二月の二十二日のこと、春のポカポカ陽気が江戸を包んでいる頃合の、天気の良い日の事であった。
江戸の通人は梅を好み、俗人は桜を好むと言われる時代とはいえ、やはり桜を好む俗人の方が江戸には多い。そして桜をただ愛でる俗人よりも、ただただどんちゃん騒ぎをしたいがために、桜の木の下で呑み集まる者の方がなお一般的である。
足音を立てつつ江戸に歩み寄ってきた春の神様は、今現在この江戸の町に堂々と胡坐をかいている。そして、江戸の民がそうであるように惚け声を出しているかのようであった。
昼近くに、深紫色の着物を着たすずさんは手習い所の子供達を引き連れて、本所の北、向島の大川沿いにある墨田堤すぐ近くの草茂る野原にて、遠足がてらのお花見をしていた。無論、俺も荷物持ちのためについてきている。
おあきちゃんと徳三郎さんは、一緒に小舟に乗って川の上から桜を見物すると言っていた。
少し離れた所にある土盛り上がった墨田の堤には、桜の花びらが見目鮮やかに乱舞してるかのように、木の枝にその華麗な花を咲き誇らせている。
お花見をするために数え切れぬほどの江戸の民が、祭りであるハレの日を楽しんでいる。
紺色の着物を着て、墨田堤近くの野原に敷かれた茣蓙の上に手習い所の面々と一緒に座っている俺は、満開の桜が並んで植わっている堤の方を見る。
桜並木の下には大勢の人が行き交い、堤の近くには多くの屋台が並んでいる。
この広場には、おそらくは江戸中から人が来ているのだろう。大勢の人たちが地面に茣蓙を敷き、弁当の豪華に設えた料理を食べ、酒を呑んでいる。いろんな所から、この時代には鳴り物と呼ばれている様々な楽器の音色や、酒に浮かされた人たちの唄声が聞こえてくる。食器を打ち鳴らすような音や、手を叩く音などもしきりに聞こえてくる。
まさに、どんちゃん騒ぎと呼ぶに相応しい喧騒だ。
川沿いに長く伸びる春草萌ゆる野原にて、宴を催している人の数はどれくらいかというと、千や二千ではきかないだろう。立ち上がって見渡すだけで、一万人を超えているかもしれない人たちを見ることができる。
ここ、向島の墨田堤にある桜並木は庶民が桜のお花見をする際の定番スポットであるらしい。あるところには、忠臣蔵の四十七士だろうか、コスプレをした集団が鐘や太鼓を打ち鳴らしながら歩いていた。
チャンチャン ドンドンドン ベンベンベン
様々な所から、三味線をかき鳴らしているような弦楽器の音、小太鼓を打ち鳴らす打楽器の音、篳篥のような吹奏楽器の音などが聞こえる。江戸時代の流行り歌を吟じている人も大勢いる。言葉といえないお囃しの声は数多の楽器の音と混ざり合い、ごちゃまぜの音を響かせている。
そんな乱雑な交響楽団の音色の中で、俺の隣に座っているすずさんはというと、子供達に囲まれながら酒を大きな瓢箪から酒枡に注いでは呑み、ほろ酔いとなっている。子供達に囲まれて酒を呑む教育者の姿なぞ、未来ではまずありえない光景だ。
茣蓙の上に座っている子供達は、それぞれが親から手渡された弁当を広げて食べている。甘酒を飲みつつ、子供同士でおかずを交換したりもしている。更には稲荷社で用意した大きな重箱の中に入った卵焼きや蒲鉾などの豪勢なおかずを楽しんだりもして、小学校の年中行事のようにはしゃいでいる。
すずさんが俺に酒枡を手渡そうとして呑ませようとしたが、俺はまだ二十歳になっていないので呑むことは遠慮した。子供達に野暮だとからかわれたが、俺は自分の信念を通した。
俺が酒を勧めてくるすずさんを避けるため「ちょっとその辺、歩いてきます」と言って、場を離れたのはごく自然なことであっただろう。
茣蓙がそこらへんに敷かれ、その上では漏れなく大勢の人が酒宴を開いている。あるところは長屋の仲間達、あるところは商店の一団と思しき人たちが集まり酒を呑んでいた。
どんちゃん、どんちゃんと騒がしい音を脇に歩き、俺は堤の上に登った。
堤から見た春の麗の大川は、どこまでも美しかった。多くの舟が川の上を優雅に行き交い、対岸もまた桜並木が彩られていた。
遠くに見える桜も緑も多い山は、上野の山だろうか。寺が多い山がずっと向こうに鎮座していた。
すずさんに聞いたところによると、この文政の世においても上野の山には二十一世紀と同様に桜の名所はあるが、鳴り物を鳴らすことさえ禁止されているらしい。
俳句を詠んだりして静かに上品に桜を楽しみたい人たちが集まるのが、上野の山の桜並木の下で行われる厳かな花見であるらしい。武士も多くは上野の山で花見を楽しむのだとか。
対照的に今俺がいるこの墨田堤は、鳴り物、詩吟、酒、仮装、なんでもござれの騒乱じみた桜の名所であり、庶民が乱稚気騒ぎをするにはもってこいの場所なのである。
墨田堤には半里[約2キロメートル]に渡って桜の木が植えられており、大勢の江戸の庶民に『千本桜』の名で親しまれている。
アスファルトやコンクリートで舗装されていない、土でむき出しの道となっている堤を俺一人で歩いていると、見覚えがある姿が視界に入った。
身長150センチ台半ばくらいで、ゆるく結った結髪に木でできた笄と呼ばれる髪飾りを横一文字に挿している、少し釣り目がちの猫っぽい女性であった。そして、肩に回した紐で仕事道具の三味線を下げ、何やら笹包みを紐で手にぶら下げている。
俺は声をかける。
「こんにちは、お美代さん。お花見ですか?」
雪積もる冬の本所の町で、ちょっとした行き違いで一戦交えたことのある、猫又の女性であった。
「あら、狐の使いの坊やじゃないかい。あたしは仕事だよ。花見客で銭払ってでも三味線を弾いてもらいたいってのが大勢いるからね」
この花見をビジネスチャンスと捉えている江戸の民はわりと多く、屋台だけでなく茣蓙の貸し出し、樽に入れた酒の量り売り、サツマイモを油で揚げたお菓子の売り歩きなど、商魂たくましい人たちをその辺りで大勢見かけることができる。
俺は、お美代さんに言葉を返す。
「そうですか。お父さんはお元気で?」
「お父っつぁんは元気だよ。今日も料亭で仕事で、帰りにあたしが迎えにいくのさ。あの女狐は相変わらずかい?」
「ええ、子供に囲まれて酒とか呑んでますよ」
そんなことを話しながら、二人で桜の花が咲き誇る墨堤を歩いていると、お美代さんがいきなり上を見上げた。
「あれ!? あの枝に子供が登っているねぇ! おーい、降りられないのかい!?」
お美代さんが、桜の木の上の方に視線を向けるので俺も向ける。頭の上には花のような飾りを調え、豪華に着飾った裕福そうな十歳くらいの女の子が、一人桜の枝に登っている。どうやら明らかに降りられないようであった。
高さは4メートルくらい。落ちたとして、当たり所が悪かったら充分死ぬくらいの高さである。しかも花飾りの簪を何本も頭に挿しているので、落ちて一本でも体に刺さったとしたら致命傷になるということは存分に考えられた。
俺は、大声で女の子に問いかける。
「降りられないの!? 大丈夫!?」
しかし、不思議なことに女の子は声を出そうとしなかった。口をつぐんだまま枝につかまり、頭をぶんぶんと横に振るだけであった。
俺は、お美代さんに告げる。
「怖くて声が出ないのかもしれませんね。俺が登って助けます」
「ふぅん? じゃあ止めやしないけどさ。滑り落ちないようにはしときなよ?」
お美代さんの言葉を背中に受け、俺は桜の幹に手を回す。
威勢の良い事を言ったものの、俺も木登りの経験なぞ生まれてから数えるほどしかない。
なんとかかんとか、幹を登ってから女の子のしがみついている枝に掴まり、手を伸ばす。
俺は、女の子に声をかける。
「落ち着いて、手を伸ばして掴まって」
俺の声に、女の子が枝を掴んでいた手を離し、俺の手を握ろうとする。
しかし次の瞬間、女の子は掴まっていた方の手を枝から滑らせ、大きくバランスを崩してしまった。女の子の重心は桜の枝から外れ、吸い込まれるように地面への落下運動をするように滑って行く。
「危ない!」
俺は叫んで身を跳ねさせ、女の子の手を掴む。そして女の子を引き寄せつつ、体ごと地面に引き寄せられる。
――落ちる!
俺と女の子の体が、一体となって4メートルほどの高さから墜落するコースに突入する。
女の子を空中で引き寄せて抱きかかえた俺の体は落下して、背中から地面に激突する直前に、音もなく空中停止した。
一拍の時間を挟んで、俺の体はどさりと地面に落ちた。
――あの高さから落下したのに、ほとんど痛くなかった。
俺の視界の端では、お美代さんが俺たちを見てにんまりと笑っていた。おそらくはお美代さんが屍を操る妖術で、木綿の屍でできているといえる俺の着物を操って落下を止め、なんとか怪我を防いでくれたのであろう。
女の子の着物は一目でわかるほど流麗な文様に彩られ、光沢を持っている。どうやら絹でできている相当に高級な着物であるらしい。
地面に腰をついた俺は、助けた女の子に話しかける。
「大丈夫? 桜の木なんかに登っちゃ危ないよ?」
すると、女の子は少し放心していたようであったが、すぐに気を取り直して俺から離れる。
その女の子の頭は見事な造花の簪にて飾られ、結い髪の両サイドにある鬢と呼ばれる箇所からは、一対の長いつやのある垂髪が伸びている。どの方角から見ても相当に顔立ちの整った八面玲瓏な女の子であった。
そして明瞭な声で俺に礼を告げ、礼をしてくる。
「私めには大事ございません。有り難うございます」
まだ十歳かそこらだというのに、随分としっかりしている口調であるという印象を持った。やはりこの時代の子供は精神年齢が高い。
お美代さんが俺たちに近づき、声をかける。
「あんた、何で声を出さなかったんだい? 叫べば梯子なりなんなり、持って来る男とかもいただろうにさ」
すると、女の子は何かを言いかけたが、口ごもったようになってしまった。
その小さい体に気位を湛えた女の子は、自分の名を溶と名乗った。大川の向こうに住む武家の娘で、今年の正月に数え年で十一歳となったらしい。今日は本当は御付の人たちと一緒に来ていたのだが、逃げ出してきて桜に登って隠れていたのだという。
御付の人たちがいるってことは、身分の高いお嬢さまなのではないかと思ったのだが、お溶ちゃんは明言を避けて言葉を濁した。だけど、絹の着物を着て、繊細な装飾の彩どられた簪を幾つも髪に飾っている時点で、相当なお金持ちの武家の子女であることは予想できる。
――もしかしたら、どこぞの大名家の娘かもしれない。
――この江戸時代には、地方大名の奥さんと子供は皆、江戸に住んでいたって聞いたことあるし。
俺はお美代さんとお溶ちゃんと一緒に、お美代さんが席料代わりに貰ったという笹包みを開け、墨堤名物の桜餅を食べた。
お溶ちゃんは「このようなもの、生まれて初めて食べました」と言っていた。
――桜餅すら食べたことがなかったって、どんな生活をしていたのだろうか。
あと、なぜかお美代さんに懐いていた。美代という名前に、特に親しみがあるのだという。
俺がお美代さんと一緒に、お溶ちゃんを連れて歩いていると、お溶ちゃんが色々と尋ねてくる。
花見をしている人や物売りたちを指差して「あれは何?」「あの恰好は何?」「あの人は何故、裸で踊ってるの?」といった塩梅であった。俺はこの時代の事にはあまり詳しくないので、答えるのはもっぱらお美代さんにまかせた。
色々話をしてみたところ、お溶ちゃんは大川を渡って本所に来ること自体が初めてであり、父親に無理を言って御付を従えることを条件に、この墨田堤に来させてもらったらしい。
俺は、お溶ちゃんに話しかける。
「お父さんを心配させちゃいけないよ。御付の人だって上に仕える武士なんでしょ? お溶ちゃんがいなくなって今頃、血眼になって探していると思うよ?」
すると、お美代さんが笑みを浮かべながら告げる。
「ひょっとしたら、切腹ものかもしれないねぇ。あんたが逃げたことでさ」
すると、お溶ちゃんが大声を張り上げる。
「それは困ります!」
俺は、その言葉を聞いてお溶ちゃんを諭す。
「じゃあ、なおさら帰ったほうがいいんじゃない? そもそも武士は上野の山とかで花見をするって聞いたけど、何でこんな庶民が集まるような所に来たの?」
するとお溶ちゃんは、十歳くらいの女の子には似つかわしくないような憂い顔を見せて、俺たちに告げる。
「この場所は、私めの高祖父様が下々の民のために力を注いだ場所だとお聞きしたのでございます。ここに来れば、高祖父様が私めの迷いを払ってくれるのではないかと思ったのでございます」
高祖父という言葉が何を意味するのかは俺も聞いた事がある。祖父の祖父、つまりひいひいお祖父ちゃんのことだ。
どんな迷いか気になった俺は尋ねる。
「迷いって何?」
「縁談でございます」
――思ったより深刻だった。
俺はその女の子に声をかける。
「その年齢で縁談って……武士の家じゃ当たり前とか? 確かにその齢で結婚とかするとなると、相手がどうかわからないし迷うだろうね」
すると、女の子が顔を引き締めて俺に返す。
「いいえ! お相手に不満がある訳ではございません! お相手は齢も近く、石高も高く、気位も高くて……私めに充分に値するお方でございますが……私めの御母上が少し……業の深いお方でございまして……お相手さまのご迷惑にならないか心配で……」
するとお美代さんが察したのか、難しい顔をして告げる。
「なるほどねぇ。おっ母さんが欲深で、金遣いが荒くて、更に相手の殿方がお金持ちってとこだね? よくある話だねぇ。お溶ちゃんも、おっ母さんを無碍にもできないからねぇ。困った話だよ」
そんな事を話しつつ、俺たち三人は堤を降り、大勢の花見客で賑わう宴会場となってる野原に足を運ぶ。
そして、すずさんや手習い所の子供たちが集まっている場所に戻ってきた。
既に、徳三郎さんとおあきちゃんも舟での物見から戻ってきて、すずさんの近くに座っている。
やや頬を染めた顔をしたすずさんは、俺たち三人を見るなり、こう言った。
「あれ? りょうぞう、いつの間に所帯持ったんだい?」
「いや、違いますよ。お美代さんですよ、忘れたんですか?」
俺がそう言うと、お美代さんは不敵な笑みを浮かべた。
「あらあら、酒に酔った女狐さん。その子供たちは締めに食らう酒の肴かい?」
すずさんも、負けじと応える。
「化猫さんこそ、何いけしゃぁしゃぁと家の小僧をたぶらかしてんのさ。ご丁寧に子供まで連れちゃってさ」
なんか、お美代さんとすずさんが睨みあってその中間点に火花を散らしている様相であったので、俺は二人をなだめて取り繕った。
「落ち着いてください。今日は花見で宴の席なんですから、喧嘩はやめてください」
そして、おあきちゃんが尋ねかけてくる。
「そっちの女の子は誰?」
「ああ、この子はお溶ちゃんっていって単なる迷子だよ。ちょっと一緒にいてあげて」
俺がそう言うと、お溶ちゃんは軽く一礼して草履を脱ぎ、おあきちゃんの隣に座った。
すずさんが、お美代さんに対して酒枡を掲げ、要求する。
「その三味線は飾りかい!? 吊ってるだけの張子じゃないだろうねぇ!? 何か弾いてみなよ!?」
「あらあら、この三味線は飾りなんかじゃなくて大事な商売道具さ。弾いてもらいたいんなら、銭を寄越しな。前払いだよ?」
そんな感じで、すずさんとお美代さんの間に丁々発止の言い合いが繰り広げられるも、なんやかんやで楽しい花見の宴となった。
お溶ちゃんが宴に加わってから、半刻[一時間ほど]ばかり経っただろうか。昼飯を食べ終わった子供のうち男の子たちは、そこらへんに広がっている向島の野原に虫を取りに駆けて行ってしまった。
必然的に女の子だけがこの茣蓙の上に残され、男性は俺だけとなってしまった。徳三郎さんはお溶ちゃんのお供を探すと言って、どこかに行ってしまった。
なんだかんだで、お美代さんは銭を受け取らないまま三味線を弾いてくれて、その旋律に合わせて女の子たちが歌を唄っている様は小学校のイベントみたいで微笑ましかった。
俺は、隣に座っているおあきちゃんの向こうにいるお溶ちゃんに話しかける。
「お溶ちゃん? 武家の子にはちょっと騒がしいんじゃないかな?」
すると、酒枡を両手で持ったお溶ちゃんが、顔を赤らめながら返してきた。
「いえいえ、ひっく。私めは兄弟姉妹が多いので、これくらいの騒がしさは慣れております、ひっく」
その様子に驚いた俺は、向こう側にいるすずさんに顔を向けて叫ぶ。
「ちょっとすずさん!? お酒呑ませたんですか!?」
「ん? しょうがないだろ? 甘酒が尽きちまったんだからさ。それにさ、聞いたところによると、縁談がまとまりかけてるらしいじゃないかい。だったらもう立派な大人だよ」
すずさんの縁談という言葉に、手習い所の女の子たちが一斉にお溶ちゃんに視線を向ける。
「縁談ん!?」
「嘘ぉ!? あたしと同じくらいの齢なのに!?」
「相手はどんな人?」
「見目良い!?」
「お金持ち!?」
お溶ちゃんは、小学生くらいの年頃の女の子たちの問いかけの集中砲火を浴びていた。
そんな中、酒で若干酔った様子のお溶ちゃんは、律儀に答えていた。
話を総合すると、お溶ちゃんのお相手は二歳年上の十三歳の若殿さまで、既に当主となり百万石の領地を治めているらしい。顔は知らないが、文はよく交わしているのだという。
多少盛ってるかもしれない。いや、おそらくは盛大に盛っているのだろう。いくら大名家のお姫さまだったとしても、縁談相手が百万石の領地のお殿様って、そんな馬鹿な。
手習い所の女の子達も、お溶ちゃんが法螺をふいているのをわかっているのか、敢えて話に乗って楽しんでいるようであった。
――まぁ今日は宴の席だし、そういうのも楽しいからいいかな。
俺がそう思ったところ、お溶ちゃんは赤ら顔をすずさんに向けて問いかける。
「おすずさま、ひっく。殿方と仲睦まじくなるという秘訣は、ひっく。どういったものなのでございましょうか? ひっく」
すると、すずさんが得意げな顔で応える。
「ああ、そりゃあさ、とっておきの方策があるけど、聞きたいかい?」
すずさんのしたり顔に対して、手習い所の女の子達が「聞きたい!」「聞きたい!」と繰り返す。
そして、すずさんは豪語する。
「男ってのは、なんだかんだで抜けてるところがあるからねぇ。要は、馬に乗るお侍のように手綱をしかと握ることだよ。そのために要するのは、男をどれだけ立てられるかってことさ」
手習い所の女の子たちは、突如始まったお師匠さまの恋愛講座を嬉々として聴いている。
すずさんは、言葉を続ける。
「男ってのは面目を重んじるもんだよ。共にいて疲れさせちゃぁいけなくて、男の癒しにならなくちゃぁいけないのさ。その為には、男を試さずに素直に己の心を伝えて、甲斐甲斐しく立てて煽てて誉めて弥して、いい気にさせりゃいいのさ。そして、男の方から離れられなくなったら女が手綱をしかと握るのさ。そうすれば、男なんて早馬のように懸命に女のために走ってくれるよ」
そんなすずさんの話を聞いて、お溶ちゃんがふむふむとしきりに頷いていた。
すると、お美代さんが茶化す。
「それ、身をもって学んだことかい? ただの耳年増が唱える空念仏で、聞きかじりの陸水練じゃあるまいね?」
「この身で知ってることだよ! あたいに今男がいないとでも思ってんのかい!?」
すずさんが大声で返すと、手習い所の女の子達の目の色が変わる。
「ええー!? 誰? 誰?」
「まさか、そこにいる、りょうやさん? 違う?」
「どんな人なんですか!? 所帯は持たないんですか?」
女子たちが生まれながらに持つ機関銃の銃口の向きが、瞭然とすずさんに集中した。そして、お美代さんはしてやったりという面持ちで口元をにやりと歪めた。
俺は、その光景に既視感を覚えた。小学校の女の先生が、児童に先生の恋人のことを根掘り葉掘り聞かれているあの光景だ。これは、お美代さんの計算通りと言わざるを得ない。
すずさんが困り顔をしつつ何とかかんとか誤魔化しているのを眺めつつ、俺は隣に座っているおあきちゃんに尋ねる。
「おあきちゃん? 花見っていつもだいたいこんな感じなの?」
「まぁ、毎年いつもこんな感じかな」
おあきちゃんの言葉に、俺は苦笑いをした。
お溶ちゃんもすっかり手習い所の女の子たちやおあきちゃんと打ち解けて、色々な愚痴を聞いてもらっていた。
自分は好きで堅苦しい家に生まれたわけじゃないことや、別の家の友達がもっと欲しかったこと、母親が強欲であることにうんざりしているけど文句を言えないことなどを愚痴っていた。
女の子たちは女の子たちで、お溶ちゃんと楽しくお喋りしていた。
「わかるわかる!」
「あたしも、おっ母さんが銭に細かくってさ!」
「お武家さまも同じなんだねー!」
おあきちゃんを含めた六歳から十二歳くらいまでの女の子たちは、女子力を如何なく発揮し、ガールズトークを繰り広げている。
すずさんはというと、お美代さんと向かい合い口喧嘩を交わしつつ、一人顔を赤らめながら酒を飲んでいる。案外良い友達になれそうじゃないかこの二人。
すると、どこか遠いところから時の鐘の捨て鐘が聞こえてきた。もう昼八つ[午後二時ごろ]になったのだろう。
一人しかいない男性である俺は、後ろに気配を感じたので振り返る。
すると、そこには徳三郎さんが立っていた。そして、その後ろには立派な裃を身に付けた、格の高そうな中年のお侍さまが三人、ぜぇぜぇと息を切らして肩を上下させていた。
その、裃を身に付けたお侍さまたちがお溶ちゃんの顔を見て口々に叫ぶ。
「姫様! ようやく見つけましたぞ!」
「良うございました! もし攫われでもしたら、身共一同腹を切らねばならぬところでございました!」
「おい! 駕籠だ! 今すぐ駕籠をここへ呼んで参れ!」
三人とも汗まみれで、ものすごく必死で探していたことが伝わってきた。
すると、茣蓙に座っていたお溶ちゃんは、近くに座っていたおあきちゃんの着物を掴む。
「ええぇー? 私めはもう少し、町の衆と花見を楽しみとうございます、ひっく」
すると、お侍さまは困り顔で哀願する。
「我侭を言わないでくださいませ。嫁入り前の御大事な身でございますぞ。このような賤女どもと共にいてはいけませぬ」
すると、お溶ちゃんは声を張り上げる。
「賤女などと無礼な事を言わないでくださいまし! この方々は私めのお友達にございますよ! ひっく」
その言葉に、裃を着た侍たちは困り顔を更に引きつらせた。
そして、お美代さんが、わざとらしい大声で侍たちに話しかける。
「あらあら、法螺かと思ってたら眞に身分の高いお姫さまだったんだねぇ。じゃあ、百万石の大名と縁談がまとまりかけてるってのも、眞の事だったんだねぇ」
その言葉に、侍たちはぎくりとし、冷や汗をあからさまに顔に滲ませた。
そして、財布を取り出してその財布から小判で七枚、つまり七両のお金を取り出して近くにいる徳三郎さんに渡そうとする。
「神主さま、この度のことはどうか、どうか御内密に。こちらは御姫さまを御世話していただいた礼にございます。どうか、どうか何卒、何卒御内密にお願い致します」
徳三郎さんが「いや、礼にはおよば……」と受け取りを拒もうとしたところ、後ろから近寄ったすずさんが素早く七枚の小判をすらりと抜くように受け取った。
「はいさ、ここにはお姫様なんていなかったし、百万石のお殿様との縁談も、ただの法螺話だね。みんなもいいねぇ!? この事はここにいる女だけの内緒だよ!?」
すずさんが、後ろを振り向いて女の子たちにそう声をかけると、女の子たちも了承の言葉を口々に唱える。
そして、お美代さんがすずさんの後ろから近寄り、その七枚の小判のうち三枚を抜き取った。
「じゃあ、これはあたしの取り分だね」
「ちょっと、化猫! なに掠め取ってんのさ!?」
すずさんが文句を言うも、お美代さんは笑いながら返す。
「何いってんのさ? お溶ちゃんを見つけてここに連れてきたのはあたしだよ? それに、桜の木から落ちたそこの坊やを助けてやったしさ。まぁ、三味線弾いたお代だと思っときなよ」
「一席で三両って、強欲過ぎやしないかい!?」
「どの口が言うのさ、神主さまが断ろうとした金を貰っておいてさ」
そう言うお美代さんの顔にすずさんが顔を近づけ、至近距離で睨みつける。その間には再び火花がバチバチと散らされているように感じる。
俺は立ち上がり、二人の間に入り、まぁまぁとなだめる。
すると、お溶ちゃんがいきなり噴き出し、朗らかに笑い出した。
「うふっ! うふふふ、うふふふ! あはははは!」
その様子を間近で見た、おあきちゃんが尋ねる。
「どうしたの? どうして笑っているの?」
すると、お溶ちゃんがにこにこ笑いながら応える。
「私め、このように楽しき宴は初めてにございます。ようやくにして、高祖父様が何故に、このような騒がしい場所を造ったのかが判りました」
周りの女の子たちは、お姫さまの言葉を興味深く聞いている。
そして、お溶ちゃんは言葉を続ける。
「下々の民草も私めらと何ら変わりございません。様々な迷いを持ち、それ故に桜を愛でながら皆で楽しみ、笑みをもって憂さを晴らすのでございますね。私めの高祖父様は、偏に庶の方々に心の底から笑んで欲しかったのだと存じます、ひっく」
その言葉を聞いて、俺は近くにいる徳三郎さんに小声で尋ねる。
「徳三郎さん? この墨田堤を造ったのって誰なんですか?」
「ああ、桜を植え始めたのは四代目の将軍様かららしい。だが、身を入れて桜を植えつけ、堤を整えるのに取り掛かかったのは百年ほど前、米将軍と呼ばれた八代目の将軍様からだな」
「じゃあ、その子孫であるお溶ちゃんって、一体何ものなんですか?」
「まぁ、おそらくは当代の将軍様の御息女といったところであろうな」
徳三郎さんから小声で聞いた俺は、驚きの視線をお溶ちゃんに向ける。
つまり、あの女の子は地方の有力大名の娘どころか、天下人たる徳川将軍の娘で、正真正銘のプリンセスだったということだ。
そして、堤の上から現れた駕籠かきが黒い漆塗りの豪奢な駕籠を持ってきて茣蓙の傍に降ろしたところで、周囲の視線が集まる。
お溶ちゃんは立ち上がり、先ほどまで和気藹々とお喋りを楽しんでいた女の子たちに別れの挨拶をかける。
「では、私めはこれで帰らせていただきます。多分に、これは高祖父様のお引き合わせだったのでございましょう。皆様今日は有り難うございました、ひっく」
酒気をおびて頬を朱色に染めた徳川のお姫さまは、そう言ってから深く頭を下げて礼をし、気品溢れる仕草で草履を手に取って駕籠に乗り込んだ。
お溶ちゃんが駕籠の中に座り、御簾代わりの引き戸を閉じる前に、すずさんが言い放つ。
「良いお嫁さんになりなよ!」
その言葉にお溶ちゃんはにっこりと微笑み頷き返し、引き戸を閉じた。
そして、花見客騒がしい喧騒の中を、御付のお侍たちと共にどこかに去ってしまった。
あの楚々としたお姫さまは、爛漫と咲き誇る桜の花びらのように、風と共に消えていってしまった。
そして、小判を三枚すずさんから掠り取ったお美代さんもどこかに消えてしまっていた。
すずさんは辺りを見渡し「あぁんの泥良猫ぉ!」と叫んでお美代さんを探すために走り去っていった。
茣蓙の上に残された女の子たちは、呵呵大笑の様相を見せた。
満開の桜が水際立つ、春の音が風に吹きわたる、どんちゃんどんちゃんと騒がしい、とある休日のことであった。