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第二十一幕 迷わし獏との戦い



 十一月十二日、晴れてはいるが寒さ厳しい真冬の日の昼過ぎの頃、稲荷社いなりやしろの本殿にて、徳三郎さんと小三郎が向かい合って座布団の上にて座っていた。


 徳三郎さんは、神職しんしょく正装せいそうである無紋の白衣びゃくえ白袴しろばかまを身に着けている。小三郎は、黒い長羽織に黒い着物を着て、目の前の徳三郎さんとなにやら言葉をやり取りしている。


 俺とすずさんとおあきちゃんは、講堂から本殿に繋がる戸のすぐそばで、少しだけ開いた戸の隙間から本殿を覗いて、二人のやりとりを見ている。


 覗く目は上から、俺、すずさん、おあきちゃんの順番だ。ここからは、どんなやり取りを交わしているかは遠くていまいちわからない。


 俺は、自分のあごのすぐ下にある、すずさんの黒い頭に小声で問いかける。

「すずさん、何て言っているかわかりますか?」


 すると、すずさんが応える。

「人の耳じゃ聞こえないだろさね。小三郎がこれから店を継ぐべきか否か、夢を追うべきか否かの不安と迷いを父さまに話してるんだよ。ととさまはそれをがえんずることもいなむこともせずに、うなずいて気持ちをわかろうとしているよ」


――本当に、心理カウンセラーみたいだな。


 俺は再び、すずさんに尋ねる。

「すずさん、小三郎にとり憑いてるばくって、どういうたぐいの妖怪なんですか?」


「まぁ、急に死にやしないよ。だけど、膏肓こうこうると厄介やっかいだよ。おのれが何を望んでいても、かかげたこころざし抱負ほうふを成し遂げるために地に足つけてつとめることができなくなって、まいには何もする気がなくなっちまうのさ。そうしたら死ぬまで穀潰ごくつぶしになって、世をうらんではかなんで苦しみ続ける生きたしかばねになっちまうのさ」


――二十一世紀でも、その手の人たちの話は聞いた事がある。


「その妖怪って、多分未来にもとり憑かれている人ゴロゴロいます」

 俺の言葉に、すずさんの声色こわいろが変わる。

「ふぅん? まぁ、あやかしってのはもとひととかものとかとかこととか、色んなもんが作り出した闇が形を持ったものだからね。どう世が移ろうが、人が人である限りあやかしってのは消えないものさ」


 目下にいるすずさんの言葉に、俺は街の光に溢れた二十一世紀の東京の情景を思い浮かべる。電気の作り出した光により夜をられたやみは、そのまま消えてしまったのか。答えは否だ。夜道から逃げ出した様々な闇は、逃げ場として人の心の中を選んだかのように潜んでいる。


 この江戸時代という、やみが人の目に付く時代の方がむしろ、道を照らすともしびを探すのは容易たやすいんじゃないかという気がしないでもない。


 そして、もうひとつ気になった事がある。人が人である限り妖怪は消えない。つまり、俺が生まれ育った平成の世にも妖怪はいたということなのだろうか。すずさんのような妖狐やそれを手伝う人間がいて、俺のいた時代でも隠れてこっそりと妖怪を退治していたのだろうか。


 俺がそんな事を考えていると、徳三郎さんと小三郎の対話が終わったようだった。 


 徳三郎さんは立ち上がって、俺たちが縦に並んでいる戸に近寄ってくる。俺たちは戸の脇に避け、開いても向こう側からは見えないようにする。


 戸を開けて講堂側に来た徳三郎さんは、戸を閉めると同時に俺たちに伝えた。

「とりあえず、明日にでも泊まってもらって、御祓いだけでもさせてもらうことになったよ。おあしは御祓いが済んで、じつさいに気の迷いが晴れてからということになった」


 その言葉に、すずさんがやれやれといった息を漏らす。

「まったく、ととさまは律儀りちぎだよねぇ。おあし金子きんすなんか、前払いでいいじゃないかい」


「まぁ、いのちけてくれるおすずとおあきには申し訳ないがな。だが町の衆にとって、ぜにというのは生きていく上で欠かせないいのちつるだ。効き目のない御祓おはらいをしただけでは、おあしを貰う訳にはいかないよ」


 そんな徳三郎さんの話ぶりに、すずさんとおあきちゃんが心なしか笑顔になった。


「まぁあたいも、そんな父さまのさがは嫌いじゃないけどさ」

「あたしも、父さまのそんなとこが好き!」


 すずさんとおあきちゃんが言葉を連ねるところに、俺が声を掛ける。


「泊り込みって言ってましたけど、夜中に何かするんですか?」


 すると、すずさんが超然と応える。

「ああ。に入るのはさ、この社の近くじゃなきゃできないからね」


――え? 心の中?


「心の中に……入れるんですか?」


 俺が間の抜けた口調で尋ねると、すずさんは「何を驚いてるんだい?」とでも言いたげな顔をする。そして、こんなことを俺に話しかけてくる。


「ああ、前に話さなかったかい? あたいはこのやしろの近くではね、あたいらが今までに調伏ちょうぶくして合祀ごうししたあやかしすべの全てが使えるんだよ。随分とさきに、人の夢の中に入るあやかし合祀ごうししたので、そのすべが使えるのさ」


――今までやっつけた妖怪の妖術全て!? それって反則技はんそくわざ……チートってやつですよね?


「本当ですか?」

「あれ? 疑ってるのかい? じゃあこれならどうだい?」


 すずさんがぱちりと指を鳴らしたと思ったら、その姿が宙にすっと消えてしまった。


「えっ!? すずさん? どこですか?」

 俺が慌てると、弾力ある透明な何かが俺の頭を軽くぽかりと叩いた。


 次の瞬間にはすずさんの立ち姿が何事もなかったかのように宙から現れた。どうやら、手刀で俺の頭にチョップをしたようであった。近くにいるおあきちゃんと徳三郎さんは、別に不思議がった様子は見せていない。


 すずさんが口を開く。

「りょうぞうと一緒に初めてたおしたあやかしの、火喰い鶏のすべだよ。もう忘れたのかい?」


「ああ、そういえばあのにわとり透明になっていましたね」

 俺が戸惑っていると、すずさんが返す。

「とは言っても、合祀ごうししたあやかしすべならば一度ひとたびに使えるのはひとつだけだよ。夢の中に入るすべを使っている間は、本来持つ炎と影を操るすべの他は使えないからね」


――となると、そこまでチートでもないって事か。


――おあきちゃんも、化けている間は他の妖術は使えないって言ってたし、色々と制限があるのは当然なんだろうな。


 すずさんは言葉を続ける。

「小三郎にここに泊まって貰って、夢の中であやかしを退治するんだよ。りょうぞうも気合入れなよ?」


 その言葉に、俺は頷いて肯定した。





 翌日の十一月十三日の夜半少し前、外はやや雪が降り始めていた。小三郎は「まぁ、効き目が現れたら儲けもんだしよ。ためしてみらぁ」と言って、稲荷社いなりやしろにて俺たちと一緒に夕飯をとり、俺が借りている客間とは異なるもう一つの客間にて就寝していた。


 俺は白衣びゃくえと藍色のはかまに着替え、白衣しらぎぬ緋袴ひばかまの巫女装束のすずさんと、赤茶色の振袖姿のおあきちゃんと一緒に、稲荷社の住処の廊下に浮いた狐火のかたわらにて、最後の打ち合わせをしていた。


 すずさんが、俺に話しかける。

「いいかい、りょうぞう。間違っても夢の中の小三郎を傷つけるんじゃないよ。心が壊れることもあるからね」


「わかりました。小三郎以外の人とかが現れたらどう接すればいいんですか?」

「日々の暮らしで無いような、当たり前でない事をすると小三郎の心に関わってくるよ。例えば夢の中におしのさんが現れたとして、そいつを刃物で傷つけたりすると危ないね」


「まぁ、そんなことはしませんけど……とり憑いているばくはどうやって倒すんですか?」

 俺がそう尋ねると、すずさんは右手の指をおのれのこめかみに当て難しい顔をする。


「そこなんだよねぇ。ばくは夢の中で、何かに化けていることがあるのさ。そいつを問いただしてやって、辻褄が合わないことがあったらばくが本来の姿を見せるね。そこを退治してやればいいのさ」

ばくの本来の姿ですか? どんな姿なんですか?」


 俺の質問に、すずさんが答える。


「頭が小さくて、足が短くて、黒白のまだら模様があるからすぐわかるよ。まぁ、元々はばくってのは悪さするあやかしじゃなくって、人の悪い夢や嫌な覚えを食べてくれる神獣なんだけどね。時折ときおり、どこをどう間違ったのか悪さする奴が出てきてしまうのさ」

「神様も色々なんですね」


 そこまで話したところで、日付が変わる真夜まよ九つの時の鐘が聞こえてきた。すずさんが顔を引き締める。


の正刻を過ぎたね。おあき、りょうぞう、小三郎の夢の中に入るよ」


 おあきちゃんと、俺が頷く。


 宙に浮いていた狐火が消え、廊下が闇に包まれる。


 俺たちの目が慣れてきたところで、すずさんは目の前のふすまを音もなく開ける。闇の中には小三郎が布団の中で寝息を立てている様子を見ることができる。


 小三郎の寝ている布団に俺たち三人は近づき、すずさんは両手で印を結んで何やら呪文を唱え始めた。


 すると、すずさんの両手がさらさらした砂のような、もやもやした煙のようなものに変化し、小三郎の鼻の中に吸い込まれていく。俺も手を見ると、闇の中で俺の手が実体を失っていくのがわかる。


 俺の両腕が、どんどんと霧状になって小三郎の鼻の中に吸い込まれていく。手から腕、腕から肩、肩から首と霧状になり、それが目に達した時点で俺の見ていた光景は一変した。





 俺たち三人は、太陽の陽射し明るい昼間の街中にいた。どこの町だろうか。深川ではなさそうだが、間違いなく江戸時代の街並みだった。着物姿の老若男女でごったがえす道の中に俺たちはたたずんでいた。


 近くには、いつもの巫女装束姿のすずさんと、赤茶色の振袖姿のおあきちゃんがいる。


 俺は、すずさんに尋ねる。

「ここが、小三郎の夢の中ですか?」

「そうだよ。ふむ、天地が飛び跳ねたりする無茶苦茶な夢じゃぁないみたいだね。ひと安心ってとこだね」


 すずさんが応えると、おあきちゃんが口を開く。


「あっ! あの男の子、小三郎さんじゃない!?」


 おあきちゃんが指差した先には、紙一枚を胸に抱いてとぼとぼ歩いている、九歳くらいの男の子の姿があった。


 前髪をまだ剃ってはいないが、その顔は間違いなく小三郎だ。


 人ごみの中、俺たちはその子供に近づこうとする。群衆は俺たちに注意を払うわけではなく、俺たちを避けようともせず何度もぶつかった。しかし、ぶつかった事について誰も何も文句を言わない。


――小三郎の夢の中の人間だから、人格がないのか。


 そんな事を考えながら小三郎に近づいていったときに、強烈な風が吹いた。


 小三郎少年の持っている紙が風に吹かれ、飛んでいった。一枚の紙は大げさに宙でひらりと一回転して、一人のこれまた小さな九歳くらいの女の子の顔に張り付いた。


 小三郎が、その女の子に近づいて声をかける。

「ご、ごめん!」


 女の子が顔に張り付いた紙を手に取り、顔を見せる。すると次の瞬間、町を歩いていた大勢の群衆が全員、白黒のツートンカラーに変貌した。


 その女の子は、九歳くらいのおしのさんだった。おしのさんの姿だけがカラーのままであった。


 俺たち三人は、二人とは5メートルくらい離れている。二人の声が聞こえる距離ではないのだが、夢の中だからなのだろう、声がマイクとスピーカーを通したように聞こえてきた。


「これなぁに? 魚の絵?」

「あ……えっと……えっと……」


「なぁに? あなたが描いたの?」

「いや……えっと……」


 小三郎が若干どもっていると、場面が急に転換した。


 どこかの手習い所の中のようであった。子供たちがはしゃいでいる。俺たち三人は子供達には見えていないようだった。


 子供の中で、一際ひときわ大柄な子供が仲間と一緒に小三郎を苛めているようであった。


「やーい! やーい! 弱虫の小三郎!」


 師匠は何故だかいない。机の前で九歳くらいの小三郎は泣いている。


 再び場面が転換する。小三郎とおしのさんが向かい合っている町中に戻ってきた。


 おしのさんが、純真な目で小三郎を見る。

「これ、あなたが描いたの?」


 すると、小三郎はおどおどした目をしながら、ゆっくりとうなずく。

「……うん」


 すると、おしのさんが笑顔になり、後光が射し始めた。

「私、この絵好きよ!」


 瞬間、町行く人たちは映画で一時停止ボタンを押した時のように、その場に停止した。


「返すね! じゃあね!」

 おしのは紙切れを小三郎に返して、手を振り別れる。


 すずさんが、口を開く。

「こりゃ、小三郎の初恋の様子みたいだねぇ。昔の夢にとり憑いてるばくがいるとなりゃ、覚えの中の誰かに化けてるってとこかい?」


 その言葉に、俺は応える。

「ってことは、記憶の中の誰かに化けているってことですか」

「そうだねぇ、誰かはわかんないけどさ。もうちょっと見てみないとねぇ」

 すずさんがそう言ったところ、また場面が転換した。


 大きな家の中だった。小三郎は十二歳くらいになっていた。相変わらず前髪は剃っていない。


 小三郎は座敷の上で座っており、厳しそうな母親からお小言を受けていた。


 やはり、母親には俺たちの姿は見えていないようであった。


「小三郎、絵描きを目指すなんて馬鹿な真似はおやめ。絵描きなんざね、人生と正面まともに向き合って働きたくないぐぅたらもんが目指すもんなんだよ」


 すると、座っている小三郎が返す。

「でもおふくろ! 俺は絵を描くのが好きなんだよ! 絵を描いて身を立ててぇんだよ!」

「だまらっしゃい! 墨画すみえ屏風画びょうぶえのような高尚こうしょうなものならまだしも、浮世絵うきよえなんて下賎げせんなもの! この三田みたの家から出す訳にはまいりませんからね!」


 小三郎は、目に涙を溜めているようだった。すると後のふすまが開いて、父親らしき柔和な顔つきをした中年男性が現れた。


「まぁまぁおまえ、お小言はそのくらいで。小三郎、ちょっとこっちに来なさい」

 父親が促し、小三郎が立ち上がる。


 そして、また場面が転換する。父親の書斎のようであった。


 すずりの前に座った父親は、目の前の半紙にさらさらと筆で鶴の絵を描く。かなり上手い。


 隣にいた小三郎の目が輝く。

「親父! こんな得手えてがあったのか!?」


 すると、父親は物寂しそうな目で小三郎を諭す。

とっさんもなぁ、昔は絵描きを目指していたんだよ。でも、全く名が売れなくてなぁ。もうちょっとで飢え死ぬ所を大旦那様に拾って貰ったんだ。その大旦那様が、今も店を取り仕切っているお前のお爺さまだ」


 その言葉に、小三郎が驚いた顔に変わる。小三郎の父親は言葉を続ける。

「幸いな事に、とっさんには菓子作りのさいがあったようでな。父さんが描いた兎の絵を焼きゴテで入れた月見つきみ饅頭まんじゅうを考えたら、これが売れに売れてな。お嬢さんであるお前のかっさんも私を気にいってくれたようで、あれよあれよという間に婿養子に入ることになったんだ」


 小三郎の表情が明るくなる。


 しかし、父親はその期待をさえぎるように言葉を続ける。

「だからこそだ。お前には私と同じ道を歩んで欲しくない。お前の二人の兄は迷い無く店を継ぐ気でいるが、もしお前が望めば父さんが暖簾分けもさせてやる。だから、迷わず菓子作りの修行に打ち込め」


 小三郎の父親がそこまで言うと、また場面が変わった。


 太陽の陽射し射す町中であり、遠くの方には大きな橋が架かっている。


 この場所は俺も知っている。大川端の近くだ。あの向こうに見える反り上がった木造橋は新大橋だろう。


 小三郎は、十五歳くらいになっていた。前髪を剃り落としたばかりといったところであった。


 目的はもちろん、水茶屋で給仕をしているおしのさんだった。


 水茶屋でおしのさんに再会した小三郎は話を弾ませるつもりだったが、おしのさんは小三郎の事を覚えていなかった。近所のお菓子屋さんのせがれであるということを伝えることしかできなかった。


 茶を飲み水茶屋から離れた小三郎は、若干涙を溜めながら帰っていく。


 そこで、すずさんが俺に伝える。

「りょうぞう、おまいさんはどいつがばくの化けた奴だと思うかい?」


 その言葉に、俺は応える。

「うーん、小三郎のお母さんじゃないですか? 小三郎に夢を諦めるよう叱っていましたし、何だか変な事言っていましたし」


「ほう? 変な事ってなんだい?」

 すずさんが尋ねるので、俺は他意なく応える。

浮世絵うきよえ下賎げせんとか言ってましたけど、浮世絵うきよえって日本にほん世界せかいほこ高尚こうしょう芸術げいじゅつじゃないですか?」


 俺の言葉に、すずさんもおあきちゃんも何故かポカンとした顔を見せた。


 何故そんな顔をしているかわからない。以前に親友のたかしから聞いた事があるが、日本の浮世絵は西洋に渡って絶賛され、西洋の絵画芸術を大きく変えてしまうほどの大流行を見せた事があるらしい。


 時々、上野美術館なんかでも浮世絵展が開かれ、大勢の人達が江戸時代の素晴らしい国宝のごとき芸術文化を鑑賞しようと列を作る姿を知っている。


 すずさんは、額に指を当ててなんとなく頭が痛そうな顔をする。

「あー、そうかい、未来ではそうなんだね。ひょっとして、歌舞伎かぶき寄席よせも未来では高尚こうしょう芸事げいごとになっているとかかい?」


「え? そうですけど。日本を代表する人は、国の偉い人から賞を貰ったりもしますよ」

 俺が返事をすると、おあきちゃんが何だか呆然としている。

歌舞伎かぶきの役者さんや寄席よせ噺家はなしかさんが御公儀ごこうぎからしょうを? 世の中って変わるものなんだね」


 俺は、何でそんなに不思議がっているのかわからなかった。歌舞伎も落語も日本の古典芸能であり、著名人は文化勲章を授与される事も珍しくない。


 すずさんが、おあきちゃんに尋ねる。

「おあきは、誰がばくだと思うかい?」

「あたしは、おしのさんだと思う。小三郎さんに子供の頃会ったのに、忘れてたし。それに、小三郎さんが好きになってくれたのに忘れるなんて酷いよ」


 その言葉に、すずさんが首を横に振る。

「それも違うね。小三郎にとっちゃ初恋だったとしても、おしのにとっちゃ忘れるくらいの何でもないことだったのさ。可哀そうだけどさ」


 すずさんの言葉に、俺は尋ねる。

「じゃあ、すずさんはどう思うんですか?」

「そんなの決まってるさ。小三郎の父親だよ」

 すずさんは自信たっぷりに言う。


 小三郎の夢の中では、既に場面が転換して菓子工房にて小三郎が菓子修行をしているシーンになっている。


 小三郎の近くでは、父親が小三郎に菓子作りを教えている。


 すずさんは、小三郎の父親に近づき、襟をぐいと掴んだ。夢の中の小三郎は俺たちを認識する。そして、小三郎の父親はすずさんと俺たちを見て叫ぶ。

「誰だ? あんたら? どこから入った!?」


 すずさんは、おかまいなしに小三郎の父親を睨みつけ口を開く。

「訊きたいんだけどさぁ、小三郎に暖簾分けさせるのは、おまいさんのちからでできるのかい? そりゃぁ、今も生きているっていう大旦那様のちからなんじゃぁないかい? しかもおまいさん、婿養子なんだろ?」


 すると、小三郎の父親が返す。

「婿養子だが、私は小三郎の父親だ。大旦那様を説くことはできる! 小三郎が菓子作りの修行をするのなら、それを助けてやるのが父親だろう!」


 すると、すずさんも反論をする。

「でもさぁ、おかしいんだよ。昔、絵描きをしていた所を拾われたって言ってたけど、絵の修行を十五で始めたとして、もうちょっとで飢え死ぬなんて誰も師匠についてなかったってことだろう? 絵の師匠は弟子を食わせるもんなんだからさ。ということはさ、まことに絵描きを目指してたのかい? ただぶらぶらとしてただけじゃないのかい?」


 小三郎の父親は言葉につまる。すずさんは言葉を続ける。

「でも、それならばあの鶴の絵の上手さは合点がてんがいかないんだよ。と、いうことはおまいさん、?」





 すずさんがそこまで言うと、小三郎の父親はにたぁと笑い、2メートルはある熊並みの大きさの獣のような姿に変わった。


 象の鼻、さいの目、牛の尾、虎の足を持つ、熊のような体をした獣であった。


 すずさんが叫ぶ。

「おあき! おまいは夢の中の小三郎を守りな! りょうぞうはあたいと共に退治だよ!」


 菓子工房だった景色が、どこかの草原に変わる。


 おあきちゃんが変身の妖術を使って忠弘の姿に変わり、小三郎を背負う。


「りょうぞう! おまいさんの刀だ! 退治するよ!」

 すずさんは袂から刀を出し、俺に渡す。


 俺は鞘から刀ををすらりと抜くと、2メートルはあろうかというばくに対峙する。


 ばくは一瞬戸惑って俺たちの方を見たかと思ったら、その象のように長い鼻をムチのようにしならせた。


 ズバリ!


 袂から薙刀なぎなたを出したすずさんが、ばくの鼻を切断する。切断された鼻はぽとりと草原の上に落ちた。


 すると、切断された鼻が人間の姿にしゅるりと変わった。


 肩で切りそろえた艶やかな黒髪。身長160センチ弱ほどの細い体。純真さを表すような丸っこい瞳。少女の柔らかさを見せる高校の制服姿。


 それは、制服を着た葉月だった。


 俺は、いきなり現れた想い人の姿に内心で驚愕する。


 後の方から、おあきちゃんが化けた忠弘の声が響いた。

「りょう兄ぃが二人いる!」


――え?


 目の前の葉月は、ばくの前で手を広げ、庇おうとする。

「お願いりょーくん! ばくさんを責めないで! ばくさんは、小三郎くんが絵描きなんて夢物語を追うのをやめさせようとしただけなの!」


 葉月の言葉に、俺は戸惑って隣のすずさんを見る。


 すずさんは冷ややかな目で正面を見つつ、薙刀を構えている。

「おあき! おまいにはこいつがどんな風に見えてるんだい!?」


 すると、おあきちゃんが化けた忠弘が応える。

「りょう兄ぃに見えてる! りょう兄ぃが、このばくは悪いあやかしじゃないからたないで欲しいってお願いしてる!」


 そして、すずさんは俺にも訊く。

「りょうぞうには、どう見えてるんだい?」


「俺には、未来にいる好きな人に見えます! ばくを責めないで欲しいって言っています!」

 俺が応えると、すずさんは承知がいったという顔をして、にやりと笑った。


「ふぅん。なるほどねぇ!」

 すかさず、すずさんは薙刀を振り下ろし、目の前にいる葉月を肩から袈裟懸けさがけけにずばりと切り裂いた。


「いやぁぁぁぁ!」

 切り裂かれた葉月が叫ぶ。


「ああぁぁぁ! 葉月!」

 俺も叫ぶと、切り裂かれた葉月は血も出ずに切断された象の鼻に戻り、ぽとりと地面に落ちた。


「こいつのすべは、人の夢に入って夢を諦めさせる事と、人を迷わせる者に化ける事さ!」


 すずさんが掌を構えて、炎を吹き出しばくを包む。ばくはあっという間に炎に焼かれ、毛皮がめらめら燃える。


 炎の中で、ばくがどさりと地面に伏す。


 すずさんが、得意げな顔で一息ついた次の瞬間だった。


 赤い炎をまとったばくは四本足で立ち上がり、獅子のようにすずさんに飛びかかった。


 俺は咄嗟に叫ぶ。

「すずさん!」


 すずさんは油断していたのだろう、驚いた顔で凍りついたままであった。


 次の瞬間、俺は持っていた刀の刃を、炎に包まれたままのばくの首に突き刺していた。


 刀を持つ両手からは、肉を切り裂き、血管で繋がった心臓の拍動が伝わってきた。


 どくん、どくん、という心拍は段々と弱くなり、その場に留まったままの獏の体はどさりと地面に崩れ落ちた。


 ばくの体から、御魂みたまがしゅるりと飛び出し、その大きな体が掻き消えた。


 体勢を取り直したすずさんは、白衣から取り出した和紙で御魂を包むと、俺に向かって口を開いた。

「じゃぁ、帰るよ」


 すずさんがそう言うと、再び俺の体は指先から霧状に変わり始め、天に向かって消えていった。





 小三郎が起きて十一月十四日の早朝、徳三郎さんによる御祓おはらいが執り行われた。


 白衣袴姿の俺は、本殿にて御祓おはらいを受けるのを済ませた小三郎に近づき、声をかける。

「どう? 小三郎? 調子は?」


 すると、小三郎は明朗な顔つきで応える。

「いやー、御祓いってのも馬鹿にできねぇもんだな。何だか迷いが無くなったような気がすらぁ!」


「そう、そりゃ良かったよ」

 俺の言葉に、小三郎は返す。

「それによ、昨日だけどよ。変な夢見たんだよ」


「へぇ? 夢ってどんな?」

「なんかりょうがよ、刀で化け物倒したんだけよ。なんつーか、色鮮やかでよぉ。俺、いつかあれを絵に描いてみてぇって思うんだよ」


 小三郎は、もう迷いが吹っ切れたみたいだった。


「小三郎なら、きっと凄い絵が描けるよ。楽しみにしてるから」

「おう! ありがとよ!」

 小三郎の笑い顔を見て、俺は安心した。





 小三郎が神社から帰って、俺は講堂にてすずさんとおあきちゃんに、妖怪退治は小三郎の心を晴らしたようだということを報告していた。


「……と、いう訳で小三郎はもう迷いが晴れたみたいです。御祓いのお代も近いうちに持ってくるって言ってました」

 俺の言葉に、すずさんは満足そうだ。

「そうかい、そりゃ良かったねぇ」


 近くにいるおあきちゃんが、すずさんに尋ねる。

「でも、何であの時にばくはりょう兄ぃに化けたのかな? りょうぃがそばにいるから偽者だってすぐわかっちゃうのに?」


 その問いに、すずさんが答える。

「ああ、そりゃぁあれだよ。おあきみたいに誰か一人に化けるんじゃなくって、人によって誰に化けたように見えるかが異なる化け方をしたんだろうさ」


 その言葉に、俺は尋ねる。

「どういうことですか?」


「りょうぞうにしてみりゃ、未来にいる懸想けそうした女に化けたように見えたんだろ? つまりね、相手の心を一番迷わせる、そいつが惚れてる男か女に見えるように化けたってだけのことさ」


 その言葉に、俺は納得する。


――ああそうか、だから俺にとっては葉月が目の前に現れた訳で……


 そこで俺はある事に気付いて、視線を下に移す。すると、おあきちゃんが頬をこれでもかというくらいに真っ赤にしていた。おあきちゃんは俺の視線に気付くと、赤くなった顔を両手で隠す。


「すずぇの馬鹿!」

 顔を両手で隠したおあきちゃんは、講堂を飛び出して住処の方に走り去ってしまった。


 微妙な気持ちになった俺は、すずさんに尋ねる。

「でも、それがすずさんにわかったってことは、すずさんも惚れている人が目の前に現れたってことですか?」


「ああ、まぁね。でも、りょうぞうじゃないから安心しなよ」

 すずさんは狐のように、にやりと笑う。


 すずさんが恋心を抱く相手は誰なのかと、そんな事を考えながら、俺はいつものように家事に取り掛かろうと歩き出す。


 もう少しで、この講堂には子供達がやってくる。


 講堂の土間段に置いてあった草履ぞうりを履いて冬の道に出た俺は、青空の元で深呼吸をして、爽快そうかいに大きく背伸びをした。



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