七月十五日のお
今夜は十五夜の満月であるので、もしあの
ほんの数日前の昼間にも訪れたこの河川敷は、
対岸、つまり川を挟んで向こう東側にある農村は、将来
そこらは文政の世においては
広い広い
だが、この時代には
正面から
そんな様子を一緒に見ていた、隣にいるすずさんが俺に話しかける。
「りょうぞう、こういう盆の日にはさ、
「お盆ですから、そういうのもあるでしょうね。ところで肝心の、兎の妖怪は現れそうですか?」
「どうにもわからないねぇ」
その間には、
俺たちの事を知らない人が見れば、父親と母親、そして幼い娘の三人家族がお盆で
核家族という言葉は江戸にはまだないが、言葉がないからといって概念がない訳ではない。むしろ、概念がありふれているからこそ言葉がないことだってありうるのだ。実際に、核家族は江戸の庶民においてはありふれた家族形態らしい。
お盆というのは、江戸の人たちにとっては重要な年に一度の年中行事である。先祖供養という本来の意義から外れて、ただただ
何しろこの三が日は江戸中がお祭りである。そこらじゅうに屋台が立てられ、ある者らは酒を呑んで騒ぎ踊り、居酒屋や料理屋で旬の料理を食べ、男と女は祭りにかこつけて
本質的には、二十一世紀におけるお祭り騒ぎのイベントと何ら変わりない。
大川ではそれはもうお大尽と呼ばれるような金のある者たちが川を埋め尽くすように船を出し、またある者は両岸に立ち並ぶ料亭などで遊びを尽くしているのだという。
俺たちがいるこの東の川には金持ちは少ないものの人は多い。そこそこ慎ましやかに、だが肝心な所では騒がしく、
十五日の送り盆の夕刻には江戸の様々な川で『
迷える霊を供養する為だろうか、
おあきちゃんが土手に向かって走り出したので、俺は声をかける。
「おあきちゃん、そんなに走っちゃ危ないよ!」
するとおあきちゃんは振り返って手を振り、大声を出す。
「りょう兄ぃ! 一緒に天ぷら食べよ! 天ぷら!」
どうやら
礼儀正しい立ち振る舞いをしているとはいえ、やはりまだ子供なんだなと俺は思った。
反応して、すずさんも大声を出す。
「屋台は逃げないよ! ゆるゆると歩きな!」
その声におあきちゃんは「わかった!」と応えると、俺たちが追いつくまでその場に留まった。そして俺たちと一緒に、落ち着いて屋台に向かって歩き始める。
俺たち三人は、土手で営業をしている天ぷら屋台に近づく。屋台の主人は二十代後半くらいの男であった。
脇では見習いらしき十代前半の男の子が、銭を回収したり客の食べ終わった串を片付けたりしている。
高いところのでっぱり板には
奥には釜のような油鍋があり、下から火で熱せられているのか油が煮えたぎっている。その隣、
手前中央には天ぷらつゆを入れた大きな
俺はこの時点で、この時代での天ぷらは料理屋で小皿に乗せて出される
屋台の主人を下から見上げる格好となったおあきちゃんが、おいしそうな天ぷらを目の前にして、わくわくした感じの声を出す。
「えっとね、あたしはエビにイカでお願い!」
すると、屋台のご主人は「へい!」とだけ言う。そして次々と天ぷらのタネに水で溶いたうどん粉をまぶし、細い竹串でタネをそれぞれ串刺しにする。そして煮えたぎる油にタネが隠れるくらいにつける。溶き卵は使わないようであった。
すずさんも屋台のご主人に話しかける。
「あたいはキスにカマスで頼むよ。りょうぞう、おまいさんはどうする?」
すずさんに尋ねられたので、俺は応える。
「あ、じゃあ俺もすずさんと同じで。キスとカマスでお願いします」
その言葉を聞いた屋台の男はこれまた流れるような手つきで、天ぷらのタネをうどん粉でまぶし、串で刺し、油で揚げる。
しばらくすると天ぷらが揚がり、男は慣れた手つきで串を油鍋から出す。狐色にこんがり揚がった天ぷらが夕焼けの空の光とよく合う。
すずさんは、布製の財布から四文銭をいくつも出し、台の上に置く。
俺とすずさんの分の天ぷら串が平皿の上に置かれると、速やかに見習いの男の子の手により回収される。
すずさんは、おあきちゃんの分の天ぷら串を手に取る。そして、丼の中に入っているつゆに付け、屋台を下から見上げているおあきちゃんに渡す。
俺も揚げられた天ぷら串を手に取る。
「つゆは、二度付けるんじゃないよ」
すずさんに注意をされたので気をつけつつ、俺も天ぷらをつゆに付ける。
俺たち三人は後ろから来る客の邪魔にならないように、屋台の脇に移動する。
そして手に持った天ぷらをかじり取る。
――確かにそこの東京湾で今日獲れたばかりの魚介類は新鮮で美味いが、これは俺が二十一世紀で食べたことのある
――そう、このスナック的な感覚は、俺のいた時代での
「そっか! フライドチキンだ!」
――学校帰りにコンビニに寄って、油で揚げた鶏肉を食べるあの感覚に似ている。
すると、すずさんとおあきちゃんがきょとんとした目で俺を見る。
「りょうぞう、『ふらいどちきん』ってなんだい?」
すずさんの問いに、俺は答える。
「俺の故郷での食べ物なんですけどね。鶏肉に衣をつけて、油で揚げて食べるんです」
「へぇぇ!
おあきちゃんがうきうきした口調ですずさんに伝えるも、すずさんはしかめっ面をして返す。
「おあき、江戸では町の衆は
「ちぇー」
おあきちゃんが口を尖らせ、天ぷら串にかじりつく。
俺も天ぷら串を食べつつ、話をする。
「俺の故郷にも
「ふぅん? じゃあさ、りょうぞうの故郷では天ぷらってどんな衣だったんだい? うどん粉だけじゃないのかい?」
すずさんも天ぷらの串を食べつつ、そんなことを問いかけてくるので俺は返す。
「
「溶き卵ぉ!? そんな
すずさんが
そこで俺はなんだか後ろに視線を感じたので振り向くと、先ほどの見習いの男の子が大根とのおろし金を持ったまま、じっと俺たちを見て話を聞いていた。
「お兄さん、お兄さんの故郷では衣に溶き卵を使うのかい?」
男の子の言葉に、俺は返す。
「ああ、まあね」
「凄ぇ! 凄ぇ! 溶き卵使うなんて
男の子は何やら興奮しているようであった。すると後ろのほうから怒号が飛ぶ。
「こらてめぇ! 何客とくっちゃべってんでぇ! さっさと
先ほどの屋台の主人が激怒し、後から喝を入れる。男の子は恐縮し、大根を金属製のおろし金ですり下ろしはじめる。
俺は残りの天ぷら串をかじりながら、その場を三人で離れる。いつの時代も師弟関係というのは大変だな、という思いが心の中に浮かんでいた。
色々な屋台で、
日は既に沈み、
すずさんにそっと耳打ちする。
「すずさん、この
薄暗がりでもわかるくらいに、薄い藍色の
すずさんは呆れたような口調で小声で返す。
「なぁに言ってんだよ。
俺たちが屋台に近づくと、木で四つに区切られた台の上には、ほとんど
屋台の前面には紙が貼られてあり、なんのネタを乗せた
屋台には二十代前半くらいの若い男がいて、俺たちが近づくと「へいらっしゃい!」と声を張り上げた。置いてある
すずさんが屋台の主人に声をかける。
「ご主人さん、残ってるの全ておくれ。ヒラマサとイサキは持ち帰るから笹に包んでおくれ」
店のお兄さんは「へい!」と応えると、笹の葉を取り出し、四角い
すずさんは、一貫八文の
そして、おあきちゃんがコハダの
大きい、というのが率直な感想だった。平成時代の回転寿司で食べるような寿司の、八倍から十倍の体積がある。寿司というよりおにぎりに近いように思えた。
すずさんも
食べると確かに
俺はおあきちゃんに話しかける。
「おあきちゃん、食べきれる?」
「ちょっと難しいかも。りょう兄ぃ、余ったら食べてくれる?」
「ああ、いいよ。でも、これは寿司にしてはちょっと大きすぎるね」
その言うと、すずさんが反応する。
「りょうぞう、
俺は答える。
「ええ、それに俺の故郷ではこういった『
すると、おあきちゃんが興味津々にこんなことを尋ねてくる。
「『
――ひょっとして
俺はおにぎり大の
「お客さんの目の前で魚を切って、用意していた酢飯と一緒にすった
すずさんも興味深そうに
おにぎりくらいの大きさの四角い
同じくらいに
「すずさん、
俺がそう言うと、すずさんが再び呆れた口調で返す。
「りょうぞう、なんもわかっちゃいないねぇ。屋台で
「え? 本当ですかそれ?」
「そうだよ。だから
すずさんが、屋台の主人に同意を求めようとする。しかし、屋台の主人たる若い男は
すずさんが声をかける。
「あれ? どうしたんだい? ご主人?」
すずさんの声に主人の男が我に返ったようになり、口を開く。
「……あっし、
その問いかけに俺は戸惑った。特許技術とかなら大問題だが、
俺が悩んでいると
「お願いしやす! あっし、その『
主人が熱気をもって俺に言うので、俺もつい「あ、別にいいですよ」と言ってしまった。
「有り難うございやす! 兄さんに案を頂いたので、今日の
主人の男は紐で吊るされた
「待ちな、待ちな。
しかし、
しばらく二人が押し問答をしていると、おあきちゃんがぽんと手を叩く。
「あっ! じゃあ、すず姉ぇが新しい屋号考えてあげたらどうかな!?」
小さな女の子のそんな提案に、店の主人とすずさんの押し問答が止む。
「おあき、そりゃどういうことだい?」
すずさんが問うと、おあきちゃんが応える。
「だから新しく
おあきちゃんの発案に、すずさんと
「そうだねぇ、ご主人はどんな屋台になって欲しいんだい?」
すずさんが主人の男に尋ねると、主人が返す。
「あっしは、人が大勢来るような、
その言葉を聞いて、すずさんは目を
「よし! じゃあ『はなや』と名乗りな!」
すずさんがそう言うと、主人が訊き返す。
「『はなや』でごぜぇやすかい、どういう
主人が尋ねるので、すずさんはにこにこしながら応える。
「大勢の客で賑わう『
すると主人の男も笑顔になる。先ほどまで言い争いをしていた
「
「おうおう、
すずさんと
俺は、未来に似たような名前の寿司チェーン店があったことを思いだしたが、気にしないことにして汚れた手を