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第三十幕 文蛤付喪神の呪い



 さくらがその枝につぼみいろどあたたかい季節となってきた、二月の十四日のことであった。


 平成の世ではこの日はバレンタインデーと呼ばれ、意中の人がいる中高生には心休まらなくも甘酸あまずっぱい出来事を期待する日なのであるが、当然のことながら江戸の町にはそんな習慣はない。


 あたたかくなってきたので、掃除も洗濯も冬ほどは厳しくない。午前中に俺は白衣びゃくえはかま姿で、徳三郎さんが使っている部屋にて机の上を布巾ふきんで拭いていた。


 すると、妖怪ようかい退治たいじの際に持ち出している虎徹こてつと呼ぶらしい日本刀が飾ってある床の間に、妙な桐箱きりばこがあるのを見つけた。大きさは三寸[約9センチメートル]くらいの小さな四角い桐箱きりばこであった。


 俺は大して気にもせず、布巾を廊下に置いてあった桶の水で絞り、床の間のほこりを拭こうとした。


 俺が掃除のためにその桐箱を持ち上げると、頭の中に声が響いた。

「……探して……あの人に……逢わせて……」


 確かに俺の頭の中に響いた。そう判断した俺は興味が湧いて、桐箱のふたを開ける。


 ぱかりという音を出してふたを開けた箱の中に入っていたそれは、文蛤はまぐりの貝の一枚であった。


 内側のくぼんだ面に鮮やかな紅色くれないいろの着物をまとった女性の絵が描かれている。そして、平安時代のような正装姿の着物を着た女性の上には草書体で和歌のようなものが書かれており、和歌の端には『幸』と一つだけ楷書で漢字が書かれている。


 この『幸』というのはこの女性の名前なのかもしれない。


――さっきの声は、この貝に描かれた女性のものだろうか。


 俺がそう考えて、その貝を手に取る。すると、やはり頭の中に声が響いてきた。

「お願い……探して……教えるから……連れて行って……」


――おそらくこの貝殻も、妖怪変化ようかいへんげたぐいなのだろう。


 ぴりっ


 貝に触れていると、体全体を一瞬だけ電気が走ったような気がした。


 おそらく、徳三郎さんに御祓いをして貰うために持ち込まれたものなのだろう。それならば、妖怪退治のプロであるすずさんがしかるべき処置しょちをしてくれるはずだ。俺はそう思い、貝殻を元通りに戻して掃除を再開した。





 正午になって、いつものように昼食を食べる時間帯となった。


 講堂から出てきたすずさんは開口一番、俺にこんな事を言った。

「りょうぞう? 着物が左前ひだりまえになってるよ? みっともないから直しときなよ?」


 その言葉に俺は自分の白衣の胸元を見る。確かに白衣のえりの、正面から見て左が外側に、右が内側にある、いわゆる左前ひだりまえと呼ばれる着方になっていた。


 俺は当惑する。

「あれ? 朝間違えたのかな?」


 そうして俺は、間借りさせてもらっている客間に戻り、白衣の着物の着方を直す。今度はちゃんと正しく右前みぎまえにした。


 着物というのは洋服と異なり、男女区別なく正面の人から見て左のえりが内側に、右のえりが外側に来る『右前みぎまえ』と呼ばれるように着なければならない。


 逆に、正面から見て右のえりを内側に、左のえりを外側に着る着方は『左前ひだりまえ』と呼ばれ、死者が着るべき着方として忌むべき着方なのである。


 白衣のえりを正しく右前みぎまえに直した俺は、台所に行ってすずさんの配膳を座敷に持って行く手伝いをした。


 そして、徳三郎さんとおあきちゃんとも一緒に、めいめいが一人用の膳の前に座って「いただきます」とする。


 俺はまず、味噌汁を飲んだ。


 しょっぱいだけで、味がまったくしなかった。


 俺はすずさんに話しかける。

「すずさん、この味噌汁、出汁だしを入れるの忘れてますよ?」


 すると、すずさんは不思議そうな顔をする。

「いやぁ? 確かに浅蜊あさり出汁だしは取ってるよ? 朝の味噌汁の作り置きだしさ。朝はそんなこと言わなかったじゃないかい」


 その言葉に俺は返す。

「朝の味噌汁と同じなんですか? でも、味とか全然違いますけど」


 俺は続けて箸を動かし、ご飯を口の中に入れる。


 柔らかい無臭の、粘土の粒を集めた塊を噛んでいるような感じがした。


「あれ? 何かご飯もおかしいですよ? 味がまったくしません」

 その言葉に、すずさんの顔が険しくなる。

「りょうぞう、ひょっとして、父さまの部屋にあった文蛤はまぐりを手に取ったのかい?」


 俺は返す。

「ああはい、触りましたけど? それがどうかしたんですか?」


 その言葉に、すずさんは息を吐き出す。

「あー……あの貝はねぇ……付喪神つくもがみになっちまった貝なんだけど、のろがいなのさ。りょうぞう、どうやらのろいをかけられちまったようだねぇ」


「えっ! ど、どんなのろいなんですか!?」

 俺が驚くと、すずさんが応える。

「どんな物を食べても味がせずに、段々飢えてくってのろいらしいんだけどさ……いやぁ、手習いが終わったらすぐに片付けるつもりだったんだけどねぇ……教えなかったあたいが悪かったよ」


 すずさんが、片手を立てて俺に謝った。


 俺は、のろいをかけられたことがショックでしばらく呆然としていた。




 すずさんは責任を感じてくれてたのか、手習い所に集まっている子供達に今日は昼で急遽終わりだと早々に告げた。そして蜘蛛の子を散らすように子供たちは嬉々として帰路についた。


 俺が例の貝殻の入った桐箱を持って紺色の着物姿で大鳥居前にて待っていると、講堂から現れたすずさんが俺に話しかける。

「りょうぞう、どうだい? 体はおかしくなってたりしてはいないかい?」


 すずさんの問いかけに、俺は応える。

「まあ、少々腹が空いた程度です。それから気がついたことがあるんですけど、鼻もなんかおかしくなっているみたいです」


 江戸の町にはの臭いのような悪臭から、家に使われている木の香り、そこらへんの街角で食べ物を焼いている食欲をそそる匂いまで、様々なにおいが混ざり合っているのだが、今日はなんだか微妙に違う。なんというか、臭いの次元が一つ落ちたような、のっぺりとしたものになっている。


 すずさんは、俺が持っている桐箱に手をかざす。そして、いつものおきゃんな口ぶりではなく、礼を尽くして語りかける。

「迷える付喪神つくもがみよ、そなたの望むところに連れて行こう。道を教え給え」


 すると、俺の頭の中に声が鳴り響いた。

「……ここから初めは北に、そしてある角で曲がりを……」


――これは、朝方に聞いた貝に描かれた女の人の声だ。


 俺はすずさんに伝える。

「聞こえました! ここから北に行くらしいです」


 すると、すずさんも真剣な顔で返す。

「あたいには聞こえないね。りょうぞう、あたいにつぶさに、付喪神つくもがみが何て言ってるのか知らせな」


 俺はもちろん了承する。


 この貝殻の言う通りに道を辿れば、やがて目的地に着く。そして付喪神つくもがみの願いを叶えたら、俺にかけられたという呪いも解けるはずだ。俺は、若干楽観的な気持ちのまま、稲荷神社を出発した。




 夕方になって日も暮れようとして、そろそろ暮れ六つ[午後六時ごろ]の鐘が鳴り響こうかとしている頃合いであった。


 付喪神つくもがみの貝殻が、あるときは「そこを北」またあるときは「次のつじを左」などと計二十六回に渡る道順指定をした末に、行き着いた先は何も目的となるようなものがない大川の川端に至る袋小路であった。


 すずさんが、もう一度その付喪神つくもがみに頼んでその場から道順を教えてもらいつつ本所の町を練り歩いた結果、計三十一回の道順指定を受け、たどり着いた先は洲崎の海岸であった。


 まったくもって、出鱈目でたらめを教えているか、または生粋きっすいの方向音痴としか考えられないような道案内であった。


 夕暮れ沈む本所の町にて、俺の腹がぐるると悲痛な空腹を代弁してくれているかのように大きく鳴った。呪いによって昼飯を抜いていたのと同じ様子であったので、それは無理からぬことであった。


 俺は、すずさんに問いかける。

「すずさん? この貝殻の付喪神つくもがみ、嘘をついてるんじゃないんですか?」


 俺のやるせない気持ちによって発露した問いかけに、すずさんが応える。

「いやぁ? 嘘はついてないと思うんだけどねぇ? 嘘なんかついたら言霊ことだまが乱れるから呪いも効かないはずだしさ。それとも、ただ道がわからないだけなのかねぇ?」


 すずさんも困り顔になっている。


 俺は、嘆きの息を漏らした。

「勘弁してくださいよ……じゃあ俺、呪いがかかったままじゃないですか」


 俺は桐箱のふたを開け、貝殻の内側に描かれた女の人の姿を見る。


 きっちりと右前に着物を着ていて、正装であることがわかる女の人が描かれている。その上に書かれている和歌のようなものが気になって、俺はすずさんに尋ねる。

「すずさん、このふみは何て書いているかわかりますか?」


 俺はすずさんの体に貝殻が触れないように注意しつつ、夕日に照らされた貝殻の内側を見せる。


「これはねぇ……『はやみ 岩にせかるる 滝川たきがはの われてもすゑに わむとぞ思う』だね。崇徳院すとくいんのこした歌だね」

「どういう歌でしたっけ?」


 俺が尋ねると、すずさんが返す。

「つまり、山を流れる岩清水いわしみずが岩で二つに分かれても、いずれは二つの流れが合わさるようにまた恋焦がれているあの方に逢いたい、という心持こころもちをんだ歌だよ。まあ、恋歌こいうたと言われている歌なんだけどね」


 そのすずさんの言葉に、俺の気持ちが揺れ動いた。


――この女の人も、俺と同じなんだ。


 夕日が赤く本所の町を染める中で、俺の腹が再びぐるると鳴り響いた。その音に呼応したのか、すずさんは俺に「帰ろうか。明日も付き合ってやるからさ」と微笑んで言ってくれた。


 それはまるで、あの日教室で葉月が見せてくれた優しい笑顔であるかのようだった。




 結局、まともな食事を取れぬまま一夜が過ぎて、俺の腹は二月十五日の朝から悲鳴を上げていた。


 どんなものを食べてもまともな味がせず、ただ塩水のごときしょっぱい汁のみが昨日の晩の食事であったから無理もない。


 腹をめっぽう空かした俺は、紺色の着物を右前に着て外に出る。そして同じく右前に深紫色の着物を着たすずさんと共に本所の町をすたすた歩いていた。日付は二月十五日の梅見月うめみづきの最中であり、あちらこちらの庭先に梅の花が咲いている木を見かけることができる。


 昨日と同じように、付喪神つくもがみの貝殻が入った桐箱を携行しつつ、江戸の町を北に辿っていた。


 すずさんの発案で、この付喪神つくもがみの出所であるお寺の和尚おしょうに話を聞こうということになったので、俺はすずさんと一緒にその付喪神つくもがみが持ち込まれたという本所の寺にお邪魔した。




 寺の和尚おしょうさんはすずさんが妖狐であることを知っていたらしく、あの貝殻にまつわる様々なエピソードを座敷に座りつつ教えてもらう事になった。


 あの貝殻は百年ほど前、享保きょうほうの時代のものらしく、合わせ貝と呼ばれる玩具があやかしになったものらしい。文蛤はまぐりに代表される二枚貝は、対が一組しか存在しない。片方にぴったり合わさるような貝は、元々の片割れ以外には存在しないのだという。


 つまり、片方の貝殻に男、もう片方の貝殻に女を描くことで、この世にもあの世にも一人しかいない宿命さだめがかった人のえんをなぞらえたものらしい。


 和尚おしょうさんの話によると、この貝に描かれた女性は百年ほど前に生きた商家の娘であったらしい。その商家の娘には互いに恋仲だった男がいたのだが、親同士の定めた縁組を嫌い、身投げしてしまったのだとか。


 そして、それをあわいたんだ高僧こうそうが、娘の霊を慰めるために作ったものであるらしい。


 その後百年近い年月が流れ、文蛤はまぐりの貝殻でできた合わせ貝は付喪神つくもがみというものあやかしになり、周りに呪いをかけるようになってしまったのだとか。


 そして聞いたところによると、その商家には俺以外にも呪いを掛けられた被害者がいて、もう六日も空腹にあえいでいるとのことだ。


 俺は、貝殻を手にとって和尚さんに尋ねる。

「この、さちっていうのは、その女の人の名前なんですか?」


 すると、和尚さんはゆっくりと口を開く。

左様さよう。もう一人の男は武士ぶしの男であったと聞く。そして高僧こうそうの手により、もう一枚はその男の家の者の手に渡ったのだと伝え聞く。だが、御家おいえも今となってはわからぬ」


 どうやら、この貝殻の出所からもう一枚の貝殻を探し当てるのは無理そうだ。俺は落胆する。


 すると、俺の隣に並んで座っていたすずさんが、おもむろに俺のてのひらの中に納まっている貝殻を掴んだ。


 そして、毅然とこう告げた。

「おい、おさちとやら、あたいにも呪いをかけな」


 俺は叫ぶ。

「すずさん! すずさんまで呪いにかかることないですよ!」


 すると、すずさんは俺の方に向いて微笑む。

「だって、こうしないと、あたいも声が聞こえないだろ?」


 大きく嘆きの息を吐いた俺を、すずさんは口角を上げつつにやにや見ている。


――まったく、この人にはかなわない。


 俺がそう思ったところ、正面に座っていた和尚さんがすずさんに声を掛けた。

「おすずさん、着物が左前ひだりまえになっておりますぞ。はて、先ほどまで確かに右前みぎまえにございましたのに、これは不可思議にございますな」


 俺がすずさんの着物の胸元を見ると、確かにすずさんの着物の合わせ方が左前になっていた。


 これも呪いの表れだろうか。呪いをかけられると死者を比喩ひゆする左前の着方にされてしまうのも、この付喪神つくもがみの呪いの一部かもしれない。


 もしそうだとすると、この付喪神つくもがみはそもそも俺たちにもう一枚の貝殻を探してもらう気などなく、呪いをかけた人間を殺してしまうのが目的なのかもしれない。


 死者に相応ふさわしい左前ひだりまえにすることによって、お前も死者にしてやるぞ、という意思表示の現われなのかもしれない。だから、出鱈目でたらめな道案内を繰り返していたのかもしれない。


――早く、なるべく早くもう一枚の貝を見つけなければ。


 俺は、心の中でそう固く誓った。





 二月の十五日の太陽が昇っている時間に、江戸の町中ををくまなく探してみたが、まさに徒労とろうという表現以外にぴったりの言葉が見つからないほどの無駄足だった。


 この貝殻の出所である商家にも行ってみたものの、百年も前のことなぞ当然誰も知らなかった。俺が二十一世紀の平成の世に生きていて、大正時代のことに詳しいかといえばそうでもないのである意味当然だろう。


 俺とすずさんは、疲れきった顔で名賀山稲荷社に帰還した。草鞋わらじを脱いで水で足を洗う最中にも、俺の腹の虫は飯の催促をしきりに行っていた。


――腹が減った。腹が減った。腹が減った。


 そんな事を絶え間なく思いつつ部屋に帰る。すずさんは、まともに味見ができないので夕飯が作れず、そこらへんの屋台で買ってきた飯を徳三郎さんとおあきちゃんに提供していた。


 俺は貝殻の入った桐箱と共に、間借りさせてもらっている客間の六畳間の部屋に戻ると、葉月の写真が貼り付けている生徒手帳をナップサックから取り出して裏ページを眺めた。


 俺はつぶやく。

「逢いたい……か」


 そして俺は生徒手帳を開いたまま畳に置き、桐箱の中から取り出した貝殻を手で掲げる。

「俺も、逢わせてあげたいよ……」


 そして、女性の絵の上に書かれている和歌に視線を移す。すずさんに何と書いてあるかは昨日聞いたので、崩された草書体でもはっきりと文字を追うことができる。


 俺は再びつぶやく。

はやみ、岩にせかるる滝川の、われてもすえに逢わむとぞ思う……」


 まさに、俺が葉月に対して思っている心持を表したような歌だ。だが、俺はまだ半年、この女の人は百年も離れ離れだったのだ。想いが年月に際して綺麗に正比例するかどうかはわからなかったが、この人は単純計算で俺の二百倍の時間も逢いたいという気持ちを持ち続けたことになる。


 再三、俺はつぶやく。

「葉月……俺も逢いたいよ……ただただ逢いたい」


 そして、帰ったら、もし帰れたとしたら、堂々とこう言いたい。


 俺も葉月の事が心から好きだ。ずっと隠していたけど、ずっと言えなかったけど、本当はずっと好きだった。怖くて言えなかったけど、ただの友達で終わりたくなかった。


 葉月の写真と貝殻を交互に見比べていると、背後から気配がしたので振り返る。


 少しだけ開けられた障子からは、くりくりした丸い目が覗いている。おあきちゃんがそこにいた。


 俺は微笑んで返す。

「ああ、おあきちゃん、晩御飯ばんごはん食べ終わったの?」


 すると、おあきちゃんが勢い良く障子を開ける。

「食べてないよ! 父さまも同じ! 食べられる訳ないよ!」


 おあきちゃんは、少し涙目で俺の近くに駆け寄る。そして貝殻に手を伸ばしてきたので、俺は大急ぎで背中を向けてその試みをはばむ。


 おあきちゃんが涙声で俺の背中にすがる。

「りょう兄ぃ、あたしも呪いを受けるよ! りょう兄ぃとすず姉ぇだけ、何も食べられないなんてつらすぎてたまらないよ!」


 俺の背中に、おあきちゃんが体ごと頭をつけて傾けている。


 本当に、この子は良い子なんだと俺は感じた。


 俺は背中を見せたまま、おあきちゃんをなるべく優しい口調で諭す。

「そういう訳にはいかないよ。おあきちゃんは徳三郎さんと夕飯ゆうはん食べてきて」


 俺の背中におあきちゃんの重さと体温がかかっているのを感じる。今の俺はそれだけでもありがたかった。


 すると、俺の背中に耳をつけていたおあきちゃんがおもむろに思いがけない言葉を発した。

「……りょう兄ぃ? りょう兄ぃって、しんぞうが右にあるの?」


――え?


 戸惑った俺は返す。

「いや、俺は普通に心臓は左だけど?」


 俺の背中にすがっていたおあきちゃんは、もう一度耳を背中に当てたようだ。


「そんなことないよ、確かに右にあるよ。りょう兄ぃ、前から聞かせてみて」

 その言葉に俺は了承し、貝殻を桐箱に厳重に閉まって、己の胸をおあきちゃんに解放した。


 おあきちゃんはその耳を、顔を横にして俺の胸に当てる。すると、おあきちゃんは口をきりりと引き締めてから俺に告げた。

「間違いないよ! 確かににしんぞうが右にある! ひょっとしたらすず姉ぇも同じかも!」


 その言葉に、俺は昨日あった事と今日あった事を思い出す。


 最初、俺がこの貝殻に触れた時に、右前みぎまえにしていたはずの着物は左前ひだりまえになっていた。そして今日、お寺ですずさんが呪いを受けた時もすずさんの着物がいつのまにか左前ひだりまえになっていた。


 そこで俺は気付いた。


――この付喪神つくもがみは、俺たちを死者にするという意味合いを込めて着物を左前ひだりまえにしたんじゃないのじゃないか?


――ひょっとしたら、この文蛤はまぐり付喪神つくもがみの呪いの正体は、なのでは?


 俺は、自らの頭の中に浮かんだ考えを確かめるために、桐箱を手にすずさんの元へおあきちゃんと共に急いだ。





 座敷にておあきちゃんが、すずさんの女性らしく膨らんだ胸元に耳をあててみると、確かに心臓の位置が左右逆転しているようだということを俺たちに伝えてくれた。


 俺の隣にいる徳三郎さんが口を開く。

「なるほどな。呪いの正体は、右と左をさかさまにする、というものだったのか」


 俺が、徳三郎さんに尋ねる。

「でも、それがなんで食べ物を食べても腹が空いたままになる、ってことに繋がるんでしょうか?」


 すると、徳三郎さんが応える。

「もしぞや生き物は、右と左がさかさまになった食べ物は舌に乗せても味わえぬし、食べても腹が満たされぬのかもしれんな」


 徳三郎さんが、俺の手にある合わせ貝の付喪神つくもがみを見て、すずさんに尋ねる。

「おすず、酒を少し貰うぞ。このふみは後から書かれたものであるかもしれん。酒で拭いて確かめてみる」


 その言葉に、俺は反応する。

「あっ、じゃあ俺いいもの持ってます! ちょっと待っててください!」

 俺はそう言って、スポーツバッグの中にあったものを思い出す。


 俺は間借りさせてもらっている客間にあるスポーツバッグから、エチルアルコールが主成分の消毒液を取り出し、徳三郎さんの元に戻り寄る。


「拭き取るのに酒を使うんだったら、この方がいいです」

 そう言った俺は、布にエチルアルコールを染み込ませ、女の人と和歌が書かれた貝殻の内側を拭く。


 すると、崇徳院の遺したという例の和歌だけがエチルアルコールの溶剤によって滲み消え、女の人の絵と『幸』という文字だけが残った。


 徳三郎さんが、その様子を見て俺に告げる。

「ふむ、なるほどな。この女の絵と名だけはこの貝殻に浮き出たものであるらしい。そして、害となるあやかしとなるのを鎮めようと後から高僧が歌を書いたのであろう。つまり、この絵と名は初めから左右が逆さまになっていたということだな」


 その言葉に、俺は納得する。

――『幸』という名前の漢字は元々左右対称だったから、左右が反転していたことに気付かなかったんだ。


 そして、この女の人は右前みぎまえに着物を着ているように見えるけど、本当は右前みぎまえに着ているんじゃない。


 この女の人は死者であり、左前ひだりまえに着物を着ている。そして、この女の人も左右が逆さまになっているのだ。だから着物も左右逆さまになっていて右前みぎまえに見えているだけだったのだ。


――そうすれば、この女の人が指し示した道順が的外れだったことも説明がつく。


 徳三郎さんが、明朗な顔つきで俺に告げる。

「再び、この付喪神つくもがみに道案内を頼み給え。ただし、今度は正しくだ。わかるな?」


 俺は徳三郎さんの言いたいことがわかり、応える。

「はい、右と言われたら左、左と言われたら右ですね」


 俺はすずさんに視線を移し、うなずきあった。




 満月の明りに照らされた薄暗がりの本所の町を、俺と提灯棒を持ったすずさんで歩いていた。


 付喪神つくもがみの指示が左ならば右、右ならば左と選んで歩く。東西南北を指し示された時はその方角に進んだ。


 そして、付喪神つくもがみの指示の通りに、満月の光さす宵の口の本所を歩いていると、満月のきらめきと火のあかりに照らされた白壁が目に入った。


 壁にずらりと提灯が掲げられていて、その屋根の向こうには大きく横に伸びた木があでやかな紅色べにいろの花をつけた枝を垂らし伸ばしていた。満月の煌々とした光に照らされたそれは、どうやら梅の木であるようだった。もう日はすっかり暮れているというのに、かなりの人が道を行き交っている。満月の晩に梅の見物をしに来た人たちのようであった。


 俺たちは付喪神つくもがみの道案内の通りに歩いて、亀戸かめいど梅屋敷うめやしきまで歩いていたのである。


 すると、付喪神つくもがみが明確な声を俺たちの頭の中に響かせる。

「……ここでございます。ここの近くにあの方が、……ここの近くに」


 すると、すずさんは辺りをきょろきょろし始めた。しかしそんな曖昧な事ではその人は見つけることは難しいだろう。


 すずさんは俺に向き直り、たもとから黒いまだら模様のある文蛤はまぐりの貝殻を取り出し、その中の薄紅うすべに色の膏薬こうやくを俺のまぶたに塗り付けた。俺も目をあやかしの目にすることで、手分けして探すということであった。


 あやかしの目になったので、俺もすずさんのように霊や妖怪をこのよいの時間帯に見れるようになったのである。すずさんは黒い頭から金毛こんもうの狐耳、尻からは同じく金毛こんもうの尻尾を生やした姿に変わった。


 あやかしの目になった俺は、付喪神つくもがみの入った桐箱を手に持ちつつ、人を掻き分ける。


 すると、とある場所で付喪神つくもがみ一際ひときわ大きな声を頭に響かせた。

「……見つけました! ああ、そこにいるのは紛れもないそのお方……顔を見せて! 見せて!」


 その場所とは、小さなほこらの前であった。鳥居もなく、賽銭箱もない、本当に見過ごしてしまいそうなほどに小さなほこらであった。中から蒸気のような妖気が漂い溢れているのが見えている。


 しばらくすると、その声を聞いたのか狐耳と尻尾を生やしたすずさんが駆け寄ってきた。


 俺に提灯棒を渡したすずさんが、俺に告げる。

「見つけたようだね。このほこらの中かい、開けるよ」


 そう言うが早いか、すずさんはほこらをがばりと開けて、祭られていた小さな箱を中から取り出した。


 そして桐箱のふたを開けると、そこには一枚の文蛤はまぐりの貝殻があった。そしてその内側の面には、頭を剃った僧侶の絵が描かれていた。


――もしかして、この僧侶がおさちさんが好きだった武士なのか。


――身投げしたおさちさんを哀れんで、武士を辞して僧侶になったのかもしれない。


 すると、俺が手に持っていた桐箱のふたがカタカタという音を立てて震えだした。


 一時的にあやかしの目になっている俺には、何が起こっているのかよくわかる。桐箱の内部からスモークのような妖気があふれ出し、その内圧がヤカンの蒸気圧のような働きをなし、桐箱のふたを震えさせているのだ。


 俺は、桐箱のふたを取ってやった。するとその中にあったおさちさんの描かれた文蛤はまぐり付喪神つくもがみの貝殻がぐにゃりと歪んだように見えてその形を左右反転させた。


 そして、当然の事ながら女の人の着物の合わせ方は右前から左前に、左右逆さまに反転した。


 その瞬間、俺の鼻腔びこうをこの世のものとも思えないかぐわしい香りが満たした。


 梅の花の香り。


 近くにある梅屋敷の満開の梅の香りを、俺の嗅覚はここにきて初めて知覚した。それはらんのような麝香じゃこうのような薄い紅色べにいろの匂いだった。


 俺の嗅覚が戻った。と、いうことは味覚も戻って、栄養もきちんとれるようになったはずだ。


 俺は付喪神つくもがみの貝殻をつまみ上げて、すずさんが持っている男の人の絵が描かれたもう一つの貝殻に合わせてやった。


 すると、女の人と男の人のたましいのようなビジョンが貝殻から現れ、お互いにらせん状に上昇して夜の満月輝く空の中に消え入ってしまった。成仏して天に召されてしまったのであろう。


 金毛こんもうの狐耳と尻尾の生えた、いかにも妖狐の姿になっているすずさんは、何も描かれてない貝殻を持ったまま、俺の胸元を見て微笑んで告げる。

「りょうぞう、着物が左前ひだりまえになってるよ? みっともないから直しときなよ?」


 俺も、ただの貝殻を持ったまま、微笑んで返す。

「すずさんも、着物が左前ひだりまえになっていますよ。これは不可思議ですね」


 梅の花のにおいかぐわしい満月の光照らす世界で、俺たちは互いに笑い合った。そして間もなく俺の腹がぐるるるとうなり声を上げた。


 商家に呪いが解けた事を報告した帰りにて、すずさんと一緒に食べた春中はるなか鰻丼うなどんの味は、まるでつきみやこから降りてきたお釈迦しゃかさまの与えてくれた食べ物であるかのように絶品なるものであった。


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