文政六年になってから、春の足音が近づくのを肌身で感じる頃合、二月の六日のことであった。
二月の初めに到来する
朝五つ[午前八時ごろ]からすずさんの元には、六歳か七歳くらいの小さな子供たちが、正装した親御さんと共に大勢訪ねてきては挨拶をしている。
この
また、江戸中の
トントントコトン トントコトントン
子供が何人か集まって、太鼓を鳴らしながら歩いているのが目に入る。
この
朝起きてすぐに、
そして、
俺が子供達の晴れ姿を見ていたところ、すぐ後ろから聞いたことのある少年の声が聞こえてきた。
「よう、
その声を発した影は、小三郎だった。相変わらず黒い着物に黒い長羽織を着て、裕福そうなオーラを存分に
俺は返す。
「ああ、小三郎。お祭り見に来てくれたの?」
「ああ、まぁな。今日は江戸中の
俺は尋ねる。
「
すると、小三郎が笑いつつ手を振る。
「
「えっ!
俺がそう声を上げると、小三郎が不思議そうな表情を浮かべる。
「
「あ、いや気にしないで」
俺がそう言うと、捨て鐘がどこか遠くから鳴り響いた。正午になったということだ。
時の鐘が深川の町に鳴り響く中、師弟の契りをあらかた済ませたすずさんが、講堂から顔を出した。
「りょうぞう、ちょいと良いかい?」
「ああ、はい。何ですか?」
俺が近寄ると、すずさんは俺に草書体の文字が書かれた紙切れを手渡す。
俺は質問をする。
「この紙は何ですか?」
「
すずさんの言っている『
その言葉に、俺は応える。
「わかりました。この紙を本屋の主人に手渡せば良いんですね? お金とかはいらないんですか?」
俺がそう尋ねると、すずさんは
「
その言葉に、俺は驚く。
「え? いいんですか?」
「まぁ、
俺はすずさんにお礼を言い、小三郎と一緒にお使いついでに深川の町を歩く格好となった。
江戸時代の二月というのは、段々と陽気な風が吹き始める春になりつつある季節である。春を告げる鳥の鳴き声がどこからか、町行く人たちの雑踏の音や、囃し太鼓と笛の音に紛れて聞こえてくる。
紺色の着物に着替えた俺は、深川の賑やかな町通りを歩いていた。
隣を歩く小三郎は、口を開く。
「
「えっと……
「ほうほう、そりゃ美味そうだな。食べようぜ!」
俺たちは営業している
俺が「
江戸時代の
ただ、東京で食べていたもののようにアサリは使わず、バカガイの身を用いた
小三郎と共に昼飯を食べた俺は、本を売っている店である
本屋といっても、店から中に入ったら本棚が並んでいて、客が自由に手に本を取れるような構造にはなっていない。軒先から入ったところにはコの字型に窪んだ土間段があり、奥の方に本がいくつも横に積み重なっている本棚がある。店の主人に尋ねて本棚から出してもらって、初めて手に本を取れる格好となっている。
深川にある『
そこで、俺の隣に座っていた小三郎が手代さんに伝える。
「この
すると、
小三郎が、手代さんに尋ねる。
「
「ええ、
手代さんが応えるので、小三郎は
一冊の値段が
小三郎が書物を手に取り、
「いやー、探してたんだよこれ。京橋じゃぁすぐ売り切れちまって、新しいのはどこ探しても無くってよ」
俺は小三郎に問いかける。
「それ、ひょっとして『
「そうだよ。去年とうとう
その言葉に、俺は返す。
「いや? 読んだことはないね。
その言葉に、小三郎は笑って応える。
「はぁ? 何で
小三郎の心底おかしそうな反応に、俺は苦笑いする。
この時代に
江戸にある本をぺらぺらめくってみると、文と文の間には
俺は口を開く。
「俺も、何か本を読もうかな? この頃、江戸の文字もかなり読めるようになってきたし」
そう、俺はこの頃おあきちゃんの指導の甲斐あって、江戸時代に使われている草書体の崩し文字もかなり読めるようになってきている。本当に、おあきちゃんには感謝の気持ちしかない。
すると、小三郎が返す。
「
「俺は、そうだね……主役が苦労をして、色々と危なかったり辛かったりするような目に遭うけど終わりには報われるってのが好きかな? あとは、まあ
俺の言葉に、小三郎が応える。
「
小三郎が手代さんに尋ねると、手代さんは了承して十冊近い冊子本を奥の棚から取り出して、俺たちの目の前に並べてくれた。
目の前に並べられた本を手に取った俺は、冊子を開く。
そこには、様々な絵があった。あるページには、人魚や河童などの妖怪が描かれていた。鳥や小動物が精密に描写されているページもあった。またあるページにおいては、人が大勢生活している様子が活き活きと描かれていた。本当にこれは、日本の漫画文化の原点と言っても過言ではないくらい、森羅万象が描かれていた。
俺は小三郎に尋ねる。
「
「ん? そりゃそうだろ?
俺は、
――あいつはまだまだ未熟者さ。一人前になるのはいつになるかな――
この時代では既に葛飾北斎は有名なのだとしたら、あのお爺さんは何者だったのだろう。
俺が考えていると、小三郎が
二十一世紀にどこかで見たことがあるような、大小のタコが裸の
にやにやとした顔をしながら小三郎は俺に告げる。
「
その言葉に、俺は思い出す。
あのお爺さんの名前は『
――まさか、あのお爺さん……鉄蔵さん……
俺は小三郎に告げる。
「小三郎、ひょっとしたら俺、
まぁ、
そんな事を思いつつ、俺は小三郎と
深川の町を本を包んだ風呂敷包みを下げながら二人で歩いていると、小三郎が「
本を買って、その足で風呂屋に行くとは少し変わっているというような気がした。だが、江戸の人はお風呂が大好きなのでそういうのもアリかなと思った。
弓と矢が看板代わりに掲げられている風呂屋の暖簾を潜った俺は、番台のお爺さんに二人分のお金、十六文を支払う。
すると、小三郎がお爺さんに尋ねる。
「爺さん、二階に上がるのは一人何文だい?」
――二階?
俺が戸惑っていると、お爺さんが「十二文でござい」と言ったので、小三郎は四文銭を六枚、合計二十四文高座に置く。
そして、小三郎は脱衣所で着物を脱ぐこともせずに、番台の近くにあるほぼ垂直に傾いた階段のような梯子のような段差を登って行く。湯屋で、男が何人か上り下りしているのは見たことがあるが、従業員だけが入ることが許されるスタッフルームのようなものと思っていた入り口であった。
俺は驚きの声を上げる。
「ここって客が入って良かったの!?」
すると、小三郎は不思議そうな顔をして俺を見る。
「そうだぜ? 知らなかったのかよ?」
小三郎に促されたので、俺も急勾配の段差に足をかけて二階に上がる。
二階に上がったらそこはかなり広く、大勢の客の男が畳間の上でくつろいでいた。二階にいるのは男だけであり、女湯とは繋がっていないようであった。
ある者は茶釜の近くで絵草子を読みつつ
小さな障子戸が開かれた窓の近くでは、囲碁の対局をしている男たちもいる。
ある男はうつ伏せに寝転び、目を瞑ったままの坊主頭の中年男にマッサージをしてもらい、恍惚の表情を浮かべている。
畳間には刀を二本置いてある台もあり、客の中にはお侍もいるようであった。
ある男達は火鉢の傍で暖を取りつつ、芝居の話などをしているようだ。
俺は、感嘆の息を漏らす。
「凄いな、二階ってこんな風になってたのか」
すると、小三郎が返す。
「
「ああそうか、サロンみたいなものなのか。なるほど」
すると、小三郎が
「『さろん』? そりゃ西洋の言葉かよ?」
「あ……えっと、まぁね」
「まぁそれはどうでもいいけどよ、将棋でもしながら色々話聞かせてくれよ。お
――ああ、やっぱりその話か。
――小三郎は、おしのさんをどういう風にしたら落とせるかを聞き出したいんだな。
「ああ、いいよ。おしのさんが小三郎に振り向いてくれるための参考になればいいんだけどね」
そうして俺は小三郎と一緒に将棋版を借りて、欄干ある明るい窓際に腰を落ち着けた。
俺たちは窓際にて胡坐をかいて、向かい合って将棋を指していた。
小三郎は俺に話しかける。
「なるほどよぉ、大川端で弟の亀吉の命を助けたら、惚れられたと」
俺も、将棋の相手をしつつ応える。
「ああ、こっちはなるべく相手を傷つけずにしておきたいんだけど」
すると、小三郎が語気を強めて返す。
「そりゃぁ、
「あ……まぁ、その時が来たら必ず小三郎に言うよ」
すると、小三郎は将棋の駒を動かしながら、こんな事を言った。
「で、
俺は、若干照れながら返す。
「えっと……
すると、小三郎は眉をひそめる。
「
その言葉に、俺は疑問を返す。
「
「はぁ!? お
小三郎の呆れたような様子に、俺は冷や汗をかく。
「あっ……そうそう、そうだったそうだった。つい忘れてたよ」
小三郎が、俺に問いかける。
「で、
「うーん……一緒にいると癒されるところかな? あと、とても嬉しそうに笑うところとか……あとは、明るくて前向きなところとか……とても頑張りやなところとか……ちょっと恥ずかしがりやなところとか……挙げればきりがないけど」
俺が葉月の好きなところを挙げていくと、本当にきりがないだろう。俺が葉月を好きな理由は、葉月が葉月であるからだ。
すると、小三郎は目を細める。
「
俺は、葉月の笑顔を思い出し、告げる。
「顔は……可愛いね。目が丸くて、鼻と口が小さい。あと、髪は黒髪で肩で切りそろえている」
俺の言葉に、小三郎は「ん?」といいたげな顔をした。そして、口を開く。
「
俺は、その言葉に弁明する。
「あっ……いや、遊女の娘ではないかな……」
俺がそう言うと、小三郎は何かを
「わかった、
なんだか小三郎が何度も頷いているので、俺も敢えて否定はしなかった。
そんな感じで話をしていると、小三郎が欄干のある窓から外を見た。
そして俺に伝える。
「
俺が二階の窓から下を見ると、すずさんが一人で
おそらくは、師弟の契りや手習い所を卒業する児童の見送りなどが済んだので、一人早く汗を流しに来たのだろう。
小三郎が、何やらにやついた目でこちらを見てきた。
「
「え? ああ、そうだけど? それがどうしたの?」
俺が応えると、小三郎は返す。
「ちょっと動こうぜ、いいもん見せてやるよ」
そう言うので、互いに将棋を打っていた俺たちは立ち上がり、移動する。
小三郎は、常連客と思しき男に手を立てて何かを尋ねているようだった。俺の所まで声は聞こえない。
そして二階部屋の一角にあるでっぱりの前に移動し、そのでっぱりに顔を向けて目を近づけているようだった。そして声を出さずに、俺を手招きする。
でっぱりに顔をつけた小三郎はしばらくそのままだった。傍に近寄った俺は何をしているのかわからなかった。
しばらくして、小三郎が「いいぜ、見てみな」と言ってでっぱりから離れたので、俺は顔を近づける。出っ張りには穴が開いており、下の様子が見えるようだった。
穴の向こうは女湯の洗い場であり、そこでは全裸の女性が大勢体を洗っていた。
真ん中あたりにはこちらを向きながら片膝を立てて座り、髪を
「なっ!……」
風呂場で体を洗っているすずさんの、全裸姿を正面からまともに見て絶句してしまった俺は、顔を赤らめて小三郎に振り向く。
小三郎は
「な? いいもん見れただろ?」
言葉を詰まらせた俺は、喉の奥から声を絞り出す。
「こ……これ……覗き穴!? 犯罪じゃないの!?」
「
江戸の人たちってどういう思考回路してるんだ、と思わざるを得ない出来事だった。
その日の晩、すずさんと二人きりになったときに「あたいは別に裸くらい見られてもいいけどさ、おあきがいるときはやめときなよ」と言われたのは余談である。