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第十二幕 大川でのはぜ釣り



 月が変わって、八月の五日となった。


 わたったあおそらにはうろこ雲が並び、天高てんたか馬肥うまこゆる秋の様相を示していた。


 五日なので手習い所は今日は休みだが、掃除や洗濯などの家事に休みは無い。もう既に、俺がこの江戸時代にやってきてから五十日近くが経過している。


 白衣びゃくえはかま姿の俺は、昼前に雑巾がけが終わった事をすずさんに報告するため、住処すみかの廊下を歩きながら声を出していた。


「すずさーん、どこですかー? 掃除終わりましたよー?」


 徳三郎さんは今日、本殿で来客の対応をしている。


 なんでも徳三郎さんは神職としての仕事の一環として、本所界隈に住む人の悩みを聞いて心のしこりをほぐしてあげたり、商売の上で浮かび上がる問題の解決策を提示したりもしているのだとか。


 心身しんしん平癒へいゆ商売しょうばい繁盛はんじょうの神様である、お稲荷いなり様に仕える神官としての責務だと本人は言っていた。


 御魂みたまあやかししずめたり、冠婚かんこん葬祭そうさいを執り行うだけでなく、二十一世紀でいうところの心理カウンセラーと、経営コンサルタントを兼ねた職業だともいえる。でも、そこまで色々やっているのは、完全に徳三郎さんの性分からくる趣味であるらしい。


 どんな時代であれ、私事しじにも公事こうじにも人の悩みは世に尽きない。そういった悩める人達の心の支えとしての、徳三郎さんのここ本所での信頼は相当なものなのだとか。


 俺は、土間段下に置いてある草履ぞうりき、外に出る。住処すみかにいないのなら、外にいるのかもしれない。


 講堂の前に来たところで、おあきちゃんの声が聞こえてきた。何かを小さい子供なりに懇願こんがんしているような声であった。


「すず姉ぇ、釣りに行きたい。釣りぃ!」

 講堂の中を覗くと、いつものように赤茶あかちゃ色の振袖を着たおあきちゃんが、深紫ふかむらさき色の着物姿のすずさんにすがっていた。


 すずさんは講堂の奥で座りつつ、耳を両手で塞いでいる。


 俺は草履ぞうりを脱いで講堂に上がり、おあきちゃんに声をかける。

「おあきちゃん? どうしたの?」


「あ、りょう兄ぃ。手習い所の子供が大川端おおかわばたにはぜを釣りに行くって聞いて、あたしも行ってみたいってお願いしてたの」


 すずさんは、耳を塞いだまま口を開く。


「あたいは川に釣り糸垂らしたまま何も考えずに、ほうけてただ待っているだけなんざ、苦手なんだよ」


――釣りには向き不向きがあるから仕方ないな。


 すずさんが、俺に向き直り告げる。

「そうだ! りょうぞうが連れて行ってやりなよ! 休みやるからさ!」


「え? 別にいいですけど」

 そう咄嗟とっさに答えると、おあきちゃんは目を輝かせて俺に駆け寄り、白衣を掴む。


「りょう兄ぃ! 一緒に行けるの? やったぁ!」

「ああ、じゃあ一緒に行こうか。でも釣り道具とかはあるんですか?」


 俺がそう尋ねると、すずさんが応える。


「釣り道具は、川べりに行けば貸してくれる所があるよ。ぜにやるから昼餉ひるげ後にでも行ってきな」


 そう言って、すずさんは昼飯の用意に取り掛かろうと立ち上がった。





 俺が暮らしていた二十一世紀の東京で『隅田川すみだがわ』と呼ばれていた川は、江戸では広く『大川おおかわ』と呼ばれている。


 昼飯を稲荷社で済ませた俺は、普段着である紺色こんいろの着物に着替え、おあきちゃんと一緒に稲荷社を出る。


 神社から北東に行き、真っ直ぐ東西に横切る人工運河である小名木おなぎ川に架かる高橋たかばしを南から北へと渡り、西に曲がる。


 しばらく行くと、大川と呼ばれる隅田川の東岸である本所地域と、西岸である江戸下町地域を結ぶ長い長い橋が見えてくる。


 この時代から『新大橋しんおおはし』と呼ばれているらしい、河口付近の幅の広い川をまたいでいる、木製のりあがった橋であった。


 二十一世紀の鉄製の新大橋しんおおはしより、やや下流にあるようだ。


 秋口の小春こはる日和びよりの今日は、当然の事ながら非常に多くの人で賑わっている。


 橋のたもとには、赤い傘の下に長椅子がある屋根つきの店があり、お爺さんとお婆さんがお茶屋を営業していた。


 お茶屋らしい大きな傘の下にある、赤い布のかけられた長椅子の上には、着物を着た女の人たちがお喋りをしながらお団子を食べていたり、刀を二本差した年配のお侍がお茶を飲んだりしているのが見える。


 川と言っても本所の東にある荒川のような河川敷はなくて、河岸は石組みの段差となっており、木でできた桟橋さんばし所処ところどころに突き出ている。そして、川の水運を利用してひっきりなしに舟が行き交い、荷物を積み下ろしている。


 俺とおあきちゃんは、大きくった木造の新大橋をはぐれないように手を繋いで渡る。


 考えてみれば、俺がこの時代に来てから、本所を出て隅田川西岸に向かうのは初めてだった。


――向こう側に見える町は浜町で、そのすぐ向こうは日本橋だろう。


 長さ百間ひゃっけん、つまり約180メートル以上ある新大橋しんおおはしは、二十一世紀の自動車が行き交う鋼鉄製の橋よりずっと幅がせまいが、これまた大勢の人が行き交っている。天秤棒で魚を売り歩く人や、大八車で米俵を運んでいる人もいる。


  おあきちゃんが、隣を歩く俺を見上げて口を開く。

「りょう兄ぃは、釣りはしたことがあるの?」


「えっとね、中学時代……十二から十五までの間には、よく忠弘ただひろたかしと一緒に三人で釣りしてたよ。自転車とかに乗って遠くまで行ってね」


  俺がそう言うと、おあきちゃんが尋ねかけてくる。


「『自転車じてんしゃ』って何?」

「馬みたいに、人を乗せて走ってくれる車とでも思ってくれればいいよ。前後に二つ、車輪しゃりんが縦向きについてるんだ」


「ええぇ? 前後に縦に車輪くるまわなんかついてたら、乗ってもすぐ横に転げちゃうんじゃないの!?」


 おあきちゃんは、驚いたような不思議そうな顔を見せた。


「信じられないかもしれないけど、走り出したら倒れないんだよ。俺の故郷では、子供はみんな乗っているよ」


 俺の言葉に、おあきちゃんは興味深そうに視線を向けてくる。


「そういえばあの時に見た、化け猪みたいなのにも車がついてたね。ひょっとして、あれが未来の駕籠かごなの?」

「まぁそうだね。駕籠かごと違って、相当速く移動できるよ」


 俺を見上げるおあきちゃんの目が、なんだか輝いてる。


――やはり子供は、未来の科学技術などの好奇心を刺激させられるものが好きなんだろうな。


 そんなことを思いつつ対岸である江戸浜町に近づくと、向かって右側の堤には川に沿うように桟橋が並んでいて、その桟橋の上で釣竿を掲げて糸を垂らしている人達が大勢並んでいるのがわかる。あの辺りは、大川端おおかわばたという釣り場なのだという。


 江戸のたみは釣りが大好きであり、この季節はハゼ釣りのシーズンなのだとか。


 新大橋しんおおはしを渡りきると、こちらでも橋のたもとでお茶屋が開かれていた。


 しかし、こちらは客に若い男が多い。どうやら店の主人は、お茶を持ってくるむすめさんとして十代半ばくらいの綺麗処きれいどころそなえているらしい。いわゆる看板娘かんばんむすめを売りにしているような水茶屋みずちゃやだ。


 そのお茶屋にて、山吹やまぶき色の着物を着て、エプロンっぽい前掛け布を腰に縛って垂らしている綺麗な少女が給仕をしているのがわかる。


 すずさんにこの前聞いたところ、ここ江戸の町では『お茶屋の看板娘』というのは花魁おいらん芸妓げいぎのような金のかかる女ではなく、お茶一杯を頼めば気軽に会いに行ける庶民の華としての存在であるらしい。


 店の主人は可愛い娘を雇えば若い男が足繁あししげく通ってくれる。若い男はほんの数十文程度の小銭で器量よしの娘さんとお話ができる。娘さんは娘さんで、お茶屋の娘さんとして美貌びぼうが噂されれば周りにちやほやされるし、良縁にも恵まれる。


 特に評判の良い娘さんは絵師えし錦絵にしきえと呼ばれるカラーイラストを描いたりもしてくれるらしい。浮世絵版画技術で大量に印刷された多色刷りの錦絵にしきえは、一枚二十四文から三十二文程度で江戸の男達の手に渡る。花魁おいらん芸妓げいぎのように夜伽よとぎ芸事げいごとでスレてなく、素朴で無垢なイメージが江戸の男達に受けている理由らしい。


 有名どころの看板娘になると、錦絵にしきえだけではなく、手拭てぬぐいのような日用品や、双六すごろくのようなゲーム用具、木彫りの人形、絵草子えぞうしといった画集のようなものまで出るらしい。更には、定期的に江戸各地のお茶屋の看板娘たちを競わせる、『娘評判記』という番付表まで配られるのだという。


 二十一世紀に、モニターの向こうで歌って踊る集団グループアイドルを心に思い浮かべながら、人間のする事って大して変わらないんだな、というのが俺の率直な感想だった。






 川べりにある釣り道具を貸している店で、竹でできた釣竿つりざお二棹ふたさおと釣り糸、それと釣り針に魚篭びくを借りた。餌としてゴカイも売っていたので、すずさんから貰った小遣いで購入した。


 釣り針は平成のものとはそんなに変わらないので、そんなに難しくなく釣り針に糸をつけることができた。木製の浮きはあるものの、回転式のリールは当然に存在しない。


 子供用の釣竿を持ったおあきちゃんの隣で、桟橋の空いているスペースに胡坐をかいて座り、ゴカイを刺した釣り針を取り付けた釣り糸を垂れる。


 おあきちゃんは膝をそろえて、女の子っぽく少し崩した横座りをしている。願いが叶ったのがそんなに嬉しいのか、にこにこと笑っている。

「りょう兄ぃ、はぜが釣れたら天ぷらにして食べようね」


 おあきちゃんがそんなことを言いつつ振り向いたので、俺もそちらの方を見る。水辺にある天ぷらを提供してくれている屋台には、魚を釣った釣り人が集まっている。


 どうやら、ハゼとかの魚を釣ったそばから天ぷらに調理してくれるサービスがあるらしい。無論、タダじゃないのだろうが。


 俺は、秋口の暖かい小春日和の陽射しの中で、隅田川に向かって釣竿を掲げ糸を降ろす。


 200メートルは離れた向こう岸には、三角形の屋根を乗せた白壁の建物がいくつも並んでいるのが見える。右前方に大きく反りあがった新大橋の下を、10数メートルくらいの大きさの江戸時代らしい輪郭りんかくの和船がいくつも潜り抜け、ある船はせわしなく、ある船は優雅に行き交っている。


 浮きを見たままぼおっとしていると、本当は俺が生まれたのはこの江戸時代で、平成の世の記憶は邯鄲かんたん胡蝶こちょうが見ている夢か何かの如く、俺の夢かなんかだったのかもしれないという悪い考えが浮かんできた。


――違う違う、俺は確かに平成に生まれ育った男子高校生だし、葉月にお守りを貰ったのも夢じゃない。


 俺は気を紛らわそうと、右隣でちょこんと座っているおあきちゃんに話しかける。

「おあきちゃん、釣り楽しい?」


「うん! 楽しい!」

 おあきちゃんがにっこりと笑う。


 俺は、自分が平成時代の東京生まれだという事を確かめたく思い、こんなことを敢えて言う。

「ここからじゃ、東京スカイツリー見えないね。俺の故郷なら、ここからだと見えてたんだけどな」


 その言葉に、おあきちゃんが反応する。

「『東京とうきょうすかいつりい』って何?」


「えっとね、もの凄く高いとうってとこかな? お金払えば上に昇れて町を一望することもできるんだけど」


とうって、浅草寺せんそうじの五重の塔のようなの? どれくらいの高さなの?」


 おあきちゃんが興味津々といった感じで尋ねるので、俺は返す。


「高さは634メートルだよ」

「『めえとる』って何? じょうで言ってくれないとわかんないよ」


――そう言われても、一丈という高さがどれくらいなのか知らない。


 俺は尋ねる。

「おあきちゃん、一丈ってどれくらいの高さなの?」


「家の稲荷社いなりやしろの大鳥居が、ちょうど一丈の高さだよ」


――あの鳥居は、3メートルくらいの高さだったはず。


――と、いうことは634を3で割って……


「二百十一丈余りの高さってことになるかな?」


 俺がそう言うと、おあきちゃんが丸い目を見開いて叫ぶ。


「二百十一丈ぉ!? 嘘だぁ!? 浅草寺せんそうじの塔でも十二丈くらいなのに!」


「いや、本当だよ。将来的には本所の名物になっているから」


 おあきちゃんは、以前にほんの少しだけ触れた未来の光景を思い出し、想像力を逞しくしたのだろうか。つぶらな瞳があからさまに輝く。


「ねぇ! ねぇ! りょう兄ぃの故郷では他にどんなことができるの? たびとかはどうなってるの!?」


「えっと……江戸から大阪おおさかまで旅をするなら一刻いっときで着くかな。新幹線しんかんせんっていう乗り物に乗るんだけど」

大坂おおさかまでたった一刻いっときで!? まさか、空飛んだりもできる!?」


「ああ、飛行機っていう乗り物で飛んだりもできるよ。動かすには訓練や免許が必要だけど、乗るだけだったらお金さえ払えば誰でも乗れるね。雲の上に上がったりもできるよ」


「へぇぇ! まるで神代かみよ天磐船あめのいわふねのお話みたい!」

 おあきちゃんが予想以上にはしゃいでいるので、俺はこれはまずいと思い、前に向き直った。


 すると、釣竿を持った五十過ぎくらいの、茶人のような帽子を被った初老の男性が俺の顔を覗き込んでいるのが反対側の目の端に入った。俺は「うわっ!」と驚いて体を反らす。


 俺が驚いたのを見た初老の男性は、会釈えしゃくをして口を開く。

「おやおや、これは失礼。兄さんも戯作者げさくしゃか?」


――げさくしゃ? 作者さくしゃ……小説家ってことかな?


「あ、いいえ。これは俺が即興で作ったほら話でして……」

 俺は慌てて場を取り繕う。未来から来たなんてことがばれたら大変だ。


「ふむふむ、法螺ほらにしては中々おもしれぇもんだ。もちっと話を聞かせてもらっていいか?」


「あ……えっと……」


 俺が反応に困っていると、茶人帽ちゃじんぼうを被った初老の男性は申し訳ないような顔をした。


「ああ、これは礼を失した。わしは、飯田町いいだまちにて家守やもりなんてくだらねぇことしてる清右衛門せいえもんてものだ。たわむれに戯作げさくなんざ書いているんだけどな。して、兄さんの名を聞いてもいいか?」


「ああ、そうなんですか。俺は亮哉りょうやといいます。深川で神職の見習いをしています」


――と、いうことになっているはずだ。


 初老の男性が俺の言葉に反応する。

「ほう。わしも生まれたのは深川なんだけどな。三十年ほど前に深川を離れたんだがな……いやぁ、懐かしいな」


「引っ越したんですか?」

「いやなに、てえしたことじゃない。ちぃと住んでいた家が洪水こうずいでぶっ壊れちまってな」


――充分に大したことだと思うのだが。


 清右衛門せいえもんさんは気にせず言葉を続ける。

「そちらの可愛らしいお嬢ちゃんは、兄さんの妹さんか?」

「あ、いえ。俺がお世話になっているところの娘さんなんですよ」


 俺の言葉に、おあきちゃんが応える。

「あき、といいます! お姉ぇがいて、お姉ぇは巫女さんで、手習い所のお師匠さんなの!」


 軽快に喋るおあきちゃんの声に、清右衛門せいえもんさんは顔がほころぶ。


「ほう、わしも昔は町の子供達に読み書きを教えていたものでな。履物商はきものしょう後家ごけさんに婿入りしたんだが、わしには商いのさいはなかったようで、怠けてばっかりだったな」


 清右衛門せいえもんさんはからから笑う。そして言葉を続ける。

日毎日毎ひごとひごとに知恵を絞るのもよろしいもんだが、ふとこうして頭をからにして釣りをする日があってもよろしいもんだ。釣り糸というのは引っ張ってばかりではいずれ切れちまうものだ。たまにはてきに緩めた方が、大きな獲物が釣れるってぇものだ」


 よく喋る人だな、と思った俺は相槌を打って返す。

「はあ、そういうものですか」


「おっと、兄さん。浮きが引いておるぞ」

 清右衛門せいえもんさんに言われて、俺は垂らしていた糸に結び付けられた浮きに目をやる。確かに浮きは上下しており、魚に引っ張られているようだった。


 俺は、竹でできた釣竿をしならせ上げる。すると、糸の先には形の良いハゼが一尾ぶら下がっていた。


「やったね! りょう兄ぃ!」

 10センチメートルくらいの大きさのハゼだった。俺は獲れたハゼを、レンタルした魚篭びくに入れる。


 すると、隣でおあきちゃんが、快哉かいさいの声を上げた。

「釣れた! あたしも一尾釣れたよ! りょう兄ぃ!」

 見ると、おあきちゃんの持つ釣竿の先にもハゼが一尾ぶら下がっていた。






 その後も、一時間くらい釣りを続け、俺とおあきちゃんの二人で十尾のハゼを釣り上げた。


 清右衛門さんは俺たちに向き直り、告げる。

「兄さん、兄さんは読本よみほんとかは読むのか?」


「あ、俺は実は江戸の本は読めないんです。今は文字もじを学んでいる途中でして」

 俺がそう伝えると、清右衛門せいえもんさんが明らかに不機嫌そうになる。


「なんだ、字が読めねぇのか……本は読めるに越した事はないものだぞ。仮令たとえ、何を書いているかが判らなくても読み続けることが大切だ。読書どくしょ百遍ひゃっぺん義自ぎおのずからあらわる、だぞ」


 その言葉に、おあきちゃんが反応する。

「三国志の『魏志』で、董遇とうぐう先生が言った言葉!?」

 すると清右衛門せいえもんさんは、打って変わって笑顔を見せる。


「おやおや、こちらのお嬢ちゃんはまだ幼いのに三国志に造詣ぞうけいが深いようだな。三国志が好きなのか?」

「うん! 父さまといつも一緒に読んでるの!」


 なんだか、清右衛門せいえもんさんはおあきちゃんとの間でやりとりをして、俺の立つ瀬がない。


 俺は心の中で思う。


――三国志好きのたかしなら、会話に加われるんだろうな……


 俺の『りょう』という名前の漢字が、三国志に出てくる天才軍師と同じだと教えてくれたのもたかしだった。体は小さく貧弱だったが、俺や忠弘ただひろより段違いに頭が良かったので、俺たちとは違って錦糸町きんしちょう駅近くにある偏差値の高い都立高校に進学した。


 そういえば、中学時代にたかしの家に上がらせてもらった時に、三国志の武将になって敵をばったばったとなぎ倒す無双ゲームをさせてもらったことがある。


――忠弘ただひろは楽しそうにプレイしてたな、弱かったけど。


 あと、三国志の武将を美少女化したキャラクターと仲良くなって恋愛を楽しむ、かなりオタク色の強いゲームも少しだけさせてもらった。あれは流石に引いた。嬉しそうに美少女キャラクターの紹介を行うたかしに、俺も忠弘ただひろもドン引きした。


――あいつ、筋金入りのオタクだからな……部屋のポスターもアニメキャラだけだったし……


「三国志の武将を美少女にするとかは……流石になぁ……」

「ふむ。兄さん、今なんと申された?」


――しまった、声に出していた。


「あ……えっと……俺の友達の話なんですけど……三国志の武将を綺麗な女の子というか、美少女にしたら楽しいとか言ってまして……」


 俺がしどろもどろになると、清右衛門せいえもんさんは顎に手を当てて、何やらぶつぶつ呟き始める。


「……ふむ……武将を女に……ふむ、ふむ……武将になぞらえた傾城けいせいの美女たちが……闘って……」


 何か変なスイッチを入れてしまったのか、清右衛門せいえもんさんは、真剣な目で考えをまとめているようだった。


 清右衛門せいえもんさんはこっちを見て、毅然きぜんとした態度で俺に尋ねかける。

「兄さん、その案だけどよ、わしの戯作げさくで書きてぇから貰っていいか?」


「え? えっと……どうでしょうか……そもそも俺の案じゃないですし……」


「三国志をそのまま使うことなんてしねぇ。わしの好きな水滸伝すいこでんで、女になった英傑が闘う戯作げさくを書いてみてぇんだ。頼むよ」


 清右衛門さんが、片手を立て懇願する。俺は反応に困ったが、無名のお爺さんが趣味で書いているようなものであれば特に有名にもならないだろうし、後世に与える影響も少ないだろうと思って、「ええ、はい」と頷いて承諾する。


「そうか! 有り難てぇ! 是非とも傑作にしてみせるからよ!」

 清右衛門せいえもんさんが、明らかに上機嫌になる。


 そこで、時を告げる鐘が鳴り響いてきた。昼八つ、つまり午後二時くらいだ。


 おあきちゃんが、俺に告げる。


「そろそろ、天ぷらにして食べない?」

「ああ、そうだね。じゃあそうしようか」


 俺は応え、魚篭びくを持って屋台に向かう。銭を払ったら釣れたての魚を天ぷらにしてくれる場所があり、俺とおあきちゃんは置いてある縁台に座り、天ぷらの味を楽しんだ。


 妖狐の好物といえば油揚げと相場が決まっているが、おあきちゃんもまた妖狐の名に相応ふさわしく、わりと油っぽい食べ物が好きらしい。


 天ぷらを食べながら、川のほうを見ると、のどかな陽射しの中で多くの人が釣りをしている。


 ある老人は瓢箪ひょうたんで酒を呑みながら釣りを楽しんでいる。


 並んで釣り糸を垂れている子供のグループもいる。桟橋には小袖姿に二本の刀を差した若い武士のような人も、町の若い男も、女性もいる。


 江戸の人達にとって釣りというのは、良い暇つぶしであり、上手くいけば晩のおかずも獲ることができる、趣味と実益を兼ねた一般的なレジャーなのである。また、大物が獲れれば料理屋に売ることで小遣い稼ぎまでできるのだという。


 おやつとしてハゼの天ぷらを食べたおあきちゃんが満足そうなので、俺はおあきちゃんに尋ねる。

「満足した?」

「うん! 連れて来てくれて有り難う!」


 おあきちゃんが微笑むので、俺も笑顔を返す。


 その瞬間だった。


 ざぶん! という音が川の方から聞こえてきた。


 大勢の人が騒ぐ。俺が川のほうを見ると、小学生くらいの齢に見える男の子が一人、川に落ちたらしいことがわかった。男の子が水の中で溺れてもがいている。


「てぇへんだ! 子供が落ちたぞぉ!」

「助けろ助けろ!」

「誰か飛び込め!」


 大勢の人が騒ぐ。人達が大勢集まり始める。すると、釣りをしていた二十代半ばくらいの精悍せいかんな顔つきの武士が刀を川べりに置き、草履を脱ぎ、小袖の着衣のままでざぶんと飛び込んだ。


「お侍が飛び込んだぞ!」

小僧こぞう! れ!」


 川べりの衆の歓声を受け、侍は立ち泳ぎをしつつ溺れている子供に近づく。しかし、侍が子供の手を正面から握った瞬間だった。


 子供は侍を引っ張り込み、水の中に引きずり込んでしまった。いくら子供でも、溺れている最中に正面から助けようとすれば引きずり込まれる。ライフセービングの基礎知識だが、この時代の侍が知るはずもない。


 子供は水中に潜り水を飲んでしまっているようで、侍はなんとか顔だけを出している。侍も焦っているのがよくわかる。


――まずい、このままじゃ二人とも溺れる。こういうときは、空気の入ったペットボトルなんかを浮きにするといいんだ。ペットボトル、そこらへんにペットボトルは落ちていないか――


――江戸時代にある訳がない。


 そこで俺は、さっきの瓢箪ひょうたんを持っていたお爺さんに駆け寄った。


「その瓢箪ひょうたん貸して下さい!」

 半ば強引に瓢箪ひょうたんをひったくった俺は、中の酒を全部出し、木でできた栓を閉めた。


 そして、瓢箪ひょうたんをぽいっと侍の近くの水面みなもに投げて、叫ぶ。

「その瓢箪ひょうたんを浮きにしてください!」


 俺の大声に、侍は得心がいったように浮いている瓢箪ひょうたんを掴む。ほんの小さなペットボトルの浮力でも、溺れている人を浮かせるには多大なる助けになる。それはあの瓢箪ひょうたんでも同じはずだ。


 瓢箪ひょうたんで浮力を確保したお侍は、片手で子供を掴み、川べりにと戻ってきた。そして、桟橋に上がる。


 俺も、侍の所へ向かう。深緑ふかみどり色の着物を着た子供を脇に置いたずぶ濡れの侍は、俺に向かい口を開く。

瓢箪ひょうたんを投げ入れたのはそなたか。かたじけない」


「あ、いえいえ。それより子供はどうですか!?」


 子供はぐったりと寝転んでいる。お侍が胸に耳を当てるが、無言で首を振る。心臓が止まっているということだろうか。おあきちゃんは命がない者や、気を失った状態は治せないのに。


 すると、うしろの方から少女の声が聞こえた。

亀吉かめきち! 亀吉かめきち! 私は亀吉かめきちの姉でございます! お通し下さい!」


 俺と年齢が近そうな十五か十六くらい、身長150センチメートルほどのそのむすめさんは、さっきの水茶屋にいた看板娘の綺麗な少女であった。亀吉かめきちと呼ばれた男の子に駆け寄った、その山吹色やまぶきいろの着物を着たむすめさんは、ずぶ濡れで呼吸が止まった弟の前で膝をつく。


「いやぁぁぁ! 亀吉かめきちぃ!」

 その嘆きに、お侍が応える。

「申し訳ござらぬ。拙者も助けられなくて無念だ」


 しかし、俺はまだ諦めなかった。呼吸が止まって、心臓が止まっていても、溺れてすぐなら助けられる可能性はある。俺は、仰向けに寝転ぶ亀吉かめきちくんの胸にある胸骨をリズムよく両手で圧迫する。


 六秒に十回のペースで、リズム良く心臓を圧迫する。そしてそれを三セット、合計三十回圧迫する。隣にいる亀吉かめきちくんのお姉さんやお侍は、俺が何をしているのかわからず、呆然と見ている。


 三十回心臓マッサージをしたところで、鼻をつまみ、顎をあげて気道を確保し、息を二回吹き込む。


「おい、あの兄ちゃんなにやってんだ?」

「子供に口から息を吹き込んでやがる。なんかのまじないかぁ!?」


 周囲の人のいぶかしげなささやき声が聞こえるも、気にしない。人命救出が最優先だ。


 俺は再び心臓マッサージを三十回行い、二回息を吹き込む。すると、亀吉かめきちくんがいきなりき込んだ。


「ごほっ! がぼっ!」


 き込んで、口から大量の水が出る。何とか蘇生に成功したようだ。間に合ってよかった。


 周りから歓声があがる。


「おい! あの兄ちゃん、子供を生き返らせたぜ!」

「すげぇ! ただもんじゃねぇぜあの兄ちゃん!」

仙術せんじゅつって奴か!? 修験者しゅげんじゃにちげぇねぇぜ!!」


 周りが騒がしくなったので、俺はまずいと思った。


「あ、じゃあ俺はこれで……」

 去ろうとすると、侍に呼び止められた。

「待ちたまえ、心の臓は確かに止まっていた。それをまた動かすとは、そなたは何者だ?」


「あ、いえ、単なる応急おうきゅう措置そちわざです。お気になさらずに」


 俺はそそくさと人ごみを掻き分け、おあきちゃんと合流すると、釣り道具を急いで返して稲荷社いなりやしろへと早々そうそうと逃げ帰った。






 翌日、八月六日の夕方のことであった。俺が稲荷社の住処の座敷にて畳箒たたみぼうきで畳の上のほこりを掃いていると、深紫色の着物を着たすずさんが紙切れを持って入ってきた。


 すずさんは、何やらにやにやしている。


「おい、りょうぞう。おまいさんの事が読売よみうりに載っているよ」


 俺は、チラシのような紙切れを受け取る。それは、この時代には読売よみうりと呼ばれていて江戸の町に起こった出来事を面白おかしく取り上げるゴシップ紙、いわゆる瓦版かわらばんであった。


 紙切れには草書体の文字が並び、寝転んでいる男の子に息を吹きかけている、天狗の姿が描かれた絵があった。しかし、何を書いているかは達筆すぎて判らない。


「これ、何て書いてるんですか?」

 俺の問いに、すずさんが答える。

「『大川端おおかわばた修験者しゅうげんじゃあらわる。反魂はんごんじゅつもちいておぼれた男児だんじかえらす』って書いてあるね」


――いつの間にそんな話に。


「誤解もいいところですよ、単なる人工じんこう呼吸こきゅうなのに」

「いくら未来じゃありふれたすべでもさ、江戸の者にとっちゃあれっきとした仙術せんじゅつだよ。しばらくは、昼間に向こう岸には行けないねぇ」


 すずさんはすこぶる楽しそうだ。


 すると、外の方から聞き覚えのある若い女の人の声がした。


「御免下さーい! 御免下さーい!」


 すずさんは「はいよー!」と返事をし、俺と共に住処から講堂に裏から入り、表に出る。


 そこには、昨日助けた深緑色の着物を着た亀吉かめきちくんと、そのお姉さんである山吹やまぶき色の着物を着たお茶屋の看板娘さんがいた。お姉さんは、手に四角く細長い紙包みを持っている。


「あっ! 良かった! ここで合ってたのでございますね! お礼をしに参らせていただきました!」


 俺と同じくらいの十五、六ほどの年齢の娘さんが喜んだ表情を見せるので、俺は応える。

「ああ、昨日の……でも、何でここがわかったの?」


「あの後、釣りをしている方々に尋ねまわったのでございます。そしたら折り良く住む町と名前を知っているお方が、お一人おりまして」


――ああ、清右衛門せいえもんさんか。


 娘さんは言葉を続ける。

「あ、でもご安心ください。亮哉りょうやさんが反魂はんごんじゅつを使える事はどなたにももうしませんので。この私、しの、が弟の亀吉かめきちと共に深くお礼を申し上げます」


「お兄さん、命を助けてくれて有り難うございやした」


 おしのさんと、九歳くらいの男の子である亀吉かめきちくんが深々と頭を下げた。


 俺は返す。

「あ、いえ、あれは仙術じゃなくて……えっと……医術に近いかな?」


「という事は、亮哉りょうやさんはお医者様なのでございますか?」

 おしのさんが尋ねるので、俺は返答に詰まる。


 すると、すずさんが助け舟を出してくれる。

「りょうぞうはさ、長崎に来た西洋人と芸妓げいぎの間にできた子なんだよ。だから、西洋の医術に少々詳しいだけさ。もちろん仙術とかでもないよ」


 その言葉に、おしのさんは納得をしたようで、もう一度深々とお辞儀をして紙包みを渡してくれた。そして、夕日沈む町を弟と二人で帰っていった。


 頂いたお礼の品は、紙包みに書かれた崩し文字によると、どこかの店の羊羹ようかんであるとのことだった。甘いもの好きの徳三郎さんとおあきちゃんが喜びそうだ。


 すずさんが俺に向き直り口角を上げて、にたりと笑いつつこんなことを言う。

「りょうぞう、はぜを釣るつもりが大物を釣っちまったようだねぇ」


「まあ、ハゼにくらべたら羊羹ようかんは随分と大物ですかね」


 俺がそう返すと、すずさんはからりと笑う。


「馬鹿だねぇ。羊羹ようかんなんていう、たなで売っている値の付けられるもんじゃないよ」


 俺は、すずさんが何を言っているかよくわからなかった。だけどまあいいかと思い、おあきちゃんに、羊羹ようかんを貰った事を伝えようと住処すみかに戻った。



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