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第二十三幕 師走に望む富士山


 十二月十三日の晩冬の季節の朝、俺はたすきを掛けた白衣びゃくえはかま姿にて、煤払すすはらいの行事を手伝っていた。


 今日、十二月十三日は、江戸城の高級武士から四畳半長屋の住人まで、江戸中の人たちが家を大掃除する日であるらしい。子供達も皆、家での掃除の手伝いをするらしいので、この日は手習い所もお休みである。


 口と頭を頭巾でおおった白衣袴姿の俺は本殿にて、煤竹すすたけという葉のついた長い青竹で、天井近くのほこりを払い落としていた。


 近くでは、いつもとは違い小豆あずきいろの振袖着物を着てたすきを掛け、やはり口と頭を布で覆ったおあきちゃんが、懸命に床板を雑巾で拭いている。


 講堂に繋がる戸口からすずさんが顔を出した。すずさんは、巫女装束である白衣に緋袴を身に着け、俺やおあきちゃんと同じように口と頭を頭巾で覆っている。


 すずさんが俺に話しかける。

「りょうぞう、そっち済んだら手習い場も頼むよ」


 俺は「わかりました」と応えて、本殿のほこりをあらかた払った所で講堂に移動する。


 徳三郎さんは、講堂の方にてお茶殻を落とした畳を畳箒たたみぼうきで掃いている。畳の上にお茶殻を落とすのは、掃除機や洗剤がない江戸時代において、部屋を綺麗にするための知恵であるらしい。


 俺が、講堂の天井近くを煤竹すすたけで払い落とす。


 横に立てられ並べられた机を、布巾ふきんで拭いていたすずさんが俺に話しかける。

「りょうぞう、そこ終わったら次は住処すみかだよ。鴨居かもいの上とかも念入りに払っておくれよ」


 十二月の十三日にある煤払すすはらいというのは、江戸の人たちにとって重要な年末のイベントであり、一年の垢を綺麗さっぱりすすぎ流すことを意図した神事でもあるらしい。


 江戸の町には当然の事ながら電気などなく、火をよく使うので、台所の天井などはまきを燃やした時に出るすすでかなり汚れているのである。


 今日は、そこらへんの商店からも煤払いの騒がしい音が聞こえてくる。大名屋敷も足軽の武家も、豪商の店も小さな商店も、あらゆる場所で一斉に大掃除をしているのだという。


 そして面白い事に煤払すすはらいの行事が済んだら、大きな店などでは大旦那様おおだんなさまから順番に胴上げをして締めるのだという。


 家を隅々すみずみまでくまなく掃除していたら、あっというまに午前が過ぎてしまった。


 俺が借りている客間の掃除をしていたところ、正午を示す時の鐘が鳴った。


 すずさんが廊下を歩いてきて、開かれた障子から顔を覗かせる。

「りょうぞう、正午になったから昼飯ひるめしを食べるよ」


「ああ、はい。すいません」

 俺は一息ついて部屋を出て、巫女服姿のすずさんと一緒に廊下を伝う。


 台所の土間段の近くには円いお盆が置いてあり、その上にある皿には海苔の巻かれたおにぎりが十個近く並べられていた。お盆の近くには、水の入った小さな手洗い桶が置いてある。


 ひと休みしたおあきちゃんと徳三郎さんは土間段に並んで腰掛けて、海苔を巻いたおにぎりを共に頬張っている。

「父さま、おにぎり美味しいね」

「うむ、そうだな。体を動かした後はやはり、梅干うめぼしの入った握り飯に限るな」


 二人はまるで、祖父と孫娘のように和気わき藹々あいあいとしていた。


 俺も土間段に腰かけて、おあきちゃんの隣に座る。すると、おあきちゃんが嬉しそうな表情で俺を見る。

「あっ! りょう兄ぃ! ご苦労様! 一緒におにぎり食べようよ!」

「ああ、じゃあそうしよっか。おにぎり頂きます」


 俺はお盆の近くに置いてあった手洗い桶の水で手を洗い、おにぎりを手に取りかぶりつく。


 こっちのおにぎりの具は、かつおの削り節のようであった。


「うん、美味しいね。掃除した後だと特に」

 俺がもぐもぐとおにぎりを咀嚼そしゃくしていると、徳三郎さんが口を開く。

「今日の晩は、鯨肉くじらじしがあるから楽しみにしておきたまえ。先日に横浜よこはま村で揚げられたくじらの赤身を用意してある」


――鯨肉? こないだ回向院の門前市で食べたのは、シロデモノという皮下脂肪を煮込んだものだったけど、赤身肉もやっぱり食べられているんだな。


 咀嚼そしゃくした握り飯を飲み込んだ俺は、徳三郎さんに尋ねる。

「この前、相撲を観に行った時にクジラ汁食べたんですけど、美味しかったですね。江戸の人たちってよくクジラを食べるんですか?」


「ああ。江戸の者は大抵、くじらが好きだよ。それに、何と言っても今日は煤払すすはらいだからな。煤払すすはらいの日には鯨肉くじらじしは付き物だよ」


――へぇ、大掃除の日にはクジラ肉を食べる風習があったんだな。


「俺の時代では、クジラはほとんど食べられてないんですよ。海外の国との協定だか約束だかで、るのがほとんど禁止されているんです」


 俺がそう伝えると、徳三郎さんは神妙な顔つきになる。


「ふむ、そうなのか。勿体もったい無いな、あんな美味うまいものを」

「でも、その代わりにうしとかぶたとかをよく食べてます。美味しいですよ」

 俺がそう言うと、徳三郎さんもおあきちゃんも驚愕きょうがくの顔を見せた。


 おあきちゃんが丸い目を見開いて、叫ぶような声を上げる。

うしぶたししを当たり前に食べるの!? 未来の人ってたたりが怖くないの!?」


 獣肉を食べる事が、建前上厳しくいましめられていた江戸時代の価値観において考えれば、それは当然の反応だろう。ましてやこの二人は、けがれを何よりいとうべき神社の者なのである。


 俺はそんな、おあきちゃんの驚き声に冷静に返す。

「えっと……たたりとかはあんまり気にしてないかな? でも、クジラもうしぶたと同じでけものなんだから、そんなに差が無いと思うけど」


 すると俺の後ろで、女性にもかかわらずはかま胡坐あぐらをかいて握り飯を頬張っていたすずさんが、呆れたような声を出す。


「りょうぞう? なぁに馬鹿なこと言ってんだよ? くじらは魚だよ? あんななりの生き物のどこが獣なんだい?」

 すずさんはそう言うと、馬鹿馬鹿しい事を聞いたかのように握り飯を口に放り込む。


「え? クジラって獣ですけど!? イルカとかシャチとか同じで哺乳類ほにゅうるいですよ?」

 俺が反論すると、すずさんは「変なこといってんじゃないよ」という気持ちが伝わるような目で俺を見る。


 しかし、徳三郎さんは顎に手を当てて何かを思案しているようだった。


 そして、すずさんに伝える。

「いや、くじらはたまに腹の中から胎子はらごが出てくることがあるからな。腹の中に胎子はらごを宿すのは、牛や馬のような獣と同じだ。それに、魚のようにずっと潜ってはおられず、時々息をするために海面うみもに出なければならんのだ。亮哉りょうやくんの言うように、魚の仲間でなく獣の仲間だと考えたほうがよっぽどしっくりくる」


 その言葉に、すずさんの態度が変わる。

「ふぅん? まあ、父さまがそう言うなら正しいんだろうね。で、未来では牛のししをどういう風に食べるんだい?」


「そりゃあ、色々ですよ。こまにくを固めて焼いてハンバーグにしたり、そのまま厚切りした肉を焼いてステーキにしたり、タレと一緒に煮込んだのをご飯の上に乗せて丼飯どんぶりめしにして食べたりです。でも、この季節だったら体が温かくなる、すき焼きとかが多いですかね?」


 俺がそう言うと、おあきちゃんが反応する。


「りょう兄ぃ! あたし、その『すきき』っての食べてみたい! こないだの稲荷鮨みたいに未来の美味しい料理を食べてみたい!」


「え? でも、牛肉ぎゅうにくがないのにどうやって?」

 俺が返すと、おあきちゃんが応える。

「だって、くじらうしも獣の仲間なんでしょ? うしししで作れる料理なら、くじらししでも作れるんじゃないの?」


――おお、なるほど。確かに鯨の赤身肉なら代用が可能かもしれない。前々から思ってたけど、おあきちゃんってかなり頭良いな。


「わかった、作ってみるよ。醤油とか砂糖とかが必要だけど、江戸にある材料で作ることができると思うから」


 握り飯を食べ終わると、午後からも大掃除を続ける。そして、三人にすき焼きを日頃のお礼も兼ねてご馳走しようと、俺は思った。






 翌日、十二月十四日は雲ひとつない快晴の青空だった。何十里先の山さえも見渡せるような、気分の良い日本にほんれな冬の空であった。


 俺は、昼前に稲荷社の大鳥居の近くで木槌を構え、屋台を組んでいた。屋次郎さんの大工としての腕前は大したもので、木槌を使えば組み上げるのに十分もかからない。もうじきやって来る竹蔵さんのために組み上げるという約束だからだ。


 俺は、昨日の晩に皆で食べたクジラ肉のすき焼きの事を思い出していた。


 結果から言うと、すき焼きは三人に好評だった。


 その際に、江戸にはまだ白菜がないことや、江戸の人たちには大勢で鍋をつつく習慣がないことや、くじらの揚げられた横浜はこの時代では人口三百人程度の小さな村である、などという事を知った。


 俺が「俺の時代では、横浜は大きな街になっていて三百五十万人ほどの人間が住んでいます」と言った時の三人の驚きの顔は忘れようもない。


 屋台を組み終えた俺の後ろから、よく知った声が聞こえてきた。

「りょうの字、いつもすまねぇな」


 その竹蔵さんの声に俺は振り返ると、その奥さんであるおいとさんが一緒に来ていて、片腕に収まる程度の大きさの風呂敷包みを抱えて並んで立っていた。


 おいとさんの大きな胸元の下にある、着物の下腹部は臨月りんげつ妊婦にんぷらしくぽっこりとふくらんでいる。あと、一ヶ月くらいで産まれるのだという。


「ああ、竹蔵さん。別に約束だからかまわないよ。それに、おいとさんも来てくれたんですね」


「いやよぅ、おめぇさん何か、おいとに仕事頼んでたらしいじゃねぇか。包みは俺が持っていくっていってんのによ。どうしても来てぇって言うから連れてきたんだよ」


 竹蔵さんの言葉に促されたように、おいとさんはその垂れぎみの目を細めてにっこりとした顔で、俺に風呂敷包みを渡そうとする。

「こちら、りょうやさんの注文通りに作らせて頂きました。このたび亭主ていしゅに仕事をめぐんで頂きまことに有り難うございました」


 大きさ七寸[約21センチメートル]の風呂敷包みを受け取った俺に、竹蔵さんが不思議そうな視線を向ける。

「りょうの字、そりゃぁなんでぇ? おいとに何頼んでたんでぇ?」


 俺は竹蔵さんの言葉に返す。

「ああ、これはおあきちゃんへの贈り物だよ。そろそろ十二月二十四日だからね。西洋ではその日の夜には、子供に贈り物をする風習があるんだ」


 俺の言葉に、竹蔵さんが奇異そうな目を向ける。

「で、何作ってたんでぇ?」

「それは秘密だよ。おあきちゃんには内緒にしておきたいから」


「なんでぇ!? 俺だって秘密はもらさねぇぜ!?」

 すると、おいとさんが笑って竹蔵さんに伝える。

「あんたが口が堅いなんて話、私初めて聞いたんだからね」


 竹蔵さんは、おいとさんの言葉に苦笑いをする。


 俺が後ろを振り返り、遠くにある富士山を望み、視線を戻して口を開く。

「それにしても今日は空が澄んでいるね。ほら、富士山があんなに綺麗に見えるよ」


 すると、おいとさんの表情が少し暗くなったような気がした。竹蔵さんは微妙な顔をして、笑いつつ俺に告げる。

「あー、りょうの字よ。おいとは近眼ちかめなんだよ。富士山ふじやまはぼやっとしか見たことねぇんだよ」


「えっ!? そうなの!? ごめん!」

 俺が謝ると、おいとさんがフォローをしてくれる。

「気にしないでくださいまし。生まれつきなので、宿命さだめと思っておりますね」


――そうか、この時代じゃ庶民はメガネなんか買えないのか。


 おいとさんは言葉を続ける。

「絵では見たことがあるので、富士ふじ御山おやまの綺麗さはなんとなくわかりますね」


 その言葉に、俺はあるアイディアを思いついた。確か、未来から持ってきたスポーツバッグの中にあれがあったはずだ。


「ごめん、おいとさんちょっと待ってて!」


 俺はそう言い、手におあきちゃんへのプレゼントを抱えたまま西の庭から俺の間借りしている客間に向かう。


 スポーツバッグの中をまさぐると、それがあった。


 葉月が合宿の仲間と使う予定だったのだろう、インスタントカメラだ。俺はインスタントカメラにフィルムを入れて、さらにオペラグラスを持って、再び稲荷社の大鳥居の前に駆ける。


 竹蔵さんは長屋から持ってきた油揚げを使って、稲荷寿司を作り始めていた。おいとさんも傍でその様子を見守っている。


 俺は大鳥居から少し離れ、インスタントカメラのレンズをオペラグラスに接して遥か西の彼方にある富士山を撮影した。


 カシャリ


 カメラから現像フィルムを取り出し、数十秒くらい手元で振る。すると、純白のフィルム上には、ぼやぁっと富士山の姿が浮かび上がってきた。


 俺は、フィルム上に綺麗に薄青色の富士山の画像が浮かび上がってきたところで、屋台近くにて稲荷寿司を微笑ましく食べていたおいとさんに近づく。

「おいとさん、これあげます」


 写真を見たおいとさんは、驚きの顔を見せる。

「まぁ! これ何でしょうか!? これ、絵でございますか!?」

「えっと……まぁ、そんなもんかな」


 近くにいた竹蔵さんも首を回し写真を見て、驚きの声を上げる。

「うおっ! なんでぇこの!? まるで見たまんまの富士ふじじゃぁねぇか!? りょうの字! このめぇさんが描いたのかよ!?」


「あ、いや……描いたのは俺じゃなくて、あるものに描いてもらったっていうか……まぁ、おあきちゃんへの贈り物を作ってくれたお礼ですので、受け取ってください」


 俺はそう言い、稲荷いなり寿司ずしを食べ終わったおいとさんに写真を手渡す。


 おいとさんは感激したようで、何度も何度もお礼を言っていた。


 しかし、後から考えたら、写真を他の人に見せないように注意しなかったのは明らかな失敗だった。





 翌日、十二月十五日の昼前に竹蔵さんがやってきた。そしていきなり俺にこう告げた。

「りょうの字、昨日貰ったあの絵だけどよ、なんか同じ長屋の爺さんが絵をよこした奴連れて来いっていってきかねぇんだよ」


 その言葉に、俺はしまった、と思った。


「えっ! あのしゃ……絵を長屋の皆に見せたの!?」

 俺はしどろもどろになる。


 竹蔵さんは言葉を続ける。

「その爺さん、こないだの煤払いの日の少し前に来た新入りさんなんだけどよ。どうやら絵を描いて暮らしているとか言ってたぜ。あの絵の事について尋ねたいんじゃねぇか?」


 写真を長屋の皆に見せて回るくらい予想できたことじゃないか。しかも長屋の住人に本職の絵描きの人がいたなんて。もし説明なんかしたら、根掘り葉掘り訊かれてひょっとしたら俺の正体もばれてしまうかもしれない。


 そんな事を考えていると、講堂の入口からすずさんが首をひょいと伸ばして、俺たちに声をかける。

「お二人さん? どうしたんだい?」


 すずさんは今日は手習い所が休みなので、少し暇そうであった。面白いものを見つけたような顔でにやつきながら草履を履いて俺たちに近寄る。


「ああ、すずさん。ちょっと困ったことがありまして……」

「なんだい? あたいで良ければ相談に乗るよ?」


 すずさんがそう言うので、俺は竹蔵さんから少し離れてすずさんと二人で話した。 


 未来の技術である写真機で撮った『写真』というものをおいとさんから取り返す必要があるということを伝えると、すずさんは呆れ顔で息を吐き出す。


「りょうぞうは間抜けだねぇ。そんなのさっさと取り返せばいいじゃないかい」

「面目次第もございません」


 俺は意気消沈する。結局すずさんと一緒に蒟蒻こんにゃく長屋まで向かい、おいとさんから富士山の写真を取り戻す運びとなった。





 蒟蒻こんにゃく長屋についた俺たちは、竹蔵さんとおいとさんが暮らしている部屋の前にやってきた。


 コンコン

「おいとさーん、入りますよ」

 俺が障子戸の近くの壁をノックして声を掛けると、中から「はーい」という声が聞こえてきたので長屋の引き戸を開ける。


 四畳半の部屋の真ん中には、身重のおいとさんがいた。


「ごめん、おいとさん。この前渡した富士山の絵だけど、やっぱり返して欲しいんだけど」


 俺が頼むと、おいとさんは申し訳なさそうな声を出す。

「ごめんなさいねぇ。あの絵は今、向かいのむねのおえいさんに預けてあるのね。おえいさん、おっつぁんと一緒に絵を描いて暮らしてるっていうから、じっくり見たいって言ってね。私も同じ長屋のお仲間さんだから、断れなくてねぇ」


「じゃあ、おえいさんという人に言います。おえいさんの部屋って何処ですか?」

「この部屋のお向かいの、一つ左よね」


 そのおいとさんの言葉に、すずさんは俺に視線を向けて顎で招く。


 俺はすずさんと一緒に、どぶ溝を挟んでの向かい側に位置する長屋並びの、おえいさんという人がいる部屋の前に移動する。


「りょうぞう、あのむすめ初産ういざんみたいだね。あたいはちょっとこの長屋に残っておいとと話をしておくから、写真とやらを取り戻したら先に帰っておくれ」


 すずさんの言葉に、俺は応える。

「わかりました。でも、何を話すんですか?」

「お産の時に気を付けなきゃいけないこととか、色々さ」


 そんなことを話していると、目の前の障子戸がガラリと開いた。


 障子戸が開けられたそこには、気の強そうな二十代前半くらいのお姉さんが立っていた。手には煙の立ち上る煙管きせるを携えている。


「おめぇら、なぁに人んの前でくっちゃべってんのさ」


 この人がおえいさんだろうか、随分とあごが長い女性だという印象だった。


 俺は口を開く。

「あ……俺は、深川ふかがわ神職しんしょく見習みならいをしている亮哉りょうやと言います。今日は、その、おいとさんから預かった絵を返しに貰いに来たんですが……」


 その言葉に、おえいさんは明朗な顔つきになる。

「ああ! あの富嶽ふがくの絵を持ってきた! さぁさぁ! 入っておくれ!」


 おえいさんが気風きっぷい江戸っ子口調で俺たち二人を招き入れる仕草をして振り返ると、四畳半の部屋にいる父親らしきお爺さんに対して声をかける。

親父おやじ! あの絵の持ち主が来たよ!」


 俺は、窓の傍に置かれた低い机の前で、平皿にて絵の具のようなものを混ぜ合わせている大柄な老人の後ろ姿に視線を移す。


 後からの姿なのでわかり辛いが、頭は禿げ上がっていて両サイドから頭の後ろに白髪が生えていて、小さなまげを結っている、還暦を過ぎていそうなお爺さんであった。


 老人と言っても背中が随分と広く、立ち上がったら忠弘くらいの背丈はありそうだ。また、耳が随分と大きいという印象を受けた。


 老人が背中を見せたまま応える。

「おーい、せめぇ部屋であんま大きな声出すんじゃねぇよ。聞こえてらぁ」

親父おやじ、だからオレはおーいなんて名じゃねぇよ」


 おえいさんに促され、すずさんと共に土間段を上がる。


 おえいさんは俺たちに告げる。

「まだ、この部屋に来てからは十日もたってないからな。まだまだ片付いてるものさ」


 おえいさんはそう言うが、四畳半部屋には画材と思しきものがわりとごちゃごちゃと置かれていて、散らかっているという印象を持った。


 俺は、絵描きだという老人の近くに座る。すずさんも同じく、俺の斜め後ろに正座する。おえいさんは、窓際に腰掛けて煙草たばこの煙をくゆらせる。


「あの、すいません。富士山の絵を預かっているって聞いたんですが」

 俺がそう言うと、老人はゆっくりと振り向き、ぎょろついた眼をこちらに向ける。

「ああ、これだろう?」


 老人の指先には、しっかりとあの写真が挟まれていた。


 俺は、できるだけ真摯しんしな態度を取ろうと努力した。

「申し訳ありませんが、その絵間違えて渡しちゃったものなんです。どうか返して頂けないでしょうか?」


 その言葉に、老人はぎょろっとした目を細める。

「ああ、こりゃあ元々おぇさんのもんだって言うからな。ぇしてやるさ。ただし、いくつか訊かせてもらうがな」


「……なんでしょうか?」


「この富嶽ふがくの絵だけどよ……どんな顔料がんりょう混ぜ合わせてもこんな鮮やかな色、出やしねぇんだよ。それだけじゃぁねぇ、こんな見たままのように絵を描く技なんか、この日本ひのもとのどこにもありゃしねぇ。こりゃ、西洋の絵描きが描いたもんか?」

 その真実を見抜いているかのような語り口に、俺は息を呑む。


「えっと……俺もちょっとわからないんですが……人から貰ったものですし……」

 俺はなんとかかんとか嘘をつこうとするが、冷や汗が流れてるのがわかる。


 すずさんが、後から声を出す。

「どうでもいいだろうさ、そんなこと。その絵はりょうぞうのもんだよ? 元の持ち主が返して欲しいっていってんだからさ、四の五の言わずに返すってのが道理じゃないのかい? しかもその絵は、おいとさんにあげたものなんだよ? なんでおまいさんが返すか返さないか決めるのさ」


 そのすずさんの囃し立てに、老人はうすら笑いを浮かべた。

「それもそうだな。まぁ、いいもんを見せて貰ったってことで返してやるのが道理かね」


 老人は、俺に写真を手渡すので感謝の言葉を返す。

「あ! ありがとうございます!」


 すると、老人は不意に口を開き、俺に告げる。

「当ててやろうか? そりゃぁ、。西洋のわざで、見たままのものを何かに写し取っただろ」


 その洞察力ある言葉に、俺は絶句する。


 すると、窓際に座っていたおえいさんが驚いたように言う。

「西洋には、見たものを見たまんま写し取るわざがあるのかい!?」


 俺は観念して、本当の事を言う。

「あ……はい、これは『写真しゃしん』っていう技術なんですよ。まだ日本にはない技術なんで、おおやけになったらまずいと思って取り戻しに来たんです」


――しかし、それがわかるとはこの老人やるな。


 おえいさんが、嘆くように大きくため息を吐く。

「そんなわざ日本ひのもとに入ってきたら、絵描きなんざ商売上がったりだねぇ」


 俺は、これはいけないと思いフォローを入れる。

「あ、いえ、そんな事ないですよ。むしろ写真ができてからのほうが、絵にしか出来ない芸術の幅が広がったって聞いたことあります」


 すると、すずさんが俺の後ろから言葉をかける。

「ふむ、そういえばりょうぞうはこの前、西洋では浮世絵が高尚な芸事とみなされているとかいってたねぇ」


「ああ、そうですね。葛飾かつしか北斎ほくさいとかは、西洋の画家にかなり影響を与えたとか聞いたことあります」

 そう俺が返すと、おえいさんは目をぱちくりさせた。老人は眉をひそめて、何かを考えているようだった。


 老人が、俺に尋ねる。

「なぁ、葛飾かつしか北斎ほくさいって西洋で名が有んのか?」

「え? ええ、もの凄く有名ですけど? 西洋の絵画を一新したとか聞いたことあります」


 俺がそう言ってから、静寂が十秒ほど続いただろうか。


 いきなり、おえいさんが吹きだした。

「ぷっ! あんた、中々面白い事言うねぇ!」


 老人も、口を開けて笑っている。

「はっはっはっ! 葛飾かつしか北斎ほくさいが西洋のを一変させただぁ!? おもしれぇ法螺ほらだな! 面白おもしれぇ! 気に入ったぜ!」


 予想以上の反応だったので、俺は二人に質問する。

「あの……ひょっとして、葛飾かつしか北斎ほくさいって……まだ日本じゃあまり知られてないんですか?」


 おえいさんが何かを言おうとする。

「ははっ! 知られてないも何もねぇ……」


 すると、老人が言葉をかぶせて制する。

「まぁ、あいつはまだまだ未熟者さ。一人前になんのはいつになるかな」


 老人の言葉に、俺は納得する。葛飾かつしか北斎ほくさいはおそらく、まだあまり有名な画家ではないのだろう。しかし、この老人もおえいさんも葛飾かつしか北斎ほくさいを知っているということは、今はまだ若手の絵師なのかもしれない。


 でも、もしかしたらこの老人も高名な画家なのかもしれない。俺は恐る恐る尋ねる。


「あの……ところで、お爺さんの名を尋ねさせてもらってもいいですか?」


 すると、老人は落ち着いた声で俺たちに伝える。


「あぁ? 俺はただの鉄蔵てつぞうだ、鉄蔵てつぞう。しがない絵描きさ」


――鉄蔵さんか、少なくとも俺は聞いたことがない。


 そんなことを思い、俺はすずさんを残して回収した写真を手に長屋を後にした。





 それからまたしばらく日が経った。


 竹蔵さんの話によると、あの鉄蔵さんというお爺さんは今は富士山の絵を書く事に挑戦しているらしい。


 その動機が、俺が見せたあの富士山の写真によるものだったのかどうかは、全くもってわからない。


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