目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
第十一幕 深夜での迷子探し



 段々と、夏が去っていく涼しさを肌で実感し始めてきた、七月の二十六日の事だった。


 すずさんが、面白いものを見せてやるからと、俺に声をかけてきた。


 聞いた話では、江戸の人達は七月の二十六日からの深夜に昇る月を、を通して見物するのだという。海から昇ってくる細い月を、竜灯りゅうとうという竜神りゅうじん神仏しんぶつに捧げる灯火ともしびに見立てて経を読むのだとか。


 俺が「江戸の人達って信心深いんですね」と言ったら、すずさんに「なぁに、神仏にかこつけて馬鹿ばかさわぎしたいだけさ」と返された。どうやら、日本人のメンタリティというのは昔から変わらないものらしい。


 とはいえ、すずさんが誘ってくれたわけは、俺が早く未来に帰れるよう縁起えんぎかついでの事らしいので、無下むげにするわけにもいかない。おあきちゃんと同様に、すずさんも責任を感じているのかもしれないからだ。


 というわけで、その日は早めに夕餉ゆうげを食べ、早めに床に着いた。



 ◇



 俺は、俺がいたはずの平成の世の夢を見ていた。


 入学式当日の教室。中学時代からの親友である忠弘と同じクラスになって安堵している俺の所へ、肩で髪を切りそろえた丸っこい目の女の子が近寄ってきた。彼女は自分の事を、永谷ながたに葉月はづきと名乗った。


 何故女子集団の方へ行かなかったか聞いたところ、彼女は一身上の都合で中学校に通っていなかったらしく、同じ中学を卒業した同士の女子の仲間グループに入り辛かったらしい。


 そこで、数日後行われたクラス親睦カラオケ大会で俺と忠弘が色々手伝い、無事葉月は女子グループに入ることになった。バレー部の友達に誘われ、数日後にバレー部のマネージャーになった事を笑顔で告げられた。


 葉月の笑顔は、あのとき俺は忠弘に向けられたのだと思っていた。


 でも、もしそうじゃなかったとしたら。


 俺は、何のためにこの時代に迷い込んだんだ。


 何故か、何故か。


 俺の心の中のわだかまりは、隠れていただけだった事を思い出す。


 遠くから声が聞こえた。



 ◇



「……りょうぞう、りょうぞう」

 すずさんの呼びかけに、俺は目を覚ます。


「りょうぞう、真夜まよ九つ[深夜零時]さ。出かけるよ」

 暗がりの中、深紫ふかむらさき色の着物を着て布団そばに立っているすずさんのかたわらには、狐火が浮かんで部屋をほのかに照らしていた。


「ああ、はい。今着替えます」

「おあきと父さまは寝ているからね、静かにしなよ」


 その妖術で、宙に浮かばせた狐火を行灯あんどんに移してくれてからすずさんは部屋を出る。俺は、ほの暗い客間にてこん色の着物に着替え、行灯あんどんの火を吹き消してから、音を立てないようにゆっくりと部屋を出た。




 深い闇が広がり、所々の街角まちかど行燈あんどんの光がともった深夜の深川の町を、提灯ちょうちんを持ったすずさんと俺とで歩いていた。


 妖怪退治ではない目的で深夜に出歩くのは初めてだったので、所処ところどころの道に構えてある、町木戸まちきどの潜り戸を通るのも初めてだった。


 町木戸の近くには小屋があり、そこでは木戸番きどばんと呼ばれる男が管理をしている。しかも、ただ管理をしているだけではなく、深夜に小腹が空いた人の為に焼き芋なんかを売ったりもしているとのことらしい。すずさんによると、そろそろ秋の色が濃くなるので、焼き芋は人気商品なのだとか。


 俺とすずさんは、南の方角に歩く。


 海に近づくにつれ道行く人が多くなり、洲崎すざきの海岸に着いた頃には、本当に深夜かと思えるほどの賑わいであった。


 電気を使ったライトは無いものの、提灯ちょうちんがそこらじゅうにぶら下がり、夜道を明るく照らしていた。海岸と町とは運河で区切られており、運河に面する二階建ての料理屋では大勢の若者が酒杯を手に唄っている。大学生が居酒屋で馬鹿騒ぎしているようなものかという印象であった。


 海岸にあるつつみには屋台が並び、すし、天ぷら、イカ焼き、タコの丸焼きなどが売られている。男も女も、老いも若きも、海岸にゴザを敷いてその上に座り、酒を呑んでいる。


 俺は口を開く。

「凄く賑わっていますね」


 すずさんが応える。

「このところ商いが盛んだからね、色々な所が儲かっているらしいよ。ぜにが行き交えば気が大きくなる奴も増えて、これだけ賑わうのさ」


 そんな話に、俺は応える。

「つまり、こう景気けいきなんですね」


未来みらいでもあきないがにぎわっているのを景気けいきいとぶんだね。まあ、文化ぶんか年間ねんかんはいったあたりからいろんなところがにぎわっているねぇ」


 俺はすずさんと一緒に、海沿いの堤防を歩く。


 途中で、椀に入れられた温かい汁粉しるこを、すずさんと俺とで一緒に飲んだ。深夜の冷えた体に染み渡る。


 やがて月の昇る頃になってきて、至る所から歓声が上がる。口笛を吹く者や拍手かしわでを打つ者もいる。


 すずさんは、両手を合わせて何やら呪文のようなものを唱えている。阿弥陀あみだ三尊さんぞんに、俺が無事に未来に帰れるようにと祈りの経を詠んでくれているらしい。


 神仏を意識しないで暮らしていける、平成に生まれ育った俺にはあまりピンとこないが、江戸の人達にとってはこういうのも必要な事なんだろうなと思った。


 月が昇りきった所で、すずさんが口を開く。

「じゃ、帰ろうかい」


 俺が簡単に返事をして来た道を戻ろうとすると、すずさんに止められた。


「りょうぞう、来た道はこの頃になると帰りのやからで混むからさ、近道があるんだよ。来な」

 そう言われたので、すずさんについていく。


 どうやら、どこかのお寺の庭をこっそり通り抜けるルートらしかったので、俺は庭を抜けながら遠慮がちに尋ねかける。


「すずさん、ここって私有地じゃないんですか? こっそり通って怒られません?」

「心配なんざ無用無用、お地蔵さんくらいしか見てないよ」


 すずさんが視線を振った先には、屋根付きの小さな小屋に鎮座したお地蔵さまがあった。  


 提灯ちょうちんあかあかりに照らされた、石でできたお地蔵さまが、暗闇くらやみ狭間はざまから無言でこちらを見ている様子であった。


「でも、人の家を通り抜けるのはどうかと」

 俺の苦言に、すずさんは気にせず返す。

「お武家様とは違って、仏様は心が広いから平気さ」


 何事も無く寺の庭を通り抜けた俺たちは、深川の町通りに出る。運河とおぼしき河の両側にいくつもの商店が並んでいて、店先の行燈あんどん灯火ともしびが夜の町を照らしている。


 深夜なので当然の事ながら開いている店はないが、見事に大きな商店ばかりであった。


 俺は尋ねる。

「すずさん、この辺りって大きな店が多いんですか?」


「そりゃそうさ、この辺りは問屋とんや町だからね。江戸の外から来たもので下町の連中の口に入るものは、まずここらの商人あきんどが買い取ってから、仲買なかがいに売りに出されるのさ」


――流通の根本を握っているから、これだけ大きな店を作れるのか。


 俺が感心していると、すずさんが言葉を続ける。


「昔はこの辺りなんて、見渡す限り草ぼうぼうの沼地だったんだけどねぇ。あの頃はここまで立派な店が立ち並ぶなんて、流石さすがに思って無かったよ」


「まあ、街ってのは時が移れば変わるものですし。俺のいた時代では、もっと立派な建物だらけになってますよ」

 俺がそう応えると、隣を歩いていたすずさんが尋ねかけてくる。

「りょうぞう、二百年のちの本所はもっとあきないが盛んなのかい?」


「えっと、日本各地だけじゃなく、色々いろいろ外国がいこくとかとも取引とりひきをしていますね。あと、さっきの遠浅とおあさの海を埋め立てているので、もうちょっと広くなっています」


色々いろいろ外国そとつくにと? 長崎ながさきでの蘭国らんごくや、清国しんこくとかだけが交易こうえき相手あいてじゃないのかい?」


「ええ、未来みらい日本にほん世界中せかいじゅうのあらゆるくに貿易ぼうえきをしています。そういえば、この時代じだい日本にほん鎖国さこくをしていたって俺は学びましたけど」


「『鎖国さこく』? 初めて聞く言葉だね。海禁かいきんのことかい?」

「ああ、鎖国さこくって言葉がまだないんですね。日本にほんは今から多分五十年後くらいに開国して、海外かいがいの様々なくにを相手に商売をしていくことになるんですよ」


 俺の言葉に、すずさんが深く溜息をつく。


「その頃には、あたいやおあきはともかく、ととさまはもういないねぇ」


 そう返されたので、俺は前々から思っていた疑問を呈する。

「そういえば、徳三郎さんっていくつなんですか?」


ととさまは、明和めいわ三年の丙戌ひのえいぬ生まれだから……五十七だね」


 実はまだ徳三郎さんに対して、妖狐であるすずさんとおあきちゃんとどういう経緯いきさつで知り合ったのか、何故に戸主をしているのかという疑問もあったが、その問いをするにはまだ時機が来てないと思い、飲み込んだ。


 すずさんもおあきちゃんも、徳三郎さんの事は本当の父親のように慕っているし、徳三郎さんの言う事ならば二人とも家主の命として従う。とりわけ、徳三郎さんとおあきちゃんが並んで一緒に本を読んでいる姿なんか、本当に祖父そふまごくらいとしはなれたちちむすめが仲良くしているようにしか見えなかった。


 俺が色々と思い返しているとすずさんが、手を自分の耳に当て広げた。

「りょうぞう、今、女の叫び声が聞こえなかったかい?」


「え? 本当ですかそれ?」

 俺も手の平を耳に当てて、聴覚の神経をます。


「……きゃー! ……だれかぁぁ……」

 間違いない、俺にも聞こえた。俺はすずさんと目で合図をし、共に声の方向に駆けだした。





 声がしたほうに走ると、鳥居の向こうの境内けいだいが暗い、それなりの広さの神社があった。再び叫び声が聞こえる。


「きゃぁー! 助け……!」


 間違いなく若い女の人の叫び声だ。


 提灯ちょうちん棒を持ったすずさんと一緒に境内けいだいに入ると、建物の裏手で四人の男が着物を着た女の人の周りに集まっていた。一人は女の人にのしかかり、口をふさいでいる。幸いにか、事にはまだ及んでいないようであった。


 女の人のものだろうか、地面の上で一張りの提灯ちょうちんが火でめらめらと燃えていた。


 すずさんは落ち着いた調子で口を開く。

「おやおや、いたいけな女子おなごを大勢の男で狼藉ろうぜきするってのは感心しないねぇ」


 すると、男達が相次いではやてる。

「なんでぇ! てめぇ?」

「おい! こいつぁこっちの女なんか比べ物にならねぇくれぇの上玉だぜ!」

「おおぅ! 目が切れ上がった美人さんじゃねぇか!」


 三人の男がにたにたしながら、俺たち二人をゆっくり取り囲む。多勢に無勢か。


 男の一人が、すずさんの着物のえりを掴む。俺は即座にその男に飛びかかろうとしたが、残り二人に両腕を掴まれ静止させられた。すずさんのえりを掴んだ男と俺の両脇にいる男ら、そして女の人に馬乗りになっている男、皆酒に酔っているようだった。


「おめぇ、いい女だな。夜鷹よたかか? おめぇが四人の相手してくれんのなら、その女逃がしてやってもいいぜ」


 すずさんのえりを掴んでいる男が下卑げびた様子でにやつく。すずさんは終始、涼しい顔で目の前の男をにらみつけている。


「おい、こっちの半鐘はんしょう泥棒どろぼうはどうする?」

 俺の右腕を掴んでいる男が問いかけると、女の人に馬乗りになっている男が応える。


いきがったあんちゃんだろ。水がしたたるようにかわにでも突き落としとけ」


 四人の男がげらげら笑う。すると、すずさんがどこか笑顔になって口を開く。


「あらあら、やだねぇ。このあたいがおとこ相手あいていろなんざ売ったら、吉原よしわらまたた花魁おいらんになっちまうよ」


 そしてすずさんは、落ち着いた声と共に男の頬をそっと撫でた。

「あんたさぁ、火は用心しないといけないよ。提灯ちょうちんの炎が燃え移っちまってるじゃないのさ」


 次の瞬間にはすずさんの襟を掴んでいた男のまげが、炎に包まれていた。


「おい! 燃え移ってるぞ! 消せ! 消せ!」


 脇を見たら、俺の両隣にいた男もそれぞれ着物の背中が燃えていた。


「ぎゃぁぁぁぁ! 熱ぃ! 消せ! 消せ!」

「消えねぇ! ちきしょう! 消えねぇ!」


 男達は、自分の着物を手で叩くも火は消えず、たもとに燃え移る。


 いつのまにか、女の人に馬乗りになっていた男も髪の毛が燃えており、消そうと懸命に転げ回っている。


 すずさんが叫ぶ。


かわに入らないと消えないよ!」


 四人の男達が、体のどこかに狐火の炎をまといながら慌てて境内から走り出て行く。おそらくはさっきの運河まで行ってダイブするつもりなのだろう。良くて禿げ、悪くて大火傷おおやけど。まあ因果応報か。


 すずさんが、悪びれも無くにこやかに口を開く。


「いやぁ、間抜けな奴らだねぇ。体に火が燃え移ったのも気付かないなんてさ」


――やっぱきつねだ、この人。


 俺は、着物を土につけた女の人に近寄って声をかける。


「大丈夫ですか?」

「あ……ありがとうございます」


 すずさんも女の人に近寄る。

「こんな夜中に、女が一人で出歩いちゃいけないよ。祭りの日は特にね」


 すると、女の人はほのおほのかなひかりの中で慌てたような顔をする。

「そうだ! 坊ちゃんが! 豊吉とよきち坊ちゃんが!」


 すずさんが反応する。

「坊ちゃんって、子供を捜しているのかい?」


「そうです! 坊ちゃまはまだ七つなのに! あたしが悪いんです! あたしが月見たさに裏の戸を開けたまま出てしまったから!」

 女の人は、男に乱暴されそうになったことなど忘れたかのように嘆く。


 すずさんが、女の人の手を取り立ち上がらせる。

「まあ、落ち着きなよ。あたいらも一緒に探してやるからさ」


「有り難うございます! どうか、どうか、お願いいたします!」

 女の人が涙を流した。


 その後、色々話をした所、女の人は深川にある大きな大豆問屋の住み込み女中だとの事だ。薮入やぶいりでの木崎村きざきむらという故郷の村への帰郷ききょうから、昨日に江戸へと戻ってきたばかりでつい気が抜けてしまったらしい。


 名を、はなと名乗った。


 俺たちは、おはなさんと一緒に、豊吉とよきちくんという大豆問屋のせがれを探しまわった。


 深夜に子供が一人うろついて、命の保証があるほど江戸の町は甘くない。野犬に襲われたり、水路に落ちたり、人攫ひとさらいに連れ去られたり、様々な危険がある。


 豊吉とよきちくんが昼間遊んでいるという広場や神社なども見回ったが、どこにも気配が無い。


 一時間ほど探し回っただろうか、いきなり、おはなさんは泣き崩れた。


「坊ちゃま! もしこれで坊ちゃまを死なせてしまったら、大旦那様にも、女将さまにも合わせる顔がありません!」


 俺は気の毒になって、すずさんに小声で話しかける。

「すずさん、人探しの妖術とかってないんですか?」

「いや、あたいは使えないねぇ。おあきがいれば犬に化けてもらって探せたんだろうけどさ」


 だが、おあきちゃんは今頃、稲荷社ですぅすぅ寝ていることだろう。


 俺は頭を掻く。

「ああ、飼い犬でもいれば」


 すると、おはなさんが俺を見上げて告げる。

「いますよ? 豆丸まめまるっていう、坊ちゃまと仲良しのちんが一匹」


 俺は返す。

「その飼い犬って連れてこられますか!?」


「はい! 餌をやるのはあたしのお役目ですから!」

「じゃあ、坊ちゃんの臭いのついた草履ぞうり足袋たびと、その犬の好物を五個か六個くらい、用意してください!」


 俺たち三人は、おはなさんが奉公している問屋までダッシュで向かった。





 おはなさんが、こっそりと犬を連れて大きな家の傍の路地から出てきた。右腕で抱えていたのはちんと呼ばれる、頭の両側に黒い模様がある小さな室内犬だった。


 おはなさんは、左に布包みを二つ持っている。

「持って来ました。坊ちゃまの足袋たびと、豆丸まめまるの好物の煮干にぼしです。でも、こんなものどうするつもりなんですか?」


 俺は答える。

「上手くいくかどうか判らないですけどね、警察けいさつの犬の真似事をしてもらおうかと」


 すると、おはなさんが不思議そうな顔をする。

「『警察けいさつ』ってなんですか?」


 そんな事を言ってくるおはなさんから、俺は布包みを受け取る。


 開くと小さな子供用の足袋たびがあった。俺は確認する。

「これ、履いた後に洗っていませんよね?」

「はい、夜が明けてから洗おうと思っておりました」


――それなら好都合だ。


 俺は、おはなさんが抱えているちんに、足袋たびの臭いを嗅がせる。そしてすぐさま煮干を与えると、ちんは美味そうに小魚の煮干にぼしをボリボリ食べた。


「わんっ!」

 喜んでいるのか、尻尾を振り回している。これで臭いを嗅いだら喜ぶようにできたことになる。


 次に、ちんを地面に降ろしてもらって、2メートルほど離れた所へ足袋を置いた。


 ちんが、そろそろと足袋たびに近づく。そして吠える。

「わんっ!」

 その鳴き声に、即座に煮干にぼしを与える。


――次が本番だ、上手くいってくれよ。


 俺は足袋たびの臭いを嗅がせてから、豊吉とよきちくんが通ったと思われる裏口に連れて行く。


 しばらく地面の臭いを嗅いでいたが、いまいちうろうろしていて、臭いを掴めないようだった。


――訓練を受けた警察犬じゃないし、無理があったか。


 すると、すずさんが表通りの方を指差した。


「おはなさん、あそこに人影があるよ」


 おはなさんがそっちの方を見た瞬間、すずさんが素早くたもとから出した例の文蛤はまぐりの膏薬を、ちんの鼻に塗りつけた。


――犬の鼻をあやかしの鼻にしたのか。


 すると、ちんは大きく「わんっ!」と鳴き、駆け出した。犬にしては遅いが、それでも全力疾走する大人の人間くらいのスピードで駆ける。俺たちも急いで、豆丸まめまるくんという名前のいぬの後を追いかける。


 道の所々に行燈あんどんあかりのついた深川の深夜の道を走り、運河のある大通りを駆け抜ける。おはなさんは走り慣れていないのか、かなり後になる。


 犬は、寺の敷地に入っていった。さっき俺たちが海岸からこの大通りに抜けるときに使った、あの寺だ。


 犬が小さな小屋の前で尻尾を振っている。俺たちが到着するのを待っていたかのように、大きく吠える。


「わんっ!」


 俺たちが小屋を覗くと、ただお地蔵様が鎮座していた。しかし、提灯の明かりで注意深く照らしてみると、お地蔵様の影の向こうに黒い塊があって、ゆっくりと呼吸をしていた。豊吉とよきちくんは、どうやら眠っているようだ。


 俺は、犬に煮干を与えて撫でる。無事見つけてくれたご褒美だ。


 しばらくすると、おはなさんが駆けて来た。

「坊ちゃま!」

 ところが、豊吉とよきちくんは起きようとしないので、おはなさんがそのまま抱っこして連れて帰る事となった。


 おはなさんは、俺たちにお礼を言う。

「有り難うございます! なんとお礼を言ってよいか!」


 涙ぐんでいるおはなさんに、すずさんが伝える。

阿弥陀あみだ三尊さんぞんのご加護だとでも思っておきな。このままそっと坊やを布団の中に戻せば、みんな夢だったんだって思うだろうさ」


 その言葉に、俺も応える。


「気にしないでください。この事は、俺たち三人とこの豆丸まめまるくんだけの秘密です」


 おはなさんは帰り際、何度もお礼を言っていた。そして、問屋の路地まで送り届けてから別れた。






 俺とすずさんが、稲荷社に帰る為に深川を北に向かっていると、東の空が白み始めてきたのが見えてきた。もうそろそろ朝だ。


 すずさんが口を開く。

ついには、朝帰りになっちまったねぇ。おあきとととさまに、なんて言い訳しようかねぇ」


 すずさんのわざとらしいつやのある声に、俺も言葉を返す。

「言い訳も何も、やましいことなんて何もしてないでしょう」


「どうだかねぇ? りょうぞうは、あたいのこと色気づいた目とかで見てないのかい? こんな良い女と一つ屋根の下で暮らしているってのに手を出さないなんて、よもや衆道しゅどう趣向しゅこうがあるとかかい?」


「いや、前言いませんでした? 俺は未来に好きな人がいるって」

「あれ? そうだったかい?」

 すずさんがのほほんと返し、言葉を続ける。


「実はさ、ととさまは正真しょうじん正銘しょうめいの人だけど、あやかしのごときすべを持っているのさ」


「へぇ? どんなのですか?」


 俺がそう訊くと、すずさんは口元を歪めにたりと笑った。


「嘘を見破るすべさ。とうに、その女を想い続けるかどうか、今度見てもらおうかねぇ」


 すずさんが悪戯っぽくにやにや笑う。俺は、この人はやっぱり骨の髄まで狐なのだなと思った。




コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?