七月四日の夜を過ぎてからの、五日未明の深夜のことであった。
俺とすずさんとおあきちゃんの三人は、ここ本所の盛り場にある見世物小屋の前に来ていた。見世物小屋とは色々な珍しいものを見せてくれる場所であり、四角く張った囲いが天に向かって高く突き出ているように建てられている。
火の灯った提灯の棒を持っている、すずさんが口を開く。
「今夜に調伏する妖は、この見世物小屋の中にいるらしいよ。相当に手強いらしいから、心しなよ」
俺は、すずさんに尋ねる。
「すずさん、今回はどんな妖怪かはわかっているんですか?」
すると、すずさんが応える。
「さぁねぇ、それがわからないんだよ。人が跡形もなく何人か消えてるから人喰いの妖だとは思うんだけどねぇ」
その言葉に、隣にいるおあきちゃんが俺の手を握る。
俺たちが路地に入って裏手に回ると、すずさんが袂から鍵を取り出して、見世物小屋の錠を開ける。
カチャリという音と共に開いた錠を取り外し、俺たち三人は中に入る。
すずさんが暗い部屋の中に狐火を浮かばせて口を開く。
「うーん……妖の臭いはあんまりしないねぇ。その代わり、あまり嗅いだことのない臭いがするよ。見世物になっている珍しい禽獣の臭いだろうね」
その言葉に、俺は返す。
「禽獣? すずさん、禽獣って鳥と獣のことですよね? 珍しい鳥や獣がいるってことですか?」
すると、すずさんが闇の中を指差して俺たちに顔を向ける。
「りょうぞう、おあき、いたよ。ありゃあ駱駝ってやつだね。まさに珍獣さ」
宙に浮いているすずさんの狐火にて白く照らされたその動物は、上が開いた木でできた柵の中にて寝そべっている二頭のラクダであった。平成に生まれ育った俺にとっては、取り立てて珍しい動物ではない。
緊張の糸が緩んだ俺は、拍子抜けして大きく息を吐く。
「珍獣って……ただのラクダじゃないですか」
ところが、俺と手を繋いでいるおあきちゃんは、あからさまにうきうきした口調になる。
「すごぉい! あれが駱駝なの!? 馬よりもずっと大きいんだね!」
なんだか、おあきちゃんが想像以上にはしゃいでいた。俺はおあきちゃんに声をかける。
「……おあきちゃん? ひょっとして、ラクダ見たことないの?」
「初めて見る! 背中に瘤があるんだ! 今まで見た四つ足の獣の中で一番大きい!」
すると、すずさんがおあきちゃんに話しかける。
「おあき、普賢菩薩の乗り物の象って知ってるだろ? あたいは昔に、シャムって国から海を渡ってきた生きてる象が江戸の町中を歩いてるのを見たことあるんだけどさ、ありゃぁ駱駝よりもずっとずっと大きかったねぇ。背までの高さが一丈近くあってさ、大仰でなしに絵の如く鼻が長いのさ」
「へぇぇ! 本物の象ってそんなに大きいんだ! あっ、あっちにいるのはひょっとして孔雀!? すごい! すごいよここ!」
おあきちゃんが興奮した様子でラクダの柵の隣を指差すと、そこには地面に胴体を下ろしてすやすや眠っているクジャクがいた。
この時代の人にとっては、これでも充分に見世物としての興行が成立するものらしい。
――もしもキリンやペンギンを江戸時代の人たちに見せたら、どういう反応を返すのだろうか。
すずさんが振り返り、俺に伝える。
「あれ? りょうぞう、あまり驚いてないねぇ? もしや、未来ではもっと珍しい禽獣が見世物になっているとかかい?」
俺は乾いた笑い声を出して応える。
「あはは……まぁそうですね。未来には動物園っていって、世界中の珍しい鳥や獣を見ることができる、大きな庭園みたいなのがあるんですよ。俺は珍しい鳥や獣っていうから、トキとかニホンカワウソとかがいるかと思ったんですけど」
俺がそう言うと、すずさんはきょとんとした顔を見せた。
「おかしな事言うねぇ? 鴇も川獺も、そこらへんの田んぼや川にいくらでもいるじゃないのさ? しかも群れで稲を踏み荒らす厄介者の鴇なんかが、何で見世物になんのさ?」
――もしかして未来では天然記念物のトキが、生ごみ袋を集団で荒らす厄介者のカラスみたいな扱いなのか。
「あー……えっとですねぇ……」
二十一世紀では、日本由来のトキもカワウソも絶滅していることを言おうかどうか躊躇っていると、すずさんがこんなことを言った。
「じゃあさ、りょうぞうに今度、鴇汁でも作ってやろうかい? 美味いよ? 柏に比べたら少し生臭いけどね」
「大変興味深いですが……遠慮しておきます」
トキの肉の味を確かめるなんて機会、二十一世紀では絶対にないのだろうが、やがてトキがどういう運命を辿ることになるかを知っている俺は断った。
おあきちゃんが口を開く。
「すず姉ぇ、あっちの部屋じゃない? 幽かだけど妖の臭いがする!」
そう言って指差す先には戸のないくぐり口があり、珍獣がいる部屋とは別になっているようであった。
すずさんが口を開く。
「ああ、中に二つ部屋があるんだね。向こうの部屋の方が入り口近くにある部屋だから、こっちより大したことない見世物があんじゃないかねぇ? そこで更に銭払った奴だけがこっちの部屋に来て、駱駝と孔雀を見ることができるって寸法さ」
すずさんはそんなことを言いながら、くぐり口をくぐる。俺とおあきちゃんもそれに続く。
部屋の中に浮かんだ狐火によって照らされたその見世物とは、虎の絵が描かれた大きな衝立であった。畳四畳分くらいのその大きな衝立には、遥か大陸にしか生息しないという、いかにも獰猛で凶暴そうな虎の絵が描かれてあった。
そして中心にて呻り吠える声が聞こえてきそうな虎の絵の下のほうには、毛むくじゃらで四肢の先に長い爪が生えた貉のような絵が描かれている。虎の絵の大きさが2メートル半を超えているのに、こちらの小さな方の動物は1メートル半くらいの大きさで描かれている。
俺はすずさんに尋ねる。
「すずさん、この大きなのは未来の動物園で見たことがあるので虎だってわかりますけど、こっちの小さなのは何でしょうね?」
すると、すずさんが応える。
「こりゃ、おそらく雷獣だね。雷を操る妖さ。でも、何で虎と一緒に描かれてるんだろうね?」
すずさんがそこまで言ったところで、雷獣の描かれた目玉がぎょろりと動き、こちらを見た気がした。
俺は叫ぶ。
「すずさん! この雷獣の絵が動きました! もしかして、この絵が妖怪なんじゃないですか!?」
俺の叫び声から間を置かず、向こうの部屋から鳥のような高い鳴き声が響いてきた。
「ヒュアー! ヒュアー! ヒュゥアー!」
――何だ!? 孔雀の鳴き声か!?
一瞬だけ視線を衝立から外し、再び衝立に視線を戻すと、そこには虎しか描かれてなかった。
――雷獣が消えた!?
「おあきちゃん! 君は鉄砲に化けて!」
俺がそう叫ぶと、俺の手を握っていたおあきちゃんはしゅるりと拳銃に変化した。
すずさんと視線を交わして頷きあって、俺から先にくぐり口をくぐって孔雀の元に赴く。
するとそこには、この前に墨堤近くの雑木林にて俺をリンチした三人組のうちの二人、頓吉と陳平と呼ばれていた男たちが、孔雀を盗もうとしているところだった。
俺は即座に叫ぶ。
「お前らがなんでここに!?」
すると、俺から遅れてくぐり口をくぐったすずさんが口を開く。
「盗人かい!? 今は盗人なんかにかまってる暇なんてないんだよ! さっさと帰りな!」
すると、孔雀の柵の中に入って孔雀を持ち上げていた陳平が叫ぶ。
「あっ! てめぇ! こないだの野郎じゃねぇか! こないだの借り返させて貰うぜ! 動くなよ!」
すると、頓吉もにやにやと口を開く。
「なんだよ、また女連れじゃねぇか。おい、こっちの女は飯盛り宿にでも売ればいい金になるぜ」
そう言いつつ、俺たちに近寄る。
すずさんが、いなすように叫ぶ。
「馬鹿が! 今はそんなこと言ってる場合じゃないんだよ! 命が惜しければとっとと帰りな!」
もちろん、頓吉はそんなすずさんの言葉など耳に入れない。下卑たにやけ面を見せながら、こちらに一歩一歩近寄ってくる。
いきなり、頓吉が右足をくじいたのかその場にずっこけた。
「あいてて……ちっ」
右向きに床に寝転んだ頓吉が、右手を地面につき、体を支えようとすると、その右手が右腕ごと底なし沼に吸い込まれるかのようにずぶりと地面に吸い込まれていった。
バリ ガリ ボリ
骨の入ったままである動物の部位を、骨ごと鋳鉄製のミンサーで砕くような音が聞こえた。
地面に右を下にして寝転んだままの頓吉が、左手を右腕のあった場所に送る。
「あ……あれ? 右腕がねえ……あ……あれ? あはは……右足も……なんでぇこれ……」
頓吉がそう言うが早いか、地面からにゅっと雷獣が飛び出した。先ほどまで衝立に描かれていた、あの雷獣であった。
がぶり。
「ぎゃぁぁあぁぁぁぁぁ!!」
叫ぶ頓吉の左腕にかぶりついた雷獣は、右腕と右足の無くなった頓吉の体を大きく宙に振り上げ、そのまま地面の中に引き込んでしまった。
バリ ガリ ガツガツ バリバリ
今度は、頭蓋骨を噛み砕くような音が見世物小屋の中に響く。
すずさんが叫ぶ。
「ちぃっ! やっぱり人喰いだね! りょうぞう、外に出るよ! あたいの手に捕まりな!」
すずさんが、壁に手をつけて俺の方に反対の手を伸ばす。俺を連れて影を通り抜けて、開けた大通りに出るつもりなのだろう。
しかし、俺はすずさんにおあきちゃんの化けた拳銃の本体を渡してから、孔雀のいる柵に向かった。
「りょうぞう! そんな奴のことなんて放っておきな!」
すずさんの声を背中に受けるも、俺は孔雀の柵から体を乗り出していた。
そして、目の前で仲間が食い殺されて腰を抜かしている陳平に手を伸ばす。
「掴まれ! 助けてやるから掴まれ!」
すると、孔雀を抱えてガタガタ震えていた陳平は、孔雀をそのへんに放り投げて俺の手を取った。
すずさんが、後ろから叫ぶ。
「りょうぞう! 雷獣が近寄ってるよ! 逃げな!」
良くない気配が、ぐんぐん俺の近くに寄ってきているのが感覚で理解できた。
右手で陳平の手を握った俺は、左手に握られている拳銃の弾倉に向かって叫ぶ。
「おあきちゃん! もう一度、ひとつの鉄砲に化けなおして!」
すると、俺の体が陳平の体ごとふわりと宙に浮いた。
左手に握られている弾倉という拳銃のパーツが、再びひとつの拳銃に戻ろうとしているのである。
俺の左手に握られているおあきちゃんの化けた実体である弾倉は、すずさんの持っているもうひとつの実体である拳銃本体に引っ張られる。
ガジリ!
さっきまで俺のいた場所を、地面からにゅっと出てきた雷獣が大口を開けてかぶりついた。木の柵の一部は粉々になって、辺りに飛び散る。
「ひ、ひぃぃぃ!」
その様子を見て、俺に掴まっている陳平が叫び声を上げた。
すずさんに勢いよく向かっていった俺は、すずさんに陳平の腕を掴ませて、すぐさま化けなおされた拳銃を右手に持ち替える。
「ケェェェェッェン!」
雷獣は叫び声を発して獣特有の敏捷さで俺たちに跳びかかる。俺は間を置かず、銃口の向きを雷獣に向けて引鉄を引き絞る。
タタタン! バス! バス! バス!
俺が放ったオート連射の銃弾が三発とも、雷獣に命中した。
「グケェェェェッ!」
雷獣は拳銃の弾丸をくらい、後退する。
「外に出るよ!」
俺たちの手を取ったすずさんが叫ぶと同時に、俺と陳平は壁にできた影の中に吸い込まれる。
――外に出た。
月明かりはないものの、夜空には星が輝き、大通りに置いてある灯篭が夜道を照らしていた。
俺はすずさんに叫ぶ。
「すずさん! 雷獣は追ってきてますか!?」
すると、すずさんが即座に返す。
「殺気をぴりぴり感じるよ! あたいらを皆殺しにする気だろうさ!」
俺は、陳平の方を見た。赤土の上に腰を落としてぶるぶる震えている。
俺は大声で陳平に伝える。
「おい! 今は逃げろ! このままだとお前も喰われるぞ!」
その言葉に、陳平は両手を後ろ手に地面につきつつ、こくこくと頷いている。仲間が目の前で食い殺されたという、あまりにもショッキングな出来事に放心しているようであった。
すずさんが、俺に叫ぶ。
「りょうぞう! 金物を天に掲げるんじゃぁないよ! 雷獣の術は雷を落とすことさ! 金物を天に掲げたら……ん!? ぐっ!」
すずさんがそこまで言ったところで、別の男がすずさんの首に両方の腕を回した。
「おい、陳平! 女見つけた! 女!」
その男とは、俺をリンチした三人のうちの一人、寛介であった。おそらくは外で見張り役をしていたのだろう。すずさんの首に回した右腕の先には、ぎらぎら光る匕首を持っていた。
すずさんが叫ぶ。
「馬鹿! 今はそんな場合じゃないんだよ! 死にたいのかい!」
すると、腰を抜かしていた陳平が叫ぶ。
「おい! 寛介! そんなことしてんな! 逃げるぞ!」
俺も続けて叫ぶ。
「何やってんだ! 刃物を捨てろ!」
すると、寛介がこっちを見て叫ぶ。
「あっ! てめぇこないだの野郎じゃぁねぇか! 俺ぁ、蜂に刺されて三日寝込んだんだぞ! ぶっ殺してやらぁ!」
寛介がそう叫んで、刃物を高く掲げた次の瞬間だった。
ドッカーン!
空気を切り裂く轟音と共に天から閃光が走り、寛介の右肘から先が黒焦げの炭になってしまった。
寛介は、ぽとりと地面に落ちた匕首と、自分の焼け焦げ崩れていく腕を交互に見比べていた。
三秒か四秒くらい経って、すずさんがどさりと地面に倒れた。すずさんの白衣の袂からは、薙刀や日本刀、短刀などがぼろぼろと現れていた。俺の横を見ると、影の中に閉まってあったスポーツバッグも地面に現れていた。
すずさんは無傷なようであったが、落雷のショックで気絶してしまったのだ。
呆然とする寛介の背後から、あの毛むくじゃらの妖怪が現れた。鼻を寛介の首筋にあてて、くんくんと臭いを嗅いでいるようであった。
寛介が、生暖かい獣の息に振り返った瞬間だった。
「うわぁぁぁぁぁ! ぎゃぶっ!」
雷獣は叫び声を上げる寛介の首筋を噛んで、そのまま地面に引き倒してしまった。雷獣は地面に仰向けに倒れたすずさんと寛介に鼻を当てて、交互に臭いを嗅ぐ。
「すずさん!」
俺は叫んで、両手で持った拳銃の銃口を雷獣に向ける。すると雷獣はこちらの方向を見てから、目をピカッと光らせた。そして、少しだけ間が開いてから眼前に稲光が走る。
ドッカーン!
目を光らせてから二拍か三拍ほどの時を挟んで、拳銃を持っていた俺の両手を雷撃が貫いた。
俺の両手は大電流の稲妻によって黒焦げになってしまった。拳銃は無傷のまま、炭化して崩れた指と共にぽとりと地面に落ちる。
「ぐぅっ!」
重度の火傷を負ったというのに、全く痛くない。その痛くなさ具合が逆に恐ろしかった。
「りょう兄ぃ!」
すぐさまおあきちゃんが変身を解いて、俺の両手に治癒の妖術をかけてくれる。炭化していた両手はすぐさまもとに戻った。
少し離れた所にいる雷獣はというと、地に倒れているすずさんと寛介を交互に鼻で嗅いでいたが、すずさんが妖狐であるのが判ったのか、注意を示さなくなった。
そして、寛介の喉元に喰らい付き、地面に引き込んでしまった。
バリガリ! ガリガリ! ボリボリ!
再び、全身の骨を肉と一緒に砕くような音が夜の大通りに響く。寛介もどうやら食べられてしまったようである。
すぐ近くから、気の触れたような笑い声が聞こえてきた。
「あへへ……あげげ……そうだ……こりゃぁ、夢だろ……そうにちげぇねぇ……」
陳平が、すこし変になってしまったようであった。
おあきちゃんが、俺の手に触れて大声を上げる。
「りょう兄ぃ! 強そうな虎の姿を思い浮かべて! 高麗の生きてる虎を見たことあるんでしょ!?」
そのおあきちゃんの言葉に、俺は小学生のときに訪れた動物園で見た、アムールトラの姿を心に思い浮かべる。
瞬く間に、おあきちゃんの姿が体長2メートル半はある、勇猛果敢な大虎の姿に変身した。
「ガオォォォォォ!」
虎に変身したおあきちゃんは、雷獣が寛介を引きずりこんだあたりに駆ける。大きさ1メートル半くらいの毛むくじゃらの雷獣が、にゅっと地面から出てきて、ぺろりと舌を口元に這わせた。
おあきちゃんが化けた大虎は、すずさんを守るように雷獣の前に立ちふさがる。
「すずさん!」
俺は叫んで、すずさんの近くに駆け寄る。
すずさんの近くに駆け寄って、すずさんを背負い、急いでその場から離れる。
すずさんを背負った俺は、走りながらすずさんに話しかける。
「すずさん! 起きてください! すずさん!」
しかし、すずさんは起きない。
そこで俺は、すずさんの気付けをするための薬品がスポーツバッグに入っていたことを思い出す。
――あれならば、臭いで直接に気絶を覚まさせることができるかもしれない。
スポーツバッグにたどり着いた俺は、急いでジッパーを開け、救急箱を開く。取り出したのは、アンモニア水が主成分になっている虫刺され薬だった。
――これなら、気絶したすずさんを起こすことができる!
俺が虫刺され薬の蓋を開けたところ、すずさんを背負った首筋の後ろに、獣の生暖かい吐息が這い流れるのを感じた。
「フシュゥゥゥ、フシュゥゥゥ」
その吐息は、雷獣のものであった。いつの間にか俺のすぐ後ろに来ていた雷獣が、今まさに俺の首筋に齧り付こうとしていたところであった。
――喰われる!
俺は咄嗟に、アンモニア水が主成分の虫刺され薬のカバーを外した。
バシャッ!
雷獣の鼻っ先に、アンモニア水をぶっかけてやった。
「ケェェェェェェン!!」
鋭い爪の生えた毛むくじゃらの雷獣は、アンモニアの強烈な臭いにのた打ち回って、転げまわった。
「ガォォォォォ!」
おあきちゃんの化けた大虎が、のた打ち回る雷獣に飛び掛り、爪を突き立てようとする。
「ケェェェェッェェン!」
すると、爪が突き刺さる寸前に雷獣は地面に吸い込まれるようにするりと消えた。
俺はそこで理解した。この雷獣のもうひとつの妖術は、地面に潜ることではない。夜の地面には、絵となった雷獣の姿が浮き出ていて、駆けて移動していた。
この雷獣のもうひとつの妖術とは、平面の世界に入る妖術なのだ。
「ケェェェェェェン!」
今、雷獣が虎の背後に現れて、爪を突き立てようとした。おあきちゃんが化けた虎は、抵抗して大口を開け、雷獣の胴体に噛み付こうとする。
二頭の巨大獣が組んず解れつの死闘を繰り広げている。
――このままじゃいけない。
そう思った俺は、すずさんをその場に寝かせてすずさんが袂からばら撒いた武器の数々が落ちている場所に駆け寄った。
そこで俺は、日本刀の柄を手に取り構え、叫びつつ雷獣に突っ込む。
「うぉぉぉぉぉぉ!」
虎と格闘している雷獣が首をこちらに向け、目をピカッと光らせた。
次の瞬間には俺は雷獣の背中に日本刀を突き立てていた。手を離した須臾の間の後に天から霹靂が急転直下した。
ドッカーン!
迅雷の音が鳴り響き、天から日本刀に鋭い電光が走る。雷は刀を伝導して雷獣を直撃したはずだ。しかし、雷獣は雷に打たれたことなど意に介さないかのように大口を開け、俺に向かって牙を見せた。
「ケェェェェェッェェン!」
雷獣が俺に飛び掛ろうと身をしならせた直後であった。
「ガルルルルルル!」
アムールトラの前脚の爪が、雷獣を捉えた。雷獣は獰猛な虎の勢いに押され、体勢を崩す。日本刀はぽとりと地面に落ちた。
「ケェェェェェン!」
大型の虎と小型の雷獣、二頭が二頭とも決死の形相で攻防を繰り広げている。雷獣はその鋭敏な爪で、大虎はその鋭利な牙で、互いが互いに傷を負わせようと攻守を奪い合う。
しかし、少しだけおあきちゃんの化けた大虎の方が分が悪いようであった。何せ、雷獣は自在に地面の中に入り込み逃げ、また虎の死角から現れることができるのだ。
そこで俺は、すぐ近くに落ちていた薙刀と小刀を手に取る。そして高く掲げないよう注意しながら、スポーツバッグと、その近くで座り込んでよだれを垂らしながら笑っている陳平の元へ駆け寄る。
陳平は目を泳がせつつ、壊れたプレイヤーのように譫言を呟いている。
「うへへ……これは夢だ……夢だ……俺は今、あったけぇ布団の中に……」
俺は手を開いて、おもいっきり陳平の頬を張り倒した。
バッシーン!
ビンタの音が、夜の本所の大通りに響く。
陳平は、我に返ったように目をしばたかせる。
俺は言い聞かせるようにしっかりと声を張り上げる。
「これは夢じゃない! れっきとした現だ! お前は死にたいのか!」
すると、陳平が小さな声を搾り出し、やがて大きな叫び声となる。
「……しにたくねぇ……俺ぁ……死にたくねぇ!」
陳平の顔色に生気が戻ってきた。生に執着する意気込みが、ありありと伝わってくる。これならいけるかもしれない。
俺は大声で続ける。
「ならば力を貸せ! 死にたくないなら力を貸せ! 男なら震えてんじゃない!」
俺の叫びに、陳平がこくこくと頷く。
俺が振り返ると、おあきちゃんの化けた大虎と毛むくじゃらの雷獣が牙と爪による肉弾戦の応酬を繰り広げている真っ最中であった。
俺はすぐ近くにあったスポーツバッグからテーピングテープを取り出して、薙刀の柄の先に小刀を固定した。小刀の刃が薙刀の刃のちょうど反対側に突き出るように固定する。
そして俺は、別の小道具を取り出し、もうひとつの小道具と組み合わせる。
――これでよし。
そう思った俺は、そのできあいの組み合わせた小道具を陳平に渡す。
俺は陳平に、しっかりと伝える。
「俺が合図したら、これを天に向かって放り投げてくれ! なるべく、できるだけ高くだ! いいな!?」
陳平はこくこくと頷いて、腰を落としたままそれを受け取る。
その小道具を陳平に握らせたので、次に薙刀の刃の近くに別のものをテーピングテープで固定する。これで準備は万端だ。
俺は小刀が柄の先に固定された薙刀の柄を握る。そして、雷獣に面と向かって立ち上がる。
「お前の相手は俺だ! うおぉぉぉぉぉ!」
薙刀の切っ先を天に構えながら、俺は雷獣に向かって突っ込む。
当然のごとく、雷獣は雷撃を落とすためにこちらに顔を向け、ピカッと目を光らせた。
即座に俺は叫ぶ。
「今だ! 投げろ!」
俺の言葉に、陳平がその持っていた小道具を天に向かって放り投げたようであった。その小道具とは電化製品であるドライヤーであり、ドライヤーから伸びたコードには蛸足コンセントとなっている延長コードが繋がれ、延長コードのコンセントプラグは地面に突き刺されている。
ドッカーン!
天から落ちてきた電撃は、俺が今掲げている薙刀の刃の切っ先にではなく、高く放り投げられたドライヤーに直撃した。
そしてドライヤーへの落雷電流はそのまま絶縁体にて被服されたコードを伝導して、延長コードを介して地面に刺されたコンセントプラグへと流れる。つまり、あのドライヤーと繋がれた延長コードが、避雷針とアースの役目を果たした訳である。
「ケェ?」
雷獣は、何が起こったか一瞬わからなかったようだった。俺はその一瞬を見逃さなかった。
ガズッ!
この忌々しい雷獣の口の中に、薙刀の刃をぶち込んでやった。雷獣の口の中から血が溢れてきて、相当なダメージになったことがわかる。
「ケェェェェェェン!!」
雷獣が叫んで苦しがるも、俺は薙刀の柄を離さない。両手でしっかりと握りつつ、口の中にぐさりと捻じ込んだまま力を込める。
雷獣は、俺が薙刀の柄を握ったままであることを見定めて、もう一度目をピカッと光らせた。その目を光らせた瞬間を狙って、俺はすぐさま手を離した。
俺が手を離してから一拍の間を挟んで、殺人電流の光が薙刀に向かって走る。
ドッカーン! ボッガァアァアァァン!!
雷獣の口の中で轟音と共に爆発が起き、雷獣の頭が綺麗さっぱり吹っ飛んだ。薙刀の刃にはテープでコールドスプレーを固定してあったのだ。そして、そのスプレー缶に大電流が流れて瞬時に熱せられ、爆発したという寸法であった。
顔というか首から先が爆発によって吹き飛んでしまった雷獣は、四本足をゆっくり折り曲げて地面に胴体を下ろし、そのまま横向きに倒れてしまった。
そして、その妖怪の胴体からは命の油が蒸発するように、明滅が飛び出していた。
俺は安心して大きく息を吐く。
「ふぅ、なんとか調伏完了できたか」
すると、傍らにいたアムールトラがすり寄ってきて、大きな猫が飼い主に甘えるかのようにその大きな体を俺に対して傾けてきた。
「おあきちゃん、その格好で甘えるのはちょっと」
そこで俺が後ろを向くと、陳平が口から泡をふいて気絶していた。すずさんはすやすやと寝息を立てている。
「えっと……どうすればいいんだろうね? こういうとき?」
俺の言葉に、おあきちゃんが化けたアムールトラが首をかしげて「グルゥ?」と鳴いた。
雷が落ちたことなど嘘であるかのような、夏の銀河が横たう満天の星々の下でのことであった。
そして後日談。
結局あのごろつき三人組のうち一人だけ生き残った男、陳平は、口封じを兼ねたすずさんの紹介でお寺の修行僧になったらしい。これまで人に迷惑をかけてきた半生を真摯に見つめ直し、毎日毎日厳しい修行に耽っているとのことだ。
きっちり修行して僧侶となって、これまで背負ってきた業を濯げるようになって欲しいと俺は思った。