そろそろ梅雨に入るかという、生暖かい風が吹く季節になっていた。暦の上では、文政六年四月二十四日のことであった。
江戸時代の日本には、三種類の通貨が流通している。
まずは銅でできた
大金を扱う時は
そして、江戸ではあまり見かけないのだが、
やっかいなことに、金、銀、銭の交換レート、つまり
俺は、すずさんが手習いで徴収した
竹で編まれた
日本橋には両替商が多くあって、大勢の商人がこの界隈にて日々の稼ぎをかさばらないように小判に換えて貰うのだという。
日本橋に来た俺は、すずさんに言われていた両替商を探す。
しばらく歩き回って、その両替商を見つけることができた。看板の形は、小学生のときに習った『銀行』を表す地図記号のマークの形であった。
両替商に入った俺は、自分が
手代さんが
そして、計算が済んだところで手代さんに、手数料を引いた両替金を提示された。どうやら、
俺は了承し、四両と二朱を確認して受け取った。
そして、両替してもらった小判四枚と二朱金一枚を、すずさんから預かった財布に入れて両替屋を出た。
日中の日本橋は本当に多くの人が行き交い、賑わっていた。
すずさんが手習いにおいて受け取るお金は定額ではなく、親の財政状況などを考慮し、余裕のある親からは多く、余裕のない親からは少なく取る格好となっている。
別に、すずさんが特別に寛大なのではない。この時代の手習い所や寺子屋というのは日本全国
金持ちは教育費が高くなり、貧乏な人は安く教育を受けられる。これは、江戸時代における教育の合理性なのだとか。
そんなことを考えながら歩いていると、ちょっと小太りのあばた顔の男が俺にぶつかった。
「おっと、ごめんよぉ!」
男はそう言って、俺とすれ違い去っていく。
上空を、鳥が
俺はそんなことを考えながら町を歩く。
大川にかかる橋のほとりに来たあたりで、俺は財布を確認しようと
「あれ?」
俺は
財布は影も形もなく、消えていた。
「……やられた!」
そう、俺はスリの被害にあったのであった。
俺は落胆し、とぼとぼと橋を渡った。
その日の晩、俺はいつもの三人と一緒に、座敷にて正座して夕飯を食べようとしていた。
徳三郎さんが、口を開く。
「今日は、
すると、すずさんが呆れ口調で伝える。
「りょうぞうが、財布をすられたんだよ。四両二朱なんて大金が入っていた財布をさ」
俺は申し訳ない気持ちで、お椀を手に取る。ご飯の上には削られた
「何かもう、色々とすいません」
すると、おあきちゃんがフォローを入れてくれた。
「あたしは、
こんな幼い子にフォローさせるなんて、俺は自分で自分が情けなくなった。
「本当にごめんね、おあきちゃん」
すると、徳三郎さんが俺に伝える。
「まぁ、気に病むことはない。生きてればそんなこともあるものだ」
そう言って、徳三郎さんは
すると、すずさんが俺に尋ねる。
「りょうぞう、すった奴の顔とかは見てないのかい?」
俺は応える。
「顔はよく覚えています。ちょっと小太りで、顔は白くて、あばた顔でした。あと、目がわりと小さくて、ぱっと見ただけなら柔和な感じでしたね」
すると、すずさんが応える。
「ならさぁ、明日にでも橋超えた所で探して取り返さなきゃねぇ。まぁ、一日潰れるけどさ、四両二朱の大金を取り返すためだし、しょうがないよ」
すずさんの言葉に、俺は尋ねる。
「でも、どうやって探すんですか?」
「そりゃぁりょうぞう、おまいさんが考えな。
すずさんの言葉に、俺は渋い顔をする。
聡明な徳三郎さんに協力してもらえば、あの男を捜すのなぞ容易いだろう。
しかし、すられたのは俺だから、俺が責任をもって作戦を考えなければならない。
俺はそんな事を思いながら、節約飯の代表選手である、
◇
その男は、すりの腕には自信があった。つい昨日にも、ぼけっと日本橋の通りを歩いていた背が高い
男は、元々は
それ以来、男はすりや
しかも幸いなことに、文政六年に
今、男は人並みでごったがえす日本橋近くの大通りを歩いていた。
上空では、
今、背筋の伸びた初老の男が、彼の目に入った。
すり師の男は、その初老の男が膨らんだ財布を右の
すり師の男は、心の底からふつふつと情動が湧き上がる。
「盗りたい」という欲望であった。
すり師の男は、総髪の初老男性に導かれるように近寄っていき、軽く肩をぶつけた。
「おっと! ごめんよぉ!」
すり師の男は、そう言いつつ早足で初老の男から遠ざかる。
上手く盗ってやった、すってやったという無上の喜びがすり師の男の頭を駆け巡る。
そして、すり師の男はすった財布が膨らんでいるのを確認しつつ、自分の住んでいる長屋に帰ってきた。
いくら入っているのか、何に使ってやろうか、とすりの男は考えた。
何に使うかなんて決まっている。
そんな期待と共に財布を開いたが、中には風呂敷が一枚折りたたまれて入っているだけであった。
「なんでぇ! クソが!」
すり師の男は、
「けっ! 今日は
すり師の男は、自分がやったことなぞ気にもせず、土間に背を向けて寝転ぶ。
しかし、あの初老の男は、何故財布に風呂敷なぞ入れて持ってたのか。
そう思い、なんとなく寝転んだ体を返した。すると土間には、深紫色の着物を着た目付きの鋭い女と、紺色の着物を着た見覚えのある男が立っていた。
◇
俺たちは、すられたお金を取り返す為に、翌日の四月の二十五日に作戦を決行した。
財布をすられたものの、男の顔を覚えていた俺が立てた作戦は以下の通りだった。
まず、俺がすりの男の姿を心に思い浮かべて、おあきちゃんに化けてもらう。
おあきちゃんは、その姿を鏡で見て、顔を覚えてもらう。
次に、おあきちゃんに目が良いトンビに化けてもらって、日本橋あたりを飛び回ってもらい、すり師の男を探してもらう。
見つけたら、その男の上空で鳴きながら旋回してもらい、ここにいるということを教えてもらう。
次に、徳三郎さんがその男の目の前で財布をわざとらしく
この財布の中には折りたたまれた風呂敷が入っていて、その風呂敷の影の中には男を取り押さえるために俺とすずさんが隠れている。
そして、すり師の男が家にて財布を開いた際に風呂敷の影の中から現われ、すり師を取り押えるという算段であった。
幸いにも、その作戦は上手くいったようであった。
俺とすずさんは、すりの男が住んでいる長屋部屋の土間に立っていた。
すずさんが、その履いている
「いでででででぇ!!」
叫ぶ男の手を足で踏みつけているすずさんが、すりの男の胸倉を掴む。
「さぁて、すり師さん? 昨日すった四両と二朱、返してもらおうかねぇ?」
すると、男は叫ぶ。
「けっ! 誰が女の言うことなんざ聞くか!」
ボカッ!
間を置かず、男の胸倉を掴んだままのすずさんがグーで男の
すり師の男は目をつぶり、「うえぇぇぇぇ!」と悲痛な
「ふざけたこと言ってると、もう一発いくよ? 四両と二朱、返してくれるね?」
すると、すずさんに着物を掴まれたままのすり師の男は喉の奥から声を絞り出す。
「ね、ねぇ! もう持ってねぇ!
ボカッ!
「ぐあぁっ!」
再びすずさんが
すずさんが手を離すと、男はその場に倒れこみ、ぼとぼとと畳の上に鼻血を落とした。すり師の男は、
すずさんが、呆れたように声を出す。
「
俺は、すずさんに声をかける。
「まぁ、
すると、すり師の男がすずさんにすがる。
「お
すると、すずさんが冷ややかな目で
「なるほどねぇ。どっかで十両以上盗んだことがあるんだね? 江戸では十両以上盗んだら死罪だからさ、そりゃぁ奉行所に突き出されたくはないよねぇ」
すずさんは、
「それにしても情けないねぇ。すりをして、すりをした傍から博打ですっちまうなんて男の風上にも置けないよ。昔は
すずさんの話した内容に、俺は反応する。
「大名屋敷ばかり狙う泥棒ですか? 俺は
すると、すずさんが返す。
「ふぅん? あたいはその、
そんな事を話していると、
「待ちな?」
すずさんは、背中から男の襟を掴む。
「どこへ行く気だい? もう、おまいさんの顔は覚えたから、どこへ行こうと逃げられないよ?」
「ひ、ひぃぃぃぃ!」
すり師の男が、悲痛に叫ぶ。
俺は、すずさんに伝える。
「まぁ、待ってあげたらどうですか? 真面目に働いてくれたら、そのうち返してくれるかもしれませんし」
俺の言葉に、すずさんが手で掴んでいる男の襟を引き寄せて、凄む。
「いいかい? あたいらは
すずさんが氷のように冷徹な表情で凄み、手を離すと、
それから三日が過ぎて、四月の二十八日のことであった。そろそろ梅雨が始まるかというような、じめじめした日の事であった。
町では、本所に現われた
なんでも、大名屋敷に
俺は夕方に、いつものようにお
「すずさん! すずさん!」
俺は叫んで、すずさんを呼ぶ。講堂にいたすずさんは、草履を履いてすぐに俺の元に近寄ってきた。
すずさんが、俺に声をかける。
「どうしたんだい? 大きな声出しちゃってさ?」
俺は応える。
「
すずさんが、近くにある
すずさんが、口を開く。
「この『
すずさんは、ホクホク顔で七両のお金を手に取る。
俺は、あの
すり師の男が「自分が七両を入れた」という意図を俺たちに伝えるために、あの場で話した『
――おそらくは、よっぽどすずさんが怖かったのだろう。しかし、こんなお金をどうやって手に入れて……
俺がそこまで考えた所で、
「……さぁさぁ! 皆の衆! 本所中の
どうやらあの男は、本所一帯の稲荷神社にて、同じようなことを行ったようであった。神社の名前まで言ってなかったので、本所にある稲荷社という稲荷社に小判を入れたのであろう。
そして、もっとも重要な情報である「お金の出所」は、どうやら大名屋敷から盗んだお金であるようだった。
そこまで考えた所で、俺は二十一世紀に放送されていた時代劇を思い出す。
――
「あぁっ!!」
俺は思わず叫ぶ。
まさに、その名前こそが
時代劇や時代小説などで大活躍する
その正体が、悪を討ち正義のために盗みをはたらく
おそらく、あの
町の人は大名屋敷ばかり狙う
そして、
隣では、すずさんが七枚の小判を手に満面の笑みを見せている。
そんなすずさんの近くにて、俺は自分の顔に手を当てて
「あ……ははは……歴史って……歴史って……」
乾いた笑い声が、口から自然と漏れる。
――歴史って、なんていいかげんなんだ。
時代劇を