一月も終わりに差し掛かっていた、二十五日の朝のことであった。
俺はいつもの神職の白衣袴姿ではなく、剣士が試合にて着るような白い剣道衣と黒い袴を身に付けて、すずさんと一緒に本所の町を北に歩いていた。
この着物はすずさんが昨日、
すずさんは「亀沢町にある剣術道場に行くよ」とだけ言って俺をここまで連れてきたが、まさか道場破りでもするつもりなのだろうか。
目的の北本所亀沢町に至り、すずさんは大きな門構えが立派な剣術道場の前に
そして、愉快そうに大声を張り上げる。
「お師匠―! いるかいー! 道場破りに来てやったよー!」
その言葉に、俺は慌てる。
「ちょっとすずさん! 本当に道場破りだったんですか!?」
俺が冷や汗をかきつつすずさんに問いかけると、道場の中から白髪の老いた男性が出てきた。年齢は六十代の初めくらいだろうか、鼻は鷲のように高く、鋭い目をしている月代を剃っていない総髪の男であった。仙人のようでもあり、全身から溢れ出るオーラは隙を見せないくらいに体を包んでいる。
老人は穏やかな声で、すずさんに語りかける。
「これはこれは、おすずさんではございませんか。とうとうここの看板を狙いにやってこられましたか。これは結構結構」
「ははは、まぁそれは冗談だけどね。今日はそこにいる若いのをちょっと
すずさんが、そんなことを言いながら親指で俺を指す。
「って、やっぱり俺が戦うんですか!?」
俺が汗をかきつつ応える。
男性がすずさんを手招きし、すずさんは門をくぐって道場に入る。俺もしぶしぶそれについていく。
その折、老人がすずさんに問いかける。
「徳三郎どのは、相変わらずお元気で?」
「ああ、父さまはいつも通りさ。まだまだ
俺はすずさんに尋ねる。
「すずさん、このお方は徳三郎さんのお知り合いなんですか?」
その問いにすずさんが返す。
「ああ、この
そんなことを話しつつ、居合いの声や気合の入った声に充ちている道場に入る。
「やぁぁぁっ!!」
「せぇぇぇっ!!」
パシーン! バシーン!
大勢の道場生が、剣道の装備を身につけて竹刀を構え、戦っていた。道場の正面にある奥まった床の間には右から左に横書きで『直心影流』と書かれた板が掲げられていて、その下には神様の名前の書かれた掛け軸が二つ架かっている。
剣道で身に付けるような面や小手のような防具は、平成で俺が見たことのあるものとそんなに変わらない。
俺は口を開く。
「へぇ、この頃にはもう
すると、すずさんは返す。
「『
すずさんの軽い口ぶりに、俺は思わず叫ぶ。
「ちょっとすずさん! いきなり連れてこられて訳わかりませんって!」
すずさんはお構いなさそうに、先ほどの老人に尋ねかける。
「で、
すると、師範の老人は応える。
「それはもちろん、
――え?
その聞いたことのある名前に、俺は目を見開く。
すずさんの方を向いていた俺が、気配を感じたので道場の方を向くと、剣道の防具を身に付けた男が立っていた。
その男は、頭に被っていた面を取り外す。
「
その男は大川端で溺れた亀吉くんを助け、堅川沿いで冤罪をかけられそうになった俺を助けてくれた、
「あ、どうも。お久しぶりです
俺が軽く挨拶をすると、男谷さんは笑う。
「で、今日は何故道場に来たのかね? 道場破りに来たなどと言わないでくれ給えよ」
すると、すずさんが嬉々として
「今日はさ、りょうぞうに稽古をつけてやって欲しいんだよ。とびきり厳しくお願いするよ。竹刀じゃどれだけ打っても死なないからさ、多分ね」
――多分、ってのはやめて下さい。
俺はすずさんに
真昼九つ、すなわち正午の時の鐘が鳴って、俺はようやく剣道の稽古事から解放された。
すずさんと一緒に、
すずさんが、口を開く。
「いやぁ、
すると、御老人が応える。
「いやいや、これくらいならお安い御用で。また、稽古をつけて貰いたくなればいつでも来てくだされ」
そして、俺は尋ねる。
「今日、俺が稽古をしたのは何のためだったんですか?」
すると、すずさんが俺の問いに応える。
「いやね、北本所の
その言葉に、俺は返す。
「え? 武士の幽霊が今度の相手ですか? じゃぁ、おあきちゃんを
そこまで言った所で、隣で源之進さんが茶をすすりつつ聞いている事に気付く。
――しまった、おあきちゃんが化けるとか言ってしまった。
「あっ! えっと! 違うんです! これはお芝居の話で……」
俺が慌てふためきながら弁明すると、源之進さんは笑顔で俺に告げる。
「よいよい。
その言葉に俺は安堵し、大きく息を吐き出す。
「なんだ、そうだったんですか。失言したかと焦ってしまいました」
俺の言葉に、老人は返す。
「昔はなぁ、
老人が懐かしそうに昔話を始めると、すずさんが大きく咳払いをした。
「えっへん!
その言葉に、俺は考える。確かに朝からぶっ通しで稽古をつけてもらっていたので腹は空いていたが、昔話にも大いに興味がある。
俺が「いえ、俺は別にかまいませんけど」と言う寸前に、すずさんは座った体を伸ばして俺に顔を近づけて凄む。
「か、え、る、よ?」
「……あ、はい」
すずさんの、
その日の深夜、
俺の右には灯りの点った提灯棒を持った巫女装束のすずさんが並んで歩いていて、すずさんを挟んで向こう側には剣道着姿の
言うまでもなく、この
竹林に着いたすずさんは、深夜の風が竹の笹の葉をこする音に紛れて、威風堂々と虚空の闇に向かって喋りかける。
「この竹林におわします、名のある武士のさ迷える霊よ、どうか
すると、ざわ、ざわ、という笹の葉が新春の夜風に晒される音が一瞬だけ止み、闇の中から蛍の灯りのような青白い人型の姿が浮かび上がってきた。
その男は、月代を剃っていて、武士のようなまげをしている。そして着ているのは剣道着と呼べるような白衣と袴であった。幽霊になっても直、その格式にのっとった姿は武士に相応しい雰囲気を醸し出していた。
すずさんが、その幽霊に話しかける。
「そなたが、強き者との戦いを望む、
すると、その武士幽霊が俺たちに話しかける。
「いかにも。
すると、すずさんが語調を崩して語りかける。
「まぁ、あたいは堅苦しいのは苦手だからさ。おまいさん、強い奴と手合わせしたくて成仏できなくなってんだろ? だから今日は強い奴を連れてきたからさ、存分に戦っておくれよ」
すずさんはそう言うと、おあきちゃんが化けた
すると、武士の幽霊は興味がないといった風に真剣な表情で応える。
「確かに、強い者と戦うのが
武士幽霊のその言葉に、すずさんは苦笑いをする。
「ありゃー、やっぱわかっちゃったかい。こりゃ手ごわいねぇ。おあき、戻りな」
すずさんがそう言うと、
おあきちゃんは少し困った顔をして、武士の幽霊に向かって話しかける。
「でもお侍さま? このままじゃいつまで経っても成仏できないよ?」
すると、侍の幽霊はその顔を引き締めながら応える。
「女子供を打ち据えて、
侍の、高潔な覚悟が俺にも伝わってくる。
そこで、俺はすずさんに自分の気持ちを伝えた。
「すずさん、俺に木刀を貸してください。俺が戦います」
その言葉に、おあきちゃんは一瞬びっくりした顔を見せたが、すずさんは「そういうと思ったよ」とでも言いたげな不敵な笑みを浮かべて、
「ふむ、中々良い覚悟をしておるな。よかろう、お相手頼み申す」
俺は木刀を持ち、竹林の中の開いているスペースに移動する。侍の幽霊が宙に手をかざすと、虚空から木刀の形をした霊体が現れ、侍の幽霊の右手にしっかりと握られる。
――できる限りの事はやる。
俺はそう思い、剣道道場で行った稽古試合を心に浮かべて侍の幽霊と向き合った。
三本勝負で、先に二本先取したほうの勝ちという取り決めであったが、正直言って手も足もでなかった。
俺は胴や腕に侍の
「もう、りょう兄ぃは無茶な事をするんだから」
「いてて……駄目だったか。全然敵わないや」
すずさんが、超然とした態度で俺に言う。
「昨日今日、剣の稽古をしたばかりの小僧が本職の
俺は武士の幽霊の方を向き、口を開く。
「お侍さまは、自分を倒す男が現れるまで成仏はしないつもりなんですか?」
すると、侍の幽霊が声を響かせる。
「そうだな。
すると、すずさんが侍の霊に返す。
「だったら、なおさら成仏して生まれ変わった方がいいんじゃないかい? その男はきっとどこかで輪廻の輪に入ってるよ。人を
すると、侍が応える。
「そうしたいのはやまやまなのだがな……霊という
その言葉に、俺は言葉を搾り出す。
「あの、お願いがあるんです。俺ともう一度戦ってもらえないでしょうか?」
すると、侍の幽霊が返す。
「お
「違います。えっと……少しだけ待ってください。その間に稽古を受けて、できるだけ強くなってみせますから。お侍さまは確かに強いですけど、これから強くなる意思がある人が、この江戸には大勢いるって事を知ってもらいたいんです!」
その言葉に、侍の霊は目を細める。
「本気かね?」
「本気です」
俺の言葉に、侍は若干笑みを浮かべた面持ちになる。
「……わかった、良かろう。だがこの月の終わりの日までだ。今月の
その内容に、俺は満足する。
「わかりました。では、あと四日ですね。一月三十日の未明にまたここで試合、お願いします」
俺はそう宣言する。
俺はもう、一人で泣いているだけの存在じゃない。俺にも守りたい人がいる。この江戸に来てから知り合った大切な仲間、すずさんとおあきちゃんが守ろうとしている江戸の人たちを守りたい。その意気込みは、半年前には考えることもできなかった俺の魂の中にある明滅だった。
その日から四日間、神社での手伝いをしばらく返上して、俺は源之進さんが師範を務める亀沢町の道場にて剣術の稽古を受けることになった。
最終日の一月二十九日の夕方、道場近くの井戸の傍にて上半身裸になって布で体を拭いている俺に、
「
「ああ、はい。なんですか?」
俺が返すと、
「君はこの四日間、実によく頑張った。目に光が宿ったというか、大川端で初めて会ったときとは別人のようになっている。良ければ後学のために、何があったのか教えて貰いたいのだが構わぬかね?」
その言葉に、俺は応える。
「大したことじゃないですよ……少し、この江戸の町に対して考え方が変わっただけなんです」
「ほう? それはどういうことかね?」
「俺、本当は江戸に来たのは無理やりだったんです。来たくて来たわけじゃなかったんです。故郷には、大切な人が大勢いて……本当は、すぐにでも帰りたかったんです」
「でも、俺はわかったんですよ。この江戸にも、俺の事を思ってくれる人は大勢いて……俺も、その人たちの助けになりたいって思えるようになったんです。だから、江戸の人たちを守る手助けがしたいって思ったんです」
俺はあの日、東京から江戸への異世界転移とでもいうべき出来事に出会った。でも俺は、人を従わせる事ができるチートのような力なんか持ってなかった。
だが、それで良かった。俺のような未熟な子供なんかが持ってはいけなかったのだ。そんな力を持っていたら、俺の精神は慢心と傲慢ですぐさまズタズタに壊れてしまっていただろう。
そして、力を持ってないからこそ、大勢の人の助けがあったからこそ、俺は感謝の気持ちを
ふと、このあいだおあきちゃんが化けてくれた葉月の笑顔が脳裏に浮かんだ。
そう、みんなが保ち、守り、形作っているこの江戸は既に俺の生きる場所となっている。そして、俺はそんな江戸の町に生かされている。
俺が江戸に巣食う
「
その言葉に、俺は顔を引き締めて返す。
「はい、守りたいです。何があっても」
夕日は沈み始め、本所の町を赤く照らしていた。
日が暮れて、深夜になって日付が変わった。
一月三十日の未明たる、月明りのない闇が広がる夜更けに、俺は例の竹林にいてお侍の霊と対峙していた。
立会人役たるすずさんが、口を開く。
「では、一本勝負でいいかい? りょうぞうが、見違えるほど強くなっていたら文句なく成仏するで
すずさんの確認に、俺も侍の霊も頷く。
白衣袴姿の俺が木刀をかざすと、侍の霊も手をかざし、宙から霊体の木刀を現し右手に握る。俺と侍の霊は、向かい合って互いに一礼する。そして刀を構える。
すずさんが、木刀を構えるポーズを互いに取っている俺たち二人の間に立って、審判としての役目を果たそうとしている。
「それでは始めるよ……いざ勝負!」
すずさんの掛け声と共に、俺は正面を見据えて間合いを測る。
間合いをとりつつ、隙を見せぬようにじり寄りつつ近づくよう、足を運ぶ。
ゆらりゆらりと、互いに距離を測りながら肩を揺らす。
一瞬だけ、侍の幽霊が隙を見せたような気がした。
俺は、好機を逃さず突っ込む。
ガシッ!
俺が振りかぶった剣撃が、侍の木刀で受け止められる。侍は流れるような仕草で木刀を横に流し、俺の小手を狙う。
俺は腕を引っ込めつつ、木刀でガードしながら足をさばいて後ろに下がり、剣撃をかわす。
――確かに、この侍は強い。
俺はそう思い、右から胴を撃とうとする。侍は木刀の霊体で俺の剣撃を防ぎ、力を込める。
――でも、
木刀を触れ合ったままお互いに力を込める。俺は体のばねを利用して噛み合った木刀を引き、反対側の肩を狙い振りかざす。
しかし、侍の霊は足を移し、俺が振り抜く木刀の間合いのわずか外に移動する。
そこで、侍の霊が言葉を響かせる。
「ふむ、確かに四日前とは違うようだな。
その満足げな口ぶりに、俺は笑みを浮かべる。
「一応、俺も頑張ったんですよ」
俺がそう言うと、侍の霊が応える。
「だが、まだまだ甘いな」
その言葉を聞いた一秒後には、侍の霊がこちらから見て右へと足を移そうとしているように思えた。俺は右に木刀を構え防ごうとしたが、その瞬間には侍は向かって左側に抜けて、俺の頭頂部を鋭く打ち据えていた。
パッシーン!
そんなには痛くなかったが、それに反比例するかのような小気味のいい打撃音が、闇に広がる深夜の竹林を抜ける風音に紛れて響いた。
すずさんが、審判の声を出す。
「一本! それまで!」
俺の額に、何かぬるりとした液体が流れてきた。触ると、どうやら血のようであった。
おあきちゃんが、俺に駆け寄り声を発する。
「りょう兄ぃ! 頭から血が出てるよ! 治してあげる!」
その言葉に、俺はしゃがむ。そして、おあきちゃんがそこに手をかざす。余りにも綺麗な一本だったので、痛みすらも感じる暇がなかった。
おあきちゃんに頭の傷を治してもらった俺は立ち上がり、侍の霊に一礼する。侍の霊も俺に向かって一礼する。
侍の霊は、俺に伝える。
「いや、結構なものであった。たかだか四日の間に強くなり申したな」
「俺も必死でしたから。それなら、成仏していただけますね?」
俺が返すと、侍も応える。
「いかにも。いかに
武士の幽霊は、そこまで言うと宙を仰いだ。
しかし、次の瞬間には、この場にいなかった者の声が響いた。
「しばし、待たれい!」
俺たちはその方向を見る。するとそこには、提灯のぶら下がった棒を持った
「
すると、後ろに控えていた
「拙者、本所亀沢町に住む、
すると、武士の幽霊は
「
どうやら、武士の幽霊と
すずさんが、
「お師匠? おまいさんも相変わらずだねぇ、その首を突っ込みたくなる性分さぁ」
すると、
「いやなに、弟子の免許皆伝の良い試しだと思ってな。もう三十年早ければ、
俺の目の前では、侍の幽霊と
そして立ち上がって互いに対峙し木刀を構える。
その、竹林に
あれから六日が経ち、二月の五日の昼過ぎのこと、俺は
お侍の幽霊は
俺がそんな事を考えて
こちらに向かって歩いている
「やあ、
俺が挨拶を返そうとすると、
「ああ、こんにちは
俺がそう言うと、
「違う違う、この方はお
「へぇ、そうなんですか。じゃあ、その赤ん坊は
俺が返すと、
「そうだ。一月の三十日、あの竹林での試合の後に
俺は、その赤ん坊の顔を覗き込む。赤ん坊なのに、顔がきりりとしている気がした。
俺は尋ねる。
「なんて名前なんですか?」
すると、
「この子が生まれて
――
聖なる獣である
俺は、
「でも、何で父親である
すると、
「実はな、家の恥だから広めないでくれ給えよ。
「えっ!?
「
「その
すると、
「まぁ、跡継ぎが生まれたことで叔父上も大人しくなってくれるといいのだがな。
その言葉に、俺は返す。
「まぁ、大丈夫だと思いますよ?
すると、
「ああ、それも違うのだ。
俺はその言葉に、一瞬何かを思い出しかけた気がした。
――かつ……りんたろう?
――あれ? どっかで聞いたような……どこだったっけ?
――中学の歴史の時間だったような……
俺が思案していると、後ろの方からおあきちゃんの軽快な声が聞こえてきた。
「赤ん坊!? 見せて見せて!」
いつの間にか現れたおあきちゃんが、お
俺がおあきちゃんに近づこうとすると、赤ん坊の顔を見たおあきちゃんは驚いた様子で声を発する。
「あっ! この子、あのお侍さまの……!」
そして、近づいた俺を見上げて伝える。
「りょう兄ぃ! この赤ん坊、きっと立派なお侍さまになるよ! あたしわかるもん!」
おあきちゃんがそう言ったので、俺は返す。
「そうだね、きっとなってくれるよ。江戸の人たちを大勢守れるような、立派なお侍さまにね」
もし、あのお侍の幽霊が生まれ変わったのがこの子だったのだとしたら、今度こそ自分の人生を
俺は、心の底からそう思った。