七月の十三日になって、深川の町は活気に満ちていた。
いや違う、深川を含む本所全体が活気に満ちていた。
いや違う、おそらくは本所を、いや江戸を越えて全国津々浦々が活気に満ちているのだろう。
この時期には江戸の至るところで『草の市』という、盆を迎えるための
そろそろ夕方だが、どこからともなく
西に大きく傾いた太陽照りつける下で、そこらかしらから物売りの威勢の良い売り声が聞こえてくる。
表通りにある
俺が今、
「お盆はお寺の行事で神社の行事ではないのでは?」と、徳三郎さんに訊いたが、「あまり神社と寺社の縄張り争いに
買ってきたものは、
神社に向かい深川の町を北に歩いていると、見覚えのある
俺は近寄り、声をかける。
「お
「あ、
「具合でも悪いの? うずくまっているけど?」
「体は悪くないさ。でも、ちょっと
俺がお
しゃがんだままのお
「確か、
――結べるわけがない。
――誰かを呼んできて、鼻緒を結んでもらうか?
ここから
しかし、風呂敷包みを持ったまま人波でごったがえす町を駆け抜けるのは、俺にとっても町の人にとってもしち迷惑なことに思えた。
そこで俺は、この小さな女の子を背負えばいいのだという事に気付く。このくらいの小さな女の子を一人背負ったところで、それくらいは
お
「背負うから、おぶさって」
「えっ! 背負うなんて、
「兄妹のふりをすればいいよ、たかだか500メートル程度だし」
「『めえとる』? まあいいや、でも長屋の手前で降ろしておくれよ」
お
右手に風呂敷包みを持ちつつ、十歳くらいの女の子を背負い、深川の町を北に歩く。
東西に伸びた小名木川を南北に結ぶ、アーチ形の
俺は背中にいる、お
「今日もお豆腐屋さんで奉公してたの?」
すると、お
「そうさ。遠くの村から来た娘は住み込みなんだけど、オレは
「仕事ってどんなことするの?」
「そりゃ、女中の仕事なんて数え切れん程あるさ。オレは体が
小学生くらいの年齢で働いている事に、俺は感心する。俺は小学生のときなんか、ゲームの事と漫画の事くらいしか考えてなかったってのに。
俺は質問する。
「休みとかはあるの?」
「暮れに正月、それから毎月の一日、十五日は休みさ。あとは年二回の
――ちゃんと、雇用形態がしっかりしているのか。
人波が行き違う町並みを見ていると、俺はあることに気付いた。店々の軒先に、美しい模様が彩られた紙と竹でできた
俺は、背中にいるお
「あの
「あんた、よそもんだから知らんのね。ありゃ、お盆にこちらに来たご先祖様の霊が迷わないようにするための、道を照らすための
江戸と呼ばれてた時代の東京には、こんな風習的な行事があったという事に俺は気付く。俺はお盆というと、お墓参りをするんだってことしか知らなかった。
お
「両国の
――この時代には、東京を南北に貫く
「見に行ったことがあるの? 両国橋から
俺が背中のお
そして、なんとなく気恥ずかしそうにぼそぼそと小声で伝えてくる。
「あぁ、まぁね。昔、屋次郎にいちゃんと二人して連れていってもらった事があんのさ」
――どれくらい前なのだろうか。
またお
そうこうしている内に、
お
「ほら、着いただろ。恥ずかしいからさっさと降ろしておくれよ」
「はいはい」
俺が、お
「おう! りょうやじゃねぇか! 誰おぶさってんだ?」
俺は、お
視界の端では気のせいか、お
「ち……ちが……! にぃちゃん……! これは……!」
「あれ? お
屋次郎さんがにやにや笑っている。そして言葉を続ける。
「まぁ、お
屋次郎さんが、俺の肩を軽く叩く。
「お
そして屋次郎さんは路地に入り、
お
「こん馬鹿! 勘違いされちゃったじゃないのさ!」
お
俺は後に残された竹蔵さんに尋ねる。
「あの、竹蔵さん。俺なんか良くないことしたのかな?」
すると、竹蔵さんが応える。
「良かねぇっていうかな、そりゃ夫でも兄でもない男が年頃の女おぶさっちゃ、良からぬ
――そういえば、いい歳した男と女が並んで歩くだけで恥ずかしいものだと、すずさんに言われたことがある。
「でも、あんな子供なのに?」
そう尋ねると、竹蔵さんは眉をひそめる。
「おい、りょうの字。お前ぇにはお
「え? そりゃ……十か十一くらいなんじゃ?」
俺のその言葉に、竹蔵さんは大きく笑い出した。
「はっはっはっ! こりゃおもしれぇ! りょうの字、お
「えっ!」
二十一世紀の平成時代の基準で考えていたのが間違いだったのか。この時代の女性は平均身長が140センチメートル台半ばくらいなのだから、小柄な女性なら年上でも140センチを切るのはおかしな話でもないことに気付いた。
そこで竹蔵さんは背伸びして俺の耳に手を当て、小声で伝える。
「しかもよぅ、お
「えぇっ!? そんな!?」
「はっはっはっ! あぁ、おもしれぇなぁ。下手な
竹蔵さんは軽快に笑う。
――そんな、俺は小さな女の子に親切にしただけだったのに。
俺は風呂敷包みを手に、とぼとぼと神社に戻った。
神社に帰った俺は、徳三郎さんにお使いの品を渡してからおあきちゃんを呼んだ。そして夕日射す西の縁側に二人並んで座り、先ほどあった事のあらましを伝えてみた。
すると、俺の右に座るおあきちゃんはあからさまに膨れっ面を見せて、こんなことを言ってくる。
「もう、りょう兄ぃには乙女心がわからないんだから」
「でも、俺も親切心でしただけだったんだけどな」
俺がそう言うと、おあきちゃんが大人びた様子で
「いくら
こんな幼い女の子に
「そうだよなぁ、もし俺が余計な事しなければ、勘違いされる事もなかっただろうし……俺が江戸に来たばっかりに……」
俺はそこで恐ろしい考えに、はっと気付く。
「ひょ……ひょっとして……」
俺の青ざめているであろう顔を、おあきちゃんが心配そうに覗き見る。
「どうしたの? りょう兄ぃ?」
「お……俺、ひょっとして、歴史を変えちゃったのかも……」
唇がぷるぷると震えているのが自分でもわかる。
「歴史を変える? どういうこと?」
「もしかしたら、屋次郎さんとお
――もしそうだとしたら大変だ。俺は間接的に、人の存在を消してしまった事になる。
すると、おあきちゃんが両手で俺の手をしっかりと握る。
「考えすぎだよ、りょう兄ぃ。あたしがなんとかするから」
「え? 何とかって? どうするつもり?」
俺がそう返し、隣のおあきちゃんに顔を向けるとこんなことを得意げに言ってくる。
「要は、屋次郎さんとお
おあきちゃんは、にっこりと自信があるといった風に微笑んだ。
翌日、七月十四日の夕刻。俺は屋次郎さんを呼び、一緒に南本所の通りを歩いていた。
一緒に歩きながら、屋次郎さんが隣にいる俺に話しかける。
「りょうや、話したい事があるって何だ? もったいぶんじゃねぇよ」
「いや、お
相変わらず町は騒がしい。遠くからはお祭りの「やぁとせぇ! やぁとせぇ!」という囃し音頭や、鐘を打ち鳴らす音、和太鼓を威勢よくどんどどんどんと鳴らす音が聞こえていた。
そろそろお
それから、俺はお
「そっかそっか、りょうやはお
「わかってくれて良かったよ。お
「でもよぅ、お前ぇはどうなんでぇ? お
屋次郎さんにそう言われて、俺は葉月が高校の教室で俺に見せてくれた笑顔を思い出す。
「あ……俺には他に好きな……惚れている
俺がそう伝えると、屋次郎さんが目を細める。
「ふぅむ……ひょっとして
「違うよ。すずさんはもう、
俺の言葉に、屋次郎さんが驚きの顔を見せる。
「
「違うよ! 俺はロリコンじゃないからな!」
どうやら江戸時代では、
「りょうや、『ろりこん』ってなんだ? んな言葉聞いたことねぇや」
「えっと……西洋の言葉なんだけど……」
俺は、この時代に『ロリコン』って言葉はもうあったのかどうか考える。間違いなく日本にはないよな。
江戸っ子は
屋次郎さんが、俺に耳打ちする。
「おいりょうや、あの
「さあ……お
「あんな丈高の侍、初めて見たぜ。
その身長六尺、つまり180センチメートルを確実に超えている
すると侍がいきなり大きく体重のバランスを崩し、よろけ、
侍がぶつかったはずみに落とした風呂敷包みは地面にぶつかり、がちゃりと陶器が割れたような音がした。
侍が叫ぶ。
「この無礼者! 殿のおいいつけで手に入れた壷が割れてしまったぞ!」
「ひぃぃぃ!
小柄な町娘がその場にお尻をつき、許しを請う。そして屋次郎さんが叫ぶ。
「あっ! お
その許しを請う町娘は、お
侍は大声で叫ぶ。
「ならんならんならん! この壷はかの名匠
その背の高い侍は、二つある刀の一本をすらりと抜いた。
「無礼千万な町娘は、切り捨て御免にしてくれよう!」
その侍の口上を聞いて、隣の屋次郎さんが侍とお
そして、侍からお
「やいやいやい! この田舎侍! てめぇさっきから聞いてれば、なに
「むむ!? 貴様歯向かうのか! 町人風情が!」
「何が町人風情だ! てめぇでぶつかっておいて、壷が壊れたから娘を切り捨てるぅ!? でけぇ図体してやがるくせに器は小せぇなぁ! てめぇの方がよっぽど
周りから、「そうだそうだ!」とか「目にもの見せてやれ!」とかの声が響く。既に周りには人垣ができはじめていた。
刀を構える侍は、激昂したかのように叫ぶ。
「では、その娘の代わりにお前が斬られるというのなら、勘弁してやろう!」
すると、屋次郎さんは白い歯を見せて笑い、腕を組む。
「あー! おもしれぁなぁ! やれるもんならやってみやがれ! さぁ! 早く切り捨てろ! この
威風堂々とした屋次郎さんの言葉に、後ろで膝をついていたお
「やめて! お侍さま! にぃちゃんを斬らないで! 斬るならオレを斬っておくれ!」
周りからは、野次馬がかなり集まってきた。侍はまわりを
俺が二人に駆け寄ると、お
「……屋次郎にぃちゃん。オレ、腰抜けちゃった」
「ああぁ? しゃーねーな、長屋までおぶってってやるよ」
そして屋次郎さんは、まるで何事も無かったかのように、ひょいとお
「あの、お
「え、いやいや、いぃよいぃよ! 江戸の女は昨日の事なんざ気にしないものさ!」
屋次郎さんの背中におぶさったお
「じゃあな、りょうや。俺たちは長屋に
背中にお
一人になった俺は、神社に向かって南に歩く。深川と南本所を南北に結ぶアーチ形の木造橋である
俺とお侍は川べりを歩き、人のいない路地に二人して入る。奥に侍がいて、俺は路地から顔を出す。誰も見ていないことを確認してから、後にいるお侍に伝える。
「よし、もういいよ」
すると、高身長な侍の姿が赤茶色の着物を着た、小さな女の子の姿に変わる。
「ふぅ、上手くいったね」
俺はねぎらいの言葉をかける。
「ごめんね、おあきちゃん。こんな事してもらって」
最初、おあきちゃんの案では野犬に追いかけさせるというものであった。
しかし、町人に棒で打たれる危険性があるというので色々相談した結果、侍に化けて町娘に因縁をつけるという芝居をして貰うということになった。
なお、あの風呂敷の中で割れたと
おあきちゃんが応える。
「まあいいよ、あたしも結構楽しかったし」
「そっか、それならいいんだけど」
「でもりょう兄ぃの筋書き、色々とおかしかったね」
「どんなところ?」
「お侍が町娘とぶつかったくらいで切り捨て御免なんかしたら、上から
――そうなのか、時代劇とかじゃ
「あと、そんな値の張る壷をお侍に手で運ばせるってのもおかしいね。そもそも
「焼き物の名匠だとは聞いたことあるけど、多分まだ生まれてない人だろうね」
俺は、おあきちゃんと一緒に路地を出る。西の空は夕日で赤く染まり、東の空には十四夜の満月直前の月が昇り始めていた。
「じゃありょう兄ぃ、約束のあれ守って」
おあきちゃんがそう言うので、俺はその小さな女の子に背中を見せてしゃがみこんだ。
「はいはい、どうぞ」
すると、おあきちゃんがぴょんと俺の背中に飛び乗る。
俺はおあきちゃんをおぶさりつつ立ち上がり、夕日を顔に受けて小名木川沿いに神社までの道を歩き始める。子供特有の高い体温を背中に感じる。
「ねぇ、ところでりょう兄ぃ、訊いてもいい?」
おぶさった背中からおあきちゃんが尋ねるので、俺は応える。
「何?」
「りょう兄ぃが心の中で思い浮かべた、あのお侍って
その質問に、俺は小さなお姫様の質問に答えるように、
「ああ、未来では大河ドラマとかにも出ている有名な俳優さんだよ」
――予想通り、演技力もいい感じにコピーされていた。
夕日で赤く染まる町には、祭囃子の鳴り物の音に混じって、どこからか