江戸時代において、五月五日というのは、二十一世紀の日本と変わらず
先月、ちょっとばかり予期せぬお金が転がり込んできたので、すずさんは
今、鳥居の近くにて白衣袴姿の俺は、天に向かって突き出す
竹竿の先には横棒が取り付けられていて、その横棒に結わえられている
この時代の
今日は五日だから、
集まった男の子たちは、それぞれが長い
男の子の一人が、菖蒲の葉っぱを持って俺に話しかける。
「りょうや
俺は応える。
「ああ、じゃあやってみるよ」
小学生くらいの男の子から、長さ
パッシーン!
赤土から、乾いた打撃音が響く。
周りにいる子供たちは、俺の方を見て目を輝かせる。
「すげぇ! でけぇ!」
「流石大人だなぁ!」
「もっかいやってくれよ! もっかい!」
俺が子供たちに囲まれて、いろいろと対応していると、講堂の中から深紫色の着物を着たすずさんが出てきた。
「ほらほらぁ! 見習いの
現われたお師匠さまの言葉に、男の子たちは俺から離れ、もう一度子供たちだけで遊びまわる。
すずさんが、俺に話しかける。
「おまいさんも、すっかり
その言葉に、俺は返す。
「あ……じゃあひょっとして、あの
すると、すずさんが微笑んで返す。
「決めたのは父さまだけどね。
――つまり、俺もこの
俺は空に泳ぐ
「この時代って、
「ふぅん?
そんなすずさんの言葉を隣で聞きつつ、俺は高く高く掲げられた竿の先にて泳ぐ
江戸時代の五月というのは梅雨の真っ只中なのであるが、この日は奇跡的に青空が晴れ渡っていた。
すずさんが、俺に問いかける。
「おまいさんの故郷では、
「
俺が返すと、すずさんがこんなことを言った。
「そういやさぁ、残ってる
その言葉に、俺は頭の中で二十一世紀の東京の様子を思い浮かべ、説明する。
「そりゃあ、色々ありますよ。バレンタインデーとか、前にも言ったクリスマスとか、ハロウィンとかです。全部西洋の風習なんですけどね。みんなそういった祭りの日は浮かれて、色々騒いだりしています」
すると、すずさんがにやにやと口角を上げる。
「そうかいそうかい。
すずさんの言葉に、俺は返す。
「でも、西洋の祭りにかまけてばかりってのはちょっと申し訳ない気がしますね。俺はこの時代に来るまで、
すると、すずさんが笑いながら俺の背中を何度も叩く。
「なぁに言ってんのさ?
すずさんにそう言われて、俺は
元々、海の向こうの世界をアレンジして自分たちで楽しめるような世界にして、その世界観を共有してしまうのは、日本人の特徴なのかもしれない。
そう考えた俺は、東京でよく読んでいた小説のことを思い出していた。
魔法が使えるような中世ヨーロッパ風ファンタジー異世界を描いた物語は、平成の世に溢れるほどに多かった。しかしそれは、妖術使いが出てくる中国を舞台とした武侠物語が、この江戸時代では大人気であるのと同じようなものなのだろう。となると、異世界に憧れを抱く日本人の感性は、二十一世紀も江戸時代も、そんなに変わらないのかもしれない。
俺がそんなことを考えていると、近くにいる子供たちが次々と上を見上げて、口々に叫ぶ。
「おい見ろよあれ!」
「
「すげぇ!
俺も見上げて
――この時代には、江戸の町にも
俺がそう思ったところ、
そして次の瞬間には、
「あっ! ちょっと!」
俺は叫んで、そのまま駆け出す。すずさんも同じように、西に向かって駆け出す。
すずさんが叫ぶ。
「まいったねぇ!
俺は、走りながら返す。
「追いかけないと! 川とかに落ちたら一苦労ですよ!」
俺とすずさんは、深川の町を西に向かって駆ける。上空には、風で吹かれた
道行く人の中には、立ち止まって空を流される
もちろん、俺たちはそんな風流を感じている暇はない。青空の中をを東から、西へ西へと流される
上空は相当に風が強いようで、風に流されている
三町半[約382メートル]ほど西に向かって追いかけたところで、大川の川べりに達した。
上空にて吹かれる
すずさんが、俺に向かって叫ぶ。
「
俺たちはそこからすぐ北にある小名木川に架かる『
流される
人が大勢行き交う反り上がった
西の
俺たちが走る速さと、風に吹き流される
浜町の町並みから、日本橋の人形町あたりまで懸命に走る。町の通りには大勢の人たちが行き交っていた。店の軒先には
もう2キロメートル近く走っているのに、そんなに息が切れない。俺は、この江戸に来てからスタミナが随分と鍛えられたようだった。
風が少し弱くなった気がした。すると遠くを飛んでいた緋鯉はぐんぐん高度を落とし、どこかに落ちたようであった。
俺は、ずっと隣を走っているすずさんに声をかける。
「すずさん!
すると、懸命に駆けているすずさんが応える。
「ありゃぁ、
そんな掛け合いをしていると、大きな
人が大勢いる大きな
お
俺は叫ぶ。
「
なんてこった、大名行列って、横切れないじゃないか。そうだ、それより土下座だ。大名行列の近くでは、土下座しないといけないんじゃなかったのか。
俺はそう思って周りを見渡したが、道行く人たちは行列の脇に避けているだけで、土下座なんかしている人は一人もいなかった。
広い街道の両脇にて、町の人たちは頭を下げることもせずに、お祭りの行列を見るかのような面持ちで大名行列を見ている。中には行列を気にせず脇をすたすた歩いている人や、子供に肩車をしてやっている親御さんもいる。
すずさんが俺の隣にやってきて、俺の耳に手を当ててひそひそと小声で話をする。
「りょうぞう、今からあたいの言った通りに動きな」
そして、すずさんが俺に作戦を伝える。
すずさんからあらましを聞いた俺は、すずさんの手を握る。
本当に上手くいくのかわからなかったが、すずさんに言われた通りに、たどたどしく大声を出す。
「えっと……
すると、広い街道をゆっくりと行進していたお侍さまたちは、俺たちが通れるようにと歩きながらスペースを空けてくれた。
俺はすずさんの手を引っ張り、すずさんと共に大名行列を横切る。
そして
「上手く横切れましたね!」
すると、すずさんが返す。
「どうしてもっていう急ぎの用がある町の衆がよく使う手さ! そこらへん歩いている
「でも、
「お
そのすずさんの話を聞いて、俺は納得した。お
俺はもうひとつ意外だったことを、すずさんに伝える。
「あと、土下座している人もいませんでしたね!」
「土下座ぁ!? あたいは土下座している奴なんか、見たことないよ! たとえ将軍さまや御三家だったとしても、しゃがんで下向くだけで良いんだよ!」
そんなことを話しつつ、俺たち二人は
道を見ると、布でできた
――よかった、回収できそうだ。
俺がそう思ったところ、町行く十歳くらいの男の子が、その
――拾ってくれたのか。
俺がそう思って駆けつけようとしたところ、その子供は
――え、ちょっと。逃げるってどういう。
すずさんが、大声を出す。
「待ちな! そいつぁ、こちとらの
すずさんの声にお構いなしに、あの小さな泥棒は逃げていく。
男の子は逃げる際に、どじなことに寝ている野良犬の尻尾を踏んでしまった。
「ギャン!」
犬が
そして男の子は袋小路に入り、
男の子の正面には、野良犬が牙を見せて
俺とすずさんが、その男の子の逃げ込んだ袋小路に入ると犬はその首を曲げ、俺とすずさんの方を見ながら
すると、俺の横にいるすずさんも負けじと、犬歯を剥き出して
犬は
すずさんが、
「なんで逃げたんだい?」
そう毅然とした態度で尋ねたすずさんは、どう見ても教育者の口調であった。
「えっと……その……」
すずさんが、男の子を見下ろしつつ、凄む。
「正直に言えば許してやるよ。なんで逃げたんだい?」
繰り返されるすずさんの問いに、男の子は観念したようで、小さな声を発する。
「……売れば、おっ
すると、すずさんは手刀で鋭く男の子の頭を叩いた。
「馬鹿だねぇ! そんなのは親孝行とは言わないんだよ! 親孝行で人のもの盗む奴があるかい!」
すると、男の子が涙を流す。
「ご……ごめんなさい……おいら、
男の子が、ぐすっぐすっと体を上下させ泣いている。
すずさんの後ろから近寄った俺が、男の子に話しかける。
「
その言葉に、男の子はまるで天からの救いがやってきたような表情で俺を見上げた。
俺たちを自宅の長屋に招いてくれた男の子は、家にて父親から
男の子は頭にたんこぶを浮かばせ、涙目になっている。
長屋部屋にはお母さんが病の床に伏しており、近くにはお父さんが胡坐をかいて座っている。もう一人、幼い女の子が部屋の畳の上にて座っている。おそらくはこの男の子の妹なのだろう。
すずさんは、緋鯉を傍に置いて、土間段に腰かけつつ部屋の中を見ている。そして、俺は正座をしてお母さんの近くにて脈をとっている。一応、医者らしくすることで話の内容を信頼あるものにしようという試みだ。
脈を取りおえた俺は、
「
すると、お母さんは息も絶え絶えにこんなことを言った。
「あたしは、
――え、それって、平成で暮らしている人はよく知っている病気じゃないか。
――江戸時代にはない病気だとばかり思っていたけど、悩んでいる人がいなかった
お父さんが、俺に伝える。
「俺も、どうしていいかわからねぇんでございやす。
お父さんの問いかけに、俺は答える。
「いや、知ってますよ。
すると、お父さんが大きな声を返す。
「『あれるぎぃ』!? 先生、その
「ああいえ、残念ですがアレルギーは一生治せないんですよ。
俺がそう返すと、お父さんも男の子も、落胆の表情を浮かべる。
「じゃあ、おっ
「ちきしょう! ちきしょう!」
俺は落胆している二人に、中学時代に物知りな親友の
「大丈夫ですよ。
俺の言葉に、お父さんも男の子も、呆然とした顔を見せた。
「げ、
「嘘でぇ! 信じらんねぇ!」
土間段に座っていたすずさんが振り返り、口を開く。
「そいつの
すずさんがそんなことを言うと、お母さんがこんなことを言った。
「あたしはこのお医者様の言葉を信じます。今日は
すると、男の子もお父さんも、俺に深々と頭を下げた。
お母さんの気遣いに、俺は少し顔が赤くなった。
――俺は、医者でもなんでもないんだって。
身の丈に会わないこの江戸での医者としての扱いに、俺は気恥ずかしくなった。
帰り道の途中にて、俺とすずさんはおしのさんの働いている新大橋の
俺はお茶を飲み、すずさんは団子串まで手に持って食べている。また、長椅子には回収した
俺は、
「……ってことがあってね」
すると、おしのさんはにこやかに応えてくれる。
「そうでございますか、
「いや、大したことはしてないよ。薬を出した訳でもないし」
そんな事を話していると、すずさんが口を開く。
「そういやさぁ、おしのさん小三郎に想いを告げられたって聞いたんだけど、どうして断ったんだい?」
すると、おしのさんがすずさんの方を向いて応える。
「はい。小三郎さんは面白い
おしのさんがそう言いながら頬を染め、ちらりちらりとこちらを見てくる。今のおしのさんの様子を漫画チックな絵に描いたとしたら、確実に目がハートになっているだろう。
すずさんが、おしのさんに話しかける。
「おしのさん? あたいはそういう惚れた腫れたの気持ち、わからないことはないんだけどねぇ。でも、ちょいとばかり難しめだよ? りょうぞうには、故郷に想い人がいるからねぇ」
その言葉に、おしのさんは驚いた顔を見せる。
その意外な反応に、俺はおしのさんに尋ねる。
「あれ? ひょっとして、小三郎に聞いてなかったの?」
すると、おしのさんはか細い声で俺に告げる。
「……伺っておりません」
――小三郎、お前、告白するときにその事言ってなかったのか。
そう思った俺は、小三郎を少し尊敬した。あいつは俺よりもよっぽど男らしい。
すると、おしのさんは座っている俺の手を両手で取り握り締め、真剣な顔をして俺に向き合う。
「
おしのさんは、俺の手を取って俺と真正面から向き合っている。当然のごとく、周りの視線が俺たちに一斉に注がれる。
――水茶屋の看板娘がそんなことをして大丈夫なのか。
清純さを売りにするようなアイドルが衆人が見ている中で、男をデートに誘うってことがどういうことなのかわかっているのだろうか。
俺が戸惑って応えることができないでいると、すずさんが口を開いた。
「いいじゃないかい、もしそん
すると、おしのさんは表情を明るくしてすずさんの方を向く。しかし、すずさんは次のように言葉を続ける。
「ただし、おあきも一緒に連れてく事だよ! おあきと一緒なら、りょうぞうと一緒に蛍狩りに行くのを許してやるよ!」
すずさんの言葉に、おしのさんは了承して
俺は、周りの若い男たちの視線が相当に痛かった。っていうかまだ痛い。おしのさんは手を離してくれない。
――俺、刺されるかもしれないから
そう思った