俺は、薄暗がりの中で目を覚ました。
ここがどこかはすぐにわかる。電灯のない天井が、
一年以上間借りさせてもらっていた客間には、
俺は今、布団の中で仰向けに寝転んでいる。
喉に手を当てると、
――生きてる。
多分俺はあの天狗を倒した後に、おあきちゃんの治癒の妖術によって貫かれた喉を治されたのであろう。
そこで、布団の中にゆっくりと呼吸する小さな暖かい存在を感じた。
掛け布団をめくってみると、おあきちゃんが俺にぴったりと寄り添って添い寝をしてくれていた。
俺は息を吐き出し、寝ているおあきちゃんを起こさないようにゆっくりと布団から這い出る。
障子の向こうからは、薄い障子紙を透過して月の光が漏れている。
着ている着物は
星の散りばめられた南の夜空には、細長い月がかかっていた。
そこには、月光で照らされつつ平たい酒盃で酒を楽しんでいる、
すずさんは、俺に振り向いたと思ったら、声をかけてくれた。
「お、ようやく起きたかい」
俺は息を漏らし、すずさんと同じように
「ええ、おかげさまで」
すると、すずさんがからりと笑う。
「おあきに
すずさんの言葉に、俺は返す。
「おあきちゃん、心臓が止まったのも治せましたっけ?」
すずさんが応える。
「『
その言葉に、俺は返す。
「人工呼吸……おあきちゃんが?」
「そうさ。あたいが
すずさんの言葉に、俺は自分の
「それは……ちょっとおあきちゃんに悪かったかもしれませんね」
「なんだい? そんなの
その言葉に、俺は息を吐き出す。
「そうですね。それが数に入るなら、俺のファーストキスが亀吉くんになっちゃいますし」
すると、すずさんが近くにあった大きめの
そして、それを俺に手渡そうと掲げる。
「喉が渇いたろう? 飲みなよ」
すずさんは、若干口元を綻ばせる。
俺は酒盃を受け取ると、その中になみなみと波打っていた酒を一気にあおった。
ごく ごく ごく。
二十一世紀の酒の味は知らなかったが、江戸時代の日本酒は随分とフルーティーで果物ジュースのような味わいがした。
喉が、気持ちが、今までなかった充実感で充たされていく。
「ぷはぁっ!」
杯を乾かした俺に対して、すずさんがにやにやしながら問いかける。
「どうだい、りょうぞう? 生まれて初めて呑んだ酒の味は?」
「はい、こんなに美味しいなんて知りませんでしたよ。いいものですね」
「そうだろそうだろ?
すずさんが俺から酒盃を受け取り、再び酒盃に酒を注ぐ。
そしてすずさんは、一気にそれをあおる。
ぐび ぐび ぐび。
すずさんもなみなみと酒が注がれていた
「ぷはぁー! 美味いねぇ!
俺は応える。
「すずさんって本当にお酒好きなんですね」
「そうだね。それにこれは、
すずさんの言葉に、俺は疑問を返す。
「
すると、すずさんが微笑み返して応える。
「違うよ。これは
「
「そうさ。
「ああ、三国志の
俺がそう返すと、すずさんが目を閉じ、
「あたいとりょうぞうは、これで
俺は、その言葉が嬉しかった。
「じゃあ、すずさんが俺のお姉さんで……おあきちゃんは俺の妹ってところですかね?」
目を開いたすずさんが返す。
「違うよ? おあきもおまいさんの姉だよ。おあきはああ見えるけど、りょうぞうより年上なんだよ?」
その言葉に、俺はここが江戸時代であったことを再確認した。
――そうだった。おあきちゃんは江戸時代生まれだから、あんなに幼くても俺よりずっと年上なんだった。
俺がそんな事を思っていると、いきなり目の前のすずさんが、葉月の姿に変身した。
すずさんの化けた、制服姿で
「りょうぞう、今のあたいは誰に見える?」
その言葉に、俺は応える。
「えっと……
すずさんが今使っている妖術は、以前に小三郎の夢にとり憑いていた、相手を迷わせる想い人に化けたように見える
すずさんの化けた葉月は、しゅるりとすずさんの姿に戻った。
そして普段どおりの姿に戻ったすずさんが、笑みを含んだニュアンスで声をかけてくる。
「りょうぞう、ちょっとの間だけだったけどさぁ。おまいさん、あたいに
すずさんは、これ以上ないというくらいのにやけた顔を俺に見せていた。
「なっ……!」
そこで俺は気付いた。すずさんが以前生理になって寝転んでいたとき、俺が鎮痛薬をすずさんに飲んでもらった時に、去ろうとする俺はすずさんに呼び止められた。
あの時に俺が振り返ると、そこには普通にすずさんの姿があった。
もしあの時、すずさんが
俺は顔を赤くして目を背け、夜空を見上げる。
するとすずさんが再び、酒をなみなみと注いだ酒盃を手渡してくれた。
俺は
すずさんがからかい声を出す。
「そうそう、呑んじまいな。呑んで忘れちまいな。淡い夢だったんだよ」
俺は返す。
「……すずさんはとても美人です。正直言ってタイプです」
すると、すずさんがどこか愉快そうな顔をこちらに向けつつ、応える。
「『たいぷ』? まあ、
「俺、元々は年上のお姉さんが好きなんです。初恋がそうでしたから」
自分でも、だんだん酒が回ってきたことがわかる。
「ふぅん? まぁ、りょうぞうがあたいに惚れてたってことは、皆には内緒にしといてやるよ。とりわけおあきにはね」
「……はい。その方がいいと思います。すずさんと恋仲の男の人のためにも」
「あはは、その心配はいらないよ。でもまぁ、あたいは今は男がいるから、りょうぞうの気持ちには応えてあげらんないけどさぁ……」
すずさんがそこまで言ったところで声のトーンを
「あたいが独り身になってからだったら、いつでも相手してやっていいよ?」
「……夜のってことですか」
「そりゃそうさ。おまいさんはもう立派な一人の男さ」
そこまで言うと、すずさんがにっと笑う。
俺もにっと笑う。
そんな風に、俺とすずさんは夜の縁側にて、秋の虫の声鳴り響く中で酒を酌み交わした。
その酒の味は正に、甘露と言うべき味であった。
後になって知ったのだが、俺は天狗に喉を刺されて心臓が止まって、まるまる一日寝込んでいたらしい。俺がすずさんと酒を酌み交わした夜は、二十三日の未明だったのだという。
また、天狗に切りつけられて一時的に重症を負った徳三郎さんも、すぐさまおあきちゃんに治癒の妖術をかけてもらったので、大事には至らなかったらしい。
天狗の
千年を生きる凶悪な天狗が本所深川の妖狐に調伏されたという噂が広まったらしく、しばらく江戸の町には悪い妖怪が寄り付かないとのことらしい。
また、あの時を止める
つまり、次の九月十五日の満月の夜が、俺がこの江戸から東京に帰る時である。
俺は今、
その夜空には、
「りょう兄ぃ」
今、
「ああ、おあきちゃん。どうしたの?」
俺が問いかけると、おあきちゃんは梯子から屋根に上り、こちらに這いよってきて、こんなことを尋ねかけてくる。
「それはこっちの
俺は返す。
「星を見てたんだよ。もうちょっとで見られなくなるからね」
すると、おあきちゃんが俺の隣に座る。
「未来では、夜でも星が見えないの?」
「うん、残念だけどね。未来の江戸では
「へぇー、そうなんだね。なんか寂しいね」
俺は夜空を見上げる。秋とはいえど、銀河は白く西の方角に流れていて、夏の大三角形が
俺は、おあきちゃんに伝える。
「ねぇおあきちゃん? 確かに未来では星はあまり見えないんだけど、その代わりに星の沢山のお話があるんだよ」
すると、おあきちゃんが俺の方を向く。
「星のお話? あたしが知ってるのは、織姫と彦星のお話くらいだね」
その言葉に、俺はこと座のベガを指差す。
「えっとね、あれが
「え? どれ? 星を指差されてもわかんないよぉ」
おあきちゃんの言葉に、俺はおあきちゃんの胴体を持ち上げて俺の座っている太腿の上に座らせる。そして、腕の付け根におあきちゃんの顔が来るようにして星を指差す。
「あの星が、未来ではこと座のベガって呼ばれてる
おあきちゃんが、俺の胸元で声を出す。
「知ってる! 織姫と彦星は、年に一度七夕の日にしか会えないの! 天の神様の意地悪のせいで!」
その言葉に、俺は息を吐く。
「でもね、おあきちゃん。織姫と彦星は、十五
おあきちゃんが尋ねる。
「『
「この宇宙で一番速いものは光なんだけどね。その光の速さですら
「ええぇ!? そうなのぉ!? じゃあ、織姫と彦星はずっと会えないじゃない!?」
おあきちゃんの驚き声に、俺は返す。
「でもね、おあきちゃん。織姫と彦星はちゃんと毎年会っているから安心して」
「どういうこと?」
「織姫も彦星も、お互いに想い合ってて、また会えるって信じているからだよ。物理的に会えなくなっても、お互いにかつて一緒に過ごした大切な時があって、それを
俺の言葉に、おあきちゃんが声を出す。
「……つまり離れ離れになっても、想い合っている限り、また会えるってこと?」
俺は応える。
「そうだね、それはいつになるかはわからないけどね」
その言葉に、おあきちゃんは空を見上げる。そして、何か感情を含めてこう言った。
「……りょう兄ぃ、あたしわかった。天の神様は意地悪なんかじゃなかったの」
「……どういうこと?」
俺が訊くと、おあきちゃんは声に想いを乗せる。
「一年に一度くらいしか会えないからこそ
おあきちゃんの言葉に、俺は夜空を仰ぐ。
闇を引き裂くような銀河の両岸に輝く明るい星が二つ。
こと座のベガ、織姫。わし座のアルタイル、彦星。
そして、その銀河の中に明るく輝く星がひとつ。俺はその星を指差した。
「おあきちゃん、織姫と彦星ともう一つ、天の川の中に明るく輝く星があるよね?」
「うん。あの星の名前は知らない」
俺は応える。
「あれは、はくちょう座のデネブ。織姫と彦星とを結んで『夏の大三角形』って呼ばれているんだ」
「夏の……大三角形?」
「でね、あの天の川を横切るように羽を広げた白い鳥が飛んでいるってことになっているんだよ。
その言葉に、おあきちゃんの
「……見える……見えるよ! 天の川の
「こういう風に、星の並びを繋いでひとつのまとまった集まりとするのを、未来では『
「……なんで気付かなかったんだろ? 織姫と彦星の間には、ずっとずっと橋が
おあきちゃんの言葉に、俺は息を吐き出して穏やかな感情になる。
「きっと、そういうものなんだと思うよ。本当に求めるものは、本当に残したいものは、本当に大切なものは、きっといつだって
「そっか……」
おあきちゃんはそう
「ねえりょう兄ぃ! あたし、未来のお話もっともっと聞きたい! 未来に帰るまでの間、もっともっと聞かせて!」
「ああいいよ。いくらでも話してあげるよ」
そんなやりとりをしつつ、俺とおあきちゃんは互いに身を寄せながら、星々を眺めて色々な事を語り合った。
それはまるで、子供の頃から互いを良く知っている、本当の兄と妹の語らいであるかのようだった。
九月の九日に、すずさんは俺のために
俺がこの江戸から去る建前として、俺は徳三郎さんの紹介で長崎にある大きな神社にて神職として働くことが決まり、近いうちに長崎に戻るということになっている。
いつも食事を取っていた座敷では、俺がこの江戸時代で知り合った大勢の人が酒や甘酒を呑みつつ、料理を食べつつ、宴を楽しんでいる。
屋次郎さん、竹蔵さん、お
料理は、すずさんがお
わいわいがやがやと騒がしい、
「ほらほら、りょうや。呑め呑め」
「ああ、ありがとう屋次郎さん」
「りょうの字、神主さまの
「
「ほらほら泣くなよおしのよ、
「申し訳ございません。
「小三郎
「くぅっ!
「ははは、呑め呑め。女に振られた時は呑んで忘れちまうのが一番だ」
「
「よしっ! ここは俺が旅立つりょうやのために裸踊りでもしてやらぁ!」
「ちょっと屋次郎にぃちゃん! お侍さまや女の子もいるんだよ!?」
「ははは、
「こうして皆で騒いでいると、昔を思い出すのぉ」
「ほらほら
「
「ところでさぁ、お美代は酒は呑まないのかい?」
「あたしは酒は呑めないんだよ。忘れたのかい? あたしの正体」
「あー、その体になっちまったんだったら別に呑めるよ? らっきょうだって食べられるはずだよ?」
「え? そうなのかい?」
「皆が楽しそうでなによりだよ。神職
そんな感じで騒ぎつつ、俺たちは
その日、九月九日は、今まで生きてきた中で一番心に残る誕生日であった。
九月の十五日、夜空の南の方には満月が明々と輝いていた。
既に夜四つ[午後十時ごろ]を過ぎた夜更けに、俺は
格好は濃い目の色のジーンズに、肌着の上に灰色のTシャツとダークブルー色の薄手の
あの日、東京から江戸に迷い込んだ日に、俺が身につけていた衣服と格好そのままであった。十五ヶ月の間に、既に長く伸びていた自前の髪の毛で結われていた
すぐ近くにはすずさんとおあきちゃん、そして徳三郎さんがいる。
俺は、深紫色の着物を着たすずさんに尋ねる。
「どうですか? すずさん? 影の中に入ったら帰れそうですか?」
すずさんが応える。
「そうだね。りょうぞうが影の中に入ってから時を止めたら向こうと繋がるみたいだね」
俺は返事をする。
「じゃあ、これでお別れですね。十五ヶ月もの間お世話になりまして、本当に有難うございました」
感謝の言葉を述べて、俺は深くお辞儀をする。
すずさんが返す。
「いや、元々はあたいのせいだしさ」
その言葉に、俺は返事をする。
「そんなことないですよ。それに俺はこの時代、江戸時代に来て本当に良かったと思っているんです。感謝してます」
すると、徳三郎さんが尋ねる。
「ふむ、というと?」
俺は応える。
「俺は、この江戸時代に来なければ何もわかりませんでした。知ろうともしませんでした。俺が未来で何気なく当たり前だと思って生きてきた世界は、偉人だけじゃなくて一般人……この世に生きている人たち全てが苦しみつつ、懸命に生き抜いて創り上げてきた
徳三郎さんも、すずさんもおあきちゃんも何も言わない。俺は言葉を続ける。
「俺は元の時代で、日々の暮らしを有難いものだと思わず、色々なことが当たり前だと思って、なんとなく生きてきただけだったんです。もし俺が江戸時代に迷い込まなければ、この十五ヶ月がなければ、俺は先人が苦しみながら積み上げて創り上げ、未来の俺たちに託してくれた世界に何も感謝をしない子供のままでした」
すると、徳三郎さんが微笑んで語りかける。
「では、君がこの江戸の町に迷い込んだことは、君にとって良いことだったのだな」
俺は応える。
「はい、最初は俺は苦しみました。でも今は違います。もし十五ヶ月前の俺に言葉をかけられるのなら『これからの十五ヶ月は人生で最も価値のある十五ヶ月だ』ってことを伝えてあげたいです」
すると、すずさんも柔和な笑顔になる。
「そりゃあよかったよ。りょうぞう、いや、もう『りょうや
「はい! すずさんもどうかお元気で!」
俺がそう言うと、徳三郎さんが俺に伝える。
「
俺は軽快に応える。
「はい! 必ず幸せにします!」
「そうか、男と男の約束だぞ」
そして、おあきちゃんは自分の
「ねぇりょう兄ぃ、この
俺は言葉を返す。
「え? いや、返してもらわなくっても、それはおあきちゃんが持ってていいよ」
すると、すずさんが口を開く。
「
その言葉に俺は息を吐き出し、おあきちゃんの
「忘れないよ。何があっても、俺はおあきちゃんのことを決して忘れたりしないよ」
すると、おあきちゃんが
「忘れない! あたしだって、りょう兄ぃのこと忘れたりしない! だから……!」
おあきちゃんはそこまで言うと、自分の右手の小指を立てて、俺に対して掲げる。
「……指切り、しよ? お互いに忘れないって約束……しよ?」
俺は、おあきちゃんの小さな小指に自分の小指を絡める。そして、指きりの呪文を唱える。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のます、指切った」
「……指切った!」
おあきちゃんは、瞳をうるうると潤ませて、今にも泣き出しそうであった。
そこで俺は思い出す。
――結局一緒にお祭りに行くって約束、果たせなかったな。
そんな罪悪感を心の中で感じる。
おあきちゃんは、今にも泣き出しそうであるが、泣かなかった。
そして、おあきちゃんは俺に伝える。
「りょう兄ぃ、あたし、りょう兄ぃのこと、好き」
その言葉に、俺はおあきちゃんの頭をぽんぽんと叩く。
「ありがとう、俺もおあきちゃんのことが好きだよ。だから幸せになってね」
それが、俺が手渡すことができる、おあきちゃんの勇気に対する答えであった。
自分に向けられた好意に対する、『
おあきちゃんが、恥ずかしがり屋のおあきちゃんが、俺の前で俺のことを好きだと言ってくれた。勇気を出して言ってくれたその言葉が、恋愛感情抜きでたまらなく
その言葉が、たった一言の
きっと俺は、これから帰る未来でどんな
俺はすずさんに伝える。
「すずさん、お願いします」
「……あいよ」
すずさんが、俺の体をそっと撫でる。
すると、俺の体はまるごと影の中に入っていった。
未来へ帰れるという、確かな感触と共に――