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第三十四幕 走れ洲崎の海岸へ


 三月の二十五日の空は、雲ひとつないうららかな春の蒼天そうてんだった。


 かなり陽射ひざしも強くなってきていて、晩春の江戸の町ではそこら中で春の虫が舞い踊る姿を見かける。




 この日の昼過ぎに、俺とすずさんとおあきちゃんの三人は、深川の南にある江戸湾に面した自然の砂浜である、洲崎すざきの東の方の海岸を訪れていた。


 昼過ぎの満潮時刻になり潮が満ちているので、砂浜は狭まっている。その砂浜は大勢の人でごった返しており、芋を洗うような状況となっている。


 俺たち三人がこの細やかな砂が降り積もるみぎわに来たのは何故かというと、段々としおいていく砂浜にてハンターのように貝を掘り出しる一般的な行楽こうらく、いわゆる潮干狩しおひがりを楽しむためであった。


 今の時刻は昼九つ半、つまり午後一時ごろであろう。砂浜には、潮干狩りをしようと貝を入れるためのかごを手に持っている、江戸の庶民が大勢いる。


 人影は女性が明らかに多いが、子供たちと両親のような家族連れもいるし、長屋同士の仲間のような人たちもいる。お茶のみ友達であるような老人たちもいる。


 すずさんは、お師匠様としてのいつもの格好とは違う菖蒲あやめ色の着物のそでたもとたすきで短くまとめていて、動きやすいようにすそもまくりあげ、下に着ている襦袢じゅばんを見せつつ美しいすねを晒している。準備は万端である。


 海岸にあるつつみには、かご鉄鍋てつなべなどを貸し出している業者などもいるようだ。


 今、誰かが叫んだ。


「潮が引き始めたぞー!」


 その声に、大勢の人たちが海岸へと早足で進む。


 かごを手に持ったすずさんは、潮がき始めたという合図に興奮した様子でなぎさから浅瀬あさせに向かい、ばしゃばしゃと水音を出して駆けていく。


 紺色の着物を着た俺は、おあきちゃんと一緒にすずさんの遠ざかっていく背中を見ていた。


 俺もすずさんと同じようにそでたすきでまとめて、すそを腰帯に挟んでまくり上げている。そして、腰元から草鞋わらじをぶら下げている。


 おあきちゃんもやはりたすきたもとを縛ってすそを上げていて、その小さなひざと細いすねさらしている。


 そして俺は、背中には大きな紐付きの巾着袋を背負っている。この巾着袋の中には、潮干狩りのために用意していたものを入れている。


 俺はおあきちゃんに話しかける。

「なんだかすずさん、張り切ってるね」


 すると、おあきちゃんが返す。

「すずぇ、潮干狩しおひがりが大好きだから」


「へぇ、すずさんにも子供っぽいところがあるんだね」

 俺が微笑むと、おあきちゃんが少し頬を膨らませた。

「まただ」


 その幼い女の子の言葉に、俺は返す。

「またって何?」


「りょう兄ぃ、このごろすずぇのこと話してるとき、いっつもわらってない?」

 おあきちゃんの言葉に、俺は一瞬固まる。


 そして大声で弁明する。

「いやいやいや! おあきちゃん、何か勘違いしてるよ!? すずさんはあくまで俺の恩人であって、そういうのじゃないから!」


 すずさんがこちらに振り返り、大きく手を振る。

「りょうぞう! おあき! 何してんだよ!? 早くらないと貝が無くなっちまうよぉ!?」


 その言葉に、裸足はだしの俺とおあきちゃんは水辺に入る。足首まで海水に浸かり、自然海岸のじゃりじゃりさらさらした砂の感覚が足の裏に伝わる。


 すずさんの近くに寄ると、すずさんはかごを脇に抱えつつ、素手で海面うみもの中にある砂の中に手を突っ込み、ひょいひょいと貝をつまみ上げてはかごの中に入れていく。


 俺は、水面下の砂浜をさらいながらすずさんに話しかける。

潮干狩しおひがりなのに、熊手くまでは使わないんですね」


 すると、すずさんが不思議そうな顔をする。

熊手くまで? 草や葉っぱを掻き集める農具のうぐだよね? おまいさんの故郷では、潮干狩しおひがりに熊手くまでなんか使うのかい?」


「ええ、鉄でできた小さい熊手くまでを使います。手で拾い集めるより、沢山集められますよ」

 俺がそう話すと、すずさんは感心したようにふむふむとうなずいた。

「じゃあ、次に潮干狩しおひがりに来たときは使ってみようかねぇ」


 そう言うすずさんの隣では、膝を露出したおあきちゃんも体を傾けて砂の中を探っている。


 そして大声を出す。

「見て見て! 小魚こざかなれちゃった!」


 おあきちゃんは笑顔を見せつつ、すずさんの抱えているかごに小魚を入れる。


 俺も、懸命に砂をさらって浅蜊あさり文蛤はまぐりを探す。


 暖かい春の日の、潮がき始めている頃合に、俺たち三人は本当の家族のように潮干狩しおひがりを楽しんでいた。






 昼下がりいっぱい潮干狩りを楽しんで、夕方の頃合になっていた。


 潮がすっかり引いた洲崎すざきの東の方の海岸には、先ほどまで潮干狩しおひがりをしていた人たちが大勢、獲れたての貝を砂浜の焚き火にて調理しうたげを楽しんでいた。


 この砂浜にて獲られた貝は、持って帰ってもよいのだが、大勢の人がその場で焚き火を起こして、焼いて、煮て、あるいは蒸して、色んな方法で食べるのである。


 すぐ近くでは鉄鍋てつなべを有料で貸してくれる場所もあり、燃料用のまきや味付け用の醤油しょうゆなども売られている。まるで設備の整ったキャンプ場のような雰囲気ふんいきであった。


 かご一杯いっぱい浅蜊あさり文蛤はまぐりった俺たちは、鉄鍋てつなべを借りてまきを買い、バーベキューと洒落しゃれ込む運びとなった。


 俺は先日、潮干狩しおひがりの予定を聞いていたので、事前に準備していたものを巾着袋から取り出す。


――和紙でぐるぐる巻きにしていたので汚れてはいないはずだ。


 それは、魚屋で入手していたクジラの皮下脂肪ひかしぼうであった。


 焚き火の熱で充分に暖められた鉄鍋に、クジラの皮下脂肪を塗りつけて入れ、その上に浅蜊あさりなどを入れて炒める。ついでに、近くの料亭で文蛤はまぐりと交換してもらったさけ味醂みりんを少し入れて、鉄鍋の木でできたふたをかぶせる。


 そしてしばらく待って、浅蜊あさりの殻が全て開いたらできあがり。


 俺は、二人に語りかける。

「できましたよ。浅蜊あさりのバター炒めです」


 ふたを取ると、すずさんが鉄鍋を覗き込む。

「『ばたぁいため』ねぇ……聞いたことない料理だね」


 俺は応える。

「まぁ、バターが入手できないんで、クジラのあぶらを代わりに使いましたけどね。そんなに味は変わらないと思いますので、食べてみてください」


 俺の言葉に、すずさんもおあきちゃんも鉄鍋から浅蜊あさり柄杓ひしゃくすくい、自分の分の器に入れる。


 そして、おあきちゃんは用意していた、この時代では引裂箸ひきさきばしと呼ばれる割箸わりばしを割り浅蜊あさりの身を食べる。


美味おいしい!」

 おあきちゃんが、喜びの声を上げる。


 そして、同じく引裂箸ひきさきばしで貝の身を食べていたすずさんも口を開く。

「こりゃぁ美味うまいねぇ。酒の風味が入っていて、いくらでも食べられるよ」


――すずさんも、喜んでくれたようだ。


 俺も、鉄鍋から柄杓ひしゃくで貝を掬い、自分の器に入れて割箸わりばしを割り、貝の身を食べる。


 ジャリ


 おもいっきり砂を噛んだ。


「確かに美味しいですけど……ちょっと砂が入ってますね」


 すると、すずさんが笑いながら応えてくれる。

「そりゃぁ、さっきったばかりの貝だからね。砂抜きしないなら、こんなものさ」


 おあきちゃんも、笑いながらそれに続く。

とうにはあたし、かいって少し苦手なの。でも、りょう兄ぃの作ってくれたものならもっと食べたい!」


 そんな受け答えをしつつ、俺たち三人は仲良く浅蜊あさりを食べていた。


 俺は口を開く。

「徳三郎さんも来れれば良かったんですがね」


 すると、すずさんが返す。

「仕方がないよ。父さまは色々と忙しいからさ」


 おあきちゃんも、俺に向かって話しかける。

「りょう兄ぃって料理が上手だけど、板前さんでも目指してたの?」


 俺は返す。

「違うよ。俺は両親が共働きでね、いっつも弟のために晩御飯ばんごはんを作ってたんだ。だから、なんとなくできるようになったってだけだよ」


 その言葉に、すずさんが返す。

「いやいや、大したもんだよ? 江戸なんて、食い物の屋台やたいたながそこら中にあるから、料理なんざできる男どころか女もあまりいないんだよ? いや、大したもんだよ」


 すずさんが褒めるので、俺は若干照れる。

「ありがとうございます。でも、すずさんも料理が上手だと思いますけど」

「そうかい? まぁ昔は下手だったんだけどねぇ。色々あって、できるようになったのさ」


 その言葉に察した俺は、若干小声で応える。

「ひょっとして……すずさんがこの前のお花見のときにいるって言ってた、男のかたのためですか?」


 すると、すずさんも若干照れたような感じになる。


「あはは、まぁね。男も女も大きく変われるもんさ、惚れた奴のためならね」

 すずさんが、顔を少しだけ赤くしながらそんなほうけた声を返してくる。


 その言葉に、俺は自分の気持ちを考える。


 この前に妖怪と戦ったときに、俺がすずさんに抱いた気持ち。


 長い艶のある黒髪を下ろしたすずさんの姿は、俺が昔会いたくて会いたくてたまらなかった、初恋のお姉さんにそっくりだった。


 俺が何故そう思ったかはわからない。鋭く切れ上がった眼のすずさんと、丸っこい眼だった初恋のお姉さん、顔はまるで似ていないというのに。


 その思いを抱くと同時に、心の中では中学生のときに好きだった女子のことを思い出していた。


 隣のクラスの宮口みやぐちさん。下の名前は知らなかったけれど、図書委員で宮口みやぐちさんというメガネをかけた同学年の女の子だった。


 あのも、初恋のお姉さんみたいな長い黒髪の持ち主だった。


 そして、俺が葉月に対して素直に気持ちを言えなかった理由。心の底に持つ傷の原因でもある。


 宮口みやぐちさんに会いたくて、俺は足繁あししげく図書室に通った。俺は元々は少年漫画の方が好きだったのだが、それが原因で小説を好きになった。


 俺は最初は、小説が好きなんじゃなくて宮口みやぐちさんが好きだった。


 宮口みやぐちさんもよく俺に話しかけてくれて、一緒に色々な小説の内容を話し合った。そんなことをしていくうちに、俺はどんどん宮口みやぐちさんも、それと同じくらい小説も好きになっていった。


 もしかしたら宮口みやぐちさんは俺を好きで、俺も宮口みやぐちさんを好きだから、告白していないだけで実際にはカップルが成立しているんじゃないかと浮かれていた。


 しかし、その期待は三年生の二学期に無残にも裏切られる格好となってしまった。


 宮口みやぐちさんが好きだったのは、俺の親友の忠弘ただひろだったのだ。


 その事を告げられたとき、俺は頭の中が真っ白になった。そして「忠弘ただひろは、活発で元気な女の子が好きって言ってたけど」と本当の事を言うことしかできなかった。それが俺の持つ心の傷だ。


 そして、宮口みやぐちさんとはもう二度と会わなかった。どこの高校に行ったのかも、俺は知ることがなかった。


 俺はそんなことを考えながら、浅蜊あさりの炒め物を食べるすずさんを見ていた。


――すずさんには今どこかに男がいる。


――それが偽らざる現状だ。


――すずさんを見ていると初恋のお姉さんを思い出すなんて、なんの意味もない。

――俺が今好きなのは葉月だけだ。


 俺がそんなことを思っていると、当のすずさんが俺を見て話しかけてくる。

「りょうぞうも、こんなに料理が上手いとなると、所帯持って欲しいと願う女子おなごも多いんじゃないかい? どうだい? もし良かったら、うち稲荷社いなりやしろ婿むこになるってのは?」


「いや、すずさんには好きな男がいるって言ったばかりじゃないですか。いいんですか? その人を裏切って」


 俺が返事をすると、すずさんがからから笑う。


「あ、いやいや。あたいじゃなくておあきのほうだよ。おあきの婿むこなら、あたいとしては何時いつ何時なんどきになったとしても歓迎するよ?」


 すると、俺の隣にいたおあきちゃんは、頬を真っ赤に染めて恥ずかしそうにうつむいてしまった。


 俺は立ち上がり、二人に告げる。

「……ちょっと、小便しょうべんしてきます」 


「ああ、そうかい? 早く帰ってきなよ?」

 すずさんの声を背に、俺は堤に向かった。






 背中に巾着袋を背負ったままの俺は、海岸近くにあった小便桶しょうべんおけを見つけ、手を洗える場所を探した。


 おりくすぐ近くに、小さな神社と手水ちょうずを見つけることができた。


 俺は巾着袋から、潮干狩りのために持ってきたハンドタオルを取り出す。そして、そのハンドタオルを手水ちょうずのある木枠にかけた俺は、少し離れた所にある小便桶しょうべんおけにて小便をしようと着物の前をはだけふんどしに手をかけた。


 江戸の町中まちなかには肥やしとして回収するため所々にこの小便桶しょうべんおけが置いてあり、町中で尿意を催した者は、この中に尿をするのである。


 俺が小便桶しょうべんおけの前で用を足していると、後ろを犬が走り去ったようであった。江戸には野犬が多いので、こういうことは珍しくない。


 俺が手水ちょうずのある場所に戻って手を洗い、ハンドタオルで手を拭こうとすると、ハンドタオルが消えていることに気付いた。


――あれ? タオルがない?


 周りを見渡すと、白い布らしきものをなびかせて走り去る男の子の姿が見えた。


――まずい、ハンドタオルを盗られた。


 俺の頭の中に、色々な思考が駆け巡る。


 ハンドタオルくらいだったら、普通だったらあげてもいい。しかし厄介なことに、ハンドタオルのような布はこの江戸時代のどこにもないのである。そんなオーパーツを、この江戸に残す訳にはいかない。


 俺は、即座にその男の子を追いかけた。

「君っ! 待って! 待って!」


 俺は、草鞋わらじを履いた足で懸命に追いかける。男の子は堤から背の高い草が生えている所に入り、見えなくなる。俺はたまらなくなって、大声で叫ぶ。

「こらっ! 返せ! 持ってくな!」


 背の高い葦の草を掻き分け、俺は男の子に追いつこうとする。春の草の香りが鼻から入り、緑萌ゆる色が視界を通り過ぎる。


 草むらが開けたところで、俺はその男の子の腕を掴んだ。


「やっと捕まえたぞ! 布を返せ!」

 俺が叫ぶと、男の子は怯えた顔を見せる。


 そこで俺は気づいた。


――ここは海辺にある、漁師が住むような村だ。


 周りには、ぼろぼろの着物を着た、気性の荒そうな若者が十人以上いて、俺を取り囲んでいた。


 その中で最も体格が良く、一際ひときわ目力めぢからの強い男が俺に視線を向ける。

「おいあんちゃん、太助たすけに何か用かぁ!?」


 この男は、おそらくこの集落のリーダー格だ。仲間を守るためなら人の二、三人は平気で殺しそうな鋭い目をしていた。


 俺は、弁明する。

「えっと……布を盗られたから追いかけたんだけど……」


 すると、リーダー格の男が男の子に問いかける。

太助たすけ? てめぇ人様ひとさまの布、ちょろまかしたのか?」


 すると、太助たすけと呼ばれた男の子は泣きそうな顔になって応える。

「おいら、何にも盗ってねぇ! 追いかけられたので、逃げただけだ!」


 俺が太助たすけくんを正面から見ると、白い布だと思っていたのはふんどしの前垂れ布が腰帯の上から垂れているだけだった。


 俺は、冷や汗をかいて弁明する。

「あ、すいません。勘違いだったみたいです」


 すると、俺の後ろに立っていた男が、俺の肩をがしりと掴む。

「勘違いぃ!? てめぇ舐めてんのかぁ!? こらぁ!?」


 俺は一瞬迷ったが、疑った俺がまずかったのだ。俺は観念して、その場に胡坐あぐらをかいて座り込む。

「ごめんなさい! 俺が悪かったです! 一発ずつ殴られるから、勘弁してください!」


 そうは言ってみたものの、これだけ大勢の荒くれ者に殴られたら流石に死ぬかもしれない。いや、そもそも一人一発で勘弁してくれるかどうか。死ぬまでリンチを受ける可能性の方が高い。


 死んだら簀巻すまきにされるのかなぁ、こんな所で死ぬのはいやだなぁ、とかそんな事を考えていると、取り囲んでいる男の一人が声を上げた。

「あっ! こいつ、高橋たかばし近くの稲荷社いなりやしろあんちゃんだぜ!」


 すると、リーダー格の男が返す。

「そりゃまことか?」

間違まちげぇねぇ! 俺、毎朝あのあたりまで浅蜊あさり売り歩いてんだ! 西洋の医術いじゅつが使えるってもっぱらの噂だぜ!」


――え。


 戸惑う俺を尻目に、男たちは集まって何かを話している。


 そして、リーダー格の男が俺に告げる。

「俺のあねを治してくれたら、疑いかけたこと勘弁してやらぁ。こっち来やがれ」


 そう言って、強引に俺の腕を引っ張り、どこかに連れて行く。


 漁師村の中の一棟ひとむねの粗末な建物の中に入った俺は、病の床にある女の人と対面した。


 二十歳くらいのその既婚女性は、十日前に足のかかとを怪我してしまい、その傷が腫れて痛くて痛くて歩けないのだという。夜寝ることもままならず、漁師の嫁としての仕事もろくにできないらしい。


 俺が見る限り、海岸で貝を集めているときにかかとを怪我してしまい、その傷に黴菌ばいきんが入って化膿しているようだった。


――これなら、抗生物質の入った傷薬で治せるかもしれない。


 俺は、リーダー格の男に告げる。

「治せるかもしれない。神社に戻って薬とか取ってくれば、だけど」


 俺がそう言うと、他の男が凄む。

「そう言って逃げる気だろぅが! ここで治せ!」


 その言葉に、俺は汗をかく。

「そんな無茶な!」


 漁師の若者たちは、口々に叫ぶ。


「やっぱ治せねぇのかよ!」

「こりゃ、口だけの野郎だな!」

「袋だ、袋!」


 大勢の若者が俺を取り囲んでいるところ、今いる建物の土間口の方から、聞き覚えのあるおきゃんな若い女の人の声がした。


「待ちな!」

 その声の主は、すずさんだった。


 菖蒲あやめ色の着物を着たすずさんはずかずかと家に入り、土間段に腰を下ろす。

「話は聞かせてもらったよ。りょうぞうが薬を取りに行って戻るまでの間、あたいがここにいてやるからさ。やしろまで駆けてきな」


 いきなり登場した美女に、若い荒くれどもの目付きが代わる。

「こりゃぁ、美人さんじゃぁねぇか!」

「おい、まことにいいのか? 日が沈んだらどうなるか知らねぇぞ?」

「村のどの女よりも別嬪べっぴんさんだなぁ!」


 俺は、その様子に困惑する。

「ちょっとすずさん! すずさんが巻き込まれることじゃないですよ!」


 すると、すずさんが威風堂々と返す。

「何いってんのさ。家族かぞくの不始末は家族かぞくぬぐうもんだよ? いいから日が沈むまでに行って帰ってきな! あと四半刻しはんこくくらいしかないよ!?」


 すずさんに囃し立てられ、俺は粗末な家屋を飛び出した。


「必ず、必ず日が沈むまでに帰ってきますから!」


 西の空には大きく傾いた夕日があり、赤く赤く辺りを照らしている。


 あと三十分くらいの内に、遠く離れた神社までき、薬を持って帰ってくる。さもなくば、すずさんの身体がなぐさみものにされると示唆しさされた。


 俺は、ただひたすらに、ひたすらに、夕暮れの本所の町を駆け抜けていた。





 俺は、懸命に走りながら頭の隅で時間の計算をしていた。


 洲崎の東の方の海岸から、高橋近くの名賀山稲荷社まではジグザグの道をだいたい一里いちり、つまり4キロメートルほどある。そして、日が沈むまではだいたい四半刻しはんこく、つまり三十分くらいだと言っていた。


 往復8キロメートルの距離を三十分で、つまり平均時速16キロメートルくらいの速さで走り抜けなければならない。


 江戸の町には自動車が走っておらず、信号待ちがない。しかし、人は溢れるほどに大勢歩いており、走っている最中に何度も肩をぶつけた。


 俺は中距離陸上選手ではないのに、忠弘のように速くは走れないことはわかっているのに、力の限り走らざるを得なかった。


 俺のせいですずさんがあの荒くれどものなぐさものにされるかというと、そういうことはあまり考えられない。すずさんは炎の妖術を使うことも、影の妖術を使うこともできるからだ。


 しかし、その場面でその妖術を使ってしまったら非常にまずい事態となる。


 すずさんは、名賀山稲荷社の者であるとばれているからだ。すずさんが妖狐であることがばれたら、その噂は瞬く間に江戸の町中まちじゅうに広まってしまうだろう。


 俺は、すずさんたちの平穏へいおんな日常を壊したくなかった。ただ、すずさんたちの好きなこの江戸の町で安穏あんのんと暮らして欲しかった。


 俺の心臓が「もう無理! もう無理!」と悲鳴を上げていても、俺の体中の筋肉が「休もうぜ! 休もうぜ!」と誘惑を仕掛けてきても、俺は立ち止まる訳にはいかなかった。


 そして、4キロメートルほど走って名賀山稲荷社に着いたとき、俺は汗でびっしょりになっていた。


 西の塀の裏から、間借りさせてもらっている客間に足を運ぶ。そして、スポーツバッグの中にあった抗生物質入り傷薬などの数点の物を巾着袋に入れて、また駆け出す。


 太陽は既に残酷なまでに綺麗な夕日であり、上下に潰れていた。おそらく、あと十五分か二十分くらいで沈んでしまうだろう。


 再び本所の町を駆けていった俺は、巾着袋の紐に熊避くまよすずをかけていた。


 チリン チリン 


 すずが本所の町中まちなかに響く。周囲の視線が、全力疾走で町中まちなかを駆け抜ける俺の姿に注がれる。


 町行く人は皆、鈴の音がしたらこっちを見て、そして走っている俺を見て脇に避けてくれる。


 そして、洲崎の堤に出て、西から東に駆け抜ける。


――あとどれくらいだ? 1キロ? 2キロ?


 太陽は今にも沈みそうであり、後ろを見ると太陽の丸い輪郭の下側が山際にかかったようであった。


――だめだ、間に合わない。


 俺がそう思ったところ、何かで足を滑らせてすっ転んだ。


 どうやら、俺が無くしたと思っていたハンドタオルのようだった。


 おそらくは、俺の後ろを通り過ぎた犬がくわえてここまで持ってきたのだろう。


 そこで、俺の緊張の糸がぷつり、と切れた気がした。


 すずさんは、案外大丈夫かもしれない。すずさんは、何より妖狐だし、俺よりずっと世渡りが上手いし、この江戸を離れても案外楽しくやっていくかもしれない。


 そう、俺が急いで薬を届けなくても、日が沈んでからでもあの女の人の怪我を治せば、荒くれ者の漁師の若者たちも色々と勘弁してくれるかもしれない。それでいいのかもしれない。


 俺の体は、そんな甘い考えにむしばまれるくらい、とっくのとうに限界であった。


 でも、でもそれでは。


――おあきちゃんは、どうなる?


 俺は這いつくばって後ろのほうの地面に落ちてあったタオルを掴み、再び立ち上がろうとする。


――そうだ、忠弘ただひろならば、陸上選手の忠弘ただひろならば、このくらいなんとも思わないはずだ。

――忠弘ただひろは、走るのが好きだと言って、いっつもいっつも前を向いて走っていた。


――ただ、ただ、前を向いて。


――そう、俺にとってあいつは。


 俺がそう思って顔を上げたところ、そこには忠弘ただひろがいた。この江戸時代にはとても似つかわしくないような制服姿で。


 忠弘ただひろが、俺に手を伸ばし口を開く。

「りょう兄ぃ! 一緒に走ろ!」


 正面から赤い光に照らされた忠弘は、おあきちゃんが化けたものであった。


 俺は、もう片方の手で忠弘の伸ばした手を掴む。その手は、ゴツゴツしている頼もしい男の手であった。


 俺は立ち上がり、忠弘が背を向けて走り出す。忠弘の強い力に俺は体を引っ張られ、心も体も加速していく。


 おあきちゃんが化けた忠弘は、やはり走るのが速かった。


 その、力強い背中、俺が憧れた背中。中学時代に好きだった女の子が忠弘のことを好きだったと聞いても、決して恨めなかった背中であった。


 俺は、中学一年生のときに、ただの同級生であったたかしいじめられていたのを放っておけなくて助けたことがある。


 そして、たかしと一緒に俺もいじめられるようになった。


 校舎裏に呼び出され、プロレス技の標的になったこともある。


 たかしいじめれば、俺は勘弁してやると言われた。たかしも、俺をいじめれば勘弁してやると言われた。でも、俺もたかしも、お互いにそんなことはできないと言った。


 次の瞬間、俺達を苛めていた集団の中で一人だけ二年生だった奴が、しゃがんでいたところを誰かに頭に飛び蹴りをかまされた。次の瞬間、そいつは白目を剥いて気絶した。


 その飛び蹴りをかました男とは忠弘ただひろで、俺達の同級生だった。


 直後に俺たち三人は、その苛めっ子らと喧嘩をした。


 結局負けたけど、その日から俺達三人は親友になった。あの日の帰りに三人で飲んだ炭酸水は、傷だらけの体を癒してくれるかのような無類むるいの味がした。


――今なら本心を言える。


 そう思った俺は、手を掴んで走る忠弘の背中を見て叫んだ。

忠弘ただひろ! お前はな! ずっと俺のヒーローだったんだ!」


 すると、忠弘に化けたおあきちゃんは全力で走りつつ、こちらを向かずに叫ぶ。

「りょう兄ぃ! 『ひぃろぉ』って何!?」


「大切な友達ってことだよ!」

 手を引っ張られて洲崎の堤防を駆け抜けている俺がそう叫ぶと、おあきちゃん扮する忠弘が応える。

「りょう兄ぃ! 多分、忠弘ただひろって人もりょう兄ぃのこと、『ひぃろぉ』だと思ってるよ!」


「ああ! だといいんだけどな!」

 走る。走る。前を向いてひたすら走る。


 堤の上から右の眼前にひたすら延びる長い長い砂浜の上を、夕闇が後ろから俺達を追い越す。


 太陽が沈んだ。


 だが、山の向こうにあるはずの夕日に照らされてまだ空は仄明ほのあかるい。明るい限り、そこに希望がある限り、俺達は走った。


 そしてとうとう、俺達は漁師村に到着した。村の女の人や老人は、その巨体に風変わりな衣服を身に着けた忠弘の姿を見て驚いていた。


 あの怪我をしていた女の人のいた家屋からは、大勢の人間が出す騒がしい声が聞こえてくる。 


 俺はその家屋に、息を切らしながら入り込む。


――やけに騒がしい声が聞こえてくるが、まさかお楽しみの真っ最中ってことはないよな。


 あまりの苦しさに全身を上下運動させつつ息を繋いでいる俺は、その皆が楽しんでいる有様ありさまを見た。


 すずさんが、村の若い男達と酒宴を楽しんでいた。

「もう一杯いけ! もう一杯!」

「いけ! 呑め! 呑み潰しちめぇ!」

「なんだいなんだい!? 昔呑んだ薩摩さつまの男はもっと酒が強かったよ!?」


 最後の掛け声は、すずさんだった。俺は脱力してその場に両膝と両手をついた。





 結局、怪我した女の人の腫れたかかとはきっちりと処置をした。火で熱して消毒した刃物で切って膿を出し、抗生物質入り傷薬を塗って包帯で巻いておいた。


 明日も、明後日もこの漁師村に来て、経過観察をすることを約束した。


 俺は、すっかり日が暮れて薄暗くなった洲崎の堤防を、すずさんとおあきちゃんと一緒に歩いていた。おあきちゃんは俺の左、すずさんはその向こう側を歩いている。


 すずさんが口を開く。

「いやぁ、料理だけじゃなくって、医術までできるんだからねぇ。まことに大したものだよ」


 俺は返す。

「まぁ、応急措置くらいならできますけど、本職の医者にはとてもかないませんよ」


 すると、すずさんが返す。

「何言ってんのさ。医者なんて職業、看板掲げれば誰でも明日からでもなれるんだよ? おまいさん、稲荷社いなりやしろで医者やってみても良いかもしれないねぇ」


 すずさんは、薄暗がりの中でからから笑う。あんなにお酒を呑んだのに、ほとんど酔っていないようであった。


「いや、遠慮えんりょしておきます。そもそも俺は、人の命を背負えるほどの人間じゃないですから」

 俺がそう言うと、おあきちゃんが何かを俺に言いかけた。俺が「どうしたの?」と訊くとおあきちゃんは口ごもってしまった。


 そして、すずさんが口を開く。

「りょうぞう、おあきはりょうぞうと手を繋いで帰りたいんじゃないかい?」

 その言葉に、俺は納得して左手を差し出す。


 すると、おあきちゃんは少し恥ずかしそうに、その右手でしっかりと俺の手を握り締めてくれた。


 忠弘のゴツゴツした手とは全く違う、幼い女の子の柔らかい優しい手だった。


 すずさんが、俺に話しかける。

「ところでりょうぞう、あたいが砂浜で話した事ってわりと真面まじな話なんだけどさ……」


「いや、もう暗いから帰りましょうよ」

 すずさんの言葉に俺は自分の言葉をかぶせる。


 おあきちゃんは、少し照れてるようで目を合わせてくれない。


 しかし、その態度とは裏腹に、おあきちゃんはその手でぎゅっと俺の手を握り締め続けてくれていた。


――家族かぞく、か。


 俺は、すずさんにそう言われて、悪くない気分だった。


 晩春の海辺風は、なぎから陸風に移り変わろうとしていた。


 それは、洲崎の砂浜が延びる海岸での、どこか原初の感情に触れるような懐かしい黄昏時たそがれどきのことであった。



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