月が変わって、八月の五日となった。
五日なので手習い所は今日は休みだが、掃除や洗濯などの家事に休みは無い。もう既に、俺がこの江戸時代にやってきてから五十日近くが経過している。
「すずさーん、どこですかー? 掃除終わりましたよー?」
徳三郎さんは今日、本殿で来客の対応をしている。
なんでも徳三郎さんは神職としての仕事の一環として、本所界隈に住む人の悩みを聞いて心の
どんな時代であれ、
俺は、土間段下に置いてある
講堂の前に来たところで、おあきちゃんの声が聞こえてきた。何かを小さい子供なりに
「すず姉ぇ、釣りに行きたい。釣りぃ!」
講堂の中を覗くと、いつものように
すずさんは講堂の奥で座りつつ、耳を両手で塞いでいる。
俺は
「おあきちゃん? どうしたの?」
「あ、りょう兄ぃ。手習い所の子供が
すずさんは、耳を塞いだまま口を開く。
「あたいは川に釣り糸垂らしたまま何も考えずに、
――釣りには向き不向きがあるから仕方ないな。
すずさんが、俺に向き直り告げる。
「そうだ! りょうぞうが連れて行ってやりなよ! 休みやるからさ!」
「え? 別にいいですけど」
そう
「りょう兄ぃ! 一緒に行けるの? やったぁ!」
「ああ、じゃあ一緒に行こうか。でも釣り道具とかはあるんですか?」
俺がそう尋ねると、すずさんが応える。
「釣り道具は、川べりに行けば貸してくれる所があるよ。
そう言って、すずさんは昼飯の用意に取り掛かろうと立ち上がった。
俺が暮らしていた二十一世紀の東京で『
昼飯を稲荷社で済ませた俺は、普段着である
神社から北東に行き、真っ直ぐ東西に横切る人工運河である
しばらく行くと、大川と呼ばれる隅田川の東岸である本所地域と、西岸である江戸下町地域を結ぶ長い長い橋が見えてくる。
この時代から『
二十一世紀の鉄製の
秋口の
橋の
お茶屋らしい大きな傘の下にある、赤い布のかけられた長椅子の上には、着物を着た女の人たちがお喋りをしながらお団子を食べていたり、刀を二本差した年配のお侍がお茶を飲んだりしているのが見える。
川と言っても本所の東にある荒川のような河川敷はなくて、河岸は石組みの段差となっており、木でできた
俺とおあきちゃんは、大きく
考えてみれば、俺がこの時代に来てから、本所を出て隅田川西岸に向かうのは初めてだった。
――向こう側に見える町は浜町で、そのすぐ向こうは日本橋だろう。
長さ
おあきちゃんが、隣を歩く俺を見上げて口を開く。
「りょう兄ぃは、釣りはしたことがあるの?」
「えっとね、中学時代……十二から十五までの間には、よく
俺がそう言うと、おあきちゃんが尋ねかけてくる。
「『
「馬みたいに、人を乗せて走ってくれる車とでも思ってくれればいいよ。前後に二つ、
「ええぇ? 前後に縦に
おあきちゃんは、驚いたような不思議そうな顔を見せた。
「信じられないかもしれないけど、走り出したら倒れないんだよ。俺の故郷では、子供はみんな乗っているよ」
俺の言葉に、おあきちゃんは興味深そうに視線を向けてくる。
「そういえばあの時に見た、化け猪みたいなのにも車がついてたね。ひょっとして、あれが未来の
「まぁそうだね。
俺を見上げるおあきちゃんの目が、なんだか輝いてる。
――やはり子供は、未来の科学技術などの好奇心を刺激させられるものが好きなんだろうな。
そんなことを思いつつ対岸である江戸浜町に近づくと、向かって右側の堤には川に沿うように桟橋が並んでいて、その桟橋の上で釣竿を掲げて糸を垂らしている人達が大勢並んでいるのがわかる。あの辺りは、
江戸の
しかし、こちらは客に若い男が多い。どうやら店の主人は、お茶を持ってくる
そのお茶屋にて、
すずさんにこの前聞いたところ、ここ江戸の町では『お茶屋の看板娘』というのは
店の主人は可愛い娘を雇えば若い男が
特に評判の良い娘さんは
有名どころの看板娘になると、
二十一世紀に、モニターの向こうで歌って踊る
川べりにある釣り道具を貸している店で、竹でできた
釣り針は平成のものとはそんなに変わらないので、そんなに難しくなく釣り針に糸をつけることができた。木製の浮きはあるものの、回転式のリールは当然に存在しない。
子供用の釣竿を持ったおあきちゃんの隣で、桟橋の空いているスペースに胡坐をかいて座り、ゴカイを刺した釣り針を取り付けた釣り糸を垂れる。
おあきちゃんは膝をそろえて、女の子っぽく少し崩した横座りをしている。願いが叶ったのがそんなに嬉しいのか、にこにこと笑っている。
「りょう兄ぃ、はぜが釣れたら天ぷらにして食べようね」
おあきちゃんがそんなことを言いつつ振り向いたので、俺もそちらの方を見る。水辺にある天ぷらを提供してくれている屋台には、魚を釣った釣り人が集まっている。
どうやら、ハゼとかの魚を釣った
俺は、秋口の暖かい小春日和の陽射しの中で、隅田川に向かって釣竿を掲げ糸を降ろす。
200メートルは離れた向こう岸には、三角形の屋根を乗せた白壁の建物がいくつも並んでいるのが見える。右前方に大きく反りあがった新大橋の下を、10数メートルくらいの大きさの江戸時代らしい
浮きを見たままぼおっとしていると、本当は俺が生まれたのはこの江戸時代で、平成の世の記憶は
――違う違う、俺は確かに平成に生まれ育った男子高校生だし、葉月にお守りを貰ったのも夢じゃない。
俺は気を紛らわそうと、右隣でちょこんと座っているおあきちゃんに話しかける。
「おあきちゃん、釣り楽しい?」
「うん! 楽しい!」
おあきちゃんがにっこりと笑う。
俺は、自分が平成時代の東京生まれだという事を確かめたく思い、こんなことを敢えて言う。
「ここからじゃ、東京スカイツリー見えないね。俺の故郷なら、ここからだと見えてたんだけどな」
その言葉に、おあきちゃんが反応する。
「『
「えっとね、もの凄く高い
「
おあきちゃんが興味津々といった感じで尋ねるので、俺は返す。
「高さは634メートルだよ」
「『めえとる』って何?
――そう言われても、一丈という高さがどれくらいなのか知らない。
俺は尋ねる。
「おあきちゃん、一丈ってどれくらいの高さなの?」
「家の
――あの鳥居は、3メートルくらいの高さだったはず。
――と、いうことは634を3で割って……
「二百十一丈余りの高さってことになるかな?」
俺がそう言うと、おあきちゃんが丸い目を見開いて叫ぶ。
「二百十一丈ぉ!? 嘘だぁ!?
「いや、本当だよ。将来的には本所の名物になっているから」
おあきちゃんは、以前にほんの少しだけ触れた未来の光景を思い出し、想像力を逞しくしたのだろうか。
「ねぇ! ねぇ! りょう兄ぃの故郷では他にどんなことができるの?
「えっと……江戸から
「
「ああ、飛行機っていう乗り物で飛んだりもできるよ。動かすには訓練や免許が必要だけど、乗るだけだったらお金さえ払えば誰でも乗れるね。雲の上に上がったりもできるよ」
「へぇぇ! まるで
おあきちゃんが予想以上にはしゃいでいるので、俺はこれはまずいと思い、前に向き直った。
すると、釣竿を持った五十過ぎくらいの、茶人のような帽子を被った初老の男性が俺の顔を覗き込んでいるのが反対側の目の端に入った。俺は「うわっ!」と驚いて体を反らす。
俺が驚いたのを見た初老の男性は、
「おやおや、これは失礼。兄さんも
――げさくしゃ?
「あ、いいえ。これは俺が即興で作ったほら話でして……」
俺は慌てて場を取り繕う。未来から来たなんてことがばれたら大変だ。
「ふむふむ、
「あ……えっと……」
俺が反応に困っていると、
「ああ、これは礼を失した。わしは、
「ああ、そうなんですか。俺は
――と、いうことになっているはずだ。
初老の男性が俺の言葉に反応する。
「ほう。わしも生まれたのは深川なんだけどな。三十年ほど前に深川を離れたんだがな……いやぁ、懐かしいな」
「引っ越したんですか?」
「いやなに、
――充分に大したことだと思うのだが。
「そちらの可愛らしいお嬢ちゃんは、兄さんの妹さんか?」
「あ、いえ。俺がお世話になっているところの娘さんなんですよ」
俺の言葉に、おあきちゃんが応える。
「あき、といいます! お姉ぇがいて、お姉ぇは巫女さんで、手習い所のお師匠さんなの!」
軽快に喋るおあきちゃんの声に、
「ほう、わしも昔は町の子供達に読み書きを教えていたものでな。
「
よく喋る人だな、と思った俺は相槌を打って返す。
「はあ、そういうものですか」
「おっと、兄さん。浮きが引いておるぞ」
俺は、竹でできた釣竿をしならせ上げる。すると、糸の先には形の良いハゼが一尾ぶら下がっていた。
「やったね! りょう兄ぃ!」
10センチメートルくらいの大きさのハゼだった。俺は獲れたハゼを、レンタルした
すると、隣でおあきちゃんが、
「釣れた! あたしも一尾釣れたよ! りょう兄ぃ!」
見ると、おあきちゃんの持つ釣竿の先にもハゼが一尾ぶら下がっていた。
その後も、一時間くらい釣りを続け、俺とおあきちゃんの二人で十尾のハゼを釣り上げた。
清右衛門さんは俺たちに向き直り、告げる。
「兄さん、兄さんは
「あ、俺は実は江戸の本は読めないんです。今は
俺がそう伝えると、
「なんだ、字が読めねぇのか……本は読めるに越した事はないものだぞ。
その言葉に、おあきちゃんが反応する。
「三国志の『魏志』で、
すると
「おやおや、こちらのお嬢ちゃんはまだ幼いのに三国志に
「うん! 父さまといつも一緒に読んでるの!」
なんだか、
俺は心の中で思う。
――三国志好きの
俺の『
そういえば、中学時代に
――
あと、三国志の武将を美少女化したキャラクターと仲良くなって恋愛を楽しむ、かなりオタク色の強いゲームも少しだけさせてもらった。あれは流石に引いた。嬉しそうに美少女キャラクターの紹介を行う
――あいつ、筋金入りのオタクだからな……部屋のポスターもアニメキャラだけだったし……
「三国志の武将を美少女にするとかは……流石になぁ……」
「ふむ。兄さん、今なんと申された?」
――しまった、声に出していた。
「あ……えっと……俺の友達の話なんですけど……三国志の武将を綺麗な女の子というか、美少女にしたら楽しいとか言ってまして……」
俺がしどろもどろになると、
「……ふむ……武将を女に……ふむ、ふむ……武将になぞらえた
何か変なスイッチを入れてしまったのか、
「兄さん、その案だけどよ、わしの
「え? えっと……どうでしょうか……そもそも俺の案じゃないですし……」
「三国志をそのまま使うことなんてしねぇ。わしの好きな
清右衛門さんが、片手を立て懇願する。俺は反応に困ったが、無名のお爺さんが趣味で書いているようなものであれば特に有名にもならないだろうし、後世に与える影響も少ないだろうと思って、「ええ、はい」と頷いて承諾する。
「そうか! 有り難てぇ! 是非とも傑作にしてみせるからよ!」
そこで、時を告げる鐘が鳴り響いてきた。昼八つ、つまり午後二時くらいだ。
おあきちゃんが、俺に告げる。
「そろそろ、天ぷらにして食べない?」
「ああ、そうだね。じゃあそうしようか」
俺は応え、
妖狐の好物といえば油揚げと相場が決まっているが、おあきちゃんもまた妖狐の名に
天ぷらを食べながら、川のほうを見ると、のどかな陽射しの中で多くの人が釣りをしている。
ある老人は
並んで釣り糸を垂れている子供のグループもいる。桟橋には小袖姿に二本の刀を差した若い武士のような人も、町の若い男も、女性もいる。
江戸の人達にとって釣りというのは、良い暇つぶしであり、上手くいけば晩のおかずも獲ることができる、趣味と実益を兼ねた一般的なレジャーなのである。また、大物が獲れれば料理屋に売ることで小遣い稼ぎまでできるのだという。
おやつとしてハゼの天ぷらを食べたおあきちゃんが満足そうなので、俺はおあきちゃんに尋ねる。
「満足した?」
「うん! 連れて来てくれて有り難う!」
おあきちゃんが微笑むので、俺も笑顔を返す。
その瞬間だった。
ざぶん! という音が川の方から聞こえてきた。
大勢の人が騒ぐ。俺が川のほうを見ると、小学生くらいの齢に見える男の子が一人、川に落ちたらしいことがわかった。男の子が水の中で溺れてもがいている。
「てぇへんだ! 子供が落ちたぞぉ!」
「助けろ助けろ!」
「誰か飛び込め!」
大勢の人が騒ぐ。人達が大勢集まり始める。すると、釣りをしていた二十代半ばくらいの
「お侍が飛び込んだぞ!」
「
川べりの衆の歓声を受け、侍は立ち泳ぎをしつつ溺れている子供に近づく。しかし、侍が子供の手を正面から握った瞬間だった。
子供は侍を引っ張り込み、水の中に引きずり込んでしまった。いくら子供でも、溺れている最中に正面から助けようとすれば引きずり込まれる。ライフセービングの基礎知識だが、この時代の侍が知るはずもない。
子供は水中に潜り水を飲んでしまっているようで、侍はなんとか顔だけを出している。侍も焦っているのがよくわかる。
――まずい、このままじゃ二人とも溺れる。こういうときは、空気の入ったペットボトルなんかを浮きにするといいんだ。ペットボトル、そこらへんにペットボトルは落ちていないか――
――江戸時代にある訳がない。
そこで俺は、さっきの
「その
半ば強引に
そして、
「その
俺の大声に、侍は得心がいったように浮いている
俺も、侍の所へ向かう。
「
「あ、いえいえ。それより子供はどうですか!?」
子供はぐったりと寝転んでいる。お侍が胸に耳を当てるが、無言で首を振る。心臓が止まっているということだろうか。おあきちゃんは命がない者や、気を失った状態は治せないのに。
すると、
「
俺と年齢が近そうな十五か十六くらい、身長150センチメートルほどのその
「いやぁぁぁ!
その嘆きに、お侍が応える。
「申し訳ござらぬ。拙者も助けられなくて無念だ」
しかし、俺はまだ諦めなかった。呼吸が止まって、心臓が止まっていても、溺れてすぐなら助けられる可能性はある。俺は、仰向けに寝転ぶ
六秒に十回のペースで、リズム良く心臓を圧迫する。そしてそれを三セット、合計三十回圧迫する。隣にいる
三十回心臓マッサージをしたところで、鼻をつまみ、顎をあげて気道を確保し、息を二回吹き込む。
「おい、あの兄ちゃんなにやってんだ?」
「子供に口から息を吹き込んでやがる。なんかの
周囲の人の
俺は再び心臓マッサージを三十回行い、二回息を吹き込む。すると、
「ごほっ! がぼっ!」
周りから歓声があがる。
「おい! あの兄ちゃん、子供を生き返らせたぜ!」
「すげぇ! ただもんじゃねぇぜあの兄ちゃん!」
「
周りが騒がしくなったので、俺はまずいと思った。
「あ、じゃあ俺はこれで……」
去ろうとすると、侍に呼び止められた。
「待ちたまえ、心の臓は確かに止まっていた。それをまた動かすとは、そなたは何者だ?」
「あ、いえ、単なる
俺はそそくさと人ごみを掻き分け、おあきちゃんと合流すると、釣り道具を急いで返して
翌日、八月六日の夕方のことであった。俺が稲荷社の住処の座敷にて
すずさんは、何やらにやにやしている。
「おい、りょうぞう。おまいさんの事が
俺は、チラシのような紙切れを受け取る。それは、この時代には
紙切れには草書体の文字が並び、寝転んでいる男の子に息を吹きかけている、天狗の姿が描かれた絵があった。しかし、何を書いているかは達筆すぎて判らない。
「これ、何て書いてるんですか?」
俺の問いに、すずさんが答える。
「『
――いつの間にそんな話に。
「誤解もいいところですよ、単なる
「いくら未来じゃありふれた
すずさんはすこぶる楽しそうだ。
すると、外の方から聞き覚えのある若い女の人の声がした。
「御免下さーい! 御免下さーい!」
すずさんは「はいよー!」と返事をし、俺と共に住処から講堂に裏から入り、表に出る。
そこには、昨日助けた深緑色の着物を着た
「あっ! 良かった! ここで合ってたのでございますね! お礼をしに参らせていただきました!」
俺と同じくらいの十五、六ほどの年齢の娘さんが喜んだ表情を見せるので、俺は応える。
「ああ、昨日の……でも、何でここがわかったの?」
「あの後、釣りをしている方々に尋ねまわったのでございます。そしたら折り良く住む町と名前を知っているお方が、お一人おりまして」
――ああ、
娘さんは言葉を続ける。
「あ、でもご安心ください。
「お兄さん、命を助けてくれて有り難うございやした」
おしのさんと、九歳くらいの男の子である
俺は返す。
「あ、いえ、あれは仙術じゃなくて……えっと……医術に近いかな?」
「という事は、
おしのさんが尋ねるので、俺は返答に詰まる。
すると、すずさんが助け舟を出してくれる。
「りょうぞうはさ、長崎に来た西洋人と
その言葉に、おしのさんは納得をしたようで、もう一度深々とお辞儀をして紙包みを渡してくれた。そして、夕日沈む町を弟と二人で帰っていった。
頂いたお礼の品は、紙包みに書かれた崩し文字によると、どこかの店の
すずさんが俺に向き直り口角を上げて、にたりと笑いつつこんなことを言う。
「りょうぞう、
「まあ、ハゼに
俺がそう返すと、すずさんはからりと笑う。
「馬鹿だねぇ。
俺は、すずさんが何を言っているかよくわからなかった。だけどまあいいかと思い、おあきちゃんに、