春が終わり、既に暦の上では夏である、四月の四日のことであった。
朝早く小三郎が
小三郎は若干涙目であったが、顔はやけにさっぱりしていた。
やはり想いというのは、溜め込むよりも伝えたほうが心に良いのだろう。
俺は約束通り、浮世絵を描いて生活しているというお爺さんを小三郎に紹介するために、すずさんにお休みを頂いた。
紺色の着物を着た俺は、小三郎と一緒に
そして、鉄蔵さんという絵師のお爺さんが住む
「すいませーん、神職見習いの
しかし、中から返事はない。
俺は、小三郎を脇目に恐る恐る障子戸を開ける。
誰もいない。
そしてその長屋の部屋である狭い四畳半部屋は、昨年に見たときとは比べ物にならないほどまでに、ごちゃごちゃと画材で散らかっていた。
俺は、小三郎に伝える。
「誰もいないみたいだね。とりあえず帰る?」
すると、小三郎が返す。
「いや、俺は部屋で待たせてもらうぜ」
小三郎が部屋に入り、土間段に腰を下ろしたところで後ろに気配を感じたので振り返る。
「おや?
その気配とは、鉄蔵さんの娘さんで二十代前半くらいのお姉さんである、
小三郎は、急いで立ち上がる。俺は、お
「俺の友達が、浮世絵師になりたくて師匠を探しているんです。そこで、鉄蔵さんに指南していただけたらと思いまして」
すると、小三郎が言葉を発する。
「
そう言って、小三郎は深くお辞儀をした。
――小三郎が敬語使ってるのは初めて聞いた。
俺がそう思ったところ、お
「
お
「有難うごぜぇやす! 近い日に、必ず持ってきやす!」
そう小三郎が、お礼を言ってから再び深くお辞儀をする。
そして、お
そして、俺に伝える。
「これさ、
お
それは、カラーの
それも、戦いのために刀を持って構えている、
――これって……まさか。
俺は、お
「あの、鉄蔵さんはこの様子をどこで……」
すると、お
「さぁ?
俺はそのお
小三郎は俺が貰った絵を見て、しきりに感心の声を上げていた。
お
おしのさんは、俺がその旨を説明すると笑顔で了承してくれ、水茶屋の主人にも了解を取ってもらった。
少し離れた所に小三郎が座って、その様子を小三郎が墨と筆で簡単に描き写す。そして、家にてその下絵を元に完成品を描き出す。
そんなこんなで、小三郎は三日ほどで絵を完成させた。
三日後にその完成した絵を見せてもらうと、水茶屋にいるしっとりとした華のある美少女が気品溢れる仕草で描かれていた。
絵柄は江戸時代のものなので、古式ゆかしき浮世絵の風情が溢れ出ているが、小三郎いわくこれは今風の絵らしい。
この時代の女性の絵は目が細く、いかにも浮世絵っぽく描かれているが、これは女の子の
こんな現実離れして目を細く描くデフォルメが何で美人に見えるのかと一瞬疑問に思ったが、よく考えれば平成にあった漫画やアニメの女の子も現実離れして目が大きくデフォルメされて描かれているので、同じようなものだと納得することができた。
四月の八日の朝、稲荷社の前にて、俺は小三郎に問いかけられる。
「
俺は応える。
「ああ、俺は大丈夫と思うけど」
そんなことを話していると、おあきちゃんが俺たちに近寄ってきた。
「小三郎さんおはよう! ねぇりょう兄ぃ、りょう兄ぃは今日忙しい?」
俺はおあきちゃんに返す。
「そりゃぁ、鉄蔵さんの
すると、おあきちゃんが俺にこんなことを言う。
「今日、
――
――今日はそんな祭りの日だったのか。
俺は応える。
「えっと……ごめん。俺はちょっと難しいかな……昼八つ[午後二時ごろ]になったらすずさんと行ったらどうかな?」
俺がそう言うと、おあきちゃんはあからさまに不満げに頬を膨らませた。
「ちぇー、まぁいいよ。すず姉ぇに頼んでみる」
そう言って、おあきちゃんは
そこで俺は思い出す。
――おあきちゃんとの約束を、まだ果たせてなかった。
去年の秋に、新大橋の上でおあきちゃんと指切りした約束。
――あたしもいつか、一緒にお祭りに連れてって!――
おあきちゃんは相当待ってたのかもしれないと考え、俺は気まずくなって頬を指で掻く。
すると、小三郎はそれを知っているかのように、こんなことを言った。
「なぁ、
その言葉に、俺は焦って返す。
「いや? どうって何が? 俺は故郷に
すると、小三郎は真剣な顔をして返す。
「なぁに言ってんだよ。子供っつったって、六つか七つだろ? 十年も
その言葉に、俺は少しだけ、ほんの少しだけ、
すずさんと一緒に色々な妖怪と戦うも、あの兎の妖怪は結局現れず、俺がこの江戸の町に定住することになる未来だ。そうなると、おそらくすずさんは俺とおあきちゃんをくっつけたがるだろう。
女の子から少女に成長したおあきちゃんが、花嫁の白無垢を着て俺の前で笑顔になる様子が、頭の中に一瞬だけ浮かび上がった。
ふと、俺の脳裏に葉月の姿が浮かんだ。十年間行方不明だった俺のことなどとっくの昔に忘れた、純白のウェディングドレス姿の大人になった葉月の姿だった。
「違う! 帰るから! 絶対に帰るから!」
俺は、反射的に叫んでいた。
小三郎が、かなりびっくりした様子で身を反らしていた。
「あ、ああ。まぁ、長崎にそんなに帰りてぇなら帰りゃいいんじゃねぇか?
その言葉に、俺は応える。
「わかってるよ……」
そう、俺はわかっていた。もし、現代に想い人たる葉月がいなければ、そんな未来予想図もすんなり受け入れられてしまうような自分が怖かったのだ。
いくらこの江戸の町に慣れてきたとはいえ、俺はやはり平成に生まれ育った人間だ。二十一世紀には俺の今まで関わってきた大切な人たちが大勢いる。その大切な人たちを悲しませるような真似はしたくなかった。
俺はそんなことを考えつつ、小三郎と一緒に
すると鉄蔵さんは十秒ほどその絵を見て、ぽいっとその辺りに落とした。そして一言だけ言う。
「駄目だなこりゃぁ」
その無慈悲な言葉に、小三郎が悔しそうな顔をする。
俺は、鉄蔵さんに尋ねる。
「そんな! どこが駄目だったんですか!?」
すると、鉄蔵さんは悪びれも無く応える。
「そりゃぁ、
鉄蔵さんが
そして、鉄蔵さんは言葉を続ける。
「じゃぁ、
すると、小三郎が返す。
「ど、どうすればいいんでやすか!?」
「そんなん、てめぇで考えろ。まぁ、俺ももうちっと若ければ弟子にしても良かったんだがな。今は色々と忙しくてよ。諦めてくれ」
鉄蔵さんがそう言うので、小三郎は暗い面持ちで俺と共に長屋部屋を出た。
出たところで、お
「ちょっとちょっと、待ちな! 忘れもんだよ!」
お
小三郎は絵を受け取ろうとはせず、お
「すいやせん。でも、俺にはもう要らないものでやすから……」
意気消沈した小三郎の前で、お
「オレはこの絵を見て、見込みあると思ったんだけどねぇ。
お
「じゃぁ、お酒でも持ってきましょうか?」
すると、お
「
すると、小三郎が返す。
「俺、菓子なら作れやす! 作って持ってきやす!」
お
「そうだねぇ、珍しい菓子でも作って持ってきたらいいんじゃないかねぇ? そんときまでに、また絵を描いておいて見てもらうといいよ」
つまりこれは、小三郎の敗者復活戦だ。
一度鉄蔵さんに断られた入門試験の再チャレンジとして、小三郎がもう一度絵を描くことを課せられたのだ。
――しかし、どんな絵を描けばいいのか。
――どんなお菓子を作ればいいのか。
その答えはまだ、出ていないようであった。
その日の夕方まで、俺たちは色々と策を練りあっていた。
美人画が駄目ならば、風景画はどうか。いやいや、武者の画の方がいいのではないか。この前見に行った歌舞伎のシーンを描けばいいのか、など、色々な事を話し合った。
でも結局良い案は出ず、俺たちは本所中を歩き回ったあげく、
もう時刻は夕七つ[午後四時ごろ]を過ぎている。子供たちは既に全員帰っていて、すずさんとおあきちゃんもどこかに消えていた。おそらくは
小三郎から聞いたところ、今日の四月八日はお釈迦様の誕生日であり、お釈迦様の像に甘茶をかけるという祭りが色々な寺で行われるのだという。
俺たちが
おあきちゃんは隣のすずさんを見上げつつ微笑み、すずさんは目下にいるおあきちゃんに慈しみの眼差しを向けている。
本当に、仲の良い姉妹なんだなと俺は思った。
小三郎はそちらに目を向けると、まるで放心したかのような表情になった。
そして、小三郎が
「なぁ
俺は小三郎の言葉に応える。
「ああ、そうだけど?」
すると、小三郎は返す。
「
小三郎はそこまで言うと、俺の方に向き直り、大きな声を上げる。
「わかったぜ!
大声で叫ぶ小三郎の目には、力強い光が宿っていた。
それから四日後、暦では四月の十二日のことであった。
どうやら鉄蔵さんは、住んでいる長屋部屋がごちゃごちゃになり過ぎたために、近いうちに引っ越すらしい。つまり事実上、今日が小三郎の弟子入りのラストチャンスである。
夕方になって俺と小三郎は、
するとすぐに、お
そして、小三郎は用意していた紙包みをお
この紙包みの中には小三郎が作った
お
「入ってこい」
その言葉に、まずは小三郎が。後ろから俺がついていく。
四畳半部屋の散らかっている様はもはや形容しがたく、この生活空間の中で寝起きしているのが不思議なくらいであった。
窓際にはお
小三郎が鉄蔵さんの近くに座り、俺もそのすぐ斜め後ろに正座する。
鉄蔵さんが口を開く。
「おめぇの作った
すると、小三郎が応える。
「お気に召しやしたか?」
鉄蔵さんは、くくくと笑う。
「ああ、
鉄蔵さんに食べてもらうための珍しいお菓子は、俺がアイディアを出した。用意した甘味とは、
といっても、平成の世で『イチゴ』と呼ばれるような
そんな感じで苦労して作った
そして、小三郎は手に持っていた丸めた紙を鉄蔵さんに渡した。この紙に描かれた絵は、再度鉄蔵さんに
鉄蔵さんが広げたその紙に描かれていたのは、神社の鳥居近くにて
いうまでもなく、おあきちゃんとすずさんをモデルに描いたものである。
その絵をしばらく鉄蔵さんは凝視していた。そして、二十秒ほど経ってから口を開く。
「ふぅむ……こりゃぁ……姉妹か? いや……親子か? いや……いや……」
そんな事を
「
鉄蔵さんは表情を緩めた。そして言葉を続ける。
「絵ってのは、目に映ったものを描くんじゃねぇんだ。こんな風に心に映ったものを描くんだよ。見る奴の心によって見方も変わる絵、よく描けてらぁ」
その鉄蔵さんの言葉に、小三郎が喜びの声を発する。
「じゃ、じゃあ、弟子にしていただけるんでやすね!?」
すると、鉄蔵さんが応える。
「まぁ、絵を描いて金取れるようになるまでは五年ってとこだろうがな。それでもいいか?」
「覚悟してやす!」
小三郎がそう言うので、鉄蔵さんがお
「じゃぁ、画号考えてやらねぇとな。お
すると、
「
その言葉を聞いて、鉄蔵さんが応える。
「ま、ものになったらな。二代目
そして鉄蔵さんは、続けて小三郎に伝える。
「じゃあ、お
すると、小三郎が感激して大声で返す。
「はい!
その声には、今まさに夢に向かって駆け出した、熱い男の情熱が宿っていた。
それからまたしばらく日が経った。
小三郎は家族と色々話し合ったが、結局夢を追いかけるために家を出ることにしたらしい。
お母さんからは猛烈に反対されたが、お父さんと二人のお兄さんはいつでも帰ってきていいから存分に絵の腕を磨けと、小三郎の夢を応援してくれたそうだ。
本所の
本所の
以前のように裕福な暮らしはもう望むべくもないが、小三郎はそれよりも大きなものを得たのだと言う。
俺はその姿を見て、とても小三郎が輝いて見えた。
そう、それは夢を追いかける男しか見せることのできない輝きであった。