十二月十三日の晩冬の季節の朝、俺は
今日、十二月十三日は、江戸城の高級武士から四畳半長屋の住人まで、江戸中の人たちが家を大掃除する日であるらしい。子供達も皆、家での掃除の手伝いをするらしいので、この日は手習い所もお休みである。
口と頭を頭巾で
近くでは、いつもとは違い
講堂に繋がる戸口からすずさんが顔を出した。すずさんは、巫女装束である白衣に緋袴を身に着け、俺やおあきちゃんと同じように口と頭を頭巾で覆っている。
すずさんが俺に話しかける。
「りょうぞう、そっち済んだら手習い場も頼むよ」
俺は「わかりました」と応えて、本殿の
徳三郎さんは、講堂の方にてお茶殻を落とした畳を
俺が、講堂の天井近くを
横に立てられ並べられた机を、
「りょうぞう、そこ終わったら次は
十二月の十三日にある
江戸の町には当然の事ながら電気などなく、火をよく使うので、台所の天井などは
今日は、そこらへんの商店からも煤払いの騒がしい音が聞こえてくる。大名屋敷も足軽の武家も、豪商の店も小さな商店も、あらゆる場所で一斉に大掃除をしているのだという。
そして面白い事に
家を
俺が借りている客間の掃除をしていたところ、正午を示す時の鐘が鳴った。
すずさんが廊下を歩いてきて、開かれた障子から顔を覗かせる。
「りょうぞう、正午になったから
「ああ、はい。すいません」
俺は一息ついて部屋を出て、巫女服姿のすずさんと一緒に廊下を伝う。
台所の土間段の近くには円いお盆が置いてあり、その上にある皿には海苔の巻かれたおにぎりが十個近く並べられていた。お盆の近くには、水の入った小さな手洗い桶が置いてある。
ひと休みしたおあきちゃんと徳三郎さんは土間段に並んで腰掛けて、海苔を巻いたおにぎりを共に頬張っている。
「父さま、おにぎり美味しいね」
「うむ、そうだな。体を動かした後はやはり、
二人はまるで、祖父と孫娘のように
俺も土間段に腰かけて、おあきちゃんの隣に座る。すると、おあきちゃんが嬉しそうな表情で俺を見る。
「あっ! りょう兄ぃ! ご苦労様! 一緒におにぎり食べようよ!」
「ああ、じゃあそうしよっか。おにぎり頂きます」
俺はお盆の近くに置いてあった手洗い桶の水で手を洗い、おにぎりを手に取りかぶりつく。
こっちのおにぎりの具は、
「うん、美味しいね。掃除した後だと特に」
俺がもぐもぐとおにぎりを
「今日の晩は、
――鯨肉? こないだ回向院の門前市で食べたのは、シロデモノという皮下脂肪を煮込んだものだったけど、赤身肉もやっぱり食べられているんだな。
「この前、相撲を観に行った時にクジラ汁食べたんですけど、美味しかったですね。江戸の人たちってよくクジラを食べるんですか?」
「ああ。江戸の者は大抵、
――へぇ、大掃除の日にはクジラ肉を食べる風習があったんだな。
「俺の時代では、クジラはほとんど食べられてないんですよ。海外の国との協定だか約束だかで、
俺がそう伝えると、徳三郎さんは神妙な顔つきになる。
「ふむ、そうなのか。
「でも、その代わりに
俺がそう言うと、徳三郎さんもおあきちゃんも
おあきちゃんが丸い目を見開いて、叫ぶような声を上げる。
「
獣肉を食べる事が、建前上厳しく
俺はそんな、おあきちゃんの驚き声に冷静に返す。
「えっと……
すると俺の後ろで、女性にもかかわらず
「りょうぞう? なぁに馬鹿なこと言ってんだよ?
すずさんはそう言うと、馬鹿馬鹿しい事を聞いたかのように握り飯を口に放り込む。
「え? クジラって獣ですけど!? イルカとかシャチとか同じで
俺が反論すると、すずさんは「変なこといってんじゃないよ」という気持ちが伝わるような目で俺を見る。
しかし、徳三郎さんは顎に手を当てて何かを思案しているようだった。
そして、すずさんに伝える。
「いや、
その言葉に、すずさんの態度が変わる。
「ふぅん? まあ、父さまがそう言うなら正しいんだろうね。で、未来では牛の
「そりゃあ、色々ですよ。
俺がそう言うと、おあきちゃんが反応する。
「りょう兄ぃ! あたし、その『すき
「え? でも、
俺が返すと、おあきちゃんが応える。
「だって、
――おお、なるほど。確かに鯨の赤身肉なら代用が可能かもしれない。前々から思ってたけど、おあきちゃんってかなり頭良いな。
「わかった、作ってみるよ。醤油とか砂糖とかが必要だけど、江戸にある材料で作ることができると思うから」
握り飯を食べ終わると、午後からも大掃除を続ける。そして、三人にすき焼きを日頃のお礼も兼ねてご馳走しようと、俺は思った。
翌日、十二月十四日は雲ひとつない快晴の青空だった。何十里先の山さえも見渡せるような、気分の良い
俺は、昼前に稲荷社の大鳥居の近くで木槌を構え、屋台を組んでいた。屋次郎さんの大工としての腕前は大したもので、木槌を使えば組み上げるのに十分もかからない。もうじきやって来る竹蔵さんのために組み上げるという約束だからだ。
俺は、昨日の晩に皆で食べたクジラ肉のすき焼きの事を思い出していた。
結果から言うと、すき焼きは三人に好評だった。
その際に、江戸にはまだ白菜がないことや、江戸の人たちには大勢で鍋をつつく習慣がないことや、
俺が「俺の時代では、横浜は大きな街になっていて三百五十万人ほどの人間が住んでいます」と言った時の三人の驚きの顔は忘れようもない。
屋台を組み終えた俺の後ろから、よく知った声が聞こえてきた。
「りょうの字、いつもすまねぇな」
その竹蔵さんの声に俺は振り返ると、その奥さんであるおいとさんが一緒に来ていて、片腕に収まる程度の大きさの風呂敷包みを抱えて並んで立っていた。
おいとさんの大きな胸元の下にある、着物の下腹部は
「ああ、竹蔵さん。別に約束だからかまわないよ。それに、おいとさんも来てくれたんですね」
「いやよぅ、お
竹蔵さんの言葉に促されたように、おいとさんはその垂れぎみの目を細めてにっこりとした顔で、俺に風呂敷包みを渡そうとする。
「こちら、りょうやさんの注文通りに作らせて頂きました。この
大きさ七寸[約21センチメートル]の風呂敷包みを受け取った俺に、竹蔵さんが不思議そうな視線を向ける。
「りょうの字、そりゃぁなんでぇ? おいとに何頼んでたんでぇ?」
俺は竹蔵さんの言葉に返す。
「ああ、これはおあきちゃんへの贈り物だよ。そろそろ十二月二十四日だからね。西洋ではその日の夜には、子供に贈り物をする風習があるんだ」
俺の言葉に、竹蔵さんが奇異そうな目を向ける。
「で、何作ってたんでぇ?」
「それは秘密だよ。おあきちゃんには内緒にしておきたいから」
「なんでぇ!? 俺だって秘密はもらさねぇぜ!?」
すると、おいとさんが笑って竹蔵さんに伝える。
「あんたが口が堅いなんて話、私初めて聞いたんだからね」
竹蔵さんは、おいとさんの言葉に苦笑いをする。
俺が後ろを振り返り、遠くにある富士山を望み、視線を戻して口を開く。
「それにしても今日は空が澄んでいるね。ほら、富士山があんなに綺麗に見えるよ」
すると、おいとさんの表情が少し暗くなったような気がした。竹蔵さんは微妙な顔をして、笑いつつ俺に告げる。
「あー、りょうの字よ。おいとは
「えっ!? そうなの!? ごめん!」
俺が謝ると、おいとさんがフォローをしてくれる。
「気にしないでくださいまし。生まれつきなので、
――そうか、この時代じゃ庶民はメガネなんか買えないのか。
おいとさんは言葉を続ける。
「絵では見たことがあるので、
その言葉に、俺はあるアイディアを思いついた。確か、未来から持ってきたスポーツバッグの中にあれがあったはずだ。
「ごめん、おいとさんちょっと待ってて!」
俺はそう言い、手におあきちゃんへのプレゼントを抱えたまま西の庭から俺の間借りしている客間に向かう。
スポーツバッグの中をまさぐると、それがあった。
葉月が合宿の仲間と使う予定だったのだろう、インスタントカメラだ。俺はインスタントカメラにフィルムを入れて、さらにオペラグラスを持って、再び稲荷社の大鳥居の前に駆ける。
竹蔵さんは長屋から持ってきた油揚げを使って、稲荷寿司を作り始めていた。おいとさんも傍でその様子を見守っている。
俺は大鳥居から少し離れ、インスタントカメラのレンズをオペラグラスに接して遥か西の彼方にある富士山を撮影した。
カシャリ
カメラから現像フィルムを取り出し、数十秒くらい手元で振る。すると、純白のフィルム上には、ぼやぁっと富士山の姿が浮かび上がってきた。
俺は、フィルム上に綺麗に薄青色の富士山の画像が浮かび上がってきたところで、屋台近くにて稲荷寿司を微笑ましく食べていたおいとさんに近づく。
「おいとさん、これあげます」
写真を見たおいとさんは、驚きの顔を見せる。
「まぁ! これ何でしょうか!? これ、絵でございますか!?」
「えっと……まぁ、そんなもんかな」
近くにいた竹蔵さんも首を回し写真を見て、驚きの声を上げる。
「うおっ! なんでぇこの
「あ、いや……描いたのは俺じゃなくて、あるものに描いてもらったっていうか……まぁ、おあきちゃんへの贈り物を作ってくれたお礼ですので、受け取ってください」
俺はそう言い、
おいとさんは感激したようで、何度も何度もお礼を言っていた。
しかし、後から考えたら、写真を他の人に見せないように注意しなかったのは明らかな失敗だった。
翌日、十二月十五日の昼前に竹蔵さんがやってきた。そしていきなり俺にこう告げた。
「りょうの字、昨日貰ったあの絵だけどよ、なんか同じ長屋の爺さんが絵をよこした奴連れて来いっていってきかねぇんだよ」
その言葉に、俺はしまった、と思った。
「えっ! あのしゃ……絵を長屋の皆に見せたの!?」
俺はしどろもどろになる。
竹蔵さんは言葉を続ける。
「その爺さん、こないだの煤払いの日の少し前に来た新入りさんなんだけどよ。どうやら絵を描いて暮らしているとか言ってたぜ。あの絵の事について尋ねたいんじゃねぇか?」
写真を長屋の皆に見せて回るくらい予想できたことじゃないか。しかも長屋の住人に本職の絵描きの人がいたなんて。もし説明なんかしたら、根掘り葉掘り訊かれてひょっとしたら俺の正体もばれてしまうかもしれない。
そんな事を考えていると、講堂の入口からすずさんが首をひょいと伸ばして、俺たちに声をかける。
「お二人さん? どうしたんだい?」
すずさんは今日は手習い所が休みなので、少し暇そうであった。面白いものを見つけたような顔でにやつきながら草履を履いて俺たちに近寄る。
「ああ、すずさん。ちょっと困ったことがありまして……」
「なんだい? あたいで良ければ相談に乗るよ?」
すずさんがそう言うので、俺は竹蔵さんから少し離れてすずさんと二人で話した。
未来の技術である写真機で撮った『写真』というものをおいとさんから取り返す必要があるということを伝えると、すずさんは呆れ顔で息を吐き出す。
「りょうぞうは間抜けだねぇ。そんなのさっさと取り返せばいいじゃないかい」
「面目次第もございません」
俺は意気消沈する。結局すずさんと一緒に
コンコン
「おいとさーん、入りますよ」
俺が障子戸の近くの壁をノックして声を掛けると、中から「はーい」という声が聞こえてきたので長屋の引き戸を開ける。
四畳半の部屋の真ん中には、身重のおいとさんがいた。
「ごめん、おいとさん。この前渡した富士山の絵だけど、やっぱり返して欲しいんだけど」
俺が頼むと、おいとさんは申し訳なさそうな声を出す。
「ごめんなさいねぇ。あの絵は今、向かいの
「じゃあ、お
「この部屋のお向かいの、一つ左よね」
そのおいとさんの言葉に、すずさんは俺に視線を向けて顎で招く。
俺はすずさんと一緒に、どぶ溝を挟んでの向かい側に位置する長屋並びの、お
「りょうぞう、あの
すずさんの言葉に、俺は応える。
「わかりました。でも、何を話すんですか?」
「お産の時に気を付けなきゃいけないこととか、色々さ」
そんなことを話していると、目の前の障子戸がガラリと開いた。
障子戸が開けられたそこには、気の強そうな二十代前半くらいのお姉さんが立っていた。手には煙の立ち上る
「おめぇら、なぁに人ん
この人がお
俺は口を開く。
「あ……俺は、
その言葉に、お
「ああ! あの
お
「
俺は、窓の傍に置かれた低い机の前で、平皿にて絵の具のようなものを混ぜ合わせている大柄な老人の後ろ姿に視線を移す。
後からの姿なのでわかり辛いが、頭は禿げ上がっていて両サイドから頭の後ろに白髪が生えていて、小さな
老人と言っても背中が随分と広く、立ち上がったら忠弘くらいの背丈はありそうだ。また、耳が随分と大きいという印象を受けた。
老人が背中を見せたまま応える。
「おーい、
「
お
お
「まだ、この部屋に来てからは十日もたってないからな。まだまだ片付いてるものさ」
お
俺は、絵描きだという老人の近くに座る。すずさんも同じく、俺の斜め後ろに正座する。お
「あの、すいません。富士山の絵を預かっているって聞いたんですが」
俺がそう言うと、老人はゆっくりと振り向き、ぎょろついた眼をこちらに向ける。
「ああ、これだろう?」
老人の指先には、しっかりとあの写真が挟まれていた。
俺は、できるだけ
「申し訳ありませんが、その絵間違えて渡しちゃったものなんです。どうか返して頂けないでしょうか?」
その言葉に、老人はぎょろっとした目を細める。
「ああ、こりゃあ元々お
「……なんでしょうか?」
「この
その真実を見抜いているかのような語り口に、俺は息を呑む。
「えっと……俺もちょっとわからないんですが……人から貰ったものですし……」
俺はなんとかかんとか嘘をつこうとするが、冷や汗が流れてるのがわかる。
すずさんが、後から声を出す。
「どうでもいいだろうさ、そんなこと。その絵はりょうぞうのもんだよ? 元の持ち主が返して欲しいっていってんだからさ、四の五の言わずに返すってのが道理じゃないのかい? しかもその絵は、おいとさんにあげたものなんだよ? なんでおまいさんが返すか返さないか決めるのさ」
そのすずさんの囃し立てに、老人はうすら笑いを浮かべた。
「それもそうだな。まぁ、いいもんを見せて貰ったってことで返してやるのが道理かね」
老人は、俺に写真を手渡すので感謝の言葉を返す。
「あ! ありがとうございます!」
すると、老人は不意に口を開き、俺に告げる。
「当ててやろうか? そりゃぁ、
その洞察力ある言葉に、俺は絶句する。
すると、窓際に座っていたお
「西洋には、見たものを見たまんま写し取る
俺は観念して、本当の事を言う。
「あ……はい、これは『
――しかし、それがわかるとはこの老人やるな。
お
「そんな
俺は、これはいけないと思いフォローを入れる。
「あ、いえ、そんな事ないですよ。むしろ写真ができてからのほうが、絵にしか出来ない芸術の幅が広がったって聞いたことあります」
すると、すずさんが俺の後ろから言葉をかける。
「ふむ、そういえばりょうぞうはこの前、西洋では浮世絵が高尚な芸事とみなされているとかいってたねぇ」
「ああ、そうですね。
そう俺が返すと、お
老人が、俺に尋ねる。
「なぁ、
「え? ええ、もの凄く有名ですけど? 西洋の絵画を一新したとか聞いたことあります」
俺がそう言ってから、静寂が十秒ほど続いただろうか。
いきなり、お
「ぷっ! あんた、中々面白い事言うねぇ!」
老人も、口を開けて笑っている。
「はっはっはっ!
予想以上の反応だったので、俺は二人に質問する。
「あの……ひょっとして、
お
「ははっ! 知られてないも何もねぇ……」
すると、老人が言葉をかぶせて制する。
「まぁ、あいつはまだまだ未熟者さ。一人前になんのはいつになるかな」
老人の言葉に、俺は納得する。
でも、もしかしたらこの老人も高名な画家なのかもしれない。俺は恐る恐る尋ねる。
「あの……ところで、お爺さんの名を尋ねさせてもらってもいいですか?」
すると、老人は落ち着いた声で俺たちに伝える。
「あぁ? 俺はただの
――鉄蔵さんか、少なくとも俺は聞いたことがない。
そんなことを思い、俺はすずさんを残して回収した写真を手に長屋を後にした。
それからまたしばらく日が経った。
竹蔵さんの話によると、あの鉄蔵さんというお爺さんは今は富士山の絵を書く事に挑戦しているらしい。
その動機が、俺が見せたあの富士山の写真によるものだったのかどうかは、全くもってわからない。