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第十七幕 玄猪の日の炉開き


 月が替わり十月になっての、十日の早朝のことであった。


 もう冬らしくかなり肌寒く、綿入れの上着なしでは外を歩けないくらいに冷え冷えとした季節となっている。たとえるならば、十一月の下旬といった感じの寒さっぷりだ。


 朝起きるとすぐに、すずさんに「今日は亥の子いのこの日だからさ、炉を開くよ」と言われた。


 何を言っているのか最初はわからなかったが、聞く所によると江戸の人たちは十月の初めに来るいのししの日に、火鉢ひばち炬燵こたつのような暖房器具を出す風習があるとのことだ。


 俺は神職見習いとしての白衣びゃくえはかま姿に着替えると、すずさんと一緒に稲荷社いなりやしろの北東角にある物置小屋に行き、暖房器具を運び出す。


 火鉢が四つと炬燵こたつが一つ。炬燵こたつと言っても未来のような足のついた台型のものではなく、四角い陶器製の火鉢の周りを木でできた骨組み枠で囲むようなものであった。


 まずは火鉢。すずさんの代わりに各10キログラムはある火鉢を、講堂、徳三郎さんの部屋、すずさんとおあきちゃんが一緒に使っている部屋、俺が寝泊りさせてもらっている部屋に運び込む。


 次いで、やぐらのような炬燵ごたつ座敷ざしきに運び込むと、おあきちゃんがうきうきして待っていた。


 まず畳の上に板を置き、その上に四角い陶器製の火鉢のようなものを置く。そして、その周りを囲むような小さな木枠のやぐらかぶせる。最後に炬燵こたつらしく布団をかぶせてできあがりとなる。未来のものと異なり、上にテーブル板は置かないようであった。


 でも燃料はどうするのだろうか。陶器製の火鉢の中で炭を燃やすのだろうが、普通の木炭をつかうのだろうかなどと考えていると、すずさんが俺に声をかけてきた。

「りょうぞう、じゃあ炭団たどん買ってきておくれよ」


 その聞きなれない言葉に俺は返す。

「『たどん』ってなんですか?」


「ああ、炭団たどんってのは炭の粉を海藻うみもで丸く固めたものだよ。火鉢ひばちは家にある木炭きずみを燃やすんだけどさ。炬燵こたつではね、炭団たどんを燃やして暖をとるのさ」


「へぇ、そんなものがあるんですか。やっぱりこの時代の冬には、部屋へやあたためるには使つかわないといけないんですね」


 俺が間の抜けた返事をすると、おあきちゃんが不思議そうに口を開く。


「冬に火で暖を取らないって、未来には炬燵こたつはないの?」


「いや? あるけど、電気でんきで暖めるんだよ」

「『電気でんき』って何?」


 おあきちゃんがそう尋ねるので、俺は返す。


「ああ、えっと……未来では、人がいなづま……でいいのかな? かみなりとかと同じ力を操って、色々暮らしに役立つ機巧からくりを動かしているんだ。例えば、離れた場所にいる友達といつでもどこでも話ができたり、家に居ながら遠くでえんじた芝居しばいを見ることができたり、世間せけん流行歌はやりうたを持ち歩いていつでもどこでも聞くこともできるね」


 俺がそんな未来の便利な道具のことを話していると、おあきちゃんの目が輝く。

「そうなんだ! ひょっとして、未来では人もみんな妖術ようじゅつを使っているの!?」


「あ……いや、妖術ようじゅつとは呼ばれてないかな……科学かがく技術ぎじゅつって言うんだけどね。でもまあ、見様みようによっては妖術ようじゅつに近いかもしれないね」


 俺は頭の中に、二十一世紀の光景を思い浮かべる。


 街にあふれた電気は夜の闇を明るく照らし、地上に地下に電車と呼ばれる大蛇たいじゃのような長い乗り物を走らせて人を運び、天を突くような大きな建物に掲げられている街頭がいとうビジョンと呼ばれる看板かんばんの絵が生きているかのように動き出す。


 そのような摩訶まか不思議ふしぎ光景こうけいを素朴な江戸時代の人が見たとしたら、妖術や魔法を基盤として社会が成り立っているようにしか見えないかもしれない。


――今度、おあきちゃんにスマートフォンでも見せてあげようか。


 俺はそんなことを思いつつすずさんに銭を貰って、炭団たどんを売っている店に向かうため、白衣袴の格好で稲荷社を出た。





 炭団たどんというのは、江戸の処々ところどころにある薪屋まきやで売っている黒く丸い塊であるらしい。


 この薪屋まきやというお店で主に売っているのはまき木炭きずみであり、江戸のたみ燃料ねんりょうという形でエネルギーを供給している。


 江戸の人達にとって火の燃料であるまきすみというのは生活必需品であり、それらがなくてはめし料理りょうりけないしだんれない、火を用いる仕事もできない。つまり暮らしの上で必要不可欠な、俺の時代でたとえるならば電気のようなエネルギー源なのである。


 木の用途はまきだけでなく、建材に使えるような木材もまたもちろん江戸時代の人達にとっては重要な建築資材であり、生活用具を作るための不可欠な素材でもある。


 江戸時代の人達にとっての最重要資源である木材は、二十一世紀の人間にとってのプラスチックの原料となる石油資源と同じような役割を果たしているといえる。


 木材が沢山取れて、しかもその木材を海運により大量輸送できる立地にある紀伊きい尾張おわりに徳川幕府が御三家ごさんけを置いて管理しているのは、いわば油田を押さえているようなものだなと俺は思った。


 そういったことを考えつつ行列に並んでいた俺は、最終的に薪屋まきや炬燵こたつ用の炭団たどんを複数購入した。


 炉開きの日だけあって、早朝だというのに何人もの人が並んでいたので、大勢が並ぶ行列にて順番を待たなければならなかった。


 つつがなく炭団たどんを買った俺は、炭団たどん複数の入った風呂敷包みを手にぶら下げ、帰路についていた。


 冬が深まってきた朝の深川の町には、ひゅぅひゅぅと木枯らしが吹き抜けていたが、どことなく人達の顔は明るかった。


 視線の両脇には、木目調の色合いの壁に瓦の乗った屋根を構えた、二階建ての日本家屋が立ち並んでいる。そんな、どこか懐かしい感情を思い起こさせる深川の町を歩いていると、どこからともなくか細い鳴き声がした。


「……ゃぁ……」


 俺は立ち止まり、耳を澄ます。


「にゃぁ……にゃぁ……」


 その、か細い声の出所でどころを急いで探す。どうやら、表店おもてだな表店おもてだなの間の、人が一人通れるかどうかという細い路地から聞こえているようだった。


 俺が路地の中に視線を移すと、薄茶色の虎模様の毛皮がズタズタに裂かれていた血まみれになった大人の猫、すなわち成猫せいびょうがいた。


 首には皮製の首輪が取り付けられていて、鈴がぶら下がっている。


 俺は、急いでその虎猫を両腕で懐に抱え、炭団たどんの入った風呂敷包みを手でしっかりと持ち、落とさないように気をつけつつ、稲荷社いなりやしろに向かって全力疾走で駆け出した。





 稲荷社の縁側に座っているおあきちゃんが怪我をした虎猫に手をかざすと、おあきちゃんの治癒の妖術によって、ズタズタだったその虎猫の体があっという間に色艶いろつやのある綺麗な毛並に戻っていった。


 おあきちゃんが、縁側にいる虎猫の胴体を優しく撫でて言葉をかける。

「よしよし、もう平気だからね」


 すると虎猫は立ち上がり、おあきちゃんに感謝しているかのようにおあきちゃんに擦り寄り、猫撫で声を出す。


「にゃぁぁぁおぉぉぉ」

「うふふ! 可愛い!」


 おあきちゃんは微笑む。


 俺は、おあきちゃんに体を擦り付けている猫を見る。

「でも、なんで路地なんかで血まみれになっていたんだろ?」


 俺の言葉に、おあきちゃんが応える。

「多分に、大八車にかれたとかで、路地に逃げ込んだんじゃないかな?」


「でも、おあきちゃんのおかげで助かって良かったよ」

 俺はそんなことを言いつつ猫の頭を撫でる。


 すると、猫は嬉しそうな顔をして舌をペロペロと出す。そして、首輪に付けられた鈴がちりんちりんと鳴る。


 おあきちゃんも猫の胴体を撫でつつ話す。

「この猫、飼い猫みたいだね。誰の飼い猫なんだろうね?」


 おあきちゃんの言葉に、俺は手がかりらしきものがないか、首輪を丹念にチェックする。


――何も書いてない。


 首輪を外して、結び紐のついた皮帯かわおびの裏側も見てみるが、何も記されてはいなかった。


 俺は猫に再び鈴のついた首輪を結ぶ。そこに、すずさんと徳三郎さんが廊下を伝って縁側に現れた。


「りょうぞう、炭団たどんはどうしたんだい? あれ? それって猫かい?」

 すずさんが、猫を見て目を見開く。


 俺は応える。

「ええ、路地で死にかけていたのでおあきちゃんに治して貰ったんです。飼い猫らしいんですけど、飼い主の名前とかが判らないんですよ」


 すると、徳三郎さんが口を開く。

「その、猫鈴ねこすずを鳴らしながら、おあきが変わり身のじゅつを使ってみたらどうかね?」


 おあきちゃんは、成る程なるほど、という顔をして、猫に触って鈴をちりんちりんと鳴らす。


 今、この猫は、この鈴を身に付けてくれた飼い主のことを頭の中でイメージしているはずだ。おあきちゃんが変化へんげの術を使うと、あっという間にその姿が小柄な白髪しらが姿のお婆さんに変身した。


 すずさんが、口を開く。

「ああ、平野町ひらのちょうの方で茶道ちゃどうの指南をしていた婆さんだね。見たことがあるよ」


 その言葉を聞いて、お婆さんに化けたおあきちゃんが、再び元の小さな女の子の姿に変わる。


「すず姉ぇ、昼を過ぎたらお婆さんの所へ連れてって。お婆さん、きっと猫が帰ってくるのを心待ちにしてるよ」


 おあきちゃんのいつになく意思の強そうな目に、すずさんはどことなく嬉しそうな表情を見せた。





 昼八つ[午後二時ごろ]になって、すずさんの手習い指南が終わった。


 家事を終えて紺色の着物に着替えていた俺は、猫を抱きかかえたおあきちゃんと共に講堂の前で待っていた。


 手習い所で読み書き算盤を教わっている子供達が、大挙して土間の草鞋わらじを履き、家に帰る。小学校での帰宅時間の下駄箱のように、男児女児入り乱れて帰路に着く。そのうちの何人かは俺たちに気付き、さよならの挨拶をしてくる。


 子供達が全員帰ったところで、すずさんが深紫色の着物で土間段に降りてくる。


「さあ、じゃあ行こうかい」


 すずさんがそう言うので、俺とおあきちゃんはその後ろを並んでついていく。猫はおあきちゃんの腕に抱かれて、ごろごろと心地良さそうにしている。


 本所深川の町を南に歩く。処々ところどころにある運河の小橋を渡りつつ、すずさんの後ろをついていく。


 天秤棒にて魚を担いでいる棒手振ぼてふりの人や、炭火で温かい茶を沸かした容器を天秤棒で担いで売り歩く枇杷の葉茶びわのはちゃ売り、大きな赤い唐辛子とうがらし張子はりこを持ち「とん、とん、とんがらしぃ」と売り歩く唐辛子売とうがらしうり、二人一組で籠の中に古紙を買い取って入れ集めている紙屑買かみくずがい、「かりんとう」と平仮名で書かれた大きな提灯ちょうちんを手に持って花林糖かりんとうを売り歩く花林糖売かりんとううりなど、様々な売り歩きが目に入る。


 町の大通りには、鶏の肉を軒先で締めて焼き鳥にして売っている〆鶏しめどりや、味噌をつけた焼き豆腐を売っている田楽屋でんがくや、腹が減った庶民のために丼飯どんぶりめしを食わせてくれる一膳飯屋いちぜんめしやなど、様々な店が営業している。


 俺とおあきちゃんは、すずさんの後をついていく。店の立ち並ぶ表通りから、道幅の狭い路地に入る。すると、庶民が住んでいるような、木造二階建ての家が狭い路地の両側に並んでいる。


 しばらく歩くとすずさんは、一棟ひとむねの家の入口で立ち止まった。そして大声を張り上げる。

「ごめーん! ごめーん! 誰かいないかーい!?」


 しばらくすると奥のほうから誰かがやってくる音がして、木でできた引き戸ががらりと開けられる。現れたのは三十代くらいの、目が釣りあがった気の強そうな男であった。


「なんでぇ? 何か用か?」


 すると、すずさんが応える。

「ああ、家の近くで迷い猫を拾ったんだよ。そんでさ、ここの婆様ばあさまが虎の柄で首に鈴つけた猫飼ってるって噂を聞いたんで、持ってきてやったのさ」


 すずさんが親指で、おあきちゃんの抱きかかえている虎猫を指差す。


 すると、男は奥のほうに向かって声を張り上げる。

「おっかさん! トラ助のやつ、帰ってきたぜ!」


 その言葉に奥のほうから、おあきちゃんがさきほど化けたあの白髪姿のお婆さんが出てきた。


「あらあら、トラ助! 連れてきてくれてありがとうね!」


 感激しておあきちゃんから虎猫を受け取るお婆さんは、満面の笑顔を見せる。


 お婆さんの後ろから、もう一人、二十代後半くらいのお歯黒をした女性が出てきた。そして、お婆さんに抱っこされている猫に向かって話す。


「トラ助、親切な人に拾われたんだね。よかったねぇ、おっかさん」

「そうだねぇ、これもきっと義輔ぎすけのご加護だねぇ。義輔ぎすけが呼び戻してくれたんだよ」


 お婆さんが、笑顔で抱いている猫を撫でると、虎猫は甘えたように「にゃぁぁごぉぉぉ」と猫撫で声を出す。


 そして、お婆さんが俺たちに向かってにこやかに伝える。


「有り難うねぇ、良かったら上がってってくださいな。ちょうどお菓子があるからねぇ」


 お婆さんの言葉に促され、俺たちは家に上がった。





 奥にある座敷にて、俺たちはお茶と牡丹ぼたもちをご馳走になった。


 座敷の隅にある台は仏壇であるらしく、写真しゃしん技術ぎじゅつがまだないので当然の事ながら遺影いえいはないが位牌いはいが二つ置いてあり、お婆さんは御鈴おりんを鳴らして手を合わせ、猫が無事に帰ってきたことを今はこの家にいない誰かに報告していたようだった。


 位牌の後ろにある壁には、いなせな半纏はんてんが背中を見せて架けられている。その半纏の模様は白地に藍色の菱形がいくつも交互に並んで、背中には何を意味しているか判らない朱色の紋様が描かれていた。


 話を聞いてみると、この家では普段、未亡人であるお婆さんが一人であの猫と共に暮らしているのだとか。


 だから、昨日あの猫がいなくなったときのお婆さんの寂しさは相当なものであったらしい。


 女の人はお婆さんの実の娘で、男の人はその旦那さんとのことだ。


 今日は炉開きの日なので、嫁に行った娘が旦那と共にお婆さんの為に炬燵こたつを用意しようと訪れたところ、猫が行方不明なことを聞かされたのだという。


 お婆さんが位牌前で手を合わせてから俺たちの近くに来ると、笑顔であの猫は五年前に義輔ぎすけという一人息子さんが拾ってきた猫なのだという事を告げられた。


 しかし、そのお婆さんの一人息子さんはもうこの世にいないらしい。息子さんはとびの男で、深川の町火消し南組四組で火消人足をしていたのだとか。


 壁にかかっているあの半纏は、息子さんが火消しの時に着ていた半纏だったのだという。息子さんは数年前の火事のとき、すぐ近くに火が迫ってきても延焼を広げさせないために建物を壊す破壊消火活動をギリギリまで行い、全身に大火傷を負って亡くなってしまったらしい。


 お婆さんはそれに対してまったく悲しい顔を見せず、町の人を火事から守るために命を散らした息子の事を誇らしげに語っていた。


 猫を撫でながら昔を思い返し話しているお婆さんに、おあきちゃんは、何を考えたのかお婆さんの手を握った。そして伝える。


「立派な息子さんだったんだね」

 お婆さんは、嬉しそうに、小さな女の子であるおあきちゃんに、息子がこの世にいた頃の武勇伝を聞かせていた。




 俺とすずさんとおあきちゃんは、お婆さんの家から出た。そしておあきちゃんは大きく息を吐き出し、誰も見ていないような路地に入っていった。


 そして五秒もしないうちにその路地裏から、背中のごつごつした筋肉に青い彫物の彫られた屈強な男が出てきた。その男が口を開く。


「お婆さんの、亡くなった息子さんに化けてみたの。これで会ったら喜ぶと思うんだけど」


 すると、すずさんが男に近寄り、手刀でぽかりと頭を叩く。


「馬鹿いってんじゃないよ。息子さんはもうとっくに亡くなったんだよ?」


 すると、おあきちゃんが化けた屈強な男も返す。


「でも! あたし、お婆さんが心で泣いてるのがわかるもの!」

「だからこそだよ。せっかく亡くなった事を時をかけて噛み砕いて飲み込もうとしてんのに、今また会ったらまた未練がぶり返すだけさ。それに会ってから、どうする気だい? まさか、ずっと一緒に暮らすなんていうんじゃないよね?」


 すずさんが、おあきちゃんに対しはっきりとした口調で諭す。


 すると、屈強な男は周囲に誰もいないのを確認してからしゅるりとおあきちゃんの姿に戻った。おあきちゃんは、目に少しだけ涙を溜めている。

「でも……でも……あたし、お婆さんが亡くなった息子さんに、未練を持ったままだって……強がっているだけだって、見ていたらわかるもん……」


「おあき、誰だってそうさ。可愛がっていた子供に先に死なれてつらくない親なんかいないんだよ。でもね、おおよそこの世の生き物ってのは、何でも起こった事をしっかりと受け止めて、その上で生きていかなきゃならないのさ」


 おあきちゃんが目に涙を溜める。二人はもう何も言わない。


 そこで、俺が口を開く。

「すずさん、俺に提案あるんですが、おあきちゃんに聞いて貰っていいですか?」

 その言葉に、おあきちゃんが俺に視線を移す。

「どうする気?」


 俺が返す。

「あの、猫のトラ助くんに協力してもらうんだよ」

 すずさんも、おあきちゃんも、目をぱちくりとさせた。



 ◇



 真夜中に老婆は一人、布団の中で寝入っていた。


 今、老婆の顔を冷たい風が撫で、老婆は目を覚ました。老婆が寝転んだまま風の来たほうを見ると、ふすまが半分開いているのが見えた。寝ぼけまなこで、はて閉めたはずなのに、と思ったものの確証は持てなかった。


 でもあのふすまを閉めるには、暖かいお布団から一度出て、寒風に身を晒さなければならない。出るのは億劫おっくうだし、このまま布団の中に入って寝過ごそうか、と考えたときに闇の向こうから声がした。


「おっかさん」


 その声を聞くのは、久しぶりだった。久しぶりだったが、忘れるはずはない声だった。


 老婆は叫ぶ。

義輔ぎすけ!? 義輔ぎすけ!?」


 老婆の叫び声に、ふすまの向こうの闇から、一人息子が現れた。ごつごつした背中には一面にいなせな彫物が彫られている、鳶をしている自慢の息子だった。


 義輔ぎすけはゆっくり、寝転んでいる自分の母親に近づき、手を握る。


 老婆は、目から涙が溢れる。

義輔ぎすけ! 義輔ぎすけ! 良かった! やっぱあんた、死んでなんかいなかったんだね!」


 老婆は感極まって、自分の布団の傍で屈んだ息子にもう片側の手で顔に触れる。そして、息子が口を開く。

「おっかさん。俺は確かに火事でおっんだんだ。閻魔様えんまさまに許しを得て、ほんの少しだけ、けぇってきたんだ。でも、すぐ戻らなきゃなんねぇ」


義輔ぎすけ! 私ねぇ……言いたい事が山ほど……!」


 老婆は涙する。しかし、義輔ぎすけと呼ばれた男はゆっくりと、老婆を布団に寝かせる。


「いいんだ。何も言わなくていいんだ。おっかさんは、この世ですべきことをしてくれ。俺はこの世ですべきことをまっとうして、おっんだんだ。悔いてなんかいねぇからよ」


 男は立ち上がり、後を向く。そして、去り際に姿が変わる。


 男が変わったのは、虎柄模様の猫であった。


「にゃぁぁぁぁおぉぉぉ」


 ひと鳴きして、虎柄模様の猫がふすまの開いた隙間から出て行く。


 老婆は、「トラ助……」とだけつぶやき、体は再び布団に沈み、意識は思い出の中に溶け込んでいった。



   ◇



 十月の十一日の昼前に、俺は神社の前の道を竹箒たけぼうきで掃いていた。


「にゃぉぉぉぉ」

 猫の声が聞こえたのでそちらを向くと、猫を抱えてあのお婆さんが立っていた。

「おやおや、見習いのお兄さん。精が出ますねぇ」


「ええ、こんにちは。どうしたんですか?」

「この稲荷社いなりやしろのおふだを貰いたいんだけどねぇ、用じてくれるかねぇ?」


「ええ、はい。わかりました」

 そのお婆さんの言葉に、俺は本殿の正面脇にある土間のある入口を入ってすぐのところに置いてある棚から、おふだを取り出した。


 なお、この棚にはお札だけではなく、絵馬えま破魔矢はまや御神籤おみくじ御守おまもりなども置いてある。参拝客の求めに応じて、この棚から取り出す格好になっている。


 俺がおふだを持って、お婆さんに渡すと、お婆さんからおふだの代金である四文銭を受け取る。


 そして、お婆さんが口を開く。

「昨日の夜にねぇ、息子の義輔ぎすけが夢に現れてねぇ」


 その言葉に、俺は微笑みながら返す。

「そうですか、息子さんに夢の中で会えて良かったですね」


「夢の中ではね、このトラ助が義輔ぎすけに化けて慰めてくれたんだけどねぇ。ひょっとしたら、夢じゃなかったかもしれないねぇ」

 そう言いつつ、お婆さんは抱えている虎猫を優しく撫でる。


 俺はゆっくりと、穏やかな口調で話しかける。

「多分息子さんは、お婆さんの息子さんとして生まれて、町の人を守る為に生きてこれて、幸せだったと思いますよ」


 その言葉に、老婆はにっこりと微笑む。

「そう願いたいねぇ。私、とうにはずっと辛かったんだけど、なんだか生きる意欲が湧いてねぇ。これからも、このトラ助と一緒に頑張って生きていくよ」


 それは、お婆さんが見せた初の弱音だった。しかし、弱音を他人に吐けるということは、もう息子さんの死を乗り越えたのだろう。


 俺はお婆さんに伝える。

「お婆さん。あの世があっていつかは亡くなった人に会えるっていうのは、本当はとても幸せな事なんですよ」


 俺の故郷である二十一世紀の日本には、死後の世界を信じている人は少ない。それが故に苦しんでいる人がいかに多いかも知っている。


 俺が昨夜おあきちゃんに演技をしてもらったのは、この時代の人が『死後の世界』を信じているからこそできたものだった。


 お婆さんは俺の言葉に笑いつつ、お礼を言い、猫を抱きかかえたまま雑踏の中へ消えていった。


 俺は澄んだ空を見上げる。塵一つない江戸時代の冬空には、多くのたましいが住まう城であるかのような雲が流れていた。江戸に住む人々を、たましいかたまり天界てんかいからいとしく見守っているかのようであった。



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