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第四十五幕 隔たりを超える縁


 七月八日の昼八つ[午後二時ごろ]過ぎ、俺が稲荷社いなりやしろ前で掃除をしていると、遠くから小三郎が駆け寄ってくるのが目に入った。


 以前のような裕福そうな格好ではなく、そこらへんを歩いている町人と同じような質素な着物姿であった。


「ああ、小三郎。どうした……」

 挨拶をしようとすると、小三郎がいきなり俺の胸倉を掴んできた。


 俺は大声で返す。

「何するんだよ!?」


「そりゃあこっちの台詞せりふだぜ!? りょうよ、おぇさんおしのに何やらかしたんだよ!?」


 小三郎の返し声に、俺は反応する。

「え? どういうこと? おしのさんがどうかしたの?」


 すると、小三郎が顔を歪めて俺に伝える。

「昨日、久しぶりに京橋の家に帰ったときによ、亀吉かめきちの奴に教えられたんだよ! おしのが先月のしもから水茶屋への通いはおろか、家から出てすらもいねぇってのをよ!」


――え?


 先月の下旬というと、俺がおしのさんの気持ちには応えられないと告げた時期だ。


 俺は小三郎に伝える。

「俺は……故郷のひとを諦められないから……俺のことは諦めて欲しいって言っただけだけど」


 小三郎は、俺の胸倉を掴んだまま怒り心頭といった顔を見せる。

「俺はよぉ! てめぇがおしのを傷つけねぇって言ったから、てめぇに任せたんだぜ! 亀吉の話だと、おしのはもう水茶屋で働きたくないっていってやがんだぜ!? どうしてくれんだよ!?」


 俺は申し訳ない気持ちになりつつ、小三郎に伝える。

「ごめん……俺は気をつけたつもりだったんだけど……そんなに思いつめてたなんて……知らなかったんだ」


 俺がそう言うと、小三郎は拳を握る。俺の頬をぶん殴るつもりなのだろう。俺は殴られるのを覚悟して、堅く目をつぶった。


 しかし、小三郎の拳は俺の体のどこにも当たらなかった。


 目を開くと、いつの間にか現れたすずさんが、小三郎の振りかぶった拳を止めてくれていた。


「ほらほら、小三郎。その場にいなかったおまいさんが口を出すんじゃないよ。あたいはりょうぞうがおしのさんを振ったときにその場にいたんだけどさ。りょうぞうは男らしく、おしのさんを身を挺して守ってからきっちりとつとめを果たしていたよ?」


 その言葉に、小三郎の顔色が変わる。

「おすずさん? そりゃ、どういうことなんでやすか?」


「んー、まあ、話せば色々長くなんだけどさ。ともかく、りょうぞうはおしのさんにやれるだけの事をしてからおしのさんを振ったんだよ。その事に関して、小三郎があれこれ言うこたぁできないよ」


 すずさんの言葉に、小三郎が振り上げた拳を落として手を俺のえりから離す。


「そうか……悪かったな、りょうよ。いきなり胸倉掴んじまってよ」

「あ、いやいや大丈夫。気にしてないから」


 申し訳なさそうな顔をする小三郎にそう返事をすると、隣にいるすずさんが頭を掻きながらこんなことを言う。

「あたいも、帰り際に色々となぐさめの言葉をかけたんだけどねぇ。おしのさんの思いつめ具合が、ちょっとはなはだしかったのかもねぇ」


 俺は口を開く。

「俺も責任を感じています。すずさん、おしのさんの家に行ってくれませんか? 色々な経験を積んだ大人の女性にさとされれば、おしのさんも元気を取り戻してくれるかもしれませんから」


 俺の頼みにすずさんは、そういうのは教育者の義務だと云わんばかりの笑顔で了承してくれた。






 俺とすずさんとおあきちゃんと、それから京橋から来てもらった亀吉くんの四人は、稲荷社いなりやしろの講堂にて作戦会議を立てていた。


 おしのさんの自宅に上がったすずさんは、塞ぎこんでいるおしのさんに色々と話しかけたのだが、おしのさんは上の空で取り付く島もない様子だったそうな。


 俺は、すずさんに対して問いかける。

「すずさん? やつれてたりはしてませんでしたか? ご飯を食べられなかったり、寝れなかったりとか?」


 すると、すずさんが応える。

「いやぁ、ちゃんと食べてちゃんと寝てはいるようだったけどさ。何ていうか、生気せいきがなかったんだよねぇ。男に振られたくらいであそこまで思いつめるなんてさぁ」


 おあきちゃんが、俺に尋ねる。

「ねぇ、りょう兄ぃ。りょう兄ぃの故郷では、恋に破れた人はどういう風に心をしずめるの?」


 おあきちゃんの問いかけに俺は返答する。

「そうだね……どこかに遊びに行ったり、カラオケで思いっきり失恋ソング……えっと、みんなで恋歌こいうたを歌って気を紛らわせるとかだね。あとはまあ、お芝居を見たりとか」


 そして、亀吉くんが口を開く。

「おいらも、笑ってもらおうと面白い笑いばなしぇちゃんの前で演じているんだけどよぉ。全くもって笑ってくれねぇんだよ」


 俺は亀吉くんに伝える。

「うーん……落ち込んだ時に笑い話はあまり良くないんじゃないかな? 笑いばなしじゃなくて、泣けるような、人情味にんじょうみのあるお話の方がいいと思う」


 その言葉を聞いて、おあきちゃんが亀吉くんに尋ねる。

「ねぇ亀吉くん。おしのさんは、お芝居を見るのが好きなんじゃなかった? 泣けるようなお芝居を見てもらったら元気になるかもしれないよ?」


 すると、亀吉くんが応える。

「おいらもお芝居をすすめたんだけどよ。ぇちゃん、外に出る気すら出ねぇみてぇなんだよ」


 そして、すずさんが応える。

「確かに、お芝居を見せて涙を忘れてもらうってのはいい案なんだけどさ……面倒めんどうなのは、おしのさんが家を出たくないところなんだよねぇ……家の中でお芝居なんて見せられないしさぁ……」


 そして、おあきちゃんが口を開く。

「じゃあ、人情本にんじょうぼんを読んでもらうとかは? いっそのこと、亀吉くんが読んであげたらどうかな? 寄席よせ噺家はなしかさんに憧れて、真似まねとかしてるんでしょう?」


 すると、亀吉くんが応える。

「受身になってるからよぉ、おいらが読み聞かせても聞いてくれるかどうかわかんねぇよ。よっぽど珍しいお芝居ならわかんねぇけどよ」


 すずさんとおあきちゃんと亀吉くんの三人があれこれ話し合っているかたわらにて、俺の頭の中にあるプランが浮かんでいた。


 おしのさんに元気になってもらうために、傷ついた心を癒してもらいたいがゆえに、悲しい報われなかった恋の話をおしのさんに知ってもらう。


 ではどうやって、おしのさんが家から出ることなく、お芝居を楽しんでもらうか。


 それについて答えは既に頭の中に浮かんでいる。俺は以前にお祖父じいちゃんから聞いていた、昭和の子供たちが楽しみにしていた娯楽の事を思い出していた。電気が要らない至極単純な仕組みのその珍しいお芝居は、今のおしのさんが興味を持ってくれるかもしれない。


 俺はおしのさんを振ってしまった。それがおしのさんを傷つけることになってしまったが、俺はおしのさんを大切な友達だと思っているので、癒されて欲しいというのも心からくる本当の気持ちだ。


 だから、おしのさんをもう一度元気付けるのは、俺の役目だ。そう思った俺は目の前にいる三人に、速やかにそのアイディアを伝えた。






 それからしばらくの間、俺はおしのさんの心をなぐさめるための芝居作りに全力を傾けていた。


 俺が発案したアイディアとは、昭和時代に子供たちが楽しみにしていた『紙芝居かみしばい』という娯楽だった。何枚もの厚紙の表紙おもてがみはなし場面絵ばめんえを描き、うら筋書すじがきを書いてそれを読み上げる、というものである。


 絵と話を書く厚紙は、商売人の竹蔵さんに頼んで良さそうなのを何枚も手に入れることができた。


 厚紙を入れる木枠は、大工の屋次郎さんに頼んだら、非常に手際よくすぐに作ってくれた。


 小三郎に話したら、絵を描いてくれることを約束してくれた。有難いことに、どうやら鉄蔵さんとおえいさんも珍しい絵の表現方法に乗り気で、手分けして絵を描いてくれるらしい。


 ただ、問題はストーリーだ。失恋した女性の心を慰めることができるようなストーリーを、それもこの時代の年頃の女性が共感できるようなお話を、たかだか一介の高校生に過ぎない俺が考えることができるのか。


――しかし、考えなければならない。


――おしのさんの想いを断ったのは、他ならぬこの俺なのだから。


――俺がおしのさんの傷を癒さなければならない。


 色々考えた末、俺は海外の名作古典の中から題材を引っ張ることにした。


 愛し合う男と女が困難を乗り越えて奮闘し、最終的には共に死に至ってしまう超有名な悲劇、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を使うことにした。


 心がつらくてたまらないときは、救いのある悲劇を観ると心が癒される。これは昔から変わらぬ物語の定理だ。俺は宮口みやぐちさんに振られたときに、そのことがよくわかった。


 しかし問題は、そのシェイクスピアのお芝居の内容を、どう江戸時代の価値観に適合するようなお話に落とし込むかである。


 そこで俺は、徳三郎さんの知恵を借りることにした。


 俺が徳三郎さんに『ロミオとジュリエット』の大筋おおすじを伝えたところ、徳三郎さんは『ロミオとジュリエット』の内容を換骨奪胎かんこつだったいし、江戸を舞台にした『近江郎おうみろうとおりえ』という題名の悲劇を書いてくれた。


 『近江郎おうみろうとおりえ』というタイトルのその話の内容は、互いに反目し合う商人同士の跡継ぎと一人娘が恋に落ちるも、報われぬまますれ違いの中で心中をしてしまい、輪廻りんねの果てにまた巡り合うという物語であった。





 七月の十五日、つまりお盆の日のことである。完成した紙芝居を持ったすずさんは、おあきちゃんと一緒に京橋にあるおしのさんの家に出かけていた。


 京橋のおしのさんの家にて、すずさんとおあきちゃん、そして亀吉くんが紙芝居を演じてくれる予定となっている。


――果たして、おしのさんは元気になってくれるだろうか。


 俺は、客間の近くにある縁側に座りながらそんなことを考えていた。


 すると、徳三郎さんが縁側の向こうから歩いてきて、俺の近くに腰を下ろした。


 徳三郎さんが、俺に対して伝える。

「気になるかね」


 俺は返事を返す。

「はい、おしのさんが元気を取り戻してくれればいいんですが」


 すると、徳三郎さんがこんなことを言った。

亮哉りょうやくん。人が人のことを心配することは尊い、それは確かだ。しかし、考えてもわからぬことは考えるべきではないよ」


「考えても……わからないこと……ですか」


「そうだな。亮哉りょうやくんはむすめさんに対してすべきことを全てした。できることを全てしたのならば、のりえて考えるべからずだ。考え過ぎると気がんでしまうからな」


 その徳三郎さんの言葉に、前々からきたくてたまらなかったことを尋ねる。


「徳三郎さん、俺は……故郷こきょうに、未来みらいに好きなひと……むすめさんを残してきたんです。そのひとのことを裏切れなかったから……おしのさんの想いを断ったんですが……俺は正しかったんでしょうか?」


 俺がそう言うと、徳三郎さんはあごに手を当てて口を開く。

おのれした行いが正しいか、正しくないかなぞ、誰にもわからんよ。人は神でも仏でもないからな。考えてもわからないものはわからないものだよ」


 徳三郎さんの言葉に、俺は感情を吐露とろする。

「そうですよね……おかしいですよね……考えたって考えたって……わからないってのに……今になって、後悔するなんて……」


 俺が訥々とつとつと胸の奥から声を絞り出すと、徳三郎さんがこんなことを言った。

いることはない、君はちからくしたんだ。ちからくしたものがいることなど、あってはいけないよ。それに、私にだって思い残したことなど、山のようにあるからな」


 その徳三郎さんの言葉に、俺の好奇心が一瞬、ほんの一瞬だけ出てしまった。

「……どんなことですか?」


「私はな、故郷ふるさとの村に二度と帰れんのだよ。おやの死に目にも会えなかったし、先祖の墓参りもできんのだ」


 俺は息を呑んだ。徳三郎さんの触れられたくない部分に触ってしまった気がしたからだ。


 しかし、徳三郎さんはおかまいなしに言葉を続ける。

天明てんめいの初めだから、もう四十年近く昔になるかな。飢饉が起こって三男坊だった私は食い詰めてしまい、村を取り仕切っている大きな寺に預けられてなぁ。あの時は辛かったな」


 俺が何も言い出せないままでいると、徳三郎さんは若者を責任ある大人として諭すかのように言葉を続ける。

「そこの寺は折檻せっかんがひどくてな、まだ若かった私は耐え切れず逃げ出してしまったのだよ。そして江戸まで逃げてきた所を、この稲荷社いなりやしろに拾ってもらったというわけなのだ。寺の顔を潰してしまったわけだから、その村にはもう帰ることができんのだ」


 徳三郎さんの言葉に、俺はやっとのことで返す。

「……そうだったんですか……徳三郎さんも故郷こきょうには帰れなくて……だから同じ境遇の俺にこんなにも親切に……」


「まあ、それもあるがな。それだけでもないよ」

「……どういうことですか?」


おおよそこの世にある森羅万象しんらばんしょうというものはな、えんえんで信じられないほどたくみにむすき、からっているのだよ。たとえどれほど場所が離れていようと、どれほど時が離れていようと、無縁むえんであるなどありえないのだよ」


 徳三郎さんの意味深な話の内容に、俺は応える。

「どんなに時が離れていても……ですか? 二百年という時でへだたっていても?」


「無論だ。二百年どころか二千年でも、たとえ二万年のへだたりがあれど、そもそも世が全く異なっていても、無縁などということはありえない。君は未来に想い人がいて、遠くへだたっていると思っているがそれは違うのだよ」


 徳三郎さんの言葉に、俺は戸惑いの言葉を返す。

「……へだたっていないんですか? 逢えないのに? 言葉も交わせないのに?」


「ああ、へだたってなどいない。君は今、ここ江戸の町にて様々さまざまな行いを残している。そして、君がした行いの結んだ実や、その行いの中で抱き伝えた心や魂は消えずに残り、世の中に人から人へと伝わっていく。君が誰かを幸せにしようと動けば、それがまわりまわって、そのむすめさんの幸せに繋がる。それが天地てんち開闢かいびゃく以来変わらぬ、世の中のことわりというものだ」


 徳三郎さんの、未熟な若者をさとすような穏やかな声に、俺は夕日の光を顔に受けながら返す。

ことわり……ですか。俺がこの世界で為したそれぞれの行動が世の中に残り、未来へ広がって誰かに繋がっていくのがこの世の中のことわり……」


 そして、徳三郎さんが応える。

「その通り、だから考え悩むことはない。そのむすめさんの幸せを願うのならば、目の前にある事をひとつひとつ誠心せいしんをもって取り組めばそれでいいのだよ」


 その言葉に、俺は返す。

「考えられますかね? 俺がそんな風に……」


 自分でも女々めめしいことはわかっている。前を向いて進む。そんな簡単な事さえも俺は躊躇ためらっているのだから。


 すると、徳三郎さんがこんな事を言った。

「考えられるとも。君の心の中にある不安や迷い、おそれやおびえといったものは、君の心が創り出してしまったどこにも形がない虚事そらごとだ。君はこの江戸の町でおすずやおあきと共に動き、あやかしを調伏し、町の衆の助けになっている。大勢の人を救っている。それこそが虚事そらごとではない真実しんじつだ。亮哉りょうやくんは実に立派になすべきことをしているよ」


 少しだけ押し黙ってしまった俺は、やっとのことで胸の奥から声を絞り出す。

「そんな救うとか、立派な気持ちで妖怪退治をしてるわけじゃないですよ……。俺は、ただ……すずさんやおあきちゃんが命がけで江戸の町に巣食う妖怪と戦っているのを放っておけなかっただけで……おんのあるこの家の人たちに何もしないで、見て見ぬふりをしているのが辛かっただけなんです」


「情けをかけてくれた人達ひとら恩義おんぎを感じ、報いようとするのはあるべき人の道だ。では、こうは考えられないかね? もし君が江戸に迷い込まなかったら、今のつらさがなかったら、君はそれまでることが当たり前だと思っていた出来事全てに、御恩ごおんいだくことができたかね?」


 俺は息を呑む。


 俺がいた時代。二十一世紀の、便利で満ち足りた未来の世界。


 飢えることはなく、夜でも明るくやみや暴力におびえなくてよい、安心に充ちた世界。


 両親がいて、弟がいて、思い出を共有しているかけがえのない友達がいた世界。


 そして何より、葉月がいた世界。


 様々な文明の利器や社会制度があることが当たり前だとずっとずっと思っていたけど、そこは確かにこの江戸時代より、ずっとずっと満ち足りた世界であった。


 るものに対する感謝の心。そのシンプルな想い。そんなものすら俺はわかっていなかった。


 俺は口を開く。

「……そうですね。俺は過去に、今までの人生の中で当然だと思ってたことへの感謝かんしゃの気持ちが足りませんでした。おかしいですよね、ったときは有難がらず、無くしてから求めるなんて」


 すると、徳三郎さんが穏やかな口調で俺に語りかける。

「だがそれが人というものだ。人は皆、無くしてからまこと値打ねうちに気付くのだよ。言い換えれば、今まさにおのれが感じているどんな苦しみも悩みも、御恩ごおんの気持ちさえ忘れなければ、後々になればって良かったと有難ありがたがるくらいえのないものになりるのだ」


 俺が何も言えないままでいると、徳三郎さんが言葉を続ける。


「昔、如何いかつらい場所にいたとしても、今、如何いかに苦しい思いを味わっているとしても、それは何か役立つものがあるからこそなのだ。だから、天に幸せを祈り、そしてなによりいまるものに恩義おんぎを抱くことだ。与えられた宿命さだめには、必ず何かしらのこころがある。不安や恐れなど、己の心の中で己が生み出したまぼろしに過ぎない。だから亮哉りょうやくんも何時いつの日か今のつらさを有難ありがたがるときが来るよ、必ずな」


――辛い過去でも、苦しい現状でも、その全てに対する感謝があれば生きていける。


 その徳三郎さんの言葉は、俺の心の奥底にあった澱みの中に界面活性剤が落ちたかのように、広がる一滴の清浄をもたらした。


 俺は葉月に対して何もできない。俺が行方不明になって泣いていたかもしれない葉月に対して何もできない。そう思っていた。葉月に会いたくて会いたくてたまらないのに、未来みらい永劫えいごう会えないかもしれないと苦しんでいた。


 しかし、そうではない。俺がこの世界できっちりと正しく生きることで、葉月のために生きていくことができる。そして、このつらさに感謝することができる日がいつか必ず来る。


 価値観の転換。


 世界観の転回。


 そんな感覚が俺の中で起こった。


――俺は、見えなくても、触れられなくても、葉月のために生きられる。


――ただ、俺がこの江戸時代という世界で生きていくだけで葉月のために生きられる。


――それが世のことわりだというのならば、俺は喜んでこの江戸の世で生きてゆくことができる。


――そして、このつらさを与えてくれた天に感謝する日がいつか必ず来る。


 そう思った俺の心の中から、わだかまりがなくなっていくのを感じる。


――葉月、君は、俺にとって君は。


 俺の中で大きく、決定的な何かが変わる。


 元々そこにあったけど、気づかなかった感情。


――葉月、葉月、君はずっと俺の、そう、俺の――


 自分の真の気持ちに気づいた俺は、大きく息を吐き、心の中で再確認する。


――俺の、希望だったんだ。


 そう思った俺の心の中からは、既にすずさんの姿は消えていた。


 残っていたのは、葉月が確かにあの日教室で見せてくれた、優しい笑顔だけであった。





 それから五日が過ぎ、七月二十日になって、俺とおあきちゃんは新大橋の西のたもとの水茶屋に二人して赴いていた。


 赤布の掛けられた長椅子に座る俺とおあきちゃんに、おしのさんがお茶を載せたお盆を持って近づいてきた。


亮哉りょうやさん、おあきさん。お待たせ致しました」

 おしのさんは、以前のようなにこやかな顔で俺たちにお茶を渡してくれる。


 おしのさんは、俺たちの見せた紙芝居が功を奏して、元気を取り戻してくれたようであった。


 おあきちゃんと並んでお茶を飲む俺の口からは、安堵の息が漏れる。

「おしのさん。元気になってくれてよかったよ」


 すると、おしのさんが微笑みながら返す。

「はい! わたくしは振られてしまいましたが負けませんよ! 亮哉りょうやさんに負けないくらい素敵すてきなお方と巡り合ってみせます!」


 俺もおあきちゃんも、その言葉に安心の表情を見せる。


 おしのさんが言葉を続ける。

「亀吉ったら、亮哉りょうやさんに考えて頂いた『紙芝居かみしばい』というものに、いたく感じ至りておりまして。大きくなったら日本一にほんいち噺家はなしかになって、日本中にほんじゅうの人の心を動かしたいだなんて申しておるのでございますよ。きっと、亀吉かめきちにとっても良い事だったのだと存じます」


 その言葉に、俺は返す。

「亀吉くんだったら、きっと立派な噺家はなしかになれると思うよ。俺も応援してるって伝えといてくれない?」


 俺の言葉に、おしのさんは満面の笑顔で「勿論もちろんでございます!」と了承する。


 おあきちゃんが、口を開く。

「ねぇ、おしのさん。あたし、お芝居のこととか、物語のこととか、一緒にお話ができるむすめさんのお友達が欲しかったの。これからも水茶屋に遊びに来てもいい?」


 するとおしのさんは、にこやかに笑って丁寧な言葉遣いではなく、くだけた感じで応える。

「ええ! お茶屋だけでなくて、家にもいつでも来てもいいわよ! 良かったら、一緒にお芝居とか見に行く?」


「行きたい! 行きたい! すず姉ぇに頼んでみる!」

 おあきちゃんがそう言って、楽しげに目を輝かせる。


 俺は、その様子を見て微笑ましいと思った。やっぱりこの二人は、いささか歳が離れているがいい友達になれそうだ。


 おしのさんが、俺に顔を向けて口を開く。

「ねえ亮哉りょうやさん? あのお話、大筋おおすじ亮哉りょうやさんが考えて頂いたとお伺いいたしました。あの、短刀を喉元に突き刺すきわ近江郎おうみろうさんがおっしゃった台詞せりふわたくしの心にしかと響きましたよ」


近江郎おうみろうが最後に言った台詞せりふ? えーっと……確か……」


 俺が思い出そうとすると、おしのさんがその台詞せりふそらんじる。

近江郎おうみろうさんの『お前から愛をたまわることがまことの幸せなのではなかった、お前にひたすらな愛を与えられたことがこの俺のまことの幸せだったのだ』という台詞せりふわたくしは救われました。わたくしは、あなたさまに恋焦こいこがれていたあいだがあったということを、大切な思い出にいたします。亮哉りょうやさん、わたくし恋慕こいしたう方となっていただき、まことに有難うございました」


 そう笑顔で言うおしのさんの目で、きらりと涙の粒が光ったような気がした。






 おしのさんとのやり取りが済んでから、俺とおあきちゃんは手を繋いで新大橋の上を稲荷社いなりやしろに向かって歩いていた。


 小三郎に聞いたところ、おしのさんは俺に振られたという噂が広まって、かえって水茶屋での人気は急上昇したらしい。多分、おしのさんにはすぐにいい人が現れるであろう。


 俺と手を繋いで歩いているおあきちゃんが、俺を見上げて口を開く。

「ねえりょう兄ぃ。とうにはちょっとだけ、いてるんじゃないの? おしのさんと恋仲になれなくて」


 おあきちゃんは、少し悪戯っぽい微笑みを浮かべている。俺はおあきちゃんに視線を下げ、伝える。

「後悔なんかしてないよ。俺は葉月が好きなんだ、心の底から。だから、たとえ未来に帰れなかったとしても、後悔なんかしないよ」


 俺の言葉に、おあきちゃんがこんな言葉を返した。

「じゃあ、りょう兄ぃ? もしも今、葉月さんに一言だけ何か言葉を伝えられるとしたらなんて伝える?」


 その言葉に、俺は笑う。

「そんなの決まってるよ」


 すると、おあきちゃんがうきうきした口調で応える。

なになに? 知りたーい! 葉月さんになんて伝えるの?」


 そのおあきちゃんの問いかけに、俺は言うべき返事を心に思い浮かべる。


 今、葉月に何か伝えることができるとしたら、この言葉しか思い浮かばない。


 俺が見知らぬ江戸の町という、異邦いほうならぬ異時いときの地で一年以上、気がれもせず、自殺もせずに暮らしてこれたのは葉月のおかげだ。


 葉月、俺は君という希望があったからこそ、この江戸の町で絶望せずに済んだんだ。


 俺はもう天を恨んだりなんかしない、過去を悔いたりなんかしない。今まで受け取りたくなかったこの残酷な運命を、もう俺は確かに受け取ったのだから。


 俺はこの時代に来てようやく、天の神様と仲直りできたんだ。そう思えるほどに幸せであった。


 俺は対岸からやってくる爽やかな風を顔に受けつつ、可能な限り穏やかな口調で伝えた。


「『俺を救ってくれてありがとう』だよ」


 その言葉に、おあきちゃんはまるで葉月が教室で見せてくれたような満面の笑顔を見せてくれた。



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