月が移り替わって三月の五日になってのことであった。
竹蔵さんとおいとさんは、一月に産まれたばかりの息子である
そして、すずさんが
その数字の
すずさんの話によると、
その日は、すずさんの用いている例の膏薬を
徳三郎さんは、竹蔵さんとおいとさんに
三月の九日から
半月から少し膨らんだ月は、既に西の空に沈みかけていた。
俺とすずさんとおあきちゃんの三人は、竹蔵さんたちの住む
深夜であるので人の声はまったくしない。ごみごみと並び立つ長屋の間には夜の風が通り抜け、どこからともなく野犬の
「わおーん! わおーん!」
「すずさん、どんな妖怪かはわかりますか?」
すると、巫女装束を身に着けたすずさんが応える。
「それはまだわかんないけどねぇ。でも、数の
すずさんが、挑発しているような面持ちを見せたので、俺も強がって返す。
「赤ん坊を食べるような妖怪には、
俺はそう口では言ったものの、内心ではすこし狼狽していた。
――本当に人間と見分けが付かない妖怪などだったら、殺すことで心の傷にならないとも限らない。
こないだ、人の形をした妖怪であるお美代さんと戦ったときは、頭を撃ち抜くのに当初は戸惑ってしまった。
だが、竹蔵さんとおいとさんの子供である
俺は、すぐ目下にいるおあきちゃんを見る。
――もし、おあきちゃんみたいな見目だったら、多分無理だ。
そんな事を考えながら待っていると、月影がもう長屋の影に隠れそうになったところで、すずさんが声を発した。
「来たよ。ありゃぁ、
すずさんの言葉に、俺は闇の向こう側を見る。月の光がほとんどないので相当に見づらいが、すずさんの背丈と同じくらいの人のような影が長屋の重なる路地に現れたのを見ることができた。
その者は、裾がぼろぼろの着物を着ていて、襟元からは膨らんだ胸の上部分の様子が見えていた。どうやら女性の妖怪であるらしい。
下半身の裾がいやにだらりと開いていて、膝がちらちら見えるくらいの脚線美を見せていた。足にはぼろぼろの
しかし、特筆すべきはその顔であった。口と目元は
笑っているようにも見えるが、悲しんでいるようにも見える様相で、ぐにゃりと表情が歪んだまま固定されている。そして、明らかに人ならぬものの特徴として、頭には一対二本の角が生えており、ぼさぼさの髪の上に突き出ている。少なくとも、普通の人間には見えない。
長屋と長屋に挟まれた路地の向こう、5メートルくらい向こうにて、その妖怪が立ち止まる。
そして、
「
すると、すずさんがそれに応え尋ねる。
「おまいさん、あの赤ん坊をどうする気だい? それをまず聞かせてもらうかねぇ」
すると、
「
すると、すずさんが
「
すずさんが舌をなめずって、
ここは長屋が密集する狭い路地なので、銃撃戦をすることはできない。長屋の薄い壁を流れ弾が貫通したら、寝ている住民に当たる可能性があるからだ。更には火事になる危険性があるため、炎の妖術も使えない。
日本刀を構えた俺と、
「食わすべし。食わしむべし。
古語混じりの言葉はよくわからなかったが、俺たちを皆殺しにするという
そして、
「
すると、薙刀を構えつつ足を滑らしていたすずさんがいきなり「ぐっ!」と叫んで固まってしまった。
俺は叫ぶ。
「すずさん!? どうしたんですか!?」
すると、すずさんが口から声を絞り出す。
「……
その言葉に、俺は目の前にいる
俺は、日本刀を構えて叫びながら、すずさんの脇を追い越し、駆け抜ける。
「うおおおおおおお!!」
日本刀を両手で持ったまま、
ガッキーン!!
金属と生体である爪がぶつかる音が路地に響いた。
俺は、両方の腕に力を込めて押し込もうとする。ぎりぎりと歯を
――まずい!
しゅっ、という風きり音と共に、
そして、身を引いたタイミングでもう一度体ごと突っ込み、今度は横から薙ぎ払う。
ガン! ガン! ガキン!
俺は、何度も何度も日本刀を振り
しかし、何度斬りつけても、何度斬りつけても払われるとはいえ、少しずつ
――
そんな
――いける!
俺が、右側からの斬撃を喰らわせようとしたところ、今まで黙っていた
「
その言葉と共に、斬り付けようとした俺の体は後ろに吹っ飛び、長屋の壁板に勢いよく背中から激突した。
「ぐっ!」
俺が、壁に背をすり土に尻をつけたところで、
――殺される!
ザグリ!
次の瞬間には、脇から伸びたすずさんの
肉を切り裂く鈍い音と共に腹を割かれた
「りょうぞう! 大事ないかい!?」
「平気です!」
俺はおあきちゃんの化けた日本刀を持ったまま立ち上がり、すずさんの傍に移動する。
俺たちから離れた
「
すると、さっきまで深くえぐれていた傷は瞬く間に修復されていった。
その様子を見て、すずさんが俺に伝えるかのように叫ぶ。
「どうやら、殺すには首を
そして俺も、気付いた事を口にする。
「一度に一つの
「そうだね。まずは相手の口を
と、すずさんが言ったところで俺はある策を考え付いた。俺の影の中には未来から持ってきたスポーツバッグが潜ませてあり、あの中に入っていたものを使えば相手の
「すずさん! 一旦隠れましょう!」
「あいよ!」
すずさんが俺の言葉を聞いて速やかに俺の
そして、長屋の反対側に出た所で俺はすずさんに伝える。
「すずさん! 俺の荷物を影から出してください! 相手の口を
その言葉に承知がいったという顔をしたすずさんは、持ってきたスポーツバッグをにゅるりと影から出した。
俺が、日本刀を脇に置いてスポーツバッグをまさぐっていると、すずさんが叫んだ。
「近づいてきたよ! 早くしな!」
バッグを探していた俺は、目当てのもの二つを見つけて右手と左手でそれぞれ掴む。
――これさえあれば!
俺がそう思ったところ、すずさんが
「
その言葉と共に、すずさんが俺を蹴飛ばす。
ザクリ
長屋の屋根から飛び降りた
そして、地面から爪を抜いてゆらりと立ち上がり、こう言う。
「おのれ
すずさんに蹴飛ばされた俺は、両手に物を持ったまま
爪を伸ばした
そして、俺はすずさんに対して叫ぶ。
「受け取ってください!」
スポーツバッグから取り出した二つのスプレー缶、コールドスプレーと日焼け止めスプレーのうちの片方、コールドスプレーを
そして、
「
その言葉に、俺の体が動かなくなった。
「ぐっ!」
俺は声を上げる。体中を見えない
向こうを見ると、
――しまった、
俺は自分の浅はかな
そして、
――
俺がそう思った瞬間、
「ぎっ!」
「
笑い般若はそう叫ぶと、おあきちゃんの化けた犬をおもいっきり蹴飛ばした。蹴飛ばされて地面に転がった柴犬は、少し離れた地面で気絶したおあきちゃんの姿に戻る。
「おあきちゃん!」
「おあき!」
俺とすずさんが同時に叫ぶ。
すずさんがおあきちゃんに駆け寄る。俺は
シュー!
勢いよく噴き出した日焼け止めスプレーの噴射剤が、
「おのれ……ごほっ! ごほっ!」
咳き込み、
俺が一瞬喜んだところ、スプレー缶を構え突き出した俺の右手首の存在する空間を、
ぽとり。
俺の右手首から上の部分が、スプレー缶を握り締めたまま、地面に落ちる。
「ぐっ!」
俺が
「がぁぁぁぁ!」
激痛に、俺は無くなった右手首の近くを左手で支える。すると、その左手首のある領域を再び笑い般若の長い爪が通過する。
ぽとり。びしゃ。
左手が骨芯の入った薄い肉片と共に、
脳に与えられたのは、激痛という概念を抽象化した結晶であるかのような信号だった。
しかし、俺は気を失わなかった。
――痛いものか、おあきちゃんが蹴飛ばされた痛さに比べればこんなもの痛いものか。
目の前では、激昂した
すると、
ボワァ! ボワァ!
コールドスプレー缶の噴射口の直近に狐火を浮かべ、LPガスを噴射しつつ向かってくるすずさんが目の
ガスッ!!
次の瞬間には笑い般若は、広がった炎を分け入って全速力で向かってきたすずさんの
スプレー缶を投げ捨て、
がしり。
すずさんが、
「ごほっ! や……やめたま……」
「聞こえないねぇ!」
すずさんはそう叫ぶと
切断された体の方からは、高さ
すずさんが、その持っていた首をぽいっと投げ捨て、俺の元に駆け寄る。
「りょうぞう、血が出てるよ。今すぐに
俺が手元を見ると、右手も左手も手首の先から切り落とされて、血が定間隔に噴き出している。すずさんが人型の妖怪の首を
すずさんは、自分の頭の後ろに手を回すと、いつも自分の髪を
その時、そう、その時だった。
俺の胸の中にある
すずさんは四角い布切れになったそれを更に
俺は問いかける。
「あの、いいんですか? 大事な布じゃないんですか?」
「何いってんだよ。りょうぞうの命より大事な布なんてある訳ないだろさ」
その言葉に、俺の心臓が再び鼓動を強める。そして、すずさんは言葉を続ける。
「すまないねぇ。おあきを早く起こして、りょうぞうの傷を治させてやるからさ」
俺は今、両方の手首から先が無い状態になっている。それはすぐにおあきちゃんが治してくれるから、さして問題ではない。
それよりも、その姿、その雰囲気、その容貌。
その、
俺は自分の中にある気持ちの芽吹きを否定する。
――違う、俺が好きなのは葉月だ。俺のクラスメイトの葉月だ。決して違う。決して、決して。
すずさんは、おあきちゃんを介抱しようとおあきちゃんに駆け寄る。地面に
おあきちゃんが起きると、こちらに大急ぎで駆け寄ってくる。俺がおあきちゃんに手をかざしてもらったところ、俺の右と左の両手は、最初から何も攻撃を受けなかったかのようにしゅるりと元に戻った。地面に落ちていた俺のオリジナルの両手は、虚空に掻き消えてしまった。
そして、すずさんは
そして、すずさんは胸元から和紙を取り出し、その光点を
おあきちゃんの治療の妖術を受けている間も、俺の心臓は力強く拍動を続けたままだった。
そして
――なんで、すずさんを見ていると初恋のお姉さんを思い出すんだ。
――俺は、俺は、何故だ。
あのとき、おあきちゃんに赤ちゃんがどうやったらできるのかという困った質問をされた日に、夕日を二人で見たときに、すずさんに好きな男がいたと告げられたときに心の中で引っ掛かった違和感の正体がやっとわかった。
もしかして俺は――
――すずさんに、恋をしている?