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第三十五幕 饅頭が結んだ師弟


 春が終わり、既に暦の上では夏である、四月の四日のことであった。


 朝早く小三郎が稲荷社いなりやしろにやってきて、おしのさんに想いを伝えたが、きっちり振られたということを報告された。


 小三郎は若干涙目であったが、顔はやけにさっぱりしていた。


 やはり想いというのは、溜め込むよりも伝えたほうが心に良いのだろう。


 俺は約束通り、浮世絵を描いて生活しているというお爺さんを小三郎に紹介するために、すずさんにお休みを頂いた。


 紺色の着物を着た俺は、小三郎と一緒に稲荷社いなりやしろから北東ほくとうの方角にある高橋たかばしを渡り、大通りを進み、路地に入る。


 そして、鉄蔵さんという絵師のお爺さんが住む蒟蒻こんにゃく長屋に到着した。


 蒟蒻こんにゃく長屋に小三郎と二人して訪れた俺は、鉄蔵さんの住んでいる長屋部屋の障子戸近くの壁をコンコンとノックする。

「すいませーん、神職見習いの亮哉りょうやですー。入っていいですかー?」


 しかし、中から返事はない。


 俺は、小三郎を脇目に恐る恐る障子戸を開ける。


 誰もいない。


 そしてその長屋の部屋である狭い四畳半部屋は、昨年に見たときとは比べ物にならないほどまでに、ごちゃごちゃと画材で散らかっていた。


 俺は、小三郎に伝える。

「誰もいないみたいだね。とりあえず帰る?」


 すると、小三郎が返す。

「いや、俺は部屋で待たせてもらうぜ」


 小三郎が部屋に入り、土間段に腰を下ろしたところで後ろに気配を感じたので振り返る。


「おや? 深川ふかがわ神職しんしょく見習みならいのにいちゃんじゃないの? 親父おやじに何か用かい?」

 その気配とは、鉄蔵さんの娘さんで二十代前半くらいのお姉さんである、煙管きせるかまえたおえいさんであった。


 小三郎は、急いで立ち上がる。俺は、おえいさんに伝える。

「俺の友達が、浮世絵師になりたくて師匠を探しているんです。そこで、鉄蔵さんに指南していただけたらと思いまして」


 すると、小三郎が言葉を発する。

三田みた小三郎こさぶろうといいやす! 俺、絵で身を立ててぇんでやす! どうか、御指南をお願いいたしやす!」

 そう言って、小三郎は深くお辞儀をした。


――小三郎が敬語使ってるのは初めて聞いた。


 俺がそう思ったところ、おえいさんが朗らかに応える。

親父おやじはさぁ、まぁ、来る者は拒まないけど、見込みのない奴は平気で切り捨てるからねぇ。それに、この頃は富嶽ふがくの絵を描くためにあちこち駆け回って忙しいみたいだしさ。まぁ、一枚だけ絵を描いてみるってのはどうだい? そしたらオレが取り次いでやるよ」


 おえいさんはこういう事に慣れているのか、小三郎がすべきことを明確に提示してくれた。



「有難うごぜぇやす! 近い日に、必ず持ってきやす!」

 そう小三郎が、お礼を言ってから再び深くお辞儀をする。


 そして、おえいさんは土間段を上がり、ごちゃごちゃに散らかった画材の中から、一枚の絵を取り出す。


 そして、俺に伝える。

「これさ、親父おやじが描いた絵なんだけど、稲荷社いなりやしろにいちゃんが来たら渡しといてくれって頼まれた奴なんだよ。いいもん見せてくれた礼だってさ」

 おえいさんはそう言って、画用紙くらいのサイズの紙に描かれた絵を渡してくれた。


 それは、カラーの錦絵にしきえであった。


 それも、戦いのために刀を持って構えている、総髪そうはつ白衣びゃくえはかま姿の勇ましい男の姿を描いたものであった。


――これって……まさか。


 俺は、おえいさんに尋ねる。

「あの、鉄蔵さんはこの様子をどこで……」


 すると、おえいさんはきょとんとした目で俺を見る。

「さぁ? 親父おやじは夜中に見た夢を描いたって言ってたけどね」


 俺はそのおえいさんの言葉に、顔を引きつらせる。


 小三郎は俺が貰った絵を見て、しきりに感心の声を上げていた。




 おえいさんに言われた課題の絵だが、新大橋のたもとに行くことにした。水茶屋の給仕をしているおしのさんの絵を描いて、鉄蔵さんにあらためてもらうということになった。


 おしのさんは、俺がその旨を説明すると笑顔で了承してくれ、水茶屋の主人にも了解を取ってもらった。


 少し離れた所に小三郎が座って、その様子を小三郎が墨と筆で簡単に描き写す。そして、家にてその下絵を元に完成品を描き出す。


 そんなこんなで、小三郎は三日ほどで絵を完成させた。


 三日後にその完成した絵を見せてもらうと、水茶屋にいるしっとりとした華のある美少女が気品溢れる仕草で描かれていた。


 絵柄は江戸時代のものなので、古式ゆかしき浮世絵の風情が溢れ出ているが、小三郎いわくこれは今風の絵らしい。


 この時代の女性の絵は目が細く、いかにも浮世絵っぽく描かれているが、これは女の子の見目みめの形の良さを強めるためのものらしい。つまりデフォルメといえる技法である。


 こんな現実離れして目を細く描くデフォルメが何で美人に見えるのかと一瞬疑問に思ったが、よく考えれば平成にあった漫画やアニメの女の子も現実離れして目が大きくデフォルメされて描かれているので、同じようなものだと納得することができた。




 四月の八日の朝、稲荷社の前にて、俺は小三郎に問いかけられる。

りょうよ、どうだい? 弟子にしてくれると思うかよ?」


 俺は応える。

「ああ、俺は大丈夫と思うけど」


 そんなことを話していると、おあきちゃんが俺たちに近寄ってきた。

「小三郎さんおはよう! ねぇりょう兄ぃ、りょう兄ぃは今日忙しい?」


 俺はおあきちゃんに返す。

「そりゃぁ、鉄蔵さんのあらためとかあるから忙しいけど? それがどうしたの?」


 すると、おあきちゃんが俺にこんなことを言う。

「今日、潅仏会かんぶつえだからお祭りに一緒に行けないかなって思ったんだけど」


――潅仏会かんぶつえ? 


――今日はそんな祭りの日だったのか。


 俺は応える。

「えっと……ごめん。俺はちょっと難しいかな……昼八つ[午後二時ごろ]になったらすずさんと行ったらどうかな?」


 俺がそう言うと、おあきちゃんはあからさまに不満げに頬を膨らませた。

「ちぇー、まぁいいよ。すず姉ぇに頼んでみる」


 そう言って、おあきちゃんはやしろの中に入っていった。


 そこで俺は思い出す。


――おあきちゃんとの約束を、まだ果たせてなかった。


 去年の秋に、新大橋の上でおあきちゃんと指切りした約束。


――あたしもいつか、一緒にお祭りに連れてって!――


 おあきちゃんは相当待ってたのかもしれないと考え、俺は気まずくなって頬を指で掻く。


 すると、小三郎はそれを知っているかのように、こんなことを言った。

「なぁ、りょうよ。あの、おあきとかいうおじょうちゃんもおぇの事を想ってるみてぇだけど、どうすんだ?」


 その言葉に、俺は焦って返す。

「いや? どうって何が? 俺は故郷に葉月はづきっていう好きな女がいるって前言ったよね? それに、おあきちゃんはまだ子供だよ!?」


 すると、小三郎は真剣な顔をして返す。

「なぁに言ってんだよ。子供っつったって、六つか七つだろ? 十年もちゃぁ熱盛ほめきざかりのいっぱしの女になるぜ? 十年のちにはおぇは二十八だろ? そんくれぇのとしの男が十六、七の女をめとるなんざ、珍しくもなんともねぇだろ」


 その言葉に、俺は少しだけ、ほんの少しだけ、えて意識しないようにしていた想像をしてしまった。


 すずさんと一緒に色々な妖怪と戦うも、あの兎の妖怪は結局現れず、俺がこの江戸の町に定住することになる未来だ。そうなると、おそらくすずさんは俺とおあきちゃんをくっつけたがるだろう。


 居候いそうろうの俺があらがえるはずもなく、あれよあれよという間に外堀を埋められてこの稲荷社いなりやしろの跡継ぎとなる、江戸の町での未来予想図。


 女の子から少女に成長したおあきちゃんが、花嫁の白無垢を着て俺の前で笑顔になる様子が、頭の中に一瞬だけ浮かび上がった。


 ふと、俺の脳裏に葉月の姿が浮かんだ。十年間行方不明だった俺のことなどとっくの昔に忘れた、純白のウェディングドレス姿の大人になった葉月の姿だった。


「違う! 帰るから! 絶対に帰るから!」

 俺は、反射的に叫んでいた。


 小三郎が、かなりびっくりした様子で身を反らしていた。

「あ、ああ。まぁ、長崎にそんなに帰りてぇなら帰りゃいいんじゃねぇか? 葉月はづきって女のために神職修行までしてるんだからよ」


 その言葉に、俺は応える。

「わかってるよ……」


 そう、俺はわかっていた。もし、現代に想い人たる葉月がいなければ、そんな未来予想図もすんなり受け入れられてしまうような自分が怖かったのだ。


 いくらこの江戸の町に慣れてきたとはいえ、俺はやはり平成に生まれ育った人間だ。二十一世紀には俺の今まで関わってきた大切な人たちが大勢いる。その大切な人たちを悲しませるような真似はしたくなかった。


 俺はそんなことを考えつつ、小三郎と一緒に蒟蒻こんにゃく長屋に向かった。






 蒟蒻こんにゃく長屋にいた鉄蔵さんに、小三郎の渾身の作品を見せた。


 すると鉄蔵さんは十秒ほどその絵を見て、ぽいっとその辺りに落とした。そして一言だけ言う。

「駄目だなこりゃぁ」


 その無慈悲な言葉に、小三郎が悔しそうな顔をする。


 俺は、鉄蔵さんに尋ねる。

「そんな! どこが駄目だったんですか!?」


 すると、鉄蔵さんは悪びれも無く応える。

「そりゃぁ、外面そとづらを描いただけだ。魂が入ってねぇな。おそらく、こりゃぁおぇさんが惚れてた女だろう。で、振られた。ん? 違うか小僧?」


 鉄蔵さんがあごをしゃくると、小三郎は小さく「そうでやす」とうなずく。


 そして、鉄蔵さんは言葉を続ける。

「じゃぁ、尚更なおさらだ。この絵には、魂が描かれてねぇんだよ。上の空で描いてやがる」


 すると、小三郎が返す。

「ど、どうすればいいんでやすか!?」


「そんなん、てめぇで考えろ。まぁ、俺ももうちっと若ければ弟子にしても良かったんだがな。今は色々と忙しくてよ。諦めてくれ」


 鉄蔵さんがそう言うので、小三郎は暗い面持ちで俺と共に長屋部屋を出た。


 出たところで、おえいさんが追いかけて部屋を出てきて、俺たちに声をかけた。

「ちょっとちょっと、待ちな! 忘れもんだよ!」

 おえいさんは、小三郎が描いたおしのさんの浮世絵を持ってきてくれた。


 小三郎は絵を受け取ろうとはせず、おえいさんに言葉を返す。

「すいやせん。でも、俺にはもう要らないものでやすから……」


 意気消沈した小三郎の前で、おえいさんが息を吐く。


「オレはこの絵を見て、見込みあると思ったんだけどねぇ。親父おやじ機嫌きげんの良い時に、もう一回頼んでみたらどうだい?」


 おえいさんの言葉に、俺は返す。

「じゃぁ、お酒でも持ってきましょうか?」


 すると、おえいさんは首を横に振る。

生憎あいにくに、親父おやじ下戸げこなんだよ。酒よりも甘い菓子でも包んでやったほうが、よっぽど喜ばれるよ」


 すると、小三郎が返す。

「俺、菓子なら作れやす! 作って持ってきやす!」


 おえいさんは、小三郎に絵を返しつつそれに応える。

「そうだねぇ、珍しい菓子でも作って持ってきたらいいんじゃないかねぇ? そんときまでに、また絵を描いておいて見てもらうといいよ」


 つまりこれは、小三郎の敗者復活戦だ。


 一度鉄蔵さんに断られた入門試験の再チャレンジとして、小三郎がもう一度絵を描くことを課せられたのだ。


――しかし、どんな絵を描けばいいのか。


――どんなお菓子を作ればいいのか。


 その答えはまだ、出ていないようであった。




 その日の夕方まで、俺たちは色々と策を練りあっていた。


 美人画が駄目ならば、風景画はどうか。いやいや、武者の画の方がいいのではないか。この前見に行った歌舞伎のシーンを描けばいいのか、など、色々な事を話し合った。


 でも結局良い案は出ず、俺たちは本所中を歩き回ったあげく、稲荷社いなりやしろの前に帰ってきた。


 もう時刻は夕七つ[午後四時ごろ]を過ぎている。子供たちは既に全員帰っていて、すずさんとおあきちゃんもどこかに消えていた。おそらくは潅仏会かんぶつえというお祭りに行ったのであろう。


 小三郎から聞いたところ、今日の四月八日はお釈迦様の誕生日であり、お釈迦様の像に甘茶をかけるという祭りが色々な寺で行われるのだという。


 俺たちが稲荷社いなりやしろの大鳥居の前で色々話していると、遠くからすずさんとおあきちゃんが仲良く手を繋いでこちらに歩いてくるのが見えた。


 おあきちゃんは隣のすずさんを見上げつつ微笑み、すずさんは目下にいるおあきちゃんに慈しみの眼差しを向けている。


 本当に、仲の良い姉妹なんだなと俺は思った。


 小三郎はそちらに目を向けると、まるで放心したかのような表情になった。


 そして、小三郎がつぶやく。

「なぁりょうよ……あの二人、正真正銘の姉妹だとか言ってたよな……?」


 俺は小三郎の言葉に応える。

「ああ、そうだけど?」


 すると、小三郎は返す。

ちげぇんだよ……俺には、やっぱりそうは見えねぇんだよ……そうか……外面そとづらだけで絵を描いちゃいけねぇって……こういうことだったのかよ……」


 小三郎はそこまで言うと、俺の方に向き直り、大きな声を上げる。

「わかったぜ! おれぁ、わかった! 何を描けば良いのかわかったぜ!」


 大声で叫ぶ小三郎の目には、力強い光が宿っていた。






 それから四日後、暦では四月の十二日のことであった。


 どうやら鉄蔵さんは、住んでいる長屋部屋がごちゃごちゃになり過ぎたために、近いうちに引っ越すらしい。つまり事実上、今日が小三郎の弟子入りのラストチャンスである。


 夕方になって俺と小三郎は、蒟蒻こんにゃく長屋の鉄蔵さんの住む部屋の前に来ていた。そして、障子戸の近くの壁を何回かノックする。


 するとすぐに、おえいさんが出てきてくれた。


 そして、小三郎は用意していた紙包みをおえいさんに渡した。


 この紙包みの中には小三郎が作った饅頭まんじゅうが入っており、鉄蔵さんに食べてもらうというはからいであった。


 おえいさんがひっこんでからしばらく時間が経って、鉄蔵さんの声がした。

「入ってこい」


 その言葉に、まずは小三郎が。後ろから俺がついていく。


 四畳半部屋の散らかっている様はもはや形容しがたく、この生活空間の中で寝起きしているのが不思議なくらいであった。


 窓際にはおえいさんが煙管きせるを構えつつ腰かけ、すぐ近くには鉄蔵さんが座っている。鉄蔵さんはこちらを向いていない。


 小三郎が鉄蔵さんの近くに座り、俺もそのすぐ斜め後ろに正座する。


 鉄蔵さんが口を開く。

「おめぇの作った饅頭まんじゅう、食べさせてもらったぜ」


 すると、小三郎が応える。

「お気に召しやしたか?」


 鉄蔵さんは、くくくと笑う。

「ああ、饅頭まんじゅういちご入れるなんざ、随分と風変わりだったな。でも、食べたことがねぇくれぇ旨かったぜ」


 鉄蔵さんに食べてもらうための珍しいお菓子は、俺がアイディアを出した。用意した甘味とは、餡子あんこの中にいちごを入れた苺大福いちごだいふくであった。


 といっても、平成の世で『イチゴ』と呼ばれるような西洋苺せいよういちごは江戸の町にはまだ出回っていなかったので、近くの村で採れるような木苺きいちごを代わりに使った。木苺きいちごは、俺が本所中を探し回ってようやく見つけた。


 そんな感じで苦労して作った苺大福いちごだいふくを、幸いなことに鉄蔵さんは気に入ってくれたようだった。


 そして、小三郎は手に持っていた丸めた紙を鉄蔵さんに渡した。この紙に描かれた絵は、再度鉄蔵さんにあらためてもらうために書き直した絵であった。


 鉄蔵さんが広げたその紙に描かれていたのは、神社の鳥居近くにて手毬てまりで遊んでいる小さな女の子と、それを優しく見守っている若い女性の姿であった。


 いうまでもなく、おあきちゃんとすずさんをモデルに描いたものである。


 その絵をしばらく鉄蔵さんは凝視していた。そして、二十秒ほど経ってから口を開く。

「ふぅむ……こりゃぁ……姉妹か? いや……親子か? いや……いや……」


 そんな事をつぶやいた後、鉄蔵さんが小三郎に向き直る。

つかんだようだな。互いが互いを思い合うさまが、よく描けてらぁ」


 鉄蔵さんは表情を緩めた。そして言葉を続ける。


「絵ってのは、目に映ったものを描くんじゃねぇんだ。こんな風に心に映ったものを描くんだよ。見る奴の心によって見方も変わる絵、よく描けてらぁ」


 その鉄蔵さんの言葉に、小三郎が喜びの声を発する。

「じゃ、じゃあ、弟子にしていただけるんでやすね!?」


 すると、鉄蔵さんが応える。

「まぁ、絵を描いて金取れるようになるまでは五年ってとこだろうがな。それでもいいか?」


「覚悟してやす!」

 小三郎がそう言うので、鉄蔵さんがおえいさんに声をかける。

「じゃぁ、画号考えてやらねぇとな。おえい金蔵きんぞうの野郎はもう江戸にぇってこねぇって言ってたよな?」


 すると、煙管きせるを持ったおえいさんが煙草たばこの煙をふぅっと吐き出してから応える。

砂山すなやま金蔵きんぞうさんかい? そうだねぇ、あの人は信州しんしゅう松本まつもとつい住処すみかにするとか言ってたねぇ。親父おやじ、その小僧さんに金蔵きんぞうさんの北鷲ほくがの名でも継がせる気かい?」


 その言葉を聞いて、鉄蔵さんが応える。

「ま、ものになったらな。二代目北鷲ほくがとでも名乗らせてやる」


 そして鉄蔵さんは、続けて小三郎に伝える。

「じゃあ、おぇはとりあえず……そうだな、饅頭まんじゅう作るのが上手うめぇからよ、卍楼まんじろうとでも名乗れ。その代わり、絵が金になるまではかなりかかるぞ? もう一度いちどくがそれでもいいか?」


 すると、小三郎が感激して大声で返す。

「はい! きもえて精進しょうじんしやす!」


 その声には、今まさに夢に向かって駆け出した、熱い男の情熱が宿っていた。






 それからまたしばらく日が経った。


 小三郎は家族と色々話し合ったが、結局夢を追いかけるために家を出ることにしたらしい。


 お母さんからは猛烈に反対されたが、お父さんと二人のお兄さんはいつでも帰ってきていいから存分に絵の腕を磨けと、小三郎の夢を応援してくれたそうだ。


 本所の常盤町ときわちょうに長屋部屋を借りることも決まり、鉄蔵さんに弟子入りした門人もんじんとして見習い画師えしの修行をするらしい。


 本所の常盤町ときわちょうとは、稲荷社の北東にある高橋たかばしを北に渡って、そこから西の新大橋へと向かう辺りにある町の名前だ。気軽に稲荷社にも、おしのさんの務める水茶屋にも足を運べる立地でもある。


 以前のように裕福な暮らしはもう望むべくもないが、小三郎はそれよりも大きなものを得たのだと言う。


 俺はその姿を見て、とても小三郎が輝いて見えた。


 そう、それは夢を追いかける男しか見せることのできない輝きであった。


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