから!」
目の前の、名も知らない女性は、僕のことをこんなにも心配してくれている。最近、僕のことをこんなにも考えてくれる人がいただろうか。僕はむくむくと湧き上がる感情が何なのか、理解出来ずにいた。
「怪我人はこちらの方ですね!」
救急隊員が僕を見て言うと、女性が受け答えをしてくれた。
その声を横で聞きながら、僕は女性のことを考える。
美しい人だ。まるで、天使のような……。優しい、人だ。
「名前……」
僕が口を開くと、女性は先ほどと同じように僕の口元に耳を寄せる。
「貴女の名前が知りたい」
女性は頷いて、僕を見て口を開く。
「安達叶恵です。絶対に貴方は、相澤さんは悪くありません。事故は、あのトラックが悪いんです。信号無視で……」
ああ、なるほど。僕はトラックに轢かれたのか。今になってようやくそのことを知った。そして、叶恵さんは、僕が事故の証言をしてほしいから名前を聞いたと思っているのだろう。きっと彼女もパニックなんだ。
彼女はさっきから、必死に僕の言葉を、意図を汲もうとしてくれている……。
「離れてください」
救急隊員が僕と彼女を引き離す。僕は彼女の手を掴むと、彼女は僕の手を握って「大丈夫」と言って、僕に名刺を渡してくれた。僕はそれを手にし、救急車へと運ばれていく。
なんだか、とても痛くて、とても眠い。
救急隊員の声になんとか受け答えをしながら、気づけば僕は眠りに落ちていた。
眠りに落ちる直前、会社に連絡を入れていない……と、頭の片隅で思った。