段々と、寒さが空気の透明度と共に増してきたのを実感する、九月の十八日の事であった。
昼八つ半[午後三時ごろ]に、俺は
俺が集めた落ち葉の山を目前に、近くに用意していた塵取りを持とうとしたとき、見たことのある九歳くらいの男の子から声をかけられた。
「
以前に
俺は返事をする。
「ああ、
俺が尋ねると、にこにこと少年然として白い歯を見せて笑う
「こちら、姉ちゃんから
俺は事態が飲み込めず、
「これ何?
「確かにそうでやすが、
――おしのさんが、俺に手紙を? 何故?
どういう事かわからなかったが、俺はとりあえず紙包みを
俺は二枚ある紙のうち、文字が書かれた方の紙上に視線を這わせる。しかし、その文字は当然のごとく江戸時代の崩し文字であった。
――達筆すぎる。
「ごめん。ちょっと読めないんで、すずさんに読んで貰ってもいい?」
「そのあたりは任せやす」
すずさんは既に手習いの指南を終えて、講堂でお茶を飲んでいる。着物はいつものように深紫色で無地だが、衣替えが済んだのでその着物の中には冬物の綿を入れている。
俺は講堂の土間段から、奥にて座布団の上で一息ついているすずさんに声をかける。
「すずさん? ちょっと
「
「冗談はやめて下さい」
そう俺は突っ込み、笑いながら近寄ってきたすずさんに手紙を渡す。
すずさんは講堂の土間段に座り、下に置いてあった台に足を乗せ、手紙を広げ視線を紙面に流す。
「えーっとねぇ……ああ、これはねぇ……声を出して読むべき
すずさんは、面白いものを見つけた狐のごとくにやにやして俺を見る。
「声を出して読むべきじゃないって、どういうことですか?」
俺が尋ねると、すずさんが返す。
「まぁ、要は『
「え? お祭りの誘いってことですか? 芝の天神祭りって、芝公園の芝大神宮ですか? だらだら祭りの事ですよね?」
――芝公園で秋に行われる祭りといえば、だらだら祭りのことだ。この時代から既にあったのか。
俺の尋ねかけに、すずさんが
「まぁね。あそこでは九月になると、中ごろに十一日も祭りが続くんだよ。そのお祭りに一緒に行きたいけど、お
――つまり、デートの誘いか。
水茶屋の看板娘なのに、そんなことをして大丈夫なのか。二十一世紀で言えばグループアイドルの女の子が、男と一緒にテーマパークへ行くようなものだろうに。
それに、おしのさんが俺に好意を持ってくれるのは嬉しいが、俺が好きなのは未来にいる俺のクラスメイトの葉月なのである。
もしかしたら不適切な言い方かもしれないが、おしのさんは江戸時代生まれで俺より二百歳近くも年上なのであり、ちょっと素直には喜べない。
俺が考えあぐねていると、
「
その小さな子供の話に、すずさんが返す。
「ふむ。して小僧、それでおまいさんはどうした?」
「仕方ねぇからおいらが
「
すずさんも
無論、俺は笑える精神状態になかった。悩んでいる俺を見て、
「お願いしやす! どうか姉ちゃんと一緒に祭りに行ってくだせぇ! 姉ちゃんに良い思いをしてもらうだけでいいんでやす!」
小さな男の子に手を合わせてお願いされたので、俺は断りきれずに承諾した。
目を閉じると
結局翌々日の九月二十日、すずさんに午後のお休みと、お小遣いとして四文銭二十五枚、合計百文を貰った。
俺は普段着である紺色の着物を着て、とある橋の
俺の目の前にある稲荷神社は、
待ち合わせ時刻は昼八つ[午後二時ごろ]、もちろん昼飯は既に済ませてある。
ここから
どこからか捨て鐘が、定間隔にゆっくり三つ鳴った。そろそろ待ち人は来るだろうか。
江戸の庶民には、『時間を守る』という感覚があまりないらしい。そもそもからして
商家で働く
遠くから時の鐘が鳴り響き始め、昼八つになったということがわかる。俺は、一人ごちて
「日本人が時間守るようになったのって……けっこう最近だったんだな」
すると、若い女性の声が後から聞こえた。
「
その声に振り返ると、二十一世紀に生まれ育った俺からは小柄に見える、
おしのさんは
俺はせっかくのデートに誘ってくれたおしのさんに、笑顔を返す。
おしのさんは、人気の高い水茶屋の看板娘だけあって、すずさんのように『美人』ではなく『
「ああ、いやいや。俺も今来たところだよ。まだ全然
俺の言葉に、おしのさんがにこやかに返す。
「
――ああ、そうか。『
「あーっと……ここに着てから、まだ
俺の言葉に、おしのさんがますます笑顔になる。
「そうでございますか。それは
俺は、おしのさんに返す。
「あの……おしのさん? いいの? 俺なんかお祭りに誘ってくれて」
「いえいえ。私、
俺と、おしのさんは二人して歩き出す。目的地は芝大神宮だ。
歩きながら色々な話をする。おしのさんは、意外と
その中で、おしのさんが俺に語りかける。
「
「うーん? この季節、焼き魚なら
「やっぱり、
おしのさんが、手を口元に当てて上品に笑う仕草をする。俺の身長174センチメートルに比べて彼女の身長は150センチメートル程度と頭一つ分くらい低いので、
俺は、未来から来た人間であることを悟られる危険性を考慮し、なるべく聞き役に徹した。おしのさんが言いたい事をしっかり聞いて、
実際、おしのさんは話題が豊富だった。
親は
八月に
自分が働いているお茶屋にくる男の人達の
そんなこんなで日常の
芝公園に向かう道だが、当然のことながら東京タワーは見えない。
そんなこんなで群れ成す人並みの中江戸の町を歩いていると、半刻を示す時の鐘が一つだけどこからともなく鳴った。昼八つ半[午後三時ごろ]だ。
俺たちは既にお祭りの人でごった返す、芝大神宮の門前市に来ていた。赤く塗られた東京タワーはないものの、その前身であるかのような朱色の五重の塔が目に入る。
老いも若きも男も女も、子供もお祭りを楽しんでいる。気のせいか、年頃の女性が若干多いような気がした。すると、後ろの方から何十人もの男達が一斉に叫んでいるような祭囃子が聞こえてきた。
「せいや! せいや!」
「そいや! そいや!」
後を振り向くと、威勢の良い
雑踏の中を、純白の
俺は、おしのさんに声をかける。
「おしのさん、お
俺は、おしのさんの手を取って、その辺にいる大勢の人と共に道の端へ行く。
しばらく手を握ったままだったが、横を見るとおしのさんが、少し顔を赤らめた気がしたので、慌てて手を放した。
「せいや! せいや!」
「そいや! そいや!」
男の汗が飛び散る
俺と同じく道の端に避けた町の人達は、男達の
俺は一応、二十一世紀にも
二十一世紀の人達が
お祭りとしての行事に加え、
道脇に避けていた町の人達は、目の中に光を宿しながら
俺は再び、おしのさんに声をかける。
「おしのさん、
「はい。そうでございましたね」
おしのさんが微笑む。
そして、俺たち二人はまた共に歩き出し、芝大神宮の境内に入る。
境内の入口には横断幕が掲げられており、右から左に横文字で『両皇太神宮』と書かれている。
人がかなり多い。どちらを向いても人だらけだ。渋谷の世界一通行人が多いスクランブル交差点くらいの人口密度だ。
境内には、二十一世紀での祭りがそうであるように、様々な屋台があり、多くの
かき氷や、フランクフルト、ポップコーンなどは流石にないが、水あめを練ったお菓子を売る水飴屋や、団子を焼いて売ってくれる焼き団子屋、汁粉売りの屋台などもある。面白いのは、
高下駄を履いて竹でできた輪でジャグリングをしている大道芸師もいるし、板敷きの高台に座ってなんらかの話をダイナミックに述べている
更に、色々な所で
俺は、おしのさんと色々話をしながらお祭りの屋台を見て回る。
最終的におしのさんは、
この『
また、『
境内にあるお茶屋でお茶を飲み、とりとめのない話をし、帰途につく。俺は男の役目として
例えば、芝の神社の近くには今、古い半鐘がないらしい。ちなみに半鐘というのは、火災が起こった時に打ち鳴らす
というのも、十七年前の文化二年に、境内で奉納相撲をしていた力士らと、め組の
一騒動になった原因は、誰かがけたたましく打ち鳴らした半鐘であった。本来は火事の時でないと、半鐘は何度も何度も鳴らされないのだが、エキサイトした誰かが半鐘を打ち鳴らした為に、火事と勘違いした民衆により町がパニックになった。
大混乱の中、血気盛んな男どもの喧嘩は全く収まらず、ついには九十九名もの怪我人を出してしまったそうな。
半鐘が鳴ったのは、みずから鳴った半鐘に責任があるとして、半鐘が罰を受けることになったという。十七年前に混乱の原因を作った半鐘は、哀れにも島流しの刑に処せられ、今は遠く三宅島に鎮座しているという。
おしのさんが生まれる前の年に起こった事件だったので、おしのさんはその半鐘を見たことがないということを、笑いながら伝えられた。
俺は遠い島から帰ってきたその半鐘を、小学生のときに芝大神宮で見たことがあるという事実は、とても言えなかった。
芝神宮を出てから、俺はおしのさんと共に彼女の家のある
「あちらの
見ると、大きな看板は掲げられておらず
俺は、おしのさんに尋ねる。
「えっと、『
「いえ、『
おしのさんは、にこにこと微笑みつつ歩く。
魚屋には当然に、軒先に魚がいくつも並べられている。魚特有の生臭さが鼻をつく。
軒先では、三十代くらいの女性が手を叩いて売り文句を並べていた。
「へいらっしゃい! らっしゃい!
おしのさんを三十代くらいにすればこういう感じになりそうだ、というような綺麗なご婦人さんだった。背丈はおしのさんより少しばかり低い様子であった
その女性は俺たちに気付き、歯を見せて微笑んだ。
「あらあら、おしの、お帰りなさい。その殿方がりょうやさんかい?」
笑顔で見せたその歯には、お
おしのさんが
「お
「あらあら、
俺は応える。
「あ、いえ。
俺が笑顔を返すと、女将さんはにっこりと笑い、持っていた
「亀吉のことありがとね。あたしらができることなんて、魚を
「あ、いえいえ。俺も
「『
おしのさんのお母さんが感心していると、おしのさんが尋ねる。
「ところで、お
「ああ、奥でお客さんと一緒に酒かっ食らってるよ。まだ夕方にもなってないってのにさ」
女将さんは半ば諦め顔で、亭主を憎めない奴だと思っているような面持ちで息を漏らした。
その言葉に、おしのさんが当惑の顔を見せる。
「お客さん? どなた?」
「えっとね、りょうやさんの知り合いとか言っていたね。
――え、まさか。
女将さんに促され、店の奥にある座敷に進む。
障子の開きの
俺は障子の向こうに声をかける。
「おあきちゃん? そこにいるの?」
すると、間髪入れずに幼い女の子、というよりおあきちゃんの声がする。
「いるよー」
聞いた感じだけで、ぶすっとしているのがわかる。
店の奥の座敷を覗くと、そこには確かに亀吉くんとトランプ遊びに興じているおあきちゃんがいた。更に向こうには、大型の
中年男性はおそらく、おしのさんのお父さんの庄三郎さんだろう。すでに酒のアルコールは庄三郎さんの鼻の血管にまわり、その鼻先を赤く染めあげていた。
俺は思わず叫ぶ。
「すずさん! おあきちゃんが、なんでここにいるんですか!?」
すると、おあきちゃんがあからさまに不機嫌そうな声で返してくる。
「りょう兄ぃがいなくなったから、部屋に行ってトランプを借りようとしたの。で、荷の中を探していたら、おしのさんの
人の手紙を勝手に読むのは関心しないが、これは俺が悪いと思ったので、何も言えなかった。
亀吉くんが茶々を入れる。
「
――なんだそりゃ。
トランプを持ったまま微動だにしない、おあきちゃんの視線が
せめてもの救いとして、葉月には見られていなくて良かったと思うしかなかった。
魚をご馳走してもらう段取りとなって、俺は庄三郎さんと一緒に、魚の並べられている店棚を見ていた。すずさんとおあきちゃんは、
低い台の上には、所狭しと
軒先には開いた干し魚やスルメ、
俺は、店の棚の端に置いてある、
「あれ? あれってひょっとしてマグロですか!?」
大きさ100センチメートルほどの、
庄三郎さんが応える。
「ああ、たまたま
「
俺が驚きの声で尋ねると、庄三郎さんは応える。
「一尾が二百文だけどよ、やっぱりもちっと下げねぇと売れねえよ」
「二百文!? 丸々一尾でたった二百文なんですか!?」
二百文といえば、四文銭五十枚だから、俺の時代の物価でおおよそ五千円といったところだ。二十一世紀に、あんな日本近海で獲れた冷凍していない
庄三郎さんが俺に声をかける。
「兄さん?
「ええ、マグロは好きですよ。寿司屋でもいつも食べています」
俺がそう言うと、庄三郎さんは
「じゃあ、
庄三郎さんは、さっきまで酔っていた様子など微塵も見せずに、鮮やかな手つきで
俺は、口を開く。
「その部分、トロですね。美味しそうですね」
その言葉に、庄三郎さんは包丁を持ったまま目をぱちくりさせる。
「兄さん? 『とろ』ってなんだい?」
「あっと……その
すると、庄三郎さんは
「ああ、こりゃ
その事実に俺は驚愕する。
「えっ! その
「なんでぇ!? 兄さんひょっとして
庄三郎さんが豪快に笑う。
俺は懇願して、
おあきちゃんが、
「りょう兄ぃ? その部位って
「ああ、これは食べてみると美味しいんだよ」
俺は、木製のまな板の上に乗っている大トロの切り身を一つつまみ、おあきちゃんが皿の上に持つ
口の中でとろける切り身は脂の匂いを残し、舌の上で雪の結晶のように消えていった。
「美味い! こんな美味い刺身、生まれて初めてかも!」
俺が若干大声で感激すると、おあきちゃんが不思議そうな顔で見てくる。
「
「多分、おあきちゃんも気に入ると思うよ。食べてみてごらん」
俺の言葉に、おあきちゃんも意を決して、まな板から大トロの切り身をひとつ摘み上げて、
そして、おあきちゃんは
「わるく……ないかも」
おあきちゃんの後ろではその様子を、すずさんが呆れ顔で見ていた。
結局、刺身をご馳走になった後は、
俺はすずさんとおあきちゃんと一緒に、
おあきちゃんはすずさんと手を繋いで、反り上がった橋をとことこと歩いている。
すずさんが、俺に語りかける。
「その
「そうですね、冷蔵庫がないですからね。ねぎま鍋にするとか……あれはトロだったっけ? でも、鍋物にすれば結構持ちそうだし……炊き込みご飯とか……シンプルにマグロ丼っていう手も……」
ぴしっ
俺が色々とメニューを考えていると、すずさんが手刀を俺の頭に打ち付けた。
軽く頭を叩かれた俺は、すずさんに真意を尋ねる。
「どうしたんですか? すずさん?」
「まずは、おあきに謝りな」
――ああ、そうだった。
「ごめんね、おあきちゃん。おしのさんとお祭りに行くこと黙ってて」
すると、おあきちゃんは以前のような膨れっ面をするかと思ったが、意外なことに笑顔で俺の顔を見上げた。
「ううん! いいよ! でも、あたしもりょう兄ぃに、お願いしても良い?」
「な、何?」
おあきちゃんが、純真無垢な瞳で俺をじっと見る。
「りょう兄ぃ、あたしもいつか、一緒にお祭りに連れてって!」
おあきちゃんの子供らしい純粋なお願いに、俺はああ、そんなことかと安堵した。
「ああ、いいよ。じゃあ指切りしようか?」
俺は立ち止まり、おあきちゃんに右手の小指を差し出す。
しかしおあきちゃんはどういう意味かわからないようで、きょとんとしている。
「あれ? ひょっとして、指切りの風習がまだないの?」
俺が尋ねると、すずさんが口を開く。
「りょうぞう、それはおそらくね、吉原の遊女が旦那に約束を守ってもらうために小指切り落としたってのが
その言葉におあきちゃんが青ざめて身を反らせるので、俺は少し焦って弁明する。
「いや違うから! 俺の故郷では、小指同士を
その言葉に、おあきちゃんが安心の顔を見せる。
「なあんだ、びっくりした。小指同士を
おあきちゃんが自分の右手の小指を、俺の右手の小指に
俺は目の前の小さな女の子に、故郷の習慣を伝える。
「じゃあ呪文を言うよ」
「呪文?」
おあきちゃんが尋ねるので、俺は返す。
「ああ、指切りの呪文だよ。俺の言ったとおりに言ってみて」
そして俺は大きく息を吸い込み、呪文を唱える。
「ゆーびきりげーんまん、嘘ついたらはりせんぼんのーます。指切った!」
おあきちゃんも、笑顔でこれに続く。
「ゆーびきりげーんまーん、うそついたら針千本飲ーます! 指切った!」
おあきちゃんが、女の子に
遥か遠くから、祭囃子が聞こえるような、晩秋の赤い空を望む夕暮れだった。