平成の世ではこの日はバレンタインデーと呼ばれ、意中の人がいる中高生には心休まらなくも
すると、
俺は大して気にもせず、布巾を廊下に置いてあった桶の水で絞り、床の間の
俺が掃除のためにその桐箱を持ち上げると、頭の中に声が響いた。
「……探して……あの人に……逢わせて……」
確かに俺の頭の中に響いた。そう判断した俺は興味が湧いて、桐箱の
ぱかりという音を出して
内側のくぼんだ面に鮮やかな
この『幸』というのはこの女性の名前なのかもしれない。
――さっきの声は、この貝に描かれた女性のものだろうか。
俺がそう考えて、その貝を手に取る。すると、やはり頭の中に声が響いてきた。
「お願い……探して……教えるから……連れて行って……」
――おそらくこの貝殻も、
ぴりっ
貝に触れていると、体全体を一瞬だけ電気が走ったような気がした。
おそらく、徳三郎さんに御祓いをして貰うために持ち込まれたものなのだろう。それならば、妖怪退治のプロであるすずさんが
正午になって、いつものように昼食を食べる時間帯となった。
講堂から出てきたすずさんは開口一番、俺にこんな事を言った。
「りょうぞう? 着物が
その言葉に俺は自分の白衣の胸元を見る。確かに白衣の
俺は当惑する。
「あれ? 朝間違えたのかな?」
そうして俺は、間借りさせてもらっている客間に戻り、白衣の着物の着方を直す。今度はちゃんと正しく
着物というのは洋服と異なり、男女区別なく正面の人から見て左の
逆に、正面から見て右の
白衣の
そして、徳三郎さんとおあきちゃんとも一緒に、めいめいが一人用の膳の前に座って「いただきます」と
俺はまず、味噌汁を飲んだ。
しょっぱいだけで、味がまったくしなかった。
俺はすずさんに話しかける。
「すずさん、この味噌汁、
すると、すずさんは不思議そうな顔をする。
「いやぁ? 確かに
その言葉に俺は返す。
「朝の味噌汁と同じなんですか? でも、味とか全然違いますけど」
俺は続けて箸を動かし、ご飯を口の中に入れる。
柔らかい無臭の、粘土の粒を集めた塊を噛んでいるような感じがした。
「あれ? 何かご飯もおかしいですよ? 味がまったくしません」
その言葉に、すずさんの顔が険しくなる。
「りょうぞう、ひょっとして、父さまの部屋にあった
俺は返す。
「ああはい、触りましたけど? それがどうかしたんですか?」
その言葉に、すずさんは息を吐き出す。
「あー……あの貝はねぇ……
「えっ! ど、どんな
俺が驚くと、すずさんが応える。
「どんな物を食べても味がせずに、段々飢えてくって
すずさんが、片手を立てて俺に謝った。
俺は、
すずさんは責任を感じてくれてたのか、手習い所に集まっている子供達に今日は昼で急遽終わりだと早々に告げた。そして蜘蛛の子を散らすように子供たちは嬉々として帰路についた。
俺が例の貝殻の入った桐箱を持って紺色の着物姿で大鳥居前にて待っていると、講堂から現れたすずさんが俺に話しかける。
「りょうぞう、どうだい? 体はおかしくなってたりしてはいないかい?」
すずさんの問いかけに、俺は応える。
「まあ、少々腹が空いた程度です。それから気がついたことがあるんですけど、鼻もなんかおかしくなっているみたいです」
江戸の町には
すずさんは、俺が持っている桐箱に手をかざす。そして、いつものお
「迷える
すると、俺の頭の中に声が鳴り響いた。
「……ここから初めは北に、そしてある角で曲がりを……」
――これは、朝方に聞いた貝に描かれた女の人の声だ。
俺はすずさんに伝える。
「聞こえました! ここから北に行くらしいです」
すると、すずさんも真剣な顔で返す。
「あたいには聞こえないね。りょうぞう、あたいに
俺はもちろん了承する。
この貝殻の言う通りに道を辿れば、やがて目的地に着く。そして
夕方になって日も暮れようとして、そろそろ暮れ六つ[午後六時ごろ]の鐘が鳴り響こうかとしている頃合いであった。
すずさんが、もう一度その
まったくもって、
夕暮れ沈む本所の町にて、俺の腹がぐるると悲痛な空腹を代弁してくれているかのように大きく鳴った。呪いによって昼飯を抜いていたのと同じ様子であったので、それは無理からぬことであった。
俺は、すずさんに問いかける。
「すずさん? この貝殻の
俺のやるせない気持ちによって発露した問いかけに、すずさんが応える。
「いやぁ? 嘘はついてないと思うんだけどねぇ? 嘘なんかついたら
すずさんも困り顔になっている。
俺は、嘆きの息を漏らした。
「勘弁してくださいよ……じゃあ俺、呪いがかかったままじゃないですか」
俺は桐箱の
きっちりと右前に着物を着ていて、正装であることがわかる女の人が描かれている。その上に書かれている和歌のようなものが気になって、俺はすずさんに尋ねる。
「すずさん、この
俺はすずさんの体に貝殻が触れないように注意しつつ、夕日に照らされた貝殻の内側を見せる。
「これはねぇ……『
「どういう歌でしたっけ?」
俺が尋ねると、すずさんが返す。
「つまり、山を流れる
そのすずさんの言葉に、俺の気持ちが揺れ動いた。
――この女の人も、俺と同じなんだ。
夕日が赤く本所の町を染める中で、俺の腹が再びぐるると鳴り響いた。その音に呼応したのか、すずさんは俺に「帰ろうか。明日も付き合ってやるからさ」と微笑んで言ってくれた。
それはまるで、あの日教室で葉月が見せてくれた優しい笑顔であるかのようだった。
結局、まともな食事を取れぬまま一夜が過ぎて、俺の腹は二月十五日の朝から悲鳴を上げていた。
どんなものを食べてもまともな味がせず、ただ塩水のごときしょっぱい汁のみが昨日の晩の食事であったから無理もない。
腹をめっぽう空かした俺は、紺色の着物を右前に着て外に出る。そして同じく右前に深紫色の着物を着たすずさんと共に本所の町をすたすた歩いていた。日付は二月十五日の
昨日と同じように、
すずさんの発案で、この
寺の
あの貝殻は百年ほど前、
つまり、片方の貝殻に男、もう片方の貝殻に女を描くことで、この世にもあの世にも一人しかいない
そして、それを
その後百年近い年月が流れ、
そして聞いたところによると、その商家には俺以外にも呪いを掛けられた被害者がいて、もう六日も空腹にあえいでいるとのことだ。
俺は、貝殻を手にとって和尚さんに尋ねる。
「この、
すると、和尚さんはゆっくりと口を開く。
「
どうやら、この貝殻の出所からもう一枚の貝殻を探し当てるのは無理そうだ。俺は落胆する。
すると、俺の隣に並んで座っていたすずさんが、おもむろに俺の
そして、毅然とこう告げた。
「おい、お
俺は叫ぶ。
「すずさん! すずさんまで呪いにかかることないですよ!」
すると、すずさんは俺の方に向いて微笑む。
「だって、こうしないと、あたいも声が聞こえないだろ?」
大きく嘆きの息を吐いた俺を、すずさんは口角を上げつつにやにや見ている。
――まったく、この人にはかなわない。
俺がそう思ったところ、正面に座っていた和尚さんがすずさんに声を掛けた。
「おすずさん、着物が
俺がすずさんの着物の胸元を見ると、確かにすずさんの着物の合わせ方が左前になっていた。
これも呪いの表れだろうか。呪いをかけられると死者を
もしそうだとすると、この
死者に
――早く、なるべく早くもう一枚の貝を見つけなければ。
俺は、心の中でそう固く誓った。
二月の十五日の太陽が昇っている時間に、江戸の町中ををくまなく探してみたが、まさに
この貝殻の出所である商家にも行ってみたものの、百年も前のことなぞ当然誰も知らなかった。俺が二十一世紀の平成の世に生きていて、大正時代のことに詳しいかといえばそうでもないのである意味当然だろう。
俺とすずさんは、疲れきった顔で名賀山稲荷社に帰還した。
――腹が減った。腹が減った。腹が減った。
そんな事を絶え間なく思いつつ部屋に帰る。すずさんは、まともに味見ができないので夕飯が作れず、そこらへんの屋台で買ってきた飯を徳三郎さんとおあきちゃんに提供していた。
俺は貝殻の入った桐箱と共に、間借りさせてもらっている客間の六畳間の部屋に戻ると、葉月の写真が貼り付けている生徒手帳をナップサックから取り出して裏ページを眺めた。
俺は
「逢いたい……か」
そして俺は生徒手帳を開いたまま畳に置き、桐箱の中から取り出した貝殻を手で掲げる。
「俺も、逢わせてあげたいよ……」
そして、女性の絵の上に書かれている和歌に視線を移す。すずさんに何と書いてあるかは昨日聞いたので、崩された草書体でもはっきりと文字を追うことができる。
俺は再び
「
まさに、俺が葉月に対して思っている心持を表したような歌だ。だが、俺はまだ半年、この女の人は百年も離れ離れだったのだ。想いが年月に際して綺麗に正比例するかどうかはわからなかったが、この人は単純計算で俺の二百倍の時間も逢いたいという気持ちを持ち続けたことになる。
再三、俺は
「葉月……俺も逢いたいよ……ただただ逢いたい」
そして、帰ったら、もし帰れたとしたら、堂々とこう言いたい。
俺も葉月の事が心から好きだ。ずっと隠していたけど、ずっと言えなかったけど、本当はずっと好きだった。怖くて言えなかったけど、ただの友達で終わりたくなかった。
葉月の写真と貝殻を交互に見比べていると、背後から気配がしたので振り返る。
少しだけ開けられた障子からは、くりくりした丸い目が覗いている。おあきちゃんがそこにいた。
俺は微笑んで返す。
「ああ、おあきちゃん、
すると、おあきちゃんが勢い良く障子を開ける。
「食べてないよ! 父さまも同じ! 食べられる訳ないよ!」
おあきちゃんは、少し涙目で俺の近くに駆け寄る。そして貝殻に手を伸ばしてきたので、俺は大急ぎで背中を向けてその試みを
おあきちゃんが涙声で俺の背中にすがる。
「りょう兄ぃ、あたしも呪いを受けるよ! りょう兄ぃとすず姉ぇだけ、何も食べられないなんて
俺の背中に、おあきちゃんが体ごと頭をつけて傾けている。
本当に、この子は良い子なんだと俺は感じた。
俺は背中を見せたまま、おあきちゃんをなるべく優しい口調で諭す。
「そういう訳にはいかないよ。おあきちゃんは徳三郎さんと
俺の背中におあきちゃんの重さと体温がかかっているのを感じる。今の俺はそれだけでもありがたかった。
すると、俺の背中に耳をつけていたおあきちゃんがおもむろに思いがけない言葉を発した。
「……りょう兄ぃ? りょう兄ぃって、
――え?
戸惑った俺は返す。
「いや、俺は普通に心臓は左だけど?」
俺の背中にすがっていたおあきちゃんは、もう一度耳を背中に当てたようだ。
「そんなことないよ、確かに右にあるよ。りょう兄ぃ、前から聞かせてみて」
その言葉に俺は了承し、貝殻を桐箱に厳重に閉まって、己の胸をおあきちゃんに解放した。
おあきちゃんはその耳を、顔を横にして俺の胸に当てる。すると、おあきちゃんは口をきりりと引き締めてから俺に告げた。
「間違いないよ! 確かにに
その言葉に、俺は昨日あった事と今日あった事を思い出す。
最初、俺がこの貝殻に触れた時に、
そこで俺は気付いた。
――この
――ひょっとしたら、この
俺は、自らの頭の中に浮かんだ考えを確かめるために、桐箱を手にすずさんの元へおあきちゃんと共に急いだ。
座敷にておあきちゃんが、すずさんの女性らしく膨らんだ胸元に耳をあててみると、確かに心臓の位置が左右逆転しているようだということを俺たちに伝えてくれた。
俺の隣にいる徳三郎さんが口を開く。
「なるほどな。呪いの正体は、右と左を
俺が、徳三郎さんに尋ねる。
「でも、それが
すると、徳三郎さんが応える。
「もしぞや生き物は、右と左が
徳三郎さんが、俺の手にある合わせ貝の
「おすず、酒を少し貰うぞ。この
その言葉に、俺は反応する。
「あっ、じゃあ俺いいもの持ってます! ちょっと待っててください!」
俺はそう言って、スポーツバッグの中にあったものを思い出す。
俺は間借りさせてもらっている客間にあるスポーツバッグから、エチルアルコールが主成分の消毒液を取り出し、徳三郎さんの元に戻り寄る。
「拭き取るのに酒を使うんだったら、この方がいいです」
そう言った俺は、布にエチルアルコールを染み込ませ、女の人と和歌が書かれた貝殻の内側を拭く。
すると、崇徳院の遺したという例の和歌だけがエチルアルコールの溶剤によって滲み消え、女の人の絵と『幸』という文字だけが残った。
徳三郎さんが、その様子を見て俺に告げる。
「ふむ、なるほどな。この女の絵と名だけはこの貝殻に浮き出たものであるらしい。そして、害となる
その言葉に、俺は納得する。
――『幸』という名前の漢字は元々左右対称だったから、左右が反転していたことに気付かなかったんだ。
そして、この女の人は
この女の人は死者であり、
――そうすれば、この女の人が指し示した道順が的外れだったことも説明がつく。
徳三郎さんが、明朗な顔つきで俺に告げる。
「再び、この
俺は徳三郎さんの言いたいことがわかり、応える。
「はい、右と言われたら左、左と言われたら右ですね」
俺はすずさんに視線を移し、
満月の明りに照らされた薄暗がりの本所の町を、俺と提灯棒を持ったすずさんで歩いていた。
そして、
壁にずらりと提灯が掲げられていて、その屋根の向こうには大きく横に伸びた木が
俺たちは
すると、
「……ここでございます。ここの近くにあの方が、……ここの近くに」
すると、すずさんは辺りをきょろきょろし始めた。しかしそんな曖昧な事ではその人は見つけることは難しいだろう。
すずさんは俺に向き直り、
すると、とある場所で
「……見つけました! ああ、そこにいるのは紛れもないそのお方……顔を見せて! 見せて!」
その場所とは、小さな
しばらくすると、その声を聞いたのか狐耳と尻尾を生やしたすずさんが駆け寄ってきた。
俺に提灯棒を渡したすずさんが、俺に告げる。
「見つけたようだね。この
そう言うが早いか、すずさんは
そして桐箱の
――もしかして、この僧侶がお
――身投げしたお
すると、俺が手に持っていた桐箱の
一時的に
俺は、桐箱の
そして、当然の事ながら女の人の着物の合わせ方は右前から左前に、左右逆さまに反転した。
その瞬間、俺の
梅の花の香り。
近くにある梅屋敷の満開の梅の香りを、俺の嗅覚はここにきて初めて知覚した。それは
俺の嗅覚が戻った。と、いうことは味覚も戻って、栄養もきちんと
俺は
すると、女の人と男の人の
「りょうぞう、着物が
俺も、ただの貝殻を持ったまま、微笑んで返す。
「すずさんも、着物が
梅の花のにおい
商家に呪いが解けた事を報告した帰りにて、すずさんと一緒に食べた