五月の二十六日は、先日からの雨が止んだ風のない蒸し暑い日であった。
昼八つ[午後二時ごろ]になって、
その内容とは、この間におしのさんと約束した
今日の日暮れに一緒に
俺が、了承の返事を亀吉くんに伝えると、亀吉くんは嬉しそうに手を振って帰っていった。
――俺もとうとう、
そう思ったところ、いつの間にか俺のすぐ隣におあきちゃんが
そして俺の
「りょう
「ああ、そりゃもちろん。どうしたの? 怒ってるの?」
俺が決まり悪く返すと、おあきちゃんはそっぽを向いた。
「別にぃ、怒ってなんかないもん」
――いや、どう考えても怒ってるようにしか見えないけど。
俺がそう思うと、おあきちゃんはそっぽを向いたまま、俺の方に顔を向けず瞳だけをこちらに向けた。
「まぁ、ずっとあたしと手を繋いでいてくれるんだったら別にいいけど」
ああ、これは完全に嫉妬の炎が幼心に燃え盛ってるんだな、と俺は直感した。
俺は申し訳ない気持ちで乾いた笑い声を出す。
「あはは、そりゃあ手を繋ぐくらい別にいいけど?」
俺がそこまで言うと、おあきちゃんは恥ずかしそうにそのまま
おあきちゃんが、何でそんなに感情が燃え盛っているのか理解できなかった。俺がおしのさんと約束したのは、単なる
「……はぁ」
二人の女の子に好かれているこの現況に、俺はため息をついた。
――葉月、俺耐えられるかな、この状況に。
正直に言って、女の子にモテているのが嬉しくない訳じゃない。俺だって思春期の健全な男の子だ、嬉しくない訳がない。
おしのさんは淑やかで気立てが良くて、もし二十一世紀にいたとしたら余裕でグループアイドルのセンターとかになれる器量良しだ。しかも料理が上手くて話も上手いときている。
そんなアイドルのような美少女に
そして、おあきちゃんは今でこそまだ幼い子供だが、大人になれば相当な美人になるだろう。この江戸時代では十歳以上年齢が離れた
もしこのまま俺が江戸の町に定住すれば、小三郎にこの前言われたとおり、俺とおあきちゃんが十年後にそういうことになる可能性は充分にあり得る。
だけど、俺はその可能性を考えたくはなかった。
俺はか細い声で
「
「ったく、りょうぞうも
その声に振り返ると、いつの間にかすぐ後ろにすずさんが立っていた。
「す、すずさん!? いつからいたんですか?」
するとすずさんが、憮然とした表情で俺に告げる。
「ん? さっきからだよ? もう手習いも終わったしさ」
俺は悲痛な面持ちで、すずさんに返す。
「俺も結構悩んでいるんですよ、からかわないでください」
「ああ、悪い悪い。でもさぁりょうぞう、女が男を
その言葉に、俺は返す。
「どういう事ですか?
俺がそう言うと、すずさんは俺の言葉に疑問に感じたように口を開く。
「おまいさん、
俺は応える。
「ええ、
するとすずさんは目を閉じて、息を漏らした。
「そうかい、そりゃぁ寂しいねぇ。あたいが昔に
「えっ!?
俺が驚いて返すと、すずさんはその切れ長の目を開いて応える。
「そうだよ? 未来にも
――俺のいた平成時代では外れどころか、若者文化の中心地なのですが。
すずさんは言葉を続ける。
「江戸で蛍が見られる場所ってのはだいたい江戸の外れだからねぇ。そんで、蛍は日が落ちて暗くなってからでないと見られないじゃないのさ。つまり、男と女の二人で蛍を見に行ったら、
その言葉に、俺はすずさんが何を言いたいのか理解した。
俺は口を開く。
「えっと……つまり、男と女で一緒に蛍狩りに行きたいって言ってるって事は、一緒に泊まりたいって言ってるのと同じってことですか?」
すると、すずさんが
「ま、抱かれても良いってことさ」
――そりゃ周りの男全員が俺を見るよな。
あと、何でおあきちゃんが嫉妬の炎を燃やしていたかもわかった。具体的に何をするかは知らないものの、江戸の人たちにとって男女での蛍狩りってのは、そういう意味のあるニュアンスを含んでいるという訳だ。
俺は、男と女が江戸の外れの村で二人っきりで蛍を見る様子を思い浮かべた。想像するだけで、かなりロマンチックで幻想的な光景だとわかる。
江戸に住む恋仲の男女が足を伸ばして、
そしてその行為は、二十一世紀でリッチな大人がしているデートとよく似ていることに気付いた。
それは、カップルがデートで東京の夜景を見ながら食事をして、そのままホテルに泊まる行為と何ら変わりない。
そこで俺は、あることに気付いてすずさんに尋ねる。
「じゃあ、俺がおしのさんに誘われたときに、すずさんがおあきちゃんを連れて行くよう言ったのは……おしのさんのためだったんですか?」
すると、すずさんが少しだけ微笑んだ。
「そうだよ? りょうぞうはいずれ未来に帰る身だからねぇ。水茶屋で働くおしのさんが
そう言ってすずさんはニッと笑う。
俺も少しだけ口元が緩んだ。この人はやっぱり大人だ。
――やはり俺が想っている
「って、違いますから!」
俺は
すずさんはその叫び声に、切れ長の鋭い目をぱちくりさせている。
「どうしたんだい、りょうぞう? いきなり叫んだりしてさ?」
すずさんの問いかけに、俺は平静を
「いや、何でもないです。それより蛍狩りがそういうものだとわかってるってことは、すずさんが
すると、すずさんは若干頬を染めて照れ笑いをする。
「あはは、まぁね。あたいも
その言葉に俺は、呼吸を整える。
――そうだ、落ち着け、落ち着け。すずさんはどこかにいる男の人と肉体関係まである
俺はそう思いつつ、なにくわぬ顔を
夕方の日が沈む頃合になって、紺色の着物に着替えた俺は、南本所の大通りをおあきちゃんと一緒に歩いていた。
おあきちゃんは俺の左手をぎゅっと握り締め続けてくれている。
目的地は新大橋の東側の
今は初夏の季節であり、日がかなり長い。おそらく体感では午後七時を過ぎた頃合だと思う。
夕暮れの赤い光に照らされた大川に架かる新大橋の
俺は声をかける。
「おしのさん、ごめん。待った?」
「いいえ、今しがた着いた所でございます」
おしのさんは、とてもにこやかに笑っていた。
それと同時に、俺の左手を握るおあきちゃんの力が強まった気がした。
俺は、なるべく空気を
「えっと、蛍狩りって
すると、おしのさんが応えてくれる。
「大川沿いに北に歩いていけばすぐでございますゆえ。どうか道中連れ添いをお願い致します」
「ええ、
すずさんに聞いたところ、
おしのさんは頬を染めて照れながら返す。
「いえいえ、
すると、俺の隣にいるおあきちゃんが若干ぶすっとした口調でおしのさんに伝える。
「あたしもいるんだから、忘れないでよね」
「はい!
おしのさんが余裕の面持ちで返す。
――あれ、なんだこの感じ。
――悪くはない空気なんだけど、良くもない。
――まさか俺、三角関係の中で選択をミスるとバッドエンドになる状態じゃないだろな。
三人で歩きながらそんな事を思う俺の心配をよそに、おしのさんはちゃっかりと俺の右側を確保していた。
夕日が沈むと、
そんな中、おあきちゃんが持つ意外な事実が判明した。
おあきちゃんは、お茶屋の看板娘という職業に憧れがあるらしいのだ。
おあきちゃんが昔すずさんと徳三郎さんと一緒に
なんでも、おあきちゃんは
だから、おあきちゃん曰く、おしのさんにはとても憧れる面があるのだとか。
おそらくは、俺に好意を寄せるおしのさんへの嫉妬心と、看板娘に対する憧れとの板ばさみで、幼心に相当に複雑な心境だったのだろう。俺はなんだか申し訳ない気持ちになった。
そんなことを考えつつ、おしのさんとおあきちゃんと色々と話をしていると、やがて夕闇が空を覆い始めてきた。
俺は、手に持つ
ユーティリティーライターは一応、
俺が考えあぐねていると、おしのさんが俺と同じく北に道行く家族連れの男に声をかけた。その男は火の
「すいません。火をくださらないでしょうか?」
すると、その家族連れの男は何も言わずに俺の
俺は周りを見渡す。
火の
それはまるで、人が人に親切にする思いやりの種火が、枝分かれして広まっていくかのようであった。
俺はその光景に
「そうか……いなくなったのは
俺は江戸で一年近く暮らしていて、こんな基本的なことも知らなかった。人が人に優しくする気持ち、それがこの江戸の町には溢れているのだ。
ふと、俺は初恋のお姉さんのことを思い出した。
泣いていた俺をあやしてくれて、家に帰るまで手を繋いでいてくれたあの親切なお姉さん。
今でも、あの優しい柔らかい右手の感触はしっかりと覚えている。おそらくはおあきちゃんにとってのお茶汲み娘さんが、俺にとっての初恋のお姉さんなのだろう。その幼い頃に誰かから貰った優しさは、人間一人の人格形成の紛れもない一部である。
俺がそう思って左手に力を込めると、その左手を握り締め続けてくれていたおあきちゃんが不思議そうに俺に問いかける。
「りょう兄ぃ、どうしたの?」
「あ、いや。なんでもない……うん、なんでもない」
ひょっとして俺は、一瞬だけ日本人が失った日本人の魂に触れたんじゃないだろうか。
あるべきだった、あるべきはずのものに。無くしてはいけなかったその存在に。
そして、俺はおあきちゃんとおしのさんと一緒にまた歩き出す。親切な人からもらった
ここ、
辺りを見渡すと、確かに親子連れが多い。男と女が逢引きをするだけの場所ではないということだ。
今、おあきちゃんが水辺に生えている草を指差した。
「りょう兄ぃ、いる!
俺がその方向を見ると、確かに青白い光が明滅しているのが目に入った。
俺の右隣にいるおしのさんが「
三人で蛍の様子を見ていたら、一つだった明滅が二つに。更に、二つだった明滅が四つになった。四つは八つに、そしてその倍に、と幻想的な蛍の光が加速度的に増えていく。
そして、しばらくの時を挟んで、大川の草生い茂る水辺には、光の群れなす蛍でいっぱいに充ち充ちていった。
街灯も、自動車のヘッドランプも、コンビニの灯りもなにもない江戸の暗闇の中に、波を打つように明滅する蛍火は、まさに天の与えたもうたイルミネーションであった。
俺は無意識に呟く。
「凄い……隅田川って、こんなにホタルがいたんだ……」
すると、おしのさんが
俺の心臓が、どきりと波打つ。
おそるおそる右の方を向くと、おしのさんが蛍の光の乱舞する方角を見つめながら目を潤ませていた。
――可愛い。
俺はそう思ってしまった。
すると、反対側の左手を握る女の子の手の力が強くなった。
左を向くと、おあきちゃんが青白い光の中で少し頬を膨らませていた。
嬉しいような、嬉しくないような両手に花。
俺がそう思ったところ、一匹の明滅する光点がこちらに飛んできた。
そして、その群れからはぐれた一匹の蛍は、おあきちゃんの結い髪に刺されたビー玉の
驚いたことに、人を全然怖がっていないようであった。俺は、髪の上に光を乗せたおあきちゃんに伝える。
「おあきちゃん、ちょっと動かないで」
おしのさんと一緒に、おあきちゃんの頭を見る。
並んでその光の明滅を見ているおしのさんが口を開く。
「これは……まるで
俺もおしのさんの言葉に応える。
「そうだね。これは……言わば江戸の
俺がそこまで言ったところで、おあきちゃんが不満顔を見せた。
「あたしも、
おあきちゃんがそう言うと、おしのさんはおあきちゃんの
おしのさんは、その光る指先をおあきちゃんの眼前に持っていき、おあきちゃんの差し出した手に移らせる。
そして、おあきちゃんは小声で
「
おあきちゃんの顔が明滅に照らされて、表情も明るくなる。
おしのさんも、おあきちゃんも微笑んでいる。その様子を見て、俺は心なしか安心した。
――この二人も、きっと仲良くなれるんだ。
俺がそう思ったところ、川の反対側にある丈の高い草むらがガサガサと動いた。
――猫か犬かな?
そう思ってそっちを見たところ、もう一つの可能性に気付いた。
――男女が野外で
それなら、関わらないほうがいいと思った。
しばしの間を空けて、おあきちゃんの指先に
そしておあきちゃんは、口をへの字に結んで、さっきガサガサしていた草むらの方にとことこと近づく。
「おあきちゃん?」
俺がおあきちゃんの背中にそう問いかけたところ、おあきちゃんが丈の高い草々をがさっと左右に分けると、向こう側にいた人影が声を発した。
「おっ!?」
その声の主はすずさんだった。草の隙間の向こうにはすずさんがしゃがんでいて、こちらの様子を覗き見ていた。すずさん、あなた何してるんですか。
おあきちゃんがすずさんにむくれた口調で伝える。
「もう! すず姉ぇ、覗きとかやめてよね!」
するとすずさんは頭をぽりぽりと掻いて立ち上がる。
「いやはや、りょうぞうが色々やらかさないか心配でねぇ。おあきがいるのにおしのさんと二人で何か始めちまうとかさ」
――そんな心配、いりません。
俺は心の中ではそう思いつつも、すずさんにこう話しかける。
「ご心配は一応、有難く受け取っておきます。で、すずさんは一人で来たんですか?」
すると、すずさんが応える。
「いやいや、一人じゃないよ。江戸ではそのうち
すずさんが親指で近くの桜の木を指差すと、木の幹の向こうから、火の
徳三郎さんが俺たちに近づき、口を開く。
「
そこまで言ったところで、近寄ってきたすずさんが
「ほらほら父さま、後は若いのに任せてさ。あたいらはどこかに酒でも呑みに行こうじゃないかい」
すずさんのどこか
そして、二人並んで背中を見せて俺たちから離れていく
「じゃあさ、りょうぞう。あたいは父さまと一晩中呑み明かしてくるから、おあきのことをよろしく頼んだよ? おしのさんも、しっかりと京橋の家まで送り届けてやりなよ?」
すずさんはそんなことを言って、徳三郎さんと共に夜の闇の中に消えてしまった。
おしのさんが、くすくす笑いながら俺たちに伝える。
「おすずさんと神主さま、
その言葉に、俺は以前に徳三郎さんが言ってくれた内容を思い出す。
――この
本当は、徳三郎さんとすずさんって
なんというか、
昔、どんなことがあったんだろうか。すずさんの妹であるおあきちゃんと三人で、何故暮らすことになったのだろうか。そんな疑問を考えていた。
そういえば、
もしかしたら、その時に妖孤関係の謎を解いて、その関わりで知り合ったのかもしれない。
俺があれこれ思案していると、俺の右腕にいきなり体重がかかった。
おしのさんが、その左腕を俺の右腕に絡めてきたのであった。
「
俺はいきなり耳元で
おそらくおしのさんは、すずさんが昼間言ってた通り、そういう男女関係の覚悟をして俺を蛍狩りに誘ったのだろう。
――いや、そう言う訳にはいかない。俺はおしのさんとそういう関係になりたいとは思っていないからだ。
俺の
すると、俺の左手をさっきから握っている幼い女の子の手が、ぎゅっと力を込めた。
「りょう兄ぃ!?」
そのおあきちゃんの言葉に、俺ははっとした。
そして、ゆっくりと、優しく、傷つけないように、おしのさんの体を支えて俺の体から離した。
「ごめん、おしのさん。気持ちは嬉しいけど、今はおあきちゃんがいるからさ。ごめんね」
女性経験のない純朴な男子である俺にできるのは、これくらいのフォローが精一杯である。心臓はさっきからバクンバクンと拍動を続けている。
おしのさんは俺から離れると、仕方がないという感じで笑顔を返してくれた。
その後、おしのさんを京橋にある魚屋の自宅まで送りとどけ、俺はおあきちゃんと手を繋ぎながら深川への帰路についていた。
もう時刻は
右手に灯りのついた
俺は、おあきちゃんに話しかける。
「おあきちゃん? さっきは有難う」
すると、おあきちゃんが応える。
「別にいいよ」
俺は返す。
「もうちょっとで
俺がそう言ったとこと、おあきちゃんは口を尖らせた。
「……いいよ。でもこれで、あたし
そのおあきちゃんの言葉に、俺は戸惑いの声を返す。
「貸し? ってことは、いつか返してもらうってこと?」
「……うん。必ず、必ず、返してもらう。いつになるかわかんないけど」
「……そっか」
俺は、おあきちゃんの気遣いに感謝して息を吐く。
おあきちゃんは、そんな俺の気持ちを察知したのか、こんなことを言った。
「りょう兄ぃ、あたしだってわかってるもん。りょう兄ぃはいつか未来に帰っちゃうんだって。いつかは離れ離れになるんだって、ちゃんとわかってるもん」
おあきちゃんの意外な言葉に、俺はハッとする。
おあきちゃんは、少し涙声になっているようであった。おあきちゃんは言葉を続ける。
「だから……せめて一緒にいる時くらい手を繋いで歩くのを許して欲しいもん」
俺は、そのおあきちゃんの
俺は、おあきちゃんに返す。
「……大丈夫。俺はおあきちゃんの手を離したりなんかしないよ」
俺とおあきちゃんは暗くなった江戸の町を手を繋いで歩いた。それは、紛れもない俺の