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第八幕 おぶさり少女の心

 七月の十三日になって、深川の町は活気に満ちていた。


 いや違う、深川を含む本所全体が活気に満ちていた。


 いや違う、おそらくは本所を、いや江戸を越えて全国津々浦々が活気に満ちているのだろう。


 この時期には江戸の至るところで『草の市』という、盆を迎えるための市場いちばが開かれているのだという。


 そろそろ夕方だが、どこからともなく祭囃子まつりばやしの音が聞こえ、縁日のような笑い声が聞こえてくる。


 西に大きく傾いた太陽照りつける下で、そこらかしらから物売りの威勢の良い売り声が聞こえてくる。


 表通りにある所処ところどころの大きな商店の軒先には、赤い玉蜀黍とうもろこしがぶら下がっている。この玉蜀黍とうもろこし厄除やくよけのお守りなのだという。


 江戸えど時代じだいのおぼん明後日あさって七月十五日であり、その二日前である本日十三日は、『迎え盆』と呼ばれる儀式を行う必要があるとのことらしい。


 俺が今、こん色の着物を着て草履ぞうりを履き、神社からかなり南の方を色々と中に荷物の入った風呂敷を手に持って歩いているのは、神社で行われる盆の儀式の買出しの為であった。


 「お盆はお寺の行事で神社の行事ではないのでは?」と、徳三郎さんに訊いたが、「あまり神社と寺社の縄張り争いに躍起やっきになる事はない」と返された。昔の人は鷹揚おうようというか何と言うか、神社と寺とをあまり区別しないらしい。


 買ってきたものは、ちがやの縄や、鬼灯ほおずきの実、柿の葉など。それからすすきの穂やネコジャラシのような雑草まで草の市で売っていたのを買ってきた。一体何に使うのかと疑問だったが、宗教儀式に野暮やぼ詮索せんさくなどしても徒労とろうに過ぎないという事に気付いて、俺は粛々しゅくしゅくと深川の町でお使いを済ませた。


 神社に向かい深川の町を北に歩いていると、見覚えのあるあかね色の着物を着た、身長140センチメートル弱の小さな女の子がうずくまっているのが見えた。


 俺は近寄り、声をかける。

「おうめちゃん? どうしたのこんな所で?」


 蒟蒻こんにゃく長屋の、おうめと呼ばれた女の子だった。


「あ、蘭人らんじんの子のでかい人」

「具合でも悪いの? うずくまっているけど?」


「体は悪くないさ。でも、ちょっと草履ぞうりの鼻緒が切れちゃってね。歩けないのさ」


 俺がおうめちゃんの足元を見ると、草履ぞうりの鼻緒が確かに切れていた。


 しゃがんだままのおうめちゃんが、俺を見上げて話しかける。

「確か、りょうさんとかいったね。おぇ、鼻緒結べる?」


――結べるわけがない。


――誰かを呼んできて、鼻緒を結んでもらうか? 


 ここから蒟蒻こんにゃく長屋までは、100メートルほど北にある高橋たかばしというアーチ形の木造橋を越えて、更に400メートルほど行ったところだ。走れば往復しても十分もかからない。


 しかし、風呂敷包みを持ったまま人波でごったがえす町を駆け抜けるのは、俺にとっても町の人にとってもしち迷惑なことに思えた。


 そこで俺は、この小さな女の子を背負えばいいのだという事に気付く。このくらいの小さな女の子を一人背負ったところで、それくらいは易々やすやすと歩ける気がした。


 おうめちゃんに背中を見せて、腰を落とす。

「背負うから、おぶさって」


「えっ! 背負うなんて、兄妹きょうだいでもないのに! 誰かに見られたらどうすんのさ!」

「兄妹のふりをすればいいよ、たかだか500メートル程度だし」


「『めえとる』? まあいいや、でも長屋の手前で降ろしておくれよ」


 おうめちゃんがゆっくりと俺の背中におぶさるも、かなり軽いことがわかる。


 右手に風呂敷包みを持ちつつ、十歳くらいの女の子を背負い、深川の町を北に歩く。


 東西に伸びた小名木川を南北に結ぶ、アーチ形の高橋たかばしを南から北へと越えて、深川から南本所の町へと入る。


 俺は背中にいる、おうめちゃんに話しかける。

「今日もお豆腐屋さんで奉公してたの?」


 すると、おうめちゃんが答える。


「そうさ。遠くの村から来た娘は住み込みなんだけど、オレは台所だいどころつかえなんで通いなのさ。おっつぁんが豆腐職人だから、そのつてつかえてんのさ」


「仕事ってどんなことするの?」

「そりゃ、女中の仕事なんて数え切れん程あるさ。オレは体がっさいから重い物とかは持ったりしないけど、奉公人の食事の支度したくに、掃除そうじ裁縫さいほう言伝ことづてに買出しに、色んな事をするのさ」


 小学生くらいの年齢で働いている事に、俺は感心する。俺は小学生のときなんか、ゲームの事と漫画の事くらいしか考えてなかったってのに。


 俺は質問する。

「休みとかはあるの?」


「暮れに正月、それから毎月の一日、十五日は休みさ。あとは年二回の薮入やぶいり、一月の十六日と七月の盆十六日さ。この七月は十六日から休みだね。盆は書き入れ時だからさ」


――ちゃんと、雇用形態がしっかりしているのか。


 人波が行き違う町並みを見ていると、俺はあることに気付いた。店々の軒先に、美しい模様が彩られた紙と竹でできた灯籠とうろうが吊るされている。夕日が沈む頃になって、そろそろ火で灯りをつけようかとしているところだった。


 俺は、背中にいるおうめちゃんに尋ねる。

「あの灯籠とうろうは何?」


「あんた、よそもんだから知らんのね。ありゃ、お盆にこちらに来たご先祖様の霊が迷わないようにするための、道を照らすためのあかりさ」


 江戸と呼ばれてた時代の東京には、こんな風習的な行事があったという事に俺は気付く。俺はお盆というと、お墓参りをするんだってことしか知らなかった。


 おうめちゃんは言葉を続ける。

「両国の盆灯籠ぼんどうろうなんか凄いものさ。大川おおかわの両国橋から浅草せんそうまでのつつみで、きらびやかな灯籠とうろう二月ふたつきもお披露目しろめされんのさ。商家が競うように豪奢ごうしゃ灯籠とうろうを出すもんだから、夕暮れの大川おおかわ沿いが夢みてぇに絢爛けんらんになんのさ」


――この時代には、東京を南北に貫く隅田川すみだがわのことを大川おおかわって言うんだよな。


「見に行ったことがあるの? 両国橋から浅草あさくさってけっこう北だよね?」


 俺が背中のおうめちゃんにそう尋ねると、少し言葉に詰まったようだった。


 そして、なんとなく気恥ずかしそうにぼそぼそと小声で伝えてくる。

「あぁ、まぁね。昔、屋次郎にいちゃんと二人して連れていってもらった事があんのさ」


――どれくらい前なのだろうか。


 またおうめちゃんは、何も喋らなくなった。


 そうこうしている内に、蒟蒻こんにゃく長屋に入る路地まで来てしまった。手前で降ろす約束をすっかり忘れていた。


 おうめちゃんが、背中の方から俺に告げる。

「ほら、着いただろ。恥ずかしいからさっさと降ろしておくれよ」


「はいはい」


 俺が、おうめちゃんを地面に降ろそうとしたその時だった。近くから聞き覚えのある声がした。


「おう! りょうやじゃねぇか! 誰おぶさってんだ?」


 俺は、おうめちゃんを背負ったまま声の方を向く。言葉をかけてきたのは屋次郎さんで、その隣には竹蔵さんが並んで歩いていた。


 視界の端では気のせいか、おうめちゃんが顔を真っ赤にして、口をぱくぱくとさせていた。


「ち……ちが……! にぃちゃん……! これは……!」

「あれ? おうめじゃねぇか!? なんでぇ? お前ぇらいつの間にそんな仲良くなってたんでぇ?」


 屋次郎さんがにやにや笑っている。そして言葉を続ける。

「まぁ、おうめも年頃だからよ。俺は野暮なことなんざ言わねぇよ」


 屋次郎さんが、俺の肩を軽く叩く。

「おうめを泣かせんなよ、りょうや」


 そして屋次郎さんは路地に入り、鼻唄はなうたを唄いながら長屋に向かって消えていった。


 おうめちゃんは俺の背中から飛び降り、顔を真っ赤にしながら小さな拳骨げんこつで俺のわき腹を思いっきり殴ったようだったが、あまり痛くはなかった。


「こん馬鹿! 勘違いされちゃったじゃないのさ!」


 おうめちゃんはそう叫び、手に鼻緒の切れた草履ぞうりを持って、路地の向こうへ消えていった。


 俺は後に残された竹蔵さんに尋ねる。

「あの、竹蔵さん。俺なんか良くないことしたのかな?」


 すると、竹蔵さんが応える。

「良かねぇっていうかな、そりゃ夫でも兄でもない男が年頃の女おぶさっちゃ、良からぬうわさ立てられても仕方ねぇだろう」


――そういえば、いい歳した男と女が並んで歩くだけで恥ずかしいものだと、すずさんに言われたことがある。


「でも、あんな子供なのに?」


 そう尋ねると、竹蔵さんは眉をひそめる。


「おい、りょうの字。お前ぇにはおうめがいくつに見えてるんでぇ?」


「え? そりゃ……十か十一くらいなんじゃ?」


 俺のその言葉に、竹蔵さんは大きく笑い出した。


「はっはっはっ! こりゃおもしれぇ! りょうの字、おうめはもうよわい十七だ。お前ぇさんより二つも年上だぜ!」


「えっ!」


 二十一世紀の平成時代の基準で考えていたのが間違いだったのか。この時代の女性は平均身長が140センチメートル台半ばくらいなのだから、小柄な女性なら年上でも140センチを切るのはおかしな話でもないことに気付いた。


 そこで竹蔵さんは背伸びして俺の耳に手を当て、小声で伝える。

「しかもよぅ、おうめは昔っからヤジさんにの字なんだよ」


「えぇっ!? そんな!?」

「はっはっはっ! あぁ、おもしれぇなぁ。下手なはなしよか、よっぽどおもしれぇぜ!」


 竹蔵さんは軽快に笑う。


――そんな、俺は小さな女の子に親切にしただけだったのに。


 俺は風呂敷包みを手に、とぼとぼと神社に戻った。拳骨げんこつで殴られたわき腹は痛くはなかったが、その奥にあるハートを打ち据えられたような気がした。





 神社に帰った俺は、徳三郎さんにお使いの品を渡してからおあきちゃんを呼んだ。そして夕日射す西の縁側に二人並んで座り、先ほどあった事のあらましを伝えてみた。


 すると、俺の右に座るおあきちゃんはあからさまに膨れっ面を見せて、こんなことを言ってくる。

「もう、りょう兄ぃには乙女心がわからないんだから」


「でも、俺も親切心でしただけだったんだけどな」


 俺がそう言うと、おあきちゃんが大人びた様子でさとす。


「いくら仏心ほとけごころからきた行いでも、考えが足りないと悪い運びになることだってあるの」


 こんな幼い女の子にさとされると、俺も自分で自分が情けなくなる。


「そうだよなぁ、もし俺が余計な事しなければ、勘違いされる事もなかっただろうし……俺が江戸に来たばっかりに……」


 俺はそこで恐ろしい考えに、はっと気付く。


「ひょ……ひょっとして……」


 俺の青ざめているであろう顔を、おあきちゃんが心配そうに覗き見る。


「どうしたの? りょう兄ぃ?」

「お……俺、ひょっとして、歴史を変えちゃったのかも……」


 唇がぷるぷると震えているのが自分でもわかる。


「歴史を変える? どういうこと?」


「もしかしたら、屋次郎さんとおうめちゃんは、夫婦ふうふになる予定だったのかもしれなくて……でもそれを、俺が邪魔しちゃったから……本来生まれてくるはずの子供が生まれなくなったりしたら……大変だ」


――もしそうだとしたら大変だ。俺は間接的に、人の存在を消してしまった事になる。


 すると、おあきちゃんが両手で俺の手をしっかりと握る。


「考えすぎだよ、りょう兄ぃ。あたしがなんとかするから」

「え? 何とかって? どうするつもり?」


 俺がそう返し、隣のおあきちゃんに顔を向けるとこんなことを得意げに言ってくる。


「要は、屋次郎さんとおうめさんの仲を取り持てばいいんでしょ?」


 おあきちゃんは、にっこりと自信があるといった風に微笑んだ。





 翌日、七月十四日の夕刻。俺は屋次郎さんを呼び、一緒に南本所の通りを歩いていた。


 一緒に歩きながら、屋次郎さんが隣にいる俺に話しかける。


「りょうや、話したい事があるって何だ? もったいぶんじゃねぇよ」

「いや、おうめちゃんと三人でちゃんと話しておきたいからさ。昨日おぶってたのは本当に他意はないから」


 相変わらず町は騒がしい。遠くからはお祭りの「やぁとせぇ! やぁとせぇ!」という囃し音頭や、鐘を打ち鳴らす音、和太鼓を威勢よくどんどどんどんと鳴らす音が聞こえていた。


 そろそろおうめちゃんが奉公先から帰ってこの道を北上してくるから、道で出会うように南下して、三人で話し合おうと屋次郎さんに提案したのであった。


 それから、俺はおうめちゃんの年齢を誤解していたことをちゃんと伝えた。


「そっかそっか、りょうやはおうめの奴を十か十一かの小娘と勘違いしてたと。確かにあいつぁ、十七のくせしてちんちくりんだからよ」

「わかってくれて良かったよ。おうめちゃんにも早く伝えなきゃ」


「でもよぅ、お前ぇはどうなんでぇ? おうめの事良いとか思わねぇのか?」


 屋次郎さんにそう言われて、俺は葉月が高校の教室で俺に見せてくれた笑顔を思い出す。


「あ……俺には他に好きな……惚れているおんながいるから」


 俺がそう伝えると、屋次郎さんが目を細める。


「ふぅむ……ひょっとして稲荷社いなりやしろのあの、おすず、とかいう巫女さんか? あいつぁ、っつくだが相当に気のええ跳ねっ返りだぜ。りょうやには向かねぇと思うがな」


「違うよ。すずさんはもう、二十はたち超えてそうだし……もっと年下のおんなだよ」


 俺の言葉に、屋次郎さんが驚きの顔を見せる。


おんなだぁ!? まさか、おあきとかいう子供こどもか!? やめとけやめとけ! 年端もいかねぇ餓鬼がきなんてやめとけ! 畜生ちきしょうになっちまうぞ!」

「違うよ! 俺はロリコンじゃないからな!」


 どうやら江戸時代では、おんなという言葉はおさな女児じょじを意味し、俺のいた時代のように十代じゅうだいなかば以降の少女しょうじょを意味しないらしかった。俺が叫ぶと、屋次郎さんが目をぱちくりとさせる。


「りょうや、『ろりこん』ってなんだ? んな言葉聞いたことねぇや」

「えっと……西洋の言葉なんだけど……」


 俺は、この時代に『ロリコン』って言葉はもうあったのかどうか考える。間違いなく日本にはないよな。


 江戸っ子は洒落しゃれた言葉が好きだから、この時代にない言葉を流行らせてはいけない。俺が考えあぐねていると、俺より背の高い人影が脇を通る。それは黒い羽織袴はおりはかまを着た、いかにも険しい顔をしたお侍であった。両手で大きな風呂敷包みを持っている。


 屋次郎さんが、俺に耳打ちする。

「おいりょうや、あのさむらい随分と丈が高ぇな。お前ぇよりでけぇんじゃねぇか?」

「さあ……おさむらいだったら、そういう人もいるってことじゃない?」


「あんな丈高の侍、初めて見たぜ。六尺ろくしゃく超えてらぁ」


 その身長六尺、つまり180センチメートルを確実に超えているさむらいは、両手で風呂敷包みを抱えたまますたすた早足で歩いて、俺達の横を通り過ぎてしまった。


 すると侍がいきなり大きく体重のバランスを崩し、よろけ、あかね色の着物を着ている小柄な町娘にどさりとぶつかった。


 侍がぶつかったはずみに落とした風呂敷包みは地面にぶつかり、がちゃりと陶器が割れたような音がした。


 侍が叫ぶ。

「この無礼者! 殿のおいいつけで手に入れた壷が割れてしまったぞ!」


「ひぃぃぃ! 御免ごいさりまし!」


 小柄な町娘がその場にお尻をつき、許しを請う。そして屋次郎さんが叫ぶ。


「あっ! おうめ!」


 その許しを請う町娘は、おうめちゃんだった。


 侍は大声で叫ぶ。

「ならんならんならん! この壷はかの名匠魯山人ろさんじんの壷! そのは百両は下らん! 貴様にそれが払えるのか!」


 その背の高い侍は、二つある刀の一本をすらりと抜いた。


「無礼千万な町娘は、切り捨て御免にしてくれよう!」


 その侍の口上を聞いて、隣の屋次郎さんが侍とおうめちゃんに向かって駆け出した。


 そして、侍からおうめちゃんを守るように立ちふさがる。屋次郎さんはぎらぎら夕日を反射する刀の本身ほんみに怯えず、身長差をものともせずに侍を見上げつつ、啖呵たんかを切る。


「やいやいやい! この田舎侍! てめぇさっきから聞いてれば、なに言掛いいがかりつけてやがんだ! よろけてぶつけたのはてめぇだろうが!」

「むむ!? 貴様歯向かうのか! 町人風情が!」


「何が町人風情だ! てめぇでぶつかっておいて、壷が壊れたから娘を切り捨てるぅ!? でけぇ図体してやがるくせに器は小せぇなぁ! てめぇの方がよっぽど外道げどうじゃねぇか!」


 周りから、「そうだそうだ!」とか「目にもの見せてやれ!」とかの声が響く。既に周りには人垣ができはじめていた。


 刀を構える侍は、激昂したかのように叫ぶ。

「では、その娘の代わりにお前が斬られるというのなら、勘弁してやろう!」


 すると、屋次郎さんは白い歯を見せて笑い、腕を組む。

「あー! おもしれぁなぁ! やれるもんならやってみやがれ! さぁ! 早く切り捨てろ! この腑抜ふぬけのたこ侍が!」


 威風堂々とした屋次郎さんの言葉に、後ろで膝をついていたおうめちゃんが、屋次郎さんの背中にすがる。

「やめて! お侍さま! にぃちゃんを斬らないで! 斬るならオレを斬っておくれ!」


 周りからは、野次馬がかなり集まってきた。侍はまわりをうかがい刀をさやに収めると、がちゃがちゃという音を鳴らす風呂敷包みを手に人ごみを掻き分け、どこかに消えてしまった。まわりから、口笛や歓声などがとぶ。


 俺が二人に駆け寄ると、おうめちゃんは屋次郎さんの背中にすがりついたまま、へたりこんでいた。おうめちゃんが、放心したように口を開く。


「……屋次郎にぃちゃん。オレ、腰抜けちゃった」

「ああぁ? しゃーねーな、長屋までおぶってってやるよ」


 そして屋次郎さんは、まるで何事も無かったかのように、ひょいとおうめちゃんをおぶさる。俺が声をかける。


「あの、おうめちゃん……いや、年上だからおうめさんか。昨日はごめん」

「え、いやいや、いぃよいぃよ! 江戸の女は昨日の事なんざ気にしないものさ!」


 屋次郎さんの背中におぶさったおうめさんは、どことなく頬を染めていた。


「じゃあな、りょうや。俺たちは長屋にぇるわ」


 背中におうめさんを背負った屋次郎さんが手を振るので、俺も振り返す。人垣は既に人波に消えていた。


 一人になった俺は、神社に向かって南に歩く。深川と南本所を南北に結ぶアーチ形の木造橋である高橋たかばしが見えてきた。


 高橋たかばしの手前で俺が左に曲がると、そこには背の高い、さっきのお侍が腕を組んで待っていた。


 俺とお侍は川べりを歩き、人のいない路地に二人して入る。奥に侍がいて、俺は路地から顔を出す。誰も見ていないことを確認してから、後にいるお侍に伝える。

「よし、もういいよ」


 すると、高身長な侍の姿が赤茶色の着物を着た、小さな女の子の姿に変わる。


「ふぅ、上手くいったね」


 変化へんげを解いたおあきちゃんが息をつく。


 俺はねぎらいの言葉をかける。

「ごめんね、おあきちゃん。こんな事してもらって」


 最初、おあきちゃんの案では野犬に追いかけさせるというものであった。


 しかし、町人に棒で打たれる危険性があるというので色々相談した結果、侍に化けて町娘に因縁をつけるという芝居をして貰うということになった。


 なお、あの風呂敷の中で割れたとかたった壷は、もともと割れていた陶器のがらくたを拾い集めたものだ。


 おあきちゃんが応える。

「まあいいよ、あたしも結構楽しかったし」

「そっか、それならいいんだけど」


「でもりょう兄ぃの筋書き、色々とおかしかったね」

「どんなところ?」


「お侍が町娘とぶつかったくらいで切り捨て御免なんかしたら、上から改易かいえき切腹せっぷく申し付けられちゃうよ」


――そうなのか、時代劇とかじゃ頻繁ひんぱんに切り捨てているイメージがあるのだが。


「あと、そんな値の張る壷をお侍に手で運ばせるってのもおかしいね。そもそも魯山人ろさんじんって誰? 聞いたことないよ」


「焼き物の名匠だとは聞いたことあるけど、多分まだ生まれてない人だろうね」


 俺は、おあきちゃんと一緒に路地を出る。西の空は夕日で赤く染まり、東の空には十四夜の満月直前の月が昇り始めていた。


「じゃありょう兄ぃ、約束のあれ守って」


 おあきちゃんがそう言うので、俺はその小さな女の子に背中を見せてしゃがみこんだ。


「はいはい、どうぞ」


 すると、おあきちゃんがぴょんと俺の背中に飛び乗る。


 俺はおあきちゃんをおぶさりつつ立ち上がり、夕日を顔に受けて小名木川沿いに神社までの道を歩き始める。子供特有の高い体温を背中に感じる。


「ねぇ、ところでりょう兄ぃ、訊いてもいい?」


 おぶさった背中からおあきちゃんが尋ねるので、俺は応える。

「何?」


「りょう兄ぃが心の中で思い浮かべた、あのお侍ってるお侍なの?」


 その質問に、俺は小さなお姫様の質問に答えるように、うやうやしい心持で答えた。


「ああ、未来では大河ドラマとかにも出ている有名な俳優さんだよ」


――予想通り、演技力もいい感じにコピーされていた。


 夕日で赤く染まる町には、祭囃子の鳴り物の音に混じって、どこからかからすの鳴き声が響いていた。



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