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第二十七幕 睦み月の昼下がり



 一月の十五日に、おめでたいことがあった。


 竹蔵さんの奥さんの、おいとさんが元気な男の子を出産したのだ。


 これ以上ないほどの安産で、産後の経過も良好だったらしい。


 そしてそれから七日が経過した一月の二十二日の今日、竹蔵さんとおいとさんは、産まれたばかりの赤ん坊を連れて、徳三郎さんに御祓おはらいをしてもらうために稲荷社いなりやしろの本殿にやってきていた。


 本殿では、布に包まれた赤ん坊を抱いているおいとさんが竹蔵さんと並んで座り、徳三郎さんに御祓おはらいをしてもらっている。


 御祓おはらいが終わったところで、俺とおあきちゃんは竹蔵さんたちに近づく。


「竹蔵さん、これで父親だね。おめでとう」

 俺が竹蔵さんに話しかけると、竹蔵さんは若干照れた様子になる。

「ああ、まぁな。元気に育ってくれるといいんだけどよ」


 すっかり腰元が細くなったおいとさんは、赤ん坊を抱いたまま俺に笑顔で話しかける。


「本に、皆様のめぐみのおかげでございます。この子もきっと有り難がっております」


 そこで、おあきちゃんが赤ん坊の顔を覗き込んで声をかける。

「へぇぇ、可愛いね! 何て名前なの?」


 すると、おいとさんが返す。

「皆様のめぐみ賜物たまものでございますので、恵吉ゑきちと名付けさせていただきました」


 おいとさんがそう言ったところ、恵吉ゑきちくんがいきなり泣き出した。

「おぎゃぁぁぁ! おぎゃぁぁぁぁ!」


 俺は焦る。

「あれ? どうしたの!?」


 すると、徳三郎さんが落ち着いて話す。

「案ずることはない、おそらく腹が空いたのだろうな」


 その言葉に、おいとさんは表情を緩めた。


 そして、恵吉ゑきちくんを隣にいる竹蔵さんに預けてから、着ている長春ちょうしゅん色の着物を躊躇ちゅうちょせずはだけて、巨乳としか表現できない大きな丸い乳房ちぶさを、あかく色づいた乳首ちくびごと揺らしながら片方さらけ出した。


「ぬ、脱ぐなら脱ぐって言って下さいよ!」

 俺は、母親になったとはいえ二十歳はたちくらいのお姉さんが、いきなり大きなおっぱいを恥ずかしげもなく着物からほうした予想外の行動に、顔を赤くして目を背ける。


 すると、竹蔵さんが笑う。

「なんでぇ!? りょうの字、女のちち見たくれぇでそんなに照れるなよ!」

「まぁまぁ、あんた。りょうやさんは、純朴じゅんぼくなお方なのよね」


 俺が照れながら視線をゆっくり戻すと、おいとさんに抱き直された赤ん坊の恵吉ゑきちくんが乳首をくわえ、母乳を吸っている様子が目に入る。この時代の女性は、そもそも裸や乳房を見られることにあまり抵抗がないのである。


 着物の片側をはだけて白い柔肌を魅せつつ、幸せそうな表情で赤子に授乳をしているおいとさんは、竹蔵さんの方を向いて柔和な口調で話しかける。

「あんたと会ったのが去年の二月だから、まだ一年と経っていないのよね。去年の正月には翌年に子宝こたからを授かるなんて、思わなかったわね」


 すると、竹蔵さんが返す。

「あーそっか。俺がおめぇと初めて会ったの、二月八日の針供養はりくようだったな、そーいやよぉ」


「そうよね。私が針供養はりくように持って行く針を道に落として探していた所を、天秤棒を持って通りかかったあんたが一緒に探してくれたのよね」

「おめぇは近眼ちかめだから見つからなかったんだよな。で、俺と一緒に寺社まで行ったんだったよな」


「それで、隣町に住んでいることがわかって、色々寺社巡りとか行くようになったのよね」

「ああ、まぁ餓鬼がきができたってわかったときは驚いたけどよ。俺も男だし、それで所帯持ったんだったよな」


「長屋の皆様が盛大に祝ってくれて、楽しかったわね」


 竹蔵さんと、胸をはだけて我が子に乳を吸わせているおいとさんが、新婚夫婦らしく出会い話に花を咲かせていると、おあきちゃんが二人に問いかける。

「ねぇ、竹蔵さん、おいとさん、訊いてもいい?」


「ああ、なんでぇ?」

 竹蔵さんが応えると、おあきちゃんが爆弾を投下した。

「赤ちゃんって、どうやったらできるの?」


 その言葉に、おあきちゃんと恵吉ゑきちくん以外の全員の顔がこわばった。


 竹蔵さんが、気まずそうに頬を指で掻く。

「えーっとよぉ……それは、おじょうちゃんには、まだはえぇんじゃねぁか?」

「えー!? 知りたいよ、二人は知ってるんでしょ?」


 すると、その母性溢れる大きな乳房ちぶさを赤ちゃんに吸わせているおいとさんが、優しく語りかける。

「男の人と女の人で一緒に寝たらできるのよね」


 おあきちゃんはそれを聞いて、こんなことを言った。

「え? でもあたし、りょう兄ぃと一緒に寝たことあるよ?」


 その言葉に、徳三郎さんの顔色が変わる。

亮哉りょうやくん? それはどういうことかね?」


「添い寝ですよ添い寝! 徳三郎さんとすずさんで宴会に行っていた日のことですよ!」

 俺の弁明に、徳三郎さんの表情が普段通りに戻る。


 おいとさんはのどやかに、おあきちゃんに伝える。

「幼い子と添い寝するくらいなら赤ん坊はできないのよね。大人の男と大人の女じゃないとね」


「ふぅん? まぁ、詳しく知りたいから、後ですずぇに訊いてみる」

 おあきちゃんがそう言ってくれたところで場は収まったが、徳三郎さんとの間に気まずさが残った。






 昼八つ[午後二時ごろ]を過ぎて、家事をあらかた終えた俺は住処の廊下を歩いていた。


 すると、おあきちゃんが不機嫌そうに俺に駆け寄ってきた。

「りょう兄ぃ、すずぇも教えてくれないの。赤ちゃんがどうやってできるか」


 俺は返す。

「あー……まぁ、そりゃ無理もないんじゃないかな? おあきちゃんは、まだ小さいし」


「えー? 何で子供は知っちゃいけないの?」

 おあきちゃんが頬を膨らますので、俺はなんとか言い訳を探す。


「えっと……コウノトリって知ってる?」

 俺の言葉に、おあきちゃんが笑顔で返す。

「知ってる! 浅草寺せんそうじの屋根に群れでいっぱいいるよね!」


――え、この時代ってそんなにコウノトリいるのか。


 俺はおあきちゃんに、よく未来で語られている御伽噺おとぎばなしの内容を伝える。

「えっとね……大人の男と大人の女が仲良くしてるとね……神様の使いのコウノトリが赤ちゃんをお母さんのお腹の中に運んでくれるんだ」


 すると、おあきちゃんが目を輝かせる。

「そうなの!? じゃあ、その鵠鳥こうのとりもあたしみたいなあやかしなんだね!」


「あー、そうそう、おあきちゃんやすずさんがお稲荷さまの使いをしてるみたいなもんだよ」


――よし、なんとか誤魔化せそうだ。


「でも、だったら何であたしの目には見えないんだろ? あたしだって同じあやかしなのに」


「えっとね……夜遅くだからじゃないかな? 運ぶのは」

 俺の言葉に、おあきちゃんは若干疑問が残ったようだったが、なんとか納得してくれたようだった。






 沈む夕暮れ日を眼前に、俺とすずさんの二人は、並んで西の縁側に座っていた。


 俺の左に腰掛けているすずさんが、横を向かずに正面を見たまま口を開く。

「なんとか護摩ごまかしてくれたようだねぇ。すまないねぇ」


 俺も、すずさんの方を見ずに告げる。

「あ、いえいえ。上手く誤魔化せて良かったです」


 二人で夕日を顔に受けつつ、すずさんが言う。

「でも、いつかは教えなきゃいけないけどねぇ。随分とのちのことだろうけどさ」


「まぁそうですね。インターネットで調べるとかはないので、それは安心ですね」

 俺がそう言うと、すずさんが俺の方を向く。

「『いんたぁねっと』ねぇ……そりゃ、未来の艶本えんぽんかい?」


 『艶本えんぽん』とは、この時代において男女の情交が描かれた浮世絵、つまり春画しゅんがを集めた冊子本の事であり、俺の時代で言うところのエロ本のことらしい。


「当たらずとも遠からず……ですね」

 俺が軽く苦笑いをしながらそう返すと、すずさんの声のトーンがなまめかしく変わる。

「ところでさ、りょうぞうは女とまぐわったことはあるのかい?」


 その言葉に、俺は焦りをもって返す。

「え? ないですよ! 俺まだ十六歳ですよ!?」


「でもさぁ、おあきの話によると、としの数え方の違いで、おまいさんもうこの正月でよわい十八らしいじゃないかい。武士でもないのに十八で女を知らないってちょいと変だよ?」


 すずさんが素面で言うので、俺は返す。


「俺の時代では普通なんですよ。それに俺には、未来に惚れている女がいますし」


 俺がそう言うと、すずさんは歯を見せてくくくと笑う。


「そうかい、りょうぞうは一途なんだねぇ。じゃぁ、どうしても未来に帰らないとねぇ」

「お願いしますよ。そういうすずさんこそ、これまでに好きな男とかいなかったんですか?」


 俺がそう言うと、すずさんは顔を正面に向けた。夕日の赤い光がすずさんの頬に当たる。

「あたいが初めて惚れた男は、それはそれはいい男だったねぇ。もう随分と昔のことだけどさ」


 その言葉に、俺は心に何かが引っ掛かった気がした。

「あ……そうなんですか」


 相手はどんな男だったのだろうか。すずさんと同じく妖狐ようこなのだろうか。いや、過去形で話をしているということは、もう既に亡くなっているのかもしれない。


 すずさんは言葉を続ける。

「そいつは、この稲荷社いなりやしろの前で行き倒れてた男だったんだけどさ。飢饉ききんで食い詰めて寺に預けられてたんだけど、逃げ出して江戸にやってきたんだとさ」


 すずさんは言葉を続ける。

「そして、まぁ色々世話するうちに恋仲になったんだけどさ……そうだね、ちょうどりょうぞうくらいの齢だったかね。懐かしいねぇ」


 すずさんの瞳が、少し潤んだ気がした。


 俺は言葉を返す。

「そんな人がいたんですか……すずさんに」


「まぁね。あたいは、りょうぞうよりずっとながく生きてるんだよ? それくらいよくある話だろう? それよりもさぁ、りょうぞうにあたいから頼みがあるんだけどさ」

 すずさんがそんなことを言ってくるので、俺は返す。

「頼みってなんですか?」


「おあきのことだよ。もしもさぁ……あたいがそのうちあやかしに殺されるような事があったとしたら……いつかは、おあきの事をおまいさんに頼みたいんだよ」

「……殺されるとか、そんな縁起でもないこと言わないでくださいよ。それに、おあきちゃんはまだ子供じゃないですか」


 すると、すずさんは応える。

「まぁ今はそうだけどねぇ、女ってのは時が経てば女らしく育っていくもんだからさ。でもさぁりょうぞう、未来にいるとかいう惚れている女ってりょうぞうと恋仲なのかい?」


 その問い掛けに、俺は若干言葉が詰まるも、何とか声を絞り出す。

「……いえ、恋仲というか……俺が一方的に惚れているだけかもしれませんけど……」


 俺は、この江戸時代に来る前のことを思い出していた。


 俺は学校の教室で、葉月に御守りを渡されて誕生日を告げられた。しかし、それはあくまでそれだけであり、お互いに告白も何もしていない。


 何より、俺が江戸に飛ばされた七月下旬のあの日から、もう半年近くが経過しているのである。葉月があの時仮に俺の事を好きだったとしても、俺が行方不明なことに業を煮やして心変わりしていないという保証はない。いや、心変わりしていないと考えた方が不自然かもしれない。


「そうですよね……俺、一人で突っ走ってたのかもしれません」

 俺は、自分の声の調子が若干暗くなったのがわかった。


 俺は立ち上がり、間借りさせてもらっている部屋に足を運ぶ。


 すずさんが、俺の背中に声をかける。

「りょうぞう? どうした?」


「……すいません、少しの間だけ一人にさせてください……」

 そう言って、俺は後ろ手で障子を閉めた。誰にも顔を見られないための壁をつくるためだった。






 しばらく座布団を枕に寝転んでいた俺は、ぼんやりと電灯のない天井を見つめていた。


 そして俺は、ここに来る前にあったことを懸命に思い出そうとする。


――このお守り、私からの贈り物、りょーくんにあげる――


 葉月の声が、脳内でリフレインする。


――でも断った、他に好きな人がいるからって――


 その相手は、誰だったのか。


――ちょっと、ただひろに私が好きだから付き合って欲しいって言われただけ――


 その葉月の言葉を思い出し、俺は急いで半身を起こす。


 そうだ、俺が江戸に飛ばされた日の前日、忠弘は葉月に告白していた。


 そして俺はあの日、葉月のマンションまで来たところで忠弘に会って、何らかのメッセージを俺のラインに送られたのだった。


――あの時、忠弘は何を送ったんだ?


 その疑問に、俺は葉月から貰った御守りがついたナップサックから、スマートフォンを取り出す。


――忠弘からラインが来た場合にはメッセージデータがスマートフォンにストックされ、圏外でも後で読めるように設定されていたはずだ。


 電池は既に切れていたので、手回し式充電器に繋ぎ、懸命にハンドルを回転させる。


 しばらく充電を続けて、ラインのメッセージを読むくらいなら問題ないくらいに電気が溜まった。ただ、当然ながら電波は圏外になっている。


 俺がスマートフォンのコミュニケーションアプリであるRINEラインを起動させると、新しく一件のメッセージが届いていることがアイコンに表示されていた。間違いなく、忠弘があの日コンビニで俺に送ったメッセージだ。


 俺は、アイコンをタップしてメッセージを表示させる。


 その忠弘からの文章には、こう書かれていた。


『葉月ちゃんがずっと好きだったのはお前だよ! 幸せになりやがれバカヤロー!』


 そのメッセージを見て、俺の目から涙が溢れてきた。


 両想いだった嬉しさと、その思いをふいにしてしまった悔しさがごっちゃになる。


 そしてふすまが開いて、幼い女の子の声が部屋に響いた。

「りょう兄ぃ? どうしたの? 泣いてるの?」


 俺は、泣いてる顔を見せないよう、おあきちゃんに背中を向ける。

「あ……いや、大丈夫だから……うん、大丈夫」


 すると、髪が伸びて既に自前のまげが結えるようになっていた俺の後ろ頭に、おあきちゃんが手を当ててこう告げる。

「すずぇに聞いたよ。未来にいる女の人の事を思い出してたんでしょ? こないだのばくと闘ってたときに、りょう兄ぃが名前を叫んでたの覚えてるよ。葉月さんってどんな人なの?」


 おあきちゃんの言葉に、俺は葉月の姿を心に思い浮かべる。


 肩で切り揃えた艶やかな黒髪。天真てんしん爛漫らんまんさを表すような輝く丸っこい瞳。小さく整った鼻と口。少女のたおやかさを示すような細い体。目の裏に焼きついて離れない葉月の姿を、俺は思い浮かべてしまった。


 そして、その声は不意にやってきた。

「りょう兄ぃ、こっちを向いて」


 いきなりした葉月の声に、俺は後ろを振り向く。


 涙を流していた俺の目に映ったのは、両膝を畳に揃えた制服姿の葉月だった。


「すずぇがね、この姿で、膝枕ひざまくらでもしてあげなって……悪いこと言っちゃったからって……」


 俺は、不意をくらって固まる。そして口を開く。

「で、でも……それじゃおあきちゃんに悪いと思うし……」


 すると、葉月に化けたおあきちゃんが俺の頭をむんずと掴み、正座している太腿ふとももに引き寄せた。


「いいの! あたしも、りょう兄ぃを慰めたいだけなんだから!」

 寝転んだ俺の頭に当たる葉月の太腿ふともものやわらかい感触に、俺の心が動く。

「……おあきちゃん……君は……それでいいの?」


 すると、おあきちゃんが化けた葉月の口から言葉が発せられる。

「いいよ、りょう兄ぃはずっと苦しんできたんだもの」


 その幼い女の子の思いやりに、俺は柔らかい太腿に頭を乗せたまま大きく息を吐き出す。


「……そっか……ありがと」

 俺が涙を乾かしつつそう言うと、俺のおもびとであるその少女が柔和な笑顔に変わる。


「でも、今鵠鳥こうのとりさんが来たらちょっと困るかも」

 その言葉に、俺は噴き出す。

「ぷっ。いやいや、それはないから安心して」


 俺は寝転びながら、おあきちゃんとすずさんの気遣いに感謝した。そして目の前にいる、おあきちゃんが化けてくれた笑顔の葉月を見つつ微笑んだ。


――俺は、この笑顔を守りたい。


 心の中でスイッチが切り替わる音が聞こえたような気がした。


 それは、一月のある日の夕暮れのことであった。




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