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第十六幕 芝のだらだら祭り


 段々と、寒さが空気の透明度と共に増してきたのを実感する、九月の十八日の事であった。


 昼八つ半[午後三時ごろ]に、俺は稲荷社いなりやしろの近くを竹箒たけぼうきで掃いていた。


 稲荷社いなりやしろの前だけではなく、両隣三件くらいのゴミや落ち葉を掃き集めて清めるのは、下町のご近所づきあいを円滑に進めるためのマナーである。


 俺が集めた落ち葉の山を目前に、近くに用意していた塵取りを持とうとしたとき、見たことのある九歳くらいの男の子から声をかけられた。


亮哉りょうやにいさん、お久しぶりでやす」

 しま模様もようの入った濃い緑色の子供用着物を着た、元服前らしく前髪を剃ってない小さいまげを結った男の子。


 以前に大川端おおかわばたで溺れて死にかけたところを、咄嗟とっさの人工呼吸で助けた男の子だった。


 俺は返事をする。

「ああ、亀吉かめきちくん。どうしたの?」


 俺が尋ねると、にこにこと少年然として白い歯を見せて笑う亀吉かめきちくんは、そのふところから書状のような細長い紙包みを取り出した。


「こちら、姉ちゃんから亮哉りょうやにいさんへ。直ちに読んで頂きたいんでやす」


 俺は事態が飲み込めず、漫然まんぜんと書状を受け取る。


「これ何? 手紙てがみ?」

「確かにそうでやすが、ただの手紙じゃございやせん。姉ちゃんがどうしても今日、亮哉りょうや兄さんから返事を頂きたいと云っておりやした」


――おしのさんが、俺に手紙を? 何故?


 どういう事かわからなかったが、俺はとりあえず紙包みをほどき、手紙を広げた。


 俺は二枚ある紙のうち、文字が書かれた方の紙上に視線を這わせる。しかし、その文字は当然のごとく江戸時代の崩し文字であった。


――達筆すぎる。


「ごめん。ちょっと読めないんで、すずさんに読んで貰ってもいい?」

「そのあたりは任せやす」


 すずさんは既に手習いの指南を終えて、講堂でお茶を飲んでいる。着物はいつものように深紫色で無地だが、衣替えが済んだのでその着物の中には冬物の綿を入れている。


 俺は講堂の土間段から、奥にて座布団の上で一息ついているすずさんに声をかける。

「すずさん? ちょっと文章ぶんしょう読んで貰えませんか?」


文読ふみよみかい? 一通二文にもんだよ?」

「冗談はやめて下さい」


 そう俺は突っ込み、笑いながら近寄ってきたすずさんに手紙を渡す。


 すずさんは講堂の土間段に座り、下に置いてあった台に足を乗せ、手紙を広げ視線を紙面に流す。


「えーっとねぇ……ああ、これはねぇ……声を出して読むべきふみじゃないねぇ。ふふふ」


 すずさんは、面白いものを見つけた狐のごとくにやにやして俺を見る。


「声を出して読むべきじゃないって、どういうことですか?」

 俺が尋ねると、すずさんが返す。

「まぁ、要は『此度このたびの芝の天神祭りに共にまいりませんか。家で魚も馳走ちそう致します』ってとこだね」


「え? お祭りの誘いってことですか? 芝の天神祭りって、芝公園の芝大神宮ですか? だらだら祭りの事ですよね?」


――芝公園で秋に行われる祭りといえば、だらだら祭りのことだ。この時代から既にあったのか。


 俺の尋ねかけに、すずさんがこたえる。

「まぁね。あそこでは九月になると、中ごろに十一日も祭りが続くんだよ。そのお祭りに一緒に行きたいけど、おひまはございますか? って訊いてんだね、おしのさんは」


――つまり、デートの誘いか。


 水茶屋の看板娘なのに、そんなことをして大丈夫なのか。二十一世紀で言えばグループアイドルの女の子が、男と一緒にテーマパークへ行くようなものだろうに。


 それに、おしのさんが俺に好意を持ってくれるのは嬉しいが、俺が好きなのは未来にいる俺のクラスメイトの葉月なのである。


 もしかしたら不適切な言い方かもしれないが、おしのさんは江戸時代生まれで俺より二百歳近くも年上なのであり、ちょっと素直には喜べない。


 俺が考えあぐねていると、亀吉かめきちくんが寄ってきて俺に声をかける。

亮哉りょうや兄さん、姉ちゃんの気持ちを汲んでやっておくれよぉ。姉ちゃん、先月から、大好きなはず秋刀魚さんまろくのどを通らねぇんだ」


 その小さな子供の話に、すずさんが返す。


「ふむ。して小僧、それでおまいさんはどうした?」

「仕方ねぇからおいらがわりに食べてたら、まるっと目方が増えちまったよ。これがまこと秋刀魚さまわりさ」


ほど! 小僧にしてはなかなか洒落しゃれが効くねぇ!」


 すずさんも亀吉かめきちくんも、からから笑う。


 無論、俺は笑える精神状態になかった。悩んでいる俺を見て、亀吉かめきちくんが声を張り上げて懇願こんがんする。

「お願いしやす! どうか姉ちゃんと一緒に祭りに行ってくだせぇ! 姉ちゃんに良い思いをしてもらうだけでいいんでやす!」


 小さな男の子に手を合わせてお願いされたので、俺は断りきれずに承諾した。


 目を閉じるとまぶたの裏の闇の中にて、葉月が目を背けて怒っているような顔が浮かび上がった気がしたので、心の中で無言で謝った。






 結局翌々日の九月二十日、すずさんに午後のお休みと、お小遣いとして四文銭二十五枚、合計百文を貰った。


 俺は普段着である紺色の着物を着て、とある橋のたもとにある稲荷神社の朱の鳥居の前にて、数え年で十七、すなわち俺と同齢であったというお茶屋の看板娘のおしのさんを待っていた。


 俺の目の前にある稲荷神社は、永久とこしえ橋とかいう橋のたもとにある。この橋は大川に架かっている新大橋を西に渡ってから、少し行った所にあるそこそこの大きさの木製の橋であった。


 待ち合わせ時刻は昼八つ[午後二時ごろ]、もちろん昼飯は既に済ませてある。  


 ここから芝神明しばしんめい、つまり俺の時代の芝大神宮しばだいじんぐうまでの距離は一里ほど、つまり四キロメートル程度。歩いたならば半刻はんとき、つまり一時間ほどだろう。


 どこからか捨て鐘が、定間隔にゆっくり三つ鳴った。そろそろ待ち人は来るだろうか。


 江戸の庶民には、『時間を守る』という感覚があまりないらしい。そもそもからして時計とけいがお大尽だいじんの屋敷や商家しょうかの中くらいにしかなく、季節によって一刻いっときの長さもばらばらであり、時間を守りたくても手筈てはずがないのである。おのずと、時間に対して大らかな考えを持つようになる。


 商家で働く手代てだいと呼ばれるサラリーマンや、役人としてお勤めを果たす武士などならともかく、屋次郎さんや竹蔵さんのような気ままに暮らす庶民は、あまり時間を重要視しないらしい。


 遠くから時の鐘が鳴り響き始め、昼八つになったということがわかる。俺は、一人ごちてつぶやく。

「日本人が時間守るようになったのって……けっこう最近だったんだな」


 すると、若い女性の声が後から聞こえた。

亮哉りょうやさん。お待たせ致しました」


 その声に振り返ると、二十一世紀に生まれ育った俺からは小柄に見える、はなのある少女が水茶屋での山吹やまぶき色の着物姿とはまた少し違う色の、季節に合った柄の着物をまとって立っていた。


 おしのさんは銀杏いちょうの葉っぱの模様が色抜かれていて、鮮やかな黄色に見える向日葵ひまわり色の着物を着て、結い髪に見事なくしを挿していた。


 俺はせっかくのデートに誘ってくれたおしのさんに、笑顔を返す。


 おしのさんは、人気の高い水茶屋の看板娘だけあって、すずさんのように『美人』ではなく『はなやか』という表現がぴったりであった。


「ああ、いやいや。俺も今来たところだよ。まだ全然時間じかんってないから」

 俺の言葉に、おしのさんがにこやかに返す。

亮哉りょうやさん? 『時間じかん』とはなんでございましょうか?」


――ああ、そうか。『時間じかん』って言葉がまだないのか。


「あーっと……ここに着てから、まだときってないってことかな」


 俺の言葉に、おしのさんがますます笑顔になる。

「そうでございますか。それはよろしゅうございました」


 俺は、おしのさんに返す。

「あの……おしのさん? いいの? 俺なんかお祭りに誘ってくれて」

「いえいえ。私、亮哉りょうやさんに、弟の亀吉かめきちの命を救ってくれたお礼を改めていたしたかったのでございます」


 俺と、おしのさんは二人して歩き出す。目的地は芝大神宮だ。


 歩きながら色々な話をする。おしのさんは、意外と饒舌じょうぜつな女の子だった。


 その中で、おしのさんが俺に語りかける。

亮哉りょうやさんは、どのような魚がお好きなのでございましょうか?」

「うーん? この季節、焼き魚なら秋刀魚さんまが好きだね。大根おろしと醤油で食べるのとか」


「やっぱり、秋刀魚さんまは美味しゅうございますよね。上品な魚ではございませんが、あの美味しさは番付でかつおと並んでもおかしくないでございましょうね」


 おしのさんが、手を口元に当てて上品に笑う仕草をする。俺の身長174センチメートルに比べて彼女の身長は150センチメートル程度と頭一つ分くらい低いので、はたから見れば、俺たちはかなり身長差のある二人だろう。


 俺は、未来から来た人間であることを悟られる危険性を考慮し、なるべく聞き役に徹した。おしのさんが言いたい事をしっかり聞いて、相槌あいづちをしっかり打って、適時に自分の共感を返すことを意識した。


 実際、おしのさんは話題が豊富だった。


 親は京橋きょうばし常盤町ときわちょうで魚屋を営んでいること。弟の亀吉くんが、暇さえあれば寄席よせを聞きにいって、この頃は自作のはなしをよく聞かせてくれること。


 八月に大川端おおかわばたで泳いで亀吉くんを助けてくれたお侍にも、お礼として羊羹ようかんを贈り、瓢箪ひょうたんを貸してくれたお爺さんにはお礼として上酒かみざけを酒屋にて瓢箪ひょうたんに入れてもらったこと。


 自分が働いているお茶屋にくる男の人達の悲喜交々ひきこもごも面白可笑おもしろおかしいエピソードなどなど。聞き役に徹しているにもかかわらず、それはそれは飽きさせないものであった。話が上手なのだろう。





 そんなこんなで日常の些事さじを話しつつ歩く。俺も二十一世紀の話題を出さないように慎重に言葉を選びつつ、稲荷社いなりやしろでの細々こまごまとした話題を話す。


 芝公園に向かう道だが、当然のことながら東京タワーは見えない。


 そんなこんなで群れ成す人並みの中江戸の町を歩いていると、半刻を示す時の鐘が一つだけどこからともなく鳴った。昼八つ半[午後三時ごろ]だ。


 俺たちは既にお祭りの人でごった返す、芝大神宮の門前市に来ていた。赤く塗られた東京タワーはないものの、その前身であるかのような朱色の五重の塔が目に入る。


 老いも若きも男も女も、子供もお祭りを楽しんでいる。気のせいか、年頃の女性が若干多いような気がした。すると、後ろの方から何十人もの男達が一斉に叫んでいるような祭囃子が聞こえてきた。


「せいや! せいや!」

「そいや! そいや!」


 後を振り向くと、威勢の良いたくましき男達が、その溢れんばかりのエネルギーをってはやし声を出していた。


 雑踏の中を、純白のふんどし一丁を股間に締め、薄藍色の法被はっぴまとった、いなせな男達が大挙して金細工かなざいくの施された神輿みこしを担いでいるのが見えた。しかも、こちらの方向へと向かっている。


 俺は、おしのさんに声をかける。

「おしのさん、お神輿みこしが来たから脇へけないと」


 俺は、おしのさんの手を取って、その辺にいる大勢の人と共に道の端へ行く。


 しばらく手を握ったままだったが、横を見るとおしのさんが、少し顔を赤らめた気がしたので、慌てて手を放した。


「せいや! せいや!」

「そいや! そいや!」


 男の汗が飛び散る神輿みこしの影は、雑踏の中にたっぷりの情熱を携えて、眼前を横切る。


 俺と同じく道の端に避けた町の人達は、男達のいきでいなせな掛け声に、喝采を浴びせる。


 俺は一応、二十一世紀にも江東区こうとうく深川神輿ふかがわみこしを見に行ったことはある。しかし、目の前で繰り広げられる江戸時代の神輿みこしは、何と言うか格が違った。


 二十一世紀の人達が神輿みこしを担ぐのは、それがお祭りだからである。しかし、ここにいる江戸時代の人達はそれに加えて、その自分達の熱気を、彼らが信じている神仏に届けんという意気込みで神輿みこしを担いでいるのだ。


 お祭りとしての行事に加え、こころまことの信心がある彼らの、その心意気を奉納せんという気の充足は、二十一世紀の人間が祭りに抱く意気込みとは次元が違う。


 道脇に避けていた町の人達は、目の中に光を宿しながら神輿みこしを担ぐ男達を見送り、また人の満ち足りた精神力を間近で見たという充足感に包まれつつ、道に広がる。


 俺は再び、おしのさんに声をかける。

「おしのさん、神輿みこし、凄かったね」


「はい。そうでございましたね」

 おしのさんが微笑む。


 そして、俺たち二人はまた共に歩き出し、芝大神宮の境内に入る。


 境内の入口には横断幕が掲げられており、右から左に横文字で『両皇太神宮』と書かれている。


 人がかなり多い。どちらを向いても人だらけだ。渋谷の世界一通行人が多いスクランブル交差点くらいの人口密度だ。


 境内には、二十一世紀での祭りがそうであるように、様々な屋台があり、多くののぼりが立っている。見上げると何十個もの提灯が四角く縦横に掲げられ、祭りの熱気を演出している。


 かき氷や、フランクフルト、ポップコーンなどは流石にないが、水あめを練ったお菓子を売る水飴屋や、団子を焼いて売ってくれる焼き団子屋、汁粉売りの屋台などもある。面白いのは、筮竹ぜいちくを持った占い屋や、すきくわを売っている農具屋、米粉こめこを動物の形などに加工して売る新粉細工しんこざいく屋などもある。


 高下駄を履いて竹でできた輪でジャグリングをしている大道芸師もいるし、板敷きの高台に座ってなんらかの話をダイナミックに述べている講釈師こうしゃくしもいる。


 更に、色々な所で生姜しょうがを売っているらしい。生のままの生姜しょうがを売っているだけではなく、生姜湯しょうがゆも作り売っているようだ。どこからか流れてきた生姜湯のまろやかで甘い香りが鼻に入る。この、生姜しょうがを売るというのは、芝のだらだら祭りの伝統なのだとか。


 俺は、おしのさんと色々話をしながらお祭りの屋台を見て回る。


 最終的におしのさんは、芝神明しばしんめいにて売られている『千木筥ちぎばこ』というものを購入した。


 この『千木筥ちぎばこ』というのは、曲がったひのきの板で作られた円形の箱を三段重ねにして紐で縛られたものであり、白、紫、緑の泥絵の具で藤の花が描かれている神具しんぐであるようだった。この高さ12センチメートルほどの箱の中には煎り豆が三、四粒入っており、色々なご利益りやくがあるのだそうな。


 また、『千木ちぎ』は『千着ちぎ』に通じるために、この千木筥ちぎばこと呼ばれる神具しんぐ箪笥たんすに入れておくと、着る物に困らないという言い伝えがあるのだという。


 境内にあるお茶屋でお茶を飲み、とりとめのない話をし、帰途につく。俺は男の役目として千木筥ちぎばこを持ち運ぶ。帰路でもおしのさんは、色々と面白い話をしてくれた。


 例えば、芝の神社の近くには今、古い半鐘がないらしい。ちなみに半鐘というのは、火災が起こった時に打ち鳴らす警鐘けいしょうの事をいう。


 というのも、十七年前の文化二年に、境内で奉納相撲をしていた力士らと、め組のとびの男らの喧嘩けんかから町全体が大騒ぎになる事件が起こった。唯の喧嘩けんかが町全体の騒乱となり奉行所沙汰にまでなったという。


 一騒動になった原因は、誰かがけたたましく打ち鳴らした半鐘であった。本来は火事の時でないと、半鐘は何度も何度も鳴らされないのだが、エキサイトした誰かが半鐘を打ち鳴らした為に、火事と勘違いした民衆により町がパニックになった。


 大混乱の中、血気盛んな男どもの喧嘩は全く収まらず、ついには九十九名もの怪我人を出してしまったそうな。


 とびの男と力士は奉行所に引っ立てられて、あわや刑に処せられそうになったものの、お奉行様が名采配めいさいはいを振るった。


 半鐘が鳴ったのは、みずから鳴った半鐘に責任があるとして、半鐘が罰を受けることになったという。十七年前に混乱の原因を作った半鐘は、哀れにも島流しの刑に処せられ、今は遠く三宅島に鎮座しているという。


 おしのさんが生まれる前の年に起こった事件だったので、おしのさんはその半鐘を見たことがないということを、笑いながら伝えられた。


 俺は遠い島から帰ってきたその半鐘を、小学生のときに芝大神宮で見たことがあるという事実は、とても言えなかった。






 芝神宮を出てから、俺はおしのさんと共に彼女の家のある京橋きょうばし常磐町ときわちょうにたどり着いた。


 京橋きょうばしには活気かっきのある商店しょうてんが並び、行きかう人々が様々な熱気を醸し出していた。以前、江戸はこのところ好景気だということをすずさんに聞いたが、大川の西岸のこちらの方が、東岸の本所よりも一層活気に溢れている気がした。


 常磐町ときわちょうに入ると、隣を歩いているおしのさんが、一棟ひとむねの魚屋を手をかざして指し示す。


「あちらの魚屋うおやが、私の家でございます」

 見ると、大きな看板は掲げられておらず暖簾のれんがかけられ、ふたつの紺色ののぼりが掲げられていた。のぼりには色を白く文字抜きして、大きく『魚庄』と書かれているのが目に入った。


 俺は、おしのさんに尋ねる。

「えっと、『魚庄うおまさ』って読むの?」

「いえ、『魚庄うおしょう』でございます。おさんの名が庄三郎しょうざぶろうでございますゆえ」


 おしのさんは、にこにこと微笑みつつ歩く。


 魚屋には当然に、軒先に魚がいくつも並べられている。魚特有の生臭さが鼻をつく。


 軒先では、三十代くらいの女性が手を叩いて売り文句を並べていた。


「へいらっしゃい! らっしゃい! 秋刀魚さんまが安いよ! 縞鯵しまあじ美味うまいよ! 寄ってらっしゃい! 見てらっしゃい!」


 おしのさんを三十代くらいにすればこういう感じになりそうだ、というような綺麗なご婦人さんだった。背丈はおしのさんより少しばかり低い様子であった


 その女性は俺たちに気付き、歯を見せて微笑んだ。


「あらあら、おしの、お帰りなさい。その殿方がりょうやさんかい?」


 笑顔で見せたその歯には、お歯黒はぐろがべったりと塗られていた。江戸の既婚女性は結婚指輪をしていないが、その代わりに既婚者の証として、このように歯を黒く染めるのだという。


 おしのさんがしとやかに、母親に告げる。

「おさん、ただいま戻りました。こちら、亀吉かめきちの命の恩人で、深川で神職の見習いをしている亮哉りょうやさんでございます」


「あらあら、修験者しゅうげんじゃって噂には聞いていたけど、ほんにまあ大丈夫だいじょうぶなこと! まさに天狗てんぐさんだねぇ!」


 俺は応える。


「あ、いえ。天狗てんぐとか修験者しゅげんじゃとかじゃなくて、ただの神職見習いなので、お気になさらず」


 俺が笑顔を返すと、女将さんはにっこりと笑い、持っていた千木筥ちぎばこを受け取った。


「亀吉のことありがとね。あたしらができることなんて、魚を振舞ふるまうことくらいしかないけどさ。何でも選んでおくれよ」


「あ、いえいえ。俺も無我夢中むがむちゅうでして」

「『無我夢中むがむちゅう』? 流石さすが修験者しゅげんじゃさまは難しい言葉を使うんだねぇ!」


 おしのさんのお母さんが感心していると、おしのさんが尋ねる。


「ところで、おさん? おさんはどうしたの?」


「ああ、奥でお客さんと一緒に酒かっ食らってるよ。まだ夕方にもなってないってのにさ」


 女将さんは半ば諦め顔で、亭主を憎めない奴だと思っているような面持ちで息を漏らした。


 その言葉に、おしのさんが当惑の顔を見せる。


「お客さん? どなた?」

「えっとね、りょうやさんの知り合いとか言っていたね。うるわしやかな姉妹さんだよ」


――え、まさか。


 女将さんに促され、店の奥にある座敷に進む。


 障子の開きのそばで、亀吉くんがトランプを持って、障子の向こうにいる誰かと遊んでいるのが見えた。


 俺は障子の向こうに声をかける。

「おあきちゃん? そこにいるの?」


 すると、間髪入れずに幼い女の子、というよりおあきちゃんの声がする。

「いるよー」


 聞いた感じだけで、ぶすっとしているのがわかる。


 店の奥の座敷を覗くと、そこには確かに亀吉くんとトランプ遊びに興じているおあきちゃんがいた。更に向こうには、大型の徳利とっくりの傍らで互いに酒盃を持って酒を飲み交わしている、すずさんと中年男性がいた。


 中年男性はおそらく、おしのさんのお父さんの庄三郎さんだろう。すでに酒のアルコールは庄三郎さんの鼻の血管にまわり、その鼻先を赤く染めあげていた。


 俺は思わず叫ぶ。

「すずさん! おあきちゃんが、なんでここにいるんですか!?」


 すると、おあきちゃんがあからさまに不機嫌そうな声で返してくる。

「りょう兄ぃがいなくなったから、部屋に行ってトランプを借りようとしたの。で、荷の中を探していたら、おしのさんのふみを見つけたの。それで、すず姉ぇに問い詰めて白状してもらったの」


 人の手紙を勝手に読むのは関心しないが、これは俺が悪いと思ったので、何も言えなかった。


 亀吉くんが茶々を入れる。

亮哉りょうや兄さん、もてる男は辛いねぇ」


――なんだそりゃ。


 トランプを持ったまま微動だにしない、おあきちゃんの視線が殊更ことさらに痛かった。


 せめてもの救いとして、葉月には見られていなくて良かったと思うしかなかった。





 魚をご馳走してもらう段取りとなって、俺は庄三郎さんと一緒に、魚の並べられている店棚を見ていた。すずさんとおあきちゃんは、山葵わさびを既にり下ろして、醤油皿を持っている。


 低い台の上には、所狭しと細魚さより秋刀魚さんま太刀魚たちうお縞鯵しまあじなどの秋の旬の魚が並べられている。冷蔵なぞ当然していないので、かなり生臭い。


 軒先には開いた干し魚やスルメ、だこなども吊るされている。


 俺は、店の棚の端に置いてある、一際ひときわ大きな魚に目が行き言葉を発する。


「あれ? あれってひょっとしてマグロですか!?」


 大きさ100センチメートルほどの、若齢じゃくれいだが立派なまぐろが横たわっていた。


 庄三郎さんが応える。

「ああ、たまたま内海うちうみに迷い込んで今朝獲れたばかりの本鮪ほんまぐろよ。活きは良いんだけどよ、今日は芝の天神の方が祭りだろ? 縁起が悪いってんで、下魚げざかななんざ売れやしねぇ」


下魚げざかな!? ひょっとして、マグロって安いんですか!?」

 俺が驚きの声で尋ねると、庄三郎さんは応える。

「一尾が二百文だけどよ、やっぱりもちっと下げねぇと売れねえよ」


「二百文!? 丸々一尾でたった二百文なんですか!?」


 二百文といえば、四文銭五十枚だから、俺の時代の物価でおおよそ五千円といったところだ。二十一世紀に、あんな日本近海で獲れた冷凍していない本鮪ほんまぐろを買おうとすれば、軽く数十万円はするだろう。


 庄三郎さんが俺に声をかける。

「兄さん? まぐろ好きなのか?」

「ええ、マグロは好きですよ。寿司屋でもいつも食べています」


 俺がそう言うと、庄三郎さんはまぐろを手に取り、近くに置いてあった肉厚の切包丁を手に構えた。


「じゃあ、まぐろで良ければ馳走ちそうしてやるよ。うちせがれを救ってくれた礼だ」


 庄三郎さんは、さっきまで酔っていた様子など微塵も見せずに、鮮やかな手つきでまぐろをみるみる解体していく。さすが本職は違う。


 まぐろの中心を貫く背骨と、赤く瑞々みずみずしい身の部分が切り離される。まぐろの身の中に見える、あの白い網目が見える部分はトロだろうか。秋の本鮪ほんまぐろのトロは、大理石でできているかのように、たっぷりと肌理きめ細やかなあぶらたたえていた。


 俺は、口を開く。

「その部分、トロですね。美味しそうですね」


 その言葉に、庄三郎さんは包丁を持ったまま目をぱちくりさせる。

「兄さん? 『とろ』ってなんだい?」

「あっと……その脂身あぶらみの部分ですよ」


 すると、庄三郎さんは飄々ひょうひょうと、俺にとっては信じられない言葉を口にした。

「ああ、こりゃ大方おおかたは捨てちまうごみだよ。油身あぶらみは猫の餌にもなんねえからな」


 その事実に俺は驚愕する。


「えっ! その脂身あぶらみの部分って捨てるんですか!? 勿体無もったいない! 食べさせてくださいよ!」


「なんでぇ!? 兄さんひょっとして油身あぶらみが食いてぇのかい? 中々どうして下手物げてもの好きじゃねえか!」

 庄三郎さんが豪快に笑う。


 俺は懇願して、まぐろのトロの部分を刺身にしてもらった。


 おあきちゃんが、り下ろした山葵わさび醤油しょうゆを載せた小皿を持って、とことことやってくる。


「りょう兄ぃ? その部位って油身あぶらみじゃないの?」

「ああ、これは食べてみると美味しいんだよ」


 俺は、木製のまな板の上に乗っている大トロの切り身を一つつまみ、おあきちゃんが皿の上に持つ山葵わさび醤油じょうゆをつけて口の中に放り込んだ。


 口の中でとろける切り身は脂の匂いを残し、舌の上で雪の結晶のように消えていった。山葵わさびのツーンとくる刺激と相まって、涙が出るほど美味い。


「美味い! こんな美味い刺身、生まれて初めてかも!」

 俺が若干大声で感激すると、おあきちゃんが不思議そうな顔で見てくる。

油身あぶらみなんか、食べて美味しいの?」


「多分、おあきちゃんも気に入ると思うよ。食べてみてごらん」

 俺の言葉に、おあきちゃんも意を決して、まな板から大トロの切り身をひとつ摘み上げて、山葵わさび醤油じょうゆをつけて口の中に入れた。


 そして、おあきちゃんはつぶやく。

「わるく……ないかも」


 おあきちゃんの後ろではその様子を、すずさんが呆れ顔で見ていた。






 結局、刺身をご馳走になった後は、まぐろの身の残りの部分を、防腐作用のある枇杷びわの葉で一貫目いっかんめほど包んでもらった。持ちきれない部分は、おしのさんたち家族で食べて下さい、ということになった。


 俺はすずさんとおあきちゃんと一緒に、茜射あかねさす夕暮れの新大橋を渡っていた。俺は風呂敷で包まれた鮪肉まぐろにくを背中におぶさっている。


 おあきちゃんはすずさんと手を繋いで、反り上がった橋をとことこと歩いている。


 すずさんが、俺に語りかける。

「そのまぐろの赤身、どうするつもりだい? 醤油にでも漬けないと、すぐ痛んで駄目になっちまうよ?」


「そうですね、冷蔵庫がないですからね。ねぎま鍋にするとか……あれはトロだったっけ? でも、鍋物にすれば結構持ちそうだし……炊き込みご飯とか……シンプルにマグロ丼っていう手も……」


 ぴしっ


 俺が色々とメニューを考えていると、すずさんが手刀を俺の頭に打ち付けた。


  軽く頭を叩かれた俺は、すずさんに真意を尋ねる。

「どうしたんですか? すずさん?」


「まずは、おあきに謝りな」


――ああ、そうだった。


「ごめんね、おあきちゃん。おしのさんとお祭りに行くこと黙ってて」


 すると、おあきちゃんは以前のような膨れっ面をするかと思ったが、意外なことに笑顔で俺の顔を見上げた。


「ううん! いいよ! でも、あたしもりょう兄ぃに、お願いしても良い?」

「な、何?」


 おあきちゃんが、純真無垢な瞳で俺をじっと見る。


「りょう兄ぃ、あたしもいつか、一緒にお祭りに連れてって!」


 おあきちゃんの子供らしい純粋なお願いに、俺はああ、そんなことかと安堵した。


「ああ、いいよ。じゃあ指切りしようか?」

 俺は立ち止まり、おあきちゃんに右手の小指を差し出す。


 しかしおあきちゃんはどういう意味かわからないようで、きょとんとしている。


「あれ? ひょっとして、指切りの風習がまだないの?」


 俺が尋ねると、すずさんが口を開く。

「りょうぞう、それはおそらくね、吉原の遊女が旦那に約束を守ってもらうために小指切り落としたってのが大元おおもとなんじゃないかい?」


 その言葉におあきちゃんが青ざめて身を反らせるので、俺は少し焦って弁明する。

「いや違うから! 俺の故郷では、小指同士をからめて破っちゃいけない約束をする風習があるんだよ!」


 その言葉に、おあきちゃんが安心の顔を見せる。


「なあんだ、びっくりした。小指同士をからめるって、これでいいの?」


 おあきちゃんが自分の右手の小指を、俺の右手の小指にからめる。


 俺は目の前の小さな女の子に、故郷の習慣を伝える。

「じゃあ呪文を言うよ」


「呪文?」

 おあきちゃんが尋ねるので、俺は返す。

「ああ、指切りの呪文だよ。俺の言ったとおりに言ってみて」


 そして俺は大きく息を吸い込み、呪文を唱える。

「ゆーびきりげーんまん、嘘ついたらはりせんぼんのーます。指切った!」


 おあきちゃんも、笑顔でこれに続く。

「ゆーびきりげーんまーん、うそついたら針千本飲ーます! 指切った!」


 おあきちゃんが、女の子に相応ふさわしく白い歯を見せて笑う。その後ろではすずさんが、泰然自若たいぜんじじゃくな笑みを浮かべていた。


 遥か遠くから、祭囃子が聞こえるような、晩秋の赤い空を望む夕暮れだった。


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