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第三十八幕 風に吹かれた錦鯉


 江戸時代において、五月五日というのは、二十一世紀の日本と変わらず端午たんごの節句を祝う風習がある。


 先月、ちょっとばかり予期せぬお金が転がり込んできたので、すずさんは奮発ふんぱつして、立派な緋色ひいろ錦鯉にしきごいのぼり稲荷社いなりやしろで購入したのだという。


 今、鳥居の近くにて白衣袴姿の俺は、天に向かって突き出す竹竿たけざおの先にてたなびく、一尾の緋色ひいろ錦鯉にしきごいのぼりを見上げていた。


 竹竿の先には横棒が取り付けられていて、その横棒に結わえられている緋鯉ひごい鯉幟こいのぼりそら優雅ゆうがに泳いでいる。


 この時代の鯉幟こいのぼりというのは、掲げた竿に何尾もつけるのではなく、立派な一尾をなるべく高い所にて泳がせる、というのがいきだとされているらしい。


 今日は五日だから、稲荷社いなりやしろの手習い所は休みなのであるが、大勢の男の子が集まって鯉幟こいのぼりの下にいた。


 集まった男の子たちは、それぞれが長い菖蒲しょうぶの葉を三つ編みにしたものを手にとって、地面に叩いて音の大きさを競う遊びをしている。これは『菖蒲打しょうぶうち』といって、端午たんごの節句に行われる縁起を担いだ遊びであるらしい。こうやって菖蒲しょうぶの葉を使うことによって、病魔びょうまはらうという意味合いがあるらしい。


 男の子の一人が、菖蒲の葉っぱを持って俺に話しかける。

「りょうやぃさん? ぃさんも菖蒲しょうぶ打ってみなよ!?」


 俺は応える。

「ああ、じゃあやってみるよ」


 小学生くらいの男の子から、長さ二尺にしゃく[約60センチメートル]くらいの細長い葉っぱを編んだもの受け取った俺は、それを思いっきり地面に叩き付けた。


 パッシーン!

 赤土から、乾いた打撃音が響く。


 周りにいる子供たちは、俺の方を見て目を輝かせる。

「すげぇ! でけぇ!」

「流石大人だなぁ!」

「もっかいやってくれよ! もっかい!」


 俺が子供たちに囲まれて、いろいろと対応していると、講堂の中から深紫色の着物を着たすずさんが出てきた。


「ほらほらぁ! 見習いのぃちゃんを困らせないようにねぇ!」

 現われたお師匠さまの言葉に、男の子たちは俺から離れ、もう一度子供たちだけで遊びまわる。


 すずさんが、俺に話しかける。

「おまいさんも、すっかりやしろに馴染んできたねぇ。ぜに出して緋鯉ひごいを買った甲斐かいがあったよ」


 その言葉に、俺は返す。

「あ……じゃあひょっとして、あの鯉幟こいのぼりは俺のために買ってくれたんですか?」


 すると、すずさんが微笑んで返す。

「決めたのは父さまだけどね。うちには雛人形ひなにんぎょうはあるけど、鯉幟こいのぼりは無かったからさ。丁度良かったよ」


――つまり、俺もこの稲荷社いなりやしろの家族として扱われているって事でいいのか。


 俺は空に泳ぐ緋鯉ひごいを見上げながら、すずさんに言葉をかける。

「この時代って、鯉幟こいのぼりは一つだけなんですね。俺の故郷では、少なくとも三つくらい同時に掲げるんですけど」


「ふぅん? 端午たんごの節句のならわしは残っているけど、細かいところが色々と変わるんだねぇ。面白いじゃないかい」

 そんなすずさんの言葉を隣で聞きつつ、俺は高く高く掲げられた竿の先にて泳ぐ鯉幟こいのぼりを見上げていた。


 青空あおぞらのただ中にて緋鯉ひごいが泳ぐ様は、コントラストが効いていて美しかった。


 江戸時代の五月というのは梅雨の真っ只中なのであるが、この日は奇跡的に青空が晴れ渡っていた。


 すずさんが、俺に問いかける。

「おまいさんの故郷では、菖蒲湯しょうぶゆに入るならわしは残っているのかい?」


菖蒲湯しょうぶゆですか? 一応残ってますね。あと、ちまきを食べるのも残ってます」


 俺が返すと、すずさんがこんなことを言った。

「そういやさぁ、残ってるならわしや消えてるならわしがあるってことは、新しいならわしもあるってことかい? おまいさんの故郷にしかないならわしってどんなのがあるんだい?」


 その言葉に、俺は頭の中で二十一世紀の東京の様子を思い浮かべ、説明する。

「そりゃあ、色々ありますよ。バレンタインデーとか、前にも言ったクリスマスとか、ハロウィンとかです。全部西洋の風習なんですけどね。みんなそういった祭りの日は浮かれて、色々騒いだりしています」


 すると、すずさんがにやにやと口角を上げる。

「そうかいそうかい。日本人ひのもとびとって時が移っても、そんなにするこたぁ変わらないんだねぇ」


 すずさんの言葉に、俺は返す。

「でも、西洋の祭りにかまけてばかりってのはちょっと申し訳ない気がしますね。俺はこの時代に来るまで、重陽ちょうようの節句とか、潅仏会かんぶつえとかを知りませんでしたし」


 すると、すずさんが笑いながら俺の背中を何度も叩く。

「なぁに言ってんのさ? 七夕たなばただって、今日に祝っている端午たんごの節句だって、元々は海の向こうのからならわしなんだよ? 海の向こうの祭りでも、山の向こうのならわしでも、なんでも取り入れちまうのが日本人ひのもとびとじゃないのさ。申し訳ない気持ちなんて抱く事はないよ」


 すずさんにそう言われて、俺は成程なるほどと思った。


 元々、海の向こうの世界をアレンジして自分たちで楽しめるような世界にして、その世界観を共有してしまうのは、日本人の特徴なのかもしれない。


 そう考えた俺は、東京でよく読んでいた小説のことを思い出していた。


 魔法が使えるような中世ヨーロッパ風ファンタジー異世界を描いた物語は、平成の世に溢れるほどに多かった。しかしそれは、妖術使いが出てくる中国を舞台とした武侠物語が、この江戸時代では大人気であるのと同じようなものなのだろう。となると、異世界に憧れを抱く日本人の感性は、二十一世紀も江戸時代も、そんなに変わらないのかもしれない。


 俺がそんなことを考えていると、近くにいる子供たちが次々と上を見上げて、口々に叫ぶ。


「おい見ろよあれ!」

わしだ! わしがいる!」

「すげぇ! いきでぇ!」


 俺も見上げて鯉幟こいのぼりの結ばれた竹竿の先にある横棒を見ると、大きくて立派なわしが一羽、まっていた。


――この時代には、江戸の町にもわしなんかが飛んでくるのか。


 俺がそう思ったところ、わし鯉幟こいのぼりが竹竿の横棒に結ばれている紐の部分を、その大きなくちばしでいじり始めた。


 そして次の瞬間には、鯉幟こいのぼりの紐はするっと外れ、西の方角へと風で吹き流されてしまった。


「あっ! ちょっと!」

 俺は叫んで、そのまま駆け出す。すずさんも同じように、西に向かって駆け出す。


 すずさんが叫ぶ。

「まいったねぇ! 悪戯いたずら好きのわしもいたもんだよ!」


 俺は、走りながら返す。

「追いかけないと! 川とかに落ちたら一苦労ですよ!」


 俺とすずさんは、深川の町を西に向かって駆ける。上空には、風で吹かれた緋鯉ひごいが泳いでいる。


 道行く人の中には、立ち止まって空を流される緋鯉ひごいを見上げる人もいる。ある人は「こりゃぁ、風流だねぇ!」とか感嘆の声を上げている。


 もちろん、俺たちはそんな風流を感じている暇はない。青空の中をを東から、西へ西へと流される緋鯉ひごいを追いかけて町を駆け抜ける。


 上空は相当に風が強いようで、風に流されている鯉幟こいのぼりは地面に落ちる気配がない。風の向きが途中で絶え間なく変わり、ジグザグに泳いでるように見える。


 三町半[約382メートル]ほど西に向かって追いかけたところで、大川の川べりに達した。


 上空にて吹かれる緋鯉ひごいは、大川を越えて向こう岸まで流れ着きそうなスピードで空を泳いでいた。


 すずさんが、俺に向かって叫ぶ。

万年橋まんねんはしを渡って新大橋しんおおはしを渡るよ!」


 俺たちはそこからすぐ北にある小名木川に架かる『万年橋まんねんはし』というそこそこ大きな橋を渡って、左に伸びる大川に架かっている長い長い新大橋しんおおはしの上を渡る。


 流される鯉幟こいのぼりを見ていると、上空では風が乱れて吹いているのが視覚的にわかる。緋色ひいろ鯉幟こいのぼりは上がったり下がったり、横に吹いたり宙返りを繰り返したりしながら、段々と対岸である浜町の方角へと吹き流されていった。


 人が大勢行き交う反り上がった新大橋しんおおはしの上を、俺たちは鯉幟こいのぼりを追って駆け行く。


 西のたもとの水茶屋にて、山吹やまぶき色の着物に前掛け布を着けたおしのさんがこちらに向かって手を振るのが目に入ったので、手を振りつつ通り過ぎる。


 俺たちが走る速さと、風に吹き流される緋鯉ひごいの速さは拮抗しているらしく、緋鯉ひごいはなんとか視界の中に納まっている。


 浜町の町並みから、日本橋の人形町あたりまで懸命に走る。町の通りには大勢の人たちが行き交っていた。店の軒先には兜人形かぶとにんぎょうや、甲冑かっちゅうゆみ鉄砲てっぽうなどが飾られていて、男の子の武芸が盛んになるような縁起物の市場いちばとなっている。


 もう2キロメートル近く走っているのに、そんなに息が切れない。俺は、この江戸に来てからスタミナが随分と鍛えられたようだった。


 風が少し弱くなった気がした。すると遠くを飛んでいた緋鯉はぐんぐん高度を落とし、どこかに落ちたようであった。


 俺は、ずっと隣を走っているすずさんに声をかける。

「すずさん! 鯉幟こいのぼりが落ちたみたいです! 拾いましょう!」


 すると、懸命に駆けているすずさんが応える。

「ありゃぁ、日本橋にほんばしの近くだねぇ! 街道かいどうを超えたあたりだね!」


 そんな掛け合いをしていると、大きな街道かいどうに出た。


 人が大勢いる大きな街道かいどうでは、大勢のおさむらいさまたちが、おごそかかな行列を作ってゆっくりと歩いていた。


 おさむらいたちは口々に「れぇ、れぇ」ととなえている。


 俺は叫ぶ。

大名行列だいみょうぎょうれつ!?」


 なんてこった、大名行列って、横切れないじゃないか。そうだ、それより土下座だ。大名行列の近くでは、土下座しないといけないんじゃなかったのか。


 俺はそう思って周りを見渡したが、道行く人たちは行列の脇に避けているだけで、土下座なんかしている人は一人もいなかった。


 広い街道の両脇にて、町の人たちは頭を下げることもせずに、お祭りの行列を見るかのような面持ちで大名行列を見ている。中には行列を気にせず脇をすたすた歩いている人や、子供に肩車をしてやっている親御さんもいる。


 すずさんが俺の隣にやってきて、俺の耳に手を当ててひそひそと小声で話をする。

「りょうぞう、今からあたいの言った通りに動きな」

 そして、すずさんが俺に作戦を伝える。


 すずさんからあらましを聞いた俺は、すずさんの手を握る。


 本当に上手くいくのかわからなかったが、すずさんに言われた通りに、たどたどしく大声を出す。

「えっと……産婆さんばでございます! お通し下さい!」


 すると、広い街道をゆっくりと行進していたお侍さまたちは、俺たちが通れるようにと歩きながらスペースを空けてくれた。


 俺はすずさんの手を引っ張り、すずさんと共に大名行列を横切る。


 そして街道かいどうを横切ったところで、俺は手を離したすずさんに声をかける。

「上手く横切れましたね!」


 すると、すずさんが返す。

「どうしてもっていう急ぎの用がある町の衆がよく使う手さ! そこらへん歩いているおんなとっつかまえて産婆さんばってことにして通してもらうのさ!」


「でも、産婆さんばじゃないなんて、調べられたらすぐわかるんじゃないんですか!?」


「おさむらいも、産婆さんばじゃないなんて百も承知なんだよ! 御府内ごふないで揉め事起こしたら色々と都合が悪いのさ!」


 そのすずさんの話を聞いて、俺は納得した。おさむらいの立場だったら「本当は産婆じゃないことはわかってた」なんて記録に残せるはずもない。


 俺はもうひとつ意外だったことを、すずさんに伝える。

「あと、土下座している人もいませんでしたね!」


「土下座ぁ!? あたいは土下座している奴なんか、見たことないよ! たとえ将軍さまや御三家だったとしても、しゃがんで下向くだけで良いんだよ!」


 そんなことを話しつつ、俺たち二人は緋鯉ひごい鯉幟こいのぼりが落ちた辺りへ急ぐ。


 道を見ると、布でできた緋色ひいろ錦鯉にしきごいが一尾、道に落ちていた。


――よかった、回収できそうだ。


 俺がそう思ったところ、町行く十歳くらいの男の子が、その錦鯉にしきごいを拾い上げた。


――拾ってくれたのか。


 俺がそう思って駆けつけようとしたところ、その子供は緋鯉ひごいを持ったまま、俺たちから逃げるように走り出した。


――え、ちょっと。逃げるってどういう。


 すずさんが、大声を出す。

「待ちな! そいつぁ、こちとらのこいだよ! 止まりな!」


 すずさんの声にお構いなしに、あの小さな泥棒は逃げていく。


 男の子は逃げる際に、どじなことに寝ている野良犬の尻尾を踏んでしまった。

「ギャン!」


 犬がえて男の子を追いかける。追っ手が二人から、二人と一匹になった。


 そして男の子は袋小路に入り、緋鯉ひごいを抱きかかえ、白い壁を背にして固まってしまった。


 男の子の正面には、野良犬が牙を見せてうなっている。


 俺とすずさんが、その男の子の逃げ込んだ袋小路に入ると犬はその首を曲げ、俺とすずさんの方を見ながらいななく。


 すると、俺の横にいるすずさんも負けじと、犬歯を剥き出してうめく。


 犬は妖狐ようこ独特の「格」の高さに怯えたのか、「キャンキャン!」と降参の声を出して、どこかに行ってしまった。


 すずさんが、緋鯉ひごいを持った男の子に近づく。

「なんで逃げたんだい?」

 そう毅然とした態度で尋ねたすずさんは、どう見ても教育者の口調であった。


「えっと……その……」


 すずさんが、男の子を見下ろしつつ、凄む。

「正直に言えば許してやるよ。なんで逃げたんだい?」


 繰り返されるすずさんの問いに、男の子は観念したようで、小さな声を発する。

「……売れば、おっさんの薬代になると思いました。親孝行のつもりで……」


 すると、すずさんは手刀で鋭く男の子の頭を叩いた。

「馬鹿だねぇ! そんなのは親孝行とは言わないんだよ! 親孝行で人のもの盗む奴があるかい!」


 すると、男の子が涙を流す。

「ご……ごめんなさい……おいら、江戸患えどわずらいのおっさんに元気になって欲しくて……欲しくて……」


 男の子が、ぐすっぐすっと体を上下させ泣いている。


 すずさんの後ろから近寄った俺が、男の子に話しかける。

江戸患えどわずらいって、脚気かっけのことだよね? それなら俺が治せるかもしれない。お母さんの所へ連れて行ってくれない?」


 その言葉に、男の子はまるで天からの救いがやってきたような表情で俺を見上げた。






 俺たちを自宅の長屋に招いてくれた男の子は、家にて父親からしつけ拳骨げんこつをくらった。


 男の子は頭にたんこぶを浮かばせ、涙目になっている。


 長屋部屋にはお母さんが病の床に伏しており、近くにはお父さんが胡坐をかいて座っている。もう一人、幼い女の子が部屋の畳の上にて座っている。おそらくはこの男の子の妹なのだろう。


 すずさんは、緋鯉を傍に置いて、土間段に腰かけつつ部屋の中を見ている。そして、俺は正座をしてお母さんの近くにて脈をとっている。一応、医者らしくすることで話の内容を信頼あるものにしようという試みだ。


 脈を取りおえた俺は、脚気かっけで病に伏しているお母さんに伝える。

脚気かっけは、蕎麦そばを毎日食べれば治ります。蕎麦そばを沢山食べて下さい」


 すると、お母さんは息も絶え絶えにこんなことを言った。

「あたしは、蕎麦そばを食うとあたるようになっちまいましてねぇ。蕎麦そばを食うと、息が詰まって詰まって。そば殻の枕も使えないのでございます」


――え、それって、平成で暮らしている人はよく知っている病気じゃないか。

――江戸時代にはない病気だとばかり思っていたけど、悩んでいる人がいなかったわけじゃなかったのか。


 お父さんが、俺に伝える。

「俺も、どうしていいかわからねぇんでございやす。蕎麦そば食うと息が詰まるやまいなんて聞いたこたぁございやせんでしょう?」


 お父さんの問いかけに、俺は答える。

「いや、知ってますよ。蕎麦そばを食べると息が詰まるのはアレルギーっていうやまいなんです」


 すると、お父さんが大きな声を返す。

「『あれるぎぃ』!? 先生、そのやまいは治せるので!?」


「ああいえ、残念ですがアレルギーは一生治せないんですよ。蕎麦そばを食べるのはこれからもずっと避けて暮らして下さい」

 俺がそう返すと、お父さんも男の子も、落胆の表情を浮かべる。


「じゃあ、おっさんの江戸患えどわずらいは治せねぇのかよ!?」

「ちきしょう! ちきしょう!」


 俺は落胆している二人に、中学時代に物知りな親友のたかしから聞いた雑学を伝える。

「大丈夫ですよ。蕎麦そばを食べなくても毎日まいにち玄米げんまい大豆だいずを、できればニンニクやネギと一緒に食べ続ければいいだけです。それだけで脚気かっけは治せます」


 俺の言葉に、お父さんも男の子も、呆然とした顔を見せた。

「げ、玄米げんまい大豆だいず大蒜にんにくねぎと一緒に食べさせるだけで治るんでやすか!?」

「嘘でぇ! 信じらんねぇ!」


 土間段に座っていたすずさんが振り返り、口を開く。

「そいつの知恵ちえは折り紙つきだよ? 信じといて損はないと思うけどねぇ?」


 すずさんがそんなことを言うと、お母さんがこんなことを言った。

「あたしはこのお医者様の言葉を信じます。今日は端午たんごの節句でございますもの。きっと病魔を祓ってくれるよう、神様が遣わしてくれたのだと存じます」


 すると、男の子もお父さんも、俺に深々と頭を下げた。


 お母さんの気遣いに、俺は少し顔が赤くなった。


――俺は、医者でもなんでもないんだって。


 身の丈に会わないこの江戸での医者としての扱いに、俺は気恥ずかしくなった。





 帰り道の途中にて、俺とすずさんはおしのさんの働いている新大橋のたもとの水茶屋の、赤布のかけられた長椅子の上に座って休んでいた。


 俺はお茶を飲み、すずさんは団子串まで手に持って食べている。また、長椅子には回収した緋鯉ひごいが置かれている。


 俺は、給仕きゅうじをしてくれたおしのさんに、今日あった事のあらましを伝えた。

「……ってことがあってね」


 すると、おしのさんはにこやかに応えてくれる。

「そうでございますか、流石さすが亮哉りょうやさんでございますね」

「いや、大したことはしてないよ。薬を出した訳でもないし」


 そんな事を話していると、すずさんが口を開く。

「そういやさぁ、おしのさん小三郎に想いを告げられたって聞いたんだけど、どうして断ったんだい?」


 すると、おしのさんがすずさんの方を向いて応える。

「はい。小三郎さんは面白いかたでございますが、わたくしはどちらかというと、大きな男のかたが好みでございまして。例えば、人の命を助けるような善行の後に、そのも告げずに立ち去るようなおかたでございますとか……」


 おしのさんがそう言いながら頬を染め、ちらりちらりとこちらを見てくる。今のおしのさんの様子を漫画チックな絵に描いたとしたら、確実に目がハートになっているだろう。


 すずさんが、おしのさんに話しかける。

「おしのさん? あたいはそういう惚れた腫れたの気持ち、わからないことはないんだけどねぇ。でも、ちょいとばかり難しめだよ? りょうぞうには、故郷に想い人がいるからねぇ」


 その言葉に、おしのさんは驚いた顔を見せる。


 その意外な反応に、俺はおしのさんに尋ねる。

「あれ? ひょっとして、小三郎に聞いてなかったの?」


 すると、おしのさんはか細い声で俺に告げる。

「……伺っておりません」


――小三郎、お前、告白するときにその事言ってなかったのか。


 そう思った俺は、小三郎を少し尊敬した。あいつは俺よりもよっぽど男らしい。


 すると、おしのさんは座っている俺の手を両手で取り握り締め、真剣な顔をして俺に向き合う。


亮哉りょうやさん。今月の下旬に、わたくしとご一緒に蛍狩りにいらっしゃって頂けないでございましょうか?」


 おしのさんは、俺の手を取って俺と真正面から向き合っている。当然のごとく、周りの視線が俺たちに一斉に注がれる。


――水茶屋の看板娘がそんなことをして大丈夫なのか。


 清純さを売りにするようなアイドルが衆人が見ている中で、男をデートに誘うってことがどういうことなのかわかっているのだろうか。


 俺が戸惑って応えることができないでいると、すずさんが口を開いた。

「いいじゃないかい、もしそんときに生きてたら行って来なよ」


 すると、おしのさんは表情を明るくしてすずさんの方を向く。しかし、すずさんは次のように言葉を続ける。

「ただし、おあきも一緒に連れてく事だよ! おあきと一緒なら、りょうぞうと一緒に蛍狩りに行くのを許してやるよ!」


 すずさんの言葉に、おしのさんは了承してうなずく。


 俺は、周りの若い男たちの視線が相当に痛かった。っていうかまだ痛い。おしのさんは手を離してくれない。


――俺、刺されるかもしれないからしばらくは新大橋を渡れないな。


 そう思った端午たんごの節句のことであった。


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