六月の二十六日の、夏の晴れた日の夕方、太陽が沈んで間もない
俺はこの日、おしのさんと一緒に両国橋の辺りまでやってきていた。デートといえなくもないが、厳密にはデートではない。今日はどうしても言わなければならないことがあったからだ。
俺は、故郷に残してきた
そう言うつもりであった。
おしのさんが俺を好きなのは嬉しいけれど、俺がこのままおしのさんの気持ちを
断りの返事としての「沈黙」は
なぜなら好意を持っている方は、無視されたからと諦めることなどできないからだ。
だとしたら、たとえ一時的に悲しませても、きっぱりと言葉をもって振ってあげたほうが相手のためだ。恋愛経験が乏しい俺は、そんな簡単なこともわかっていなかった。
だから、せめて最後の思い出作りとして一緒に花火を見て、そこできっぱり断ってしまうつもりであった。
しかし、今の俺はそうも言ってられないくらいの危機的状況に陥ってしまっていた。
ドガッ ボガッ
「ぐあっ!」
着物が開いた腹を殴られた俺の口からは胃液が逆流して、地面に垂れ落ちる。
「おやめください! どうかおやめください!」
おしのさんは、目に涙を浮かべて
俺が何故に、このごろつき三人組にこんなことをされているかというと、説明するためには
◇
夕七つ[午後四時ごろ]に
今日は、おしのさんと二人きりで花火を見に行くという約束をしていたからであった。
その日に会ったおしのさんは、夏の
だが、俺はその期待に応えることはできないということを、今日は伝えるつもりであった。
だから、俺は最初おしのさんの顔をまともに見ることができなかった。
色々話をしながら大川沿いに北に進む中で、「今日は二人きりでございますね」と笑顔で告げられた。やはり、俺の良心はチクリと痛んだ。
おしのさんはとても可愛い女性だけれども、俺はおしのさんの気持ちには応えることができないということ伝えなければならなかった。普段の俺なら、迷ってしまうところだったのだろうが、今日は断りの言葉を伝えるまでは家に帰らない。そういう覚悟であった。
――最後に葉月と交わした「迷わない」という約束を守ってみせる。
――葉月とした約束だから、必ず。
夏の盛りの大川沿いには、それはもう人が多かった。どこにこれだけの人がいたんだといわんばかりに多かった。
大川では、夏になったら花火が打ち上げられる。おそらくは、その花火を楽しむために集まってきているのだろう。
徳三郎さんに聞いたところ、この時代では五月二十八日の川開き以降は、毎日のように花火が打ち上げられるのだという。それも、二十一世紀のような行楽を主目的としたイベントではなく、死者の霊を慰めるための
とはいってもすずさん
俺がおしのさんと一緒に両国橋の辺りまで来たところ、人の波という波が大通りにごったがえしていた。
おしのさんによると、この両国橋の東の
対岸の西側の
花火が打ち上がる頃になれば、両国橋の上には庶民が集まって、大挙して粋な花火の
花火のお金は誰が出すのかというと、大川沿いにある
花火のスポンサーとなることで集客効果が期待できる、というのは二十一世紀でも通用しそうなよくできたシステムだな、と俺は思った。
時にはお店だけではなく、お金を持っているお
俺はおしのさんから、そんな話を聞きながら連れ添って歩いていた。
ガヤガヤガヤ
本当に人が多かった。
俺はおしのさんとはぐれないように手を繋ごうかと一瞬考えたが、すぐにその思いは振り払った。俺はおしのさんの恋心を振り払うために、今ここに来ているからであった。
日が沈もうとしている
俺は、隣を歩いているおしのさんに声をかけた。
「おしのさん、今日はどうしても言わなきゃいけないことがあるんだ」
俺の言葉に、おしのさんは微笑みつつ返した。
「どのようなことでございましょうか?」
――そう、言わなきゃいけない。
――葉月との約束を叶えるために、俺は言わなきゃいけない。
俺が
「ここは人が多すぎますゆえ、落ち着いて話し合える
その言葉に俺は了承し、大通りから北に行き、
先ほどの繁華街ほどではないが、
そこで俺は違和感を感じ、後ろを振り向いた。その時は何も異常を発見できなかった。
おしのさんが俺に尋ねた。
「
「いや……なんか、誰かに
俺が応えると、おしのさんは当惑の表情になった。
「それは……ひょっとしたら
おしのさんがそう言うので、俺は花火の見物客で溢れかえる
雑木林のあまり広くない道を歩いていると、
「おしのさん。今日伝えなければいけないこと、今から言うけど……いい?」
「……はい」
おしのさんがそう言うので、俺はおしのさんと向き合った。
沈黙の時が流れる。
すると、おしのさんが俺の足元を見た。
「
その言葉に俺も下を見ると、そこには小さな危険生物の死骸が転がっていた。そして上を見上げると、確かにここは危険な場所であることがわかった。
俺はおしのさんに伝えた。
「そうだね、少し動こうか」
そう言って来た道を戻ろうとしたその瞬間だった。
「おう
木陰から、
「おしのさん!」
俺は
しかし、反対側の木陰からは、三人組のうちの残り二人が出てきて逃げ道を塞いだ。
「おっと! 逃がさねぇぜ! ひっひっひ!」
「女連れかよ、いいご身分だなぁ」
俺は、おしのさんの手を握りつつ後ずさる。
今、最初に現れた男がおしのさんの肩をつかみ、自分の方に引き寄せた。
「きゃぁっ!」
「おしのさん! やめろ! 離せ!」
俺が叫ぶも、残りの二人が俺の両方の腕を掴んでがっちり固める。
そのごろつき二人の腕の力によって、俺の体は自由を奪われた。
「くそっ! 離せ!」
俺は叫ぶも、江戸時代の屈強な男二人の力には抗うこともできず、どうしようもなかった。まるで両脇からプロの格闘家に腕を掴まれたように、体が動かない。
ごろつきが口々に叫ぶ。
「
「
ごろつき二人がそんなことを言いながら俺に息をかけた。アルコール臭がぷんぷん臭ってくる粗野な吐息であった。
俺は、おしのさんの両肩を掴んでいる男に叫んだ。
「やめろ! おしのさんに手を出すな! 出したらただじゃおかないからな!」
すると、その男は
「ほう? どうただじゃおかねぇんだ? 教えてもらおうじゃぁねぇか。
すると、俺を掴んでいる男の一人が俺の着物をまとめている帯を
「
すると、投げられた帯を受け取った
「まあ、三人で楽しんだ後だな、それは」
「さぁて、楽しませてもらおうじゃぁねぇか、男の前でな」
「きゃぁぁぁぁぁ! お助けください!」
おしのさんの絶叫に、俺は激昂して叫ぶ。
「やめろ! このクズ
その言葉に、
「ああぁ!? 俺は『
そして、
ボガリ!
「がはっ!」
俺の内臓が揺さぶられ、少量の
そして、
「気が変わったぜ、女で楽しむのはこいつを痛ぶってからだ。まぁ、殺しちまうと思うけどよ? 悪く思わないでくれよ!? オラァ!!」
ボガリ!
「ぐあぁっ!」
そんな運びで、俺はリンチを受ける格好となってしまったのである。
◇
リンチを受けている最中も、俺は
――おしのさん、逃げてくれ。
――俺のことはどうでもいいから、一人だけでも逃げてくれ。
しかし、おしのさんは両手を後ろにて縛られたまま、立ち上がろうともしなかった。
――頼む、逃げてくれ。
しかし、俺のそんな願いも空しく、おしのさんは俺の方をずっと見ていた。
俺のはだけた着物の
「ほれほれ、どうしたどうした? 女の前なんだろ? 喧嘩で勝ってみせろよ? 命が尽きちまうぞ?」
すると、おしのさんが叫ぶ。
「おやめください!
その言葉に、俺はか細い声を出す。
「……だ、だめだ……おしのさん……そんなこと言っちゃ……」
すると、
「いいじゃねぇか。俺一度、三人で若い
「やろうぜやろうぜ!
その言葉に、
俺は
「うん? こいつ、気ぃ失いやがった」
すると
「やろうぜやろうぜ! 早くやろうぜ!」
そして、
三人は、これから味わう楽しみに顔を緩ませているのだろう。三人は俺が気絶したと思い込んでいるようだったが、それは俺の演技であった。
俺は、地面に崩れ落ちると同時に、土の上にあった適当な大きさの石を手に取った。そして、それを音を立てないように近くにあったもうひとつの石とすり合わせる。
ゴリゴリゴリ
慎重に、慎重に、気付かれないように手元を動かす。
そして、三人組が仰向けに寝転んだおしのさんに近づき、今まさに覆いかぶさろうとしたその時であった。
シュタッ
俺は両手に石を持ったまま、立ち上がって三人の後姿に突撃した。
そして、両手に持つ石を三人のうちの二人、
「てめぇ!」
ボガッ!
もう一度拳をくらい、俺の体は後ろに吹っ飛ぶ。
「てめぇ、しぶてぇな。やっぱり、とことんまでぶん殴った方がいいみてぇだな」
「殺しちまおうぜ!? な、な? 殺しちまおうぜ!?」
二人がそんなことを言いながら、俺に近寄ってくる。二人がある地点まで到達したところで、俺は手元にあった別の石を掴んで頭上にぶん投げた。
バキリ
二人の頭上にて、投げた石がその目標物に当たった音が響く。
ブーン ブブブブブブ
今、虫の羽音が雑木林に響いた。
「うっせーなぁ! 何の音だ!?」
「ぎゃぁぁぁ!
「取ってくれ! 取ってくれ! ぎゃぁぁ! 痛ぇ! 刺された!」
すると、スズメバチは
三人は懸命にスズメバチの大群を振り払おうとしているが、攻撃態勢に入ったスズメバチにそれは逆効果だ。ついにスズメバチは、攻撃ホルモンの付着していない
俺たちがこの場所に来たときに、地面にはスズメバチの真新しい死骸が転がっていた。そして上を見上げると、木の枝には立派なスズメバチの巣がぶら下がっていたのである。危険だから離れようとしたのは、そういう理由であった。
だから気絶したふりをして地面に倒れこんだ俺は、スズメバチの死骸を石ですり潰して、その体液を男たちの着物になすりつけてやったのだった。
スズメバチの体液には仲間のスズメバチを攻撃態勢に入らせるホルモン物質が含まれている。それは俺が物知りな親友の
俺が石を投げて巣を揺らしてやったところ、スズメバチの群れはごろつきの男たちを仲間を殺した敵だと認識し、襲いかかっている、というわけである。
俺は帯がなくなって前が開いていた着物を完全に脱ぎ、白い布で織られた肌襦袢の格好になる。そして、スズメバチを刺激しないように注意して急いでおしのさんに駆け寄り、紺色の着物を裏返した白い部分が表にくるようにおしのさんに
スズメバチは、黒っぽいものを敵だと認識し、白いものにはあまり攻撃してこないという習性があるからだ。
ごろつきの男たちは、スズメバチの大群に襲われてどこかに逃げていってしまった。
白い
どうやら、スズメバチはみんな向こうにいってしまい、俺たちの方へはやってこないようであった。
ごろつきどもに殴られて怪我をしたものの何とか追い払った俺と、その甲斐あって事及ぶ前に逃げ出せたおしのさんで、
俺は
「ふぅ、もうここまで来れば平気か……いたた」
体中を痛めた俺がそう言って帯を締めたところ、おしのさんがいきなり俺に抱きついてきた。
俺は顔を赤らめながら口を開く。
「お、おしのさん? どうしたの?」
すると、おしのさんは俺の胸元で顔を上げて俺の目を見つめる。そして、瞳を潤ませながらこう言う。
「
その言葉に、俺の心臓が高鳴った。おしのさんは、目を閉じた。
おそらくは、キスをねだっているのだろう。しかし俺はその気持ちには応えずに、おしのさんの両肩を掴んで俺の体から引き離した。
俺から離されたおしのさんが、か細い声で
「……
その言葉に、俺は胸の奥から声を搾り出す。
「……ごめん、とりあえず
俺は、その時はぼろぼろの体でそう伝えることしかできなかった。
かなり腹を殴られたので足元が
そして俺は今、講堂の土間段に座っている。すぐ近くにいるすずさんが、心配そうな声を上げる。
「りょうぞう、こんなに
おあきちゃんが来てくれたら、おあきちゃんが治癒の妖術で俺の
すずさんは、おしのさんに声を掛けて
そうこうしているうちに、おあきちゃんが講堂の奥の戸から飛び出してきた。そして、おしのさんがいるにもかかわらず俺の
俺はそんなおあきちゃんのかざした両手を優しく取り、「必要ないよ」という気持ちをもって下に降ろした。
痛みが走る体を起こして立ち上がり、おしのさんに近づく。
おしのさんは、先ほどからずっと潤んだ瞳で俺を見つめている。隣にはすずさんがいて、俺たち二人をじっと見ている。
俺は意を決して、おしのさんをできるだけ傷つけないよう柔和に言葉をかける。
「おしのさん、君が俺の事を想ってくれているのはとても嬉しいよ、本当に嬉しい。でも、俺には故郷に惚れている
そう言って、俺は頭を下げた。
俺は、おしのさんの気持ちが有難かった。しかし、有難かったからこそ、おしのさんの気持ちを
だから、こうやってきっちり言葉をもって振ることは、俺なりのけじめなのである。
俺がそんなことを思って頭を下げ続けているが、おしのさんからは返事が返ってこない。
頭を上げると、おしのさんは両目から涙をぼろぼろとこぼしていた。そして、か細い声で俺に伝える。
「……どうしても……なのでございますか……?」
その言葉に、俺は
「……どうしても……です。ごめんなさい」
ドーン!
今、大川の方角からか花火の炸裂音が聞こえた。おしのさんは、その
「……ひっぐ、わかりました……ひっぐ、
おしのさんはそこまで言うと、
小走りで立ち去るおしのさんを、すずさんが「ちょっとちょっと! あたいが送ってってやるよ!」と大急ぎで追いかける。
ドーン!
また、花火の轟音が夏の夜空に鳴り響いた。
そちらの方角には、
俺の胸の中に、思いが沸き起こる。
――葉月、これでよかったんだよな。
すずさんがおしのさんを追いかけていったので、この場には俺とおあきちゃんだけが残されてしまった。
ふと、体全身にぽわっとした暖かい感触が巡る。
隣を見ると、おあきちゃんが俺の体に手をかざして治癒の妖術をかけてくれていた。
俺は何も言わず、おあきちゃんの頭をぽんぽんと叩く。
そして、おあきちゃんが
「ねぇりょう兄ぃ。もしも葉月さんがここにいたら、きっとりょう兄ぃのことを、もっともぉっと好きになってたと思うよ」
その言葉に、俺は微笑む。
「ああ、そうだったら良かったんだけどね」
そして、おあきちゃんと一緒に俺は、北西の方角に打ち上がる花火を見ていた。
平成の世にあった色鮮やかな花火とは程遠い、黒色火薬のみでできた
けれどもそのシンプルな
おしのさんの胸の中にもあるであろう