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第四十九幕 江戸の皆との別れ


 俺は、薄暗がりの中で目を覚ました。


 ここがどこかはすぐにわかる。電灯のない天井が、仄明ほのあかるい橙色だいだいいろの揺らめく炎に照らされていた。


 一年以上間借りさせてもらっていた客間には、行灯あんどんの明かりが薄く広がっていた。


 俺は今、布団の中で仰向けに寝転んでいる。


 喉に手を当てると、喉仏のどぼとけの感触が手先に伝わってきた。


――生きてる。


 多分俺はあの天狗を倒した後に、おあきちゃんの治癒の妖術によって貫かれた喉を治されたのであろう。


 そこで、布団の中にゆっくりと呼吸する小さな暖かい存在を感じた。


 掛け布団をめくってみると、おあきちゃんが俺にぴったりと寄り添って添い寝をしてくれていた。


 俺は息を吐き出し、寝ているおあきちゃんを起こさないようにゆっくりと布団から這い出る。


 障子の向こうからは、薄い障子紙を透過して月の光が漏れている。


 着ている着物は白衣袴びゃくえはかまのままであった。俺は障子を音を立てないようにゆっくりと開け、縁側に立つ。


 星の散りばめられた南の夜空には、細長い月がかかっていた。静寂せいじゃくの中に虫の声が鳴り響く、静謐せいひつ神秘的しんぴてき情景じょうけいであった。


 そこには、月光で照らされつつ平たい酒盃で酒を楽しんでいる、白衣しらぎぬ緋袴ひばかまの巫女装束を身に纏ったすずさんが、胡坐あぐらをかいて待ってくれていた。


 すずさんは、俺に振り向いたと思ったら、声をかけてくれた。

「お、ようやく起きたかい」


 俺は息を漏らし、すずさんと同じように胡坐あぐらをかいて隣に座る。

「ええ、おかげさまで」


 すると、すずさんがからりと笑う。

「おあきにおんいだいときなよ? おまいさんの心の臓が止まってたのを戻したのはおあきなんだからさ?」


 すずさんの言葉に、俺は返す。

「おあきちゃん、心臓が止まったのも治せましたっけ?」


 すずさんが応える。

「『人工呼吸じんこうこきゅう』って奴だよ。りょうぞうが以前に大川で亀吉にやってたのを覚えてたんだとさ」


 その言葉に、俺は返す。

「人工呼吸……おあきちゃんが?」


「そうさ。あたいが指図さしず通りに胸の骨を調子ちょうし良く押して、おあきが口から息を吹き込んでね」


 すずさんの言葉に、俺は自分のくちびるをそっと撫でる。

「それは……ちょっとおあきちゃんに悪かったかもしれませんね」


「なんだい? そんなの口吸くちすいの数に入るもんかい? 気にするんじゃないよ」


 その言葉に、俺は息を吐き出す。

「そうですね。それが数に入るなら、俺のファーストキスが亀吉くんになっちゃいますし」


 すると、すずさんが近くにあった大きめの徳利とっくりから、赤く平たい漆塗りの酒盃に酒をなみなみと注いだ。


 そして、それを俺に手渡そうと掲げる。

「喉が渇いたろう? 飲みなよ」


 すずさんは、若干口元を綻ばせる。


 俺は酒盃を受け取ると、その中になみなみと波打っていた酒を一気にあおった。


 ごく ごく ごく。


 二十一世紀の酒の味は知らなかったが、江戸時代の日本酒は随分とフルーティーで果物ジュースのような味わいがした。


 喉が、気持ちが、今までなかった充実感で充たされていく。


「ぷはぁっ!」

 杯を乾かした俺に対して、すずさんがにやにやしながら問いかける。

「どうだい、りょうぞう? 生まれて初めて呑んだ酒の味は?」


「はい、こんなに美味しいなんて知りませんでしたよ。いいものですね」

「そうだろそうだろ? つらいことの多い人生、まれないくらいのそこそこの酒くらいまなきゃ馬鹿だよ」


 すずさんが俺から酒盃を受け取り、再び酒盃に酒を注ぐ。


 そしてすずさんは、一気にそれをあおる。


 ぐび ぐび ぐび。


 すずさんもなみなみと酒が注がれていたさかずきを乾かし、口元から離す。

「ぷはぁー! 美味いねぇ! まことに美味い酒だよ!」


 俺は応える。

「すずさんって本当にお酒好きなんですね」


「そうだね。それにこれは、ちぎりの酒だから各別かくべつさ」

 すずさんの言葉に、俺は疑問を返す。

ちぎりってなんですか? 俺とすずさんは別に恋仲じゃないでしょう」


 すると、すずさんが微笑み返して応える。

「違うよ。これは義姉弟ぎきょうだいちぎりだよ」

義姉弟ぎきょうだい……ですか?」


「そうさ。おなまれることをずともぉ、って奴だよ。知らないかい?」


「ああ、三国志の桃園とうえんちかいですね。友達に教えてもらったことがあります」

 俺がそう返すと、すずさんが目を閉じ、おもむきのある言い方で俺に伝える。

「あたいとりょうぞうは、これでまことの家族さ。りょうぞうが未来に帰った後も、ずっとずっとね」


 俺は、その言葉が嬉しかった。

「じゃあ、すずさんが俺のお姉さんで……おあきちゃんは俺の妹ってところですかね?」


 目を開いたすずさんが返す。

「違うよ? おあきもおまいさんの姉だよ。おあきはああ見えるけど、りょうぞうより年上なんだよ?」


 その言葉に、俺はここが江戸時代であったことを再確認した。


――そうだった。おあきちゃんは江戸時代生まれだから、あんなに幼くても俺よりずっと年上なんだった。


 俺がそんな事を思っていると、いきなり目の前のすずさんが、葉月の姿に変身した。


 すずさんの化けた、制服姿で胡坐あぐらをかいている葉月が口を開く。

「りょうぞう、今のあたいは誰に見える?」


 その言葉に、俺は応える。

「えっと……葉月はづき……未来にいる俺の想い人に見えます。それ、ばくの妖術ですよね? いきなりどうしたんですか?」


 すずさんが今使っている妖術は、以前に小三郎の夢にとり憑いていた、相手を迷わせる想い人に化けたように見えるばくの妖術なのだろう。


 すずさんの化けた葉月は、しゅるりとすずさんの姿に戻った。


 そして普段どおりの姿に戻ったすずさんが、笑みを含んだニュアンスで声をかけてくる。

「りょうぞう、ちょっとの間だけだったけどさぁ。おまいさん、あたいにれてただろぅ?」


 すずさんは、これ以上ないというくらいのにやけた顔を俺に見せていた。


「なっ……!」

 そこで俺は気付いた。すずさんが以前生理になって寝転んでいたとき、俺が鎮痛薬をすずさんに飲んでもらった時に、去ろうとする俺はすずさんに呼び止められた。


 あの時に俺が振り返ると、そこには普通にすずさんの姿があった。


 もしあの時、すずさんがばくの妖術を使っていたとしたら――


 俺は顔を赤くして目を背け、夜空を見上げる。


 するとすずさんが再び、酒をなみなみと注いだ酒盃を手渡してくれた。


 俺はさかずきを手に、甘ったるい江戸時代の日本酒をぐいっとあおった。


 すずさんがからかい声を出す。

「そうそう、呑んじまいな。呑んで忘れちまいな。淡い夢だったんだよ」


 俺は返す。

「……すずさんはとても美人です。正直言ってタイプです」


 すると、すずさんがどこか愉快そうな顔をこちらに向けつつ、応える。

「『たいぷ』? まあ、はなんとなくわかるけどさ」


「俺、元々は年上のお姉さんが好きなんです。初恋がそうでしたから」


 自分でも、だんだん酒が回ってきたことがわかる。


「ふぅん? まぁ、りょうぞうがあたいに惚れてたってことは、皆には内緒にしといてやるよ。とりわけおあきにはね」

「……はい。その方がいいと思います。すずさんと恋仲の男の人のためにも」


「あはは、その心配はいらないよ。でもまぁ、あたいは今は男がいるから、りょうぞうの気持ちには応えてあげらんないけどさぁ……」


 すずさんがそこまで言ったところで声のトーンをつややかに変え、色っぽく指先をくいっと上に反らす。

「あたいが独り身になってからだったら、いつでも相手してやっていいよ?」


「……夜のってことですか」

「そりゃそうさ。おまいさんはもう立派な一人の男さ」

 そこまで言うと、すずさんがにっと笑う。


 俺もにっと笑う。


 そんな風に、俺とすずさんは夜の縁側にて、秋の虫の声鳴り響く中で酒を酌み交わした。


 その酒の味は正に、甘露と言うべき味であった。






 後になって知ったのだが、俺は天狗に喉を刺されて心臓が止まって、まるまる一日寝込んでいたらしい。俺がすずさんと酒を酌み交わした夜は、二十三日の未明だったのだという。


 また、天狗に切りつけられて一時的に重症を負った徳三郎さんも、すぐさまおあきちゃんに治癒の妖術をかけてもらったので、大事には至らなかったらしい。


 天狗の御魂みたまは無事に稲荷社いなりやしろ合祀ごうしされたらしい。すずさんはこの稲荷社いなりやしろの近くではまさに無敵である。


 千年を生きる凶悪な天狗が本所深川の妖狐に調伏されたという噂が広まったらしく、しばらく江戸の町には悪い妖怪が寄り付かないとのことらしい。


 また、あの時を止める玉兎ぎょくとの御魂も既にこの稲荷社いなりやしろ合祀ごうしされているので、満月の晩には影を伝って未来に帰ることもできるであろうということがわかった。具体的には、品川から逃げてきた妖狐の夫婦に占いの妖術で教えてもらった。


 つまり、次の九月十五日の満月の夜が、俺がこの江戸から東京に帰る時である。


 俺は今、稲荷社いなりやしろの住処の屋根の上に梯子はしごで登って、屋根の上に座りつつ、月のない満天の星々ほしぼしが彩る夜空を眺めていた。


 その夜空には、二筋ふたすじ乳液にゅうえきを黒い天蓋てんがいに流したようなしろひか銀河ぎんがが流れ、東京と同じ場所とは思えないほどの無数のきらめきがかがやいている。


「りょう兄ぃ」

 今、梯子はしごの下から幼い女の子の声が聞こえたと思ったら、おあきちゃんが上ってきた。


「ああ、おあきちゃん。どうしたの?」

 俺が問いかけると、おあきちゃんは梯子から屋根に上り、こちらに這いよってきて、こんなことを尋ねかけてくる。

「それはこっちの台詞せりふだよ。屋根に上って何見てるの? 何もないのに」


 俺は返す。

「星を見てたんだよ。もうちょっとで見られなくなるからね」


 すると、おあきちゃんが俺の隣に座る。

「未来では、夜でも星が見えないの?」


「うん、残念だけどね。未来の江戸ではまちの光が明るすぎて、夜でも星はあんまり見えないんだよ」

「へぇー、そうなんだね。なんか寂しいね」


 俺は夜空を見上げる。秋とはいえど、銀河は白く西の方角に流れていて、夏の大三角形がきらびやかに輝いている。


 俺は、おあきちゃんに伝える。

「ねぇおあきちゃん? 確かに未来では星はあまり見えないんだけど、その代わりに星の沢山のお話があるんだよ」


 すると、おあきちゃんが俺の方を向く。

「星のお話? あたしが知ってるのは、織姫と彦星のお話くらいだね」


 その言葉に、俺はこと座のベガを指差す。

「えっとね、あれが織姫おりひめなんだけど、あの星は未来ではベガって呼ばれていてね……」


「え? どれ? 星を指差されてもわかんないよぉ」

 おあきちゃんの言葉に、俺はおあきちゃんの胴体を持ち上げて俺の座っている太腿の上に座らせる。そして、腕の付け根におあきちゃんの顔が来るようにして星を指差す。


「あの星が、未来ではこと座のベガって呼ばれてる織姫おりひめ。で、天の川を挟んで反対側にいるのが彦星ひこぼしで、未来ではわし座のアルタイルって呼ばれているんだ」


 おあきちゃんが、俺の胸元で声を出す。

「知ってる! 織姫と彦星は、年に一度七夕の日にしか会えないの! 天の神様の意地悪のせいで!」


 その言葉に、俺は息を吐く。

「でもね、おあきちゃん。織姫と彦星は、十五光年こうねんも離れているんだ。どんなに頑張っても、毎年は会えないってことになるんだ」


 おあきちゃんが尋ねる。

「『光年こうねん』って何?」

「この宇宙で一番速いものは光なんだけどね。その光の速さですらぐ行っても十五年かかるくらい離れているんだよ」


「ええぇ!? そうなのぉ!? じゃあ、織姫と彦星はずっと会えないじゃない!?」

 おあきちゃんの驚き声に、俺は返す。

「でもね、おあきちゃん。織姫と彦星はちゃんと毎年会っているから安心して」


「どういうこと?」

「織姫も彦星も、お互いに想い合ってて、また会えるって信じているからだよ。物理的に会えなくなっても、お互いにかつて一緒に過ごした大切な時があって、それをいとしい思い出だと信じている限り、いつでも心の底では通じ合っているんだよ」


 俺の言葉に、おあきちゃんが声を出す。

「……つまり離れ離れになっても、想い合っている限り、また会えるってこと?」


 俺は応える。

「そうだね、それはいつになるかはわからないけどね」


 その言葉に、おあきちゃんは空を見上げる。そして、何か感情を含めてこう言った。

「……りょう兄ぃ、あたしわかった。天の神様は意地悪なんかじゃなかったの」


「……どういうこと?」

 俺が訊くと、おあきちゃんは声に想いを乗せる。

「一年に一度くらいしか会えないからこそいとしかったの。織姫と彦星は、いくらはなばなれでも、必ず会える日があるってことを知ってたから日々をはげめたの。だから天の神様が一年に一度しか二人を会えないようにしたのは、二人が心の底から想い合うようにするためだったの」


 おあきちゃんの言葉に、俺は夜空を仰ぐ。


 闇を引き裂くような銀河の両岸に輝く明るい星が二つ。


 こと座のベガ、織姫。わし座のアルタイル、彦星。 


 そして、その銀河の中に明るく輝く星がひとつ。俺はその星を指差した。

「おあきちゃん、織姫と彦星ともう一つ、天の川の中に明るく輝く星があるよね?」

「うん。あの星の名前は知らない」


 俺は応える。

「あれは、はくちょう座のデネブ。織姫と彦星とを結んで『夏の大三角形』って呼ばれているんだ」


「夏の……大三角形?」

「でね、あの天の川を横切るように羽を広げた白い鳥が飛んでいるってことになっているんだよ。十文字じゅうもんじの星の並びがあって、それがはくちょう座。明るい星と星との間を線で結んでごらん? 天の川を横切るように十文字じゅうもんじの並びが見えてこない?」


 その言葉に、おあきちゃんの声色こわいろが変わる。

「……見える……見えるよ! 天の川の両岸りょうぎしを星の並びが繋いでる! 天の川に架かった橋みたい!」


「こういう風に、星の並びを繋いでひとつのまとまった集まりとするのを、未来では『星座せいざ』っていうんだ。星座の多くには、色々なお話があるんだよ」


「……なんで気付かなかったんだろ? 織姫と彦星の間には、ずっとずっと橋がすでに架かってたんだね。いつでも会おうと思えば会えたんだね」

 おあきちゃんの言葉に、俺は息を吐き出して穏やかな感情になる。


「きっと、そういうものなんだと思うよ。本当に求めるものは、本当に残したいものは、本当に大切なものは、きっといつだってとどそばにあるんだよ。ただ見えないか、見ようとしていないだけでね」

「そっか……」


 おあきちゃんはそうつぶやくと、その小さな背中を俺の胸に預けた。


「ねえりょう兄ぃ! あたし、未来のお話もっともっと聞きたい! 未来に帰るまでの間、もっともっと聞かせて!」

「ああいいよ。いくらでも話してあげるよ」


 そんなやりとりをしつつ、俺とおあきちゃんは互いに身を寄せながら、星々を眺めて色々な事を語り合った。


 それはまるで、子供の頃から互いを良く知っている、本当の兄と妹の語らいであるかのようだった。





 九月の九日に、すずさんは俺のために稲荷社いなりやしろ住処すみかにて送別そうべつうたげを開いてくれた。


 俺がこの江戸から去る建前として、俺は徳三郎さんの紹介で長崎にある大きな神社にて神職として働くことが決まり、近いうちに長崎に戻るということになっている。


 いつも食事を取っていた座敷では、俺がこの江戸時代で知り合った大勢の人が酒や甘酒を呑みつつ、料理を食べつつ、宴を楽しんでいる。


 屋次郎さん、竹蔵さん、おうめさん、おいとさん。おいとさんの胸かけ布には赤ん坊の恵吉ゑきちくん。小三郎、鉄蔵さん、おえいさん。おしのさんに亀吉くん。男谷おだにさんに團野だんの師範。三味線を弾いているお美代さん。そしてもちろん稲荷社の主人である徳三郎さんに、おあきちゃんとすずさん。


 料理は、すずさんがおうめさんとおいとさん、そしておしのさんとで協力して作ってくれたものであった。甘味は小三郎が作ってくれた。おあきちゃんはみんなが台所で料理を作っている様子を見て、すずさんに料理を習いたいと言っていた。


 わいわいがやがやと騒がしい、うたげのただ中であった。

「ほらほら、りょうや。呑め呑め」

「ああ、ありがとう屋次郎さん」

「りょうの字、神主さまのつてつとめが決まって良かったなぁ!」

亮哉りょうやさん、ぐすっ。どうか、長崎に帰っても、どうか、どうか、お元気で。ぐすっ」

「ほらほら泣くなよおしのよ、りょうがいなくてもおぇには俺がいるじゃねぇかよ」

「申し訳ございません。わたくしは小三郎さんはお友達としか……」

「小三郎にいちゃん、ぇちゃんのことは諦めなって」

「くぅっ! 世知辛せちがれぇなぁ!」

「ははは、呑め呑め。女に振られた時は呑んで忘れちまうのが一番だ」

親父おやじも、御萩おはぎだけじゃなく料理も食べなよ。折角せっかくうたげなんだからさ」

「よしっ! ここは俺が旅立つりょうやのために裸踊りでもしてやらぁ!」

「ちょっと屋次郎にぃちゃん! お侍さまや女の子もいるんだよ!?」

「ははは、拙者せっしゃは構わぬがな。やはり女子おなごのいるうたげの席では裸踊りはやめたほうがよいな」

「こうして皆で騒いでいると、昔を思い出すのぉ」

「ほらほら恵吉ゑきちかかさんがお豆腐を食べさせてあげるわね」

恵吉ゑきちくん、大きくなったねー! うふふ! 可愛い!」

「ところでさぁ、お美代は酒は呑まないのかい?」

「あたしは酒は呑めないんだよ。忘れたのかい? あたしの正体」

「あー、その体になっちまったんだったら別に呑めるよ? らっきょうだって食べられるはずだよ?」

「え? そうなのかい?」

「皆が楽しそうでなによりだよ。神職冥利みょうりに尽きるな」


 そんな感じで騒ぎつつ、俺たちはうたげを楽しんだ。


 その日、九月九日は、今まで生きてきた中で一番心に残る誕生日であった。





 九月の十五日、夜空の南の方には満月が明々と輝いていた。


 既に夜四つ[午後十時ごろ]を過ぎた夜更けに、俺は稲荷社いなりやしろの東の庭に満月の光を浴びつつ立っていた。


 格好は濃い目の色のジーンズに、肌着の上に灰色のTシャツとダークブルー色の薄手の木綿コットンジャケットを着ている。足にはスニーカーを履き、ナップサックを背負ってスポーツバッグを二つ掛けている。


 あの日、東京から江戸に迷い込んだ日に、俺が身につけていた衣服と格好そのままであった。十五ヶ月の間に、既に長く伸びていた自前の髪の毛で結われていたまげは、先ほどすずさんに切ってもらった。


 すぐ近くにはすずさんとおあきちゃん、そして徳三郎さんがいる。


 俺は、深紫色の着物を着たすずさんに尋ねる。

「どうですか? すずさん? 影の中に入ったら帰れそうですか?」


 すずさんが応える。

「そうだね。りょうぞうが影の中に入ってから時を止めたら向こうと繋がるみたいだね」


 俺は返事をする。

「じゃあ、これでお別れですね。十五ヶ月もの間お世話になりまして、本当に有難うございました」


 感謝の言葉を述べて、俺は深くお辞儀をする。


 すずさんが返す。

「いや、元々はあたいのせいだしさ」


 その言葉に、俺は返事をする。

「そんなことないですよ。それに俺はこの時代、江戸時代に来て本当に良かったと思っているんです。感謝してます」


 すると、徳三郎さんが尋ねる。

「ふむ、というと?」


 俺は応える。

「俺は、この江戸時代に来なければ何もわかりませんでした。知ろうともしませんでした。俺が未来で何気なく当たり前だと思って生きてきた世界は、偉人だけじゃなくて一般人……この世に生きている人たち全てが苦しみつつ、懸命に生き抜いて創り上げてきたあかしだったんです」


 徳三郎さんも、すずさんもおあきちゃんも何も言わない。俺は言葉を続ける。


「俺は元の時代で、日々の暮らしを有難いものだと思わず、色々なことが当たり前だと思って、なんとなく生きてきただけだったんです。もし俺が江戸時代に迷い込まなければ、この十五ヶ月がなければ、俺は先人が苦しみながら積み上げて創り上げ、未来の俺たちに託してくれた世界に何も感謝をしない子供のままでした」


 すると、徳三郎さんが微笑んで語りかける。

「では、君がこの江戸の町に迷い込んだことは、君にとって良いことだったのだな」


 俺は応える。

「はい、最初は俺は苦しみました。でも今は違います。もし十五ヶ月前の俺に言葉をかけられるのなら『これからの十五ヶ月は人生で最も価値のある十五ヶ月だ』ってことを伝えてあげたいです」


 すると、すずさんも柔和な笑顔になる。

「そりゃあよかったよ。りょうぞう、いや、もう『りょうや小僧こぞう』じゃぁないね。亮哉りょうや、未来でもどうか元気でいておくれよ」


「はい! すずさんもどうかお元気で!」

 俺がそう言うと、徳三郎さんが俺に伝える。

亮哉りょうやくん、もし君の想い人と結ばれることになったら、その想い人をどうか幸せにしてくれたまえよ」


 俺は軽快に応える。

「はい! 必ず幸せにします!」

「そうか、男と男の約束だぞ」


 そして、おあきちゃんは自分の結髪ゆいがみに手を沿え、そのビー玉のかんざしをそっと外した。そして俺に向かってかんざしを掲げる。


「ねぇりょう兄ぃ、このかんざしだけど、りょう兄ぃに持っていて欲しい」


 俺は言葉を返す。

「え? いや、返してもらわなくっても、それはおあきちゃんが持ってていいよ」


 すると、すずさんが口を開く。

亮哉りょうや、女が身に着けてるものを男に渡すって事はさ、『もう二度と会えなくなるかもしれないけど、忘れないで欲しい』ってことなのさ」


 その言葉に俺は息を吐き出し、おあきちゃんのかんざしを受け取る。

「忘れないよ。何があっても、俺はおあきちゃんのことを決して忘れたりしないよ」


 すると、おあきちゃんがつぶらなひとみを潤ませながら声を絞り出す。


「忘れない! あたしだって、りょう兄ぃのこと忘れたりしない! だから……!」

 おあきちゃんはそこまで言うと、自分の右手の小指を立てて、俺に対して掲げる。


「……指切り、しよ? お互いに忘れないって約束……しよ?」


 俺は、おあきちゃんの小さな小指に自分の小指を絡める。そして、指きりの呪文を唱える。


「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のます、指切った」

「……指切った!」


 おあきちゃんは、瞳をうるうると潤ませて、今にも泣き出しそうであった。


 そこで俺は思い出す。


――結局一緒にお祭りに行くって約束、果たせなかったな。


 そんな罪悪感を心の中で感じる。


 おあきちゃんは、今にも泣き出しそうであるが、泣かなかった。


 そして、おあきちゃんは俺に伝える。

「りょう兄ぃ、あたし、りょう兄ぃのこと、好き」


 その言葉に、俺はおあきちゃんの頭をぽんぽんと叩く。

「ありがとう、俺もおあきちゃんのことが好きだよ。だから幸せになってね」


 それが、俺が手渡すことができる、おあきちゃんの勇気に対する答えであった。


 自分に向けられた好意に対する、『たりまえ』ではない、『有難ありがとう』という気持ち。恋愛感情に恋愛感情を必ず返さなければならない訳ではないが、好意に好意を返すという人間としてのシンプルで大切な気持ち。


 おあきちゃんが、恥ずかしがり屋のおあきちゃんが、俺の前で俺のことを好きだと言ってくれた。勇気を出して言ってくれたその言葉が、恋愛感情抜きでたまらなくとうとくていとしかった。


 その言葉が、たった一言の真摯しんしな言葉があっただけで、俺はこの江戸で暮らしてきた価値があった。そう思える言葉だった。


 きっと俺は、これから帰る未来でどんなつらいことがあっても、その言葉だけで生きていけるだろう。


 俺はすずさんに伝える。

「すずさん、お願いします」


「……あいよ」

 すずさんが、俺の体をそっと撫でる。


 すると、俺の体はまるごと影の中に入っていった。


 未来へ帰れるという、確かな感触と共に――




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