今は、二十一世紀での暦では八月の下旬初めくらいだろう。秋にもかかわらず真夏の暑さが残る、いわゆる残暑の熱気が本所の町を包んでいた。
俺はこの時代の洗濯は、昔ながらの
徳三郎さんの
なんとか昼に日が高くなるまでに、
今日は講堂から子供の声は聞こえてこない。あの
俺はすずさんに洗濯が終わった事を報告しに、
ここは
軒先に吊るされた陶器でできた白い風鈴が、ちりんちりんと鳴っている。
二人とも淡い
俺は、淡い藍色の薄着を着た、寝転んでいるすずさんに話しかける。
「すずさん、洗濯終わりましたよ」
すずさんは寝そべったまま返す。
「あありょうぞう、ご苦労。でもおまいさん、こんな暑い日によく動けるね」
確かに今は江戸の人にとっては暑い盛りだが、地球温暖化に加えてヒートアイランド現象のある、二十一世紀の東京の夏を過ごしてきた俺にとってはこれくらいの暑さはそれほど辛くはない。摂氏三十度を少し超えたくらいだろうかと思う。
「未来では、このくらいはそれほど暑いうちに入らないんですよ。もっと暑い日が何日も続きます」
俺の言葉にすずさんが、寝転んだまま気だるそうに返す。
「おお、やだねぇ、やだねぇ。未来ってのは夏になったら、
俺は返す。
「そうでもないですよ、エアコンとかもありますし」
「『えあこん』? 『えあこん』ってなんだい?」
すずさんが聞きなれない言葉に興味を示すので、俺は答える。
「えっとですね……暑さ寒さを操る
「『
――ああそうか、まだ『
「夏には涼しくしてくれて、冬には暖かくしてくれる
その言葉に、すずさんが興味深そうに反応する。
「涼しくしてくれる
「えっと……多分無理です。安定した電力が供給されるコンセントが
すずさんは、寝転んだまま不満そうな顔をする。
「じゃあさ、りょうぞう。その『えあこん』とやらが無くっても、涼しくなる
「えっとですね……未来ではこういう暑い日には、かき氷を食べたりして涼をとりますね」
「かき氷? なんだいそれ?」
――ひょっとして、かき氷もまだないのか。
「氷を
俺の言葉に、すずさんが寝ころんだまま不満げに口を尖らせる。
「りょうぞう、江戸では夏にそんな氷を削って
「まだ
すずさんは寝転んだまま、いかにもめんどくさそうに話をする。
「まあ、あたいは炎を操れるから、冬はどうってことないんだけどね。夏はどうも苦手さ。下手すると
「
「暑さにやられて、へばっちまうことさ」
――
なお、徳三郎さんは友人と川べりに涼を取りにいっており、昼飯は用意しなくて良いとのことだった。
そこに、遠く遠くの方から、
「……ひやっこーい、ひやっこーい」
冷や水の売り歩きの声だった。
すずさんが、寝転んだまま俺に伝える。
「りょうぞう、冷や水を買ってきておくれよ。おまいさんの分も買ってきて良いからさ」
「買ってきてもいいですが、俺は飲みませんよ」
俺は数日前、好奇心から天秤棒で売り歩く冷や水売りから冷や水を買って飲んでみたが、二十一世紀の清涼飲料水のようなものと思ったのが間違いの元であった。
冷や水といっても
その後、スポーツバッグに正露丸を入れておいてくれた葉月に心から感謝したのは言うまでもない。なお、若者に比べて腹が弱いお年寄りが無理をしてこの冷や水を飲み、腹を下す事を『年寄りの冷や水』というらしい。
俺は廊下を抜け土間段を降り、木の器を手に取り
通りに出ると、陽射しを避ける為に竹編みの笠を頭に
「すいません! 冷や水ください!」
その俺の呼びかけに、天秤棒で桶を担いだ男が振り返る。竹蔵さんだった。
「おっと! りょうの字! いやぁ、毎日暑いねぇ」
編み笠をかぶった竹蔵さんは、にこにこしながら俺に近寄る。
俺も応答する。
「竹蔵さん、冷や水を一杯お願い」
「はいよ! 四文でござい!」
竹蔵さんは担いでいた天秤棒を下げ、桶を下ろす。そして備え付けの
黒砂糖の混ざった冷や水の入った器を手に持った俺は、竹蔵さんに話しかける。
「江戸って砂糖が手に入るんだね」
「あいよ、そんなに安かねぇけどな。ここ十年か二十年かで
竹蔵さんはそう言うと、俺から四文銭一枚を受け取る。
俺は尋ねかける。
「屋次郎さんは元気にしてる?」
この前聞いたのだが、どうやら屋次郎さんと竹蔵さんは『
俺の言葉に、竹蔵さんが気まずそうな顔をする。
「あー、実はよ。ヤジさんは今、寝込んでんだよな」
「えっ!? 何で!? 病気とか!?」
俺は声を上げる。
竹蔵さんが伝えてくる。
「
なんだそんなことかと思い、俺は胸を撫で下ろす。
「じゃあ、俺も屋次郎さんの所へお見舞いに行くよ」
俺の言葉に、竹蔵さんが返す。
「残暑見舞いは、腹が治ってからの方がいいんじゃねぇか?」
俺の『お見舞い』と竹蔵さんの『お見舞い』の意味がずれているようだった。
「えっと……故郷から持ってきた、
俺の言葉に、竹蔵さんが驚く。
「
――損な役回りだとは思うけど、俺は困っている人を放っておけない
俺は竹蔵さんに、長屋まで案内してもらう
すずさんに黄色い布でできた巾着袋を借りた俺は、残暑の蝉の声降り注ぐ中、四百粒入りの正露丸の瓶の入った巾着袋を持って外に出る。俺は
神社を出てから北の方に進むとすぐ小名木川があり、そこから少しばかり東に向かった所に架かる『
隣を歩く竹蔵さんは、重さ数十キログラムはあろうかという水桶を天秤棒で担いでいるというのに、俺と変わらぬ速さで歩いていた。なんてスタミナだ。
表通りには商店が並んでいるが、商店と商店の間には
俺達が、
――東京の厳しい住宅事情は二百年前から少しも変わらないんだな……
そんな事を思いつつ、細い路地で結ばれた長屋の並んだ区域を歩く。
そこらにある井戸はおそらく、生活用水として使う水路の水をひいた井戸なのであろう。
女性たちが井戸の近くにて手揉み洗いで洗濯を行い、噂話に花を咲かせていた。子供が手に手に折り紙でできた風車を持ち、群れて走っていた。巡らされたどぶ溝の上には木の板が敷かれていて、上を歩くたびに音がする。
鼻を突く
竹蔵さんが、どしりと水桶を地面に下ろして戸の近くをコンコンとノックする。
「ヤジさーん! 竹蔵だ! 入るぜー!」
部屋の中から低くくぐもった「おぉぅ」という声がして、竹蔵さんは戸を開ける。
竹蔵さんと共に俺は部屋に入る。
土間には
一段高くなっている土間段の向こうの生活空間は、四畳半の広さであった。
そしてその四畳半部屋の真ん中に、屋次郎さんが敷物布団の上で仰向けに寝転んでいた。
「ヤジさん? どうだい、気分は?」
竹蔵さんが訪ねると、屋次郎さんはこちらを見ずに天井を見たまま返す。
「ああタケさん、駄目だね。あの
「まあ、食いもんは腐りかけが一番旨いってのはよく聞くがね。腐りきったもんが旨いって話はあんま知らねぇな」
「タケさん、そりゃ腐りきったもん食った奴は、あまりの旨さに
「はは、ちげぇねぇな」
竹蔵さんが笑う。
そこに、俺が口を開く。
「屋次郎さん、大丈夫?」
すると、俺がここにいることに気付いた屋次郎さんがこっちを見つつ声を上げる。
「おお、なんだ! りょうやも来てくれたのかい! 嬉しいねぇ。腹のほうはあと三日は駄目だろうな、
「今日は俺、
俺がそう言って
「いやいや! そりゃいけねぇいけねぇ、そんな
「何言ってんだよ、売るわけ無いだろ。あげるつもりだよ」
「じゃあ何かい? りょうや、ちょいと前に知り合ったばかりの俺に薬を恵んでくれるって訳かい!?」
「まあ、こないだ
俺がそこまで言うと、屋次郎さんは感極まったといった感じになった。
「そうかぁ。りょうや、お前ぇさんきっと立派な神職になれんぜ。なあタケさん!」
「ああ、ちげぇねぇや」
屋次郎さんの言葉に竹蔵さんもうんうんと
――いや、俺は別に神主になるつもりはないのだが。
俺は屋次郎さんに尋ねる。
「屋次郎さん、塩はある?」
「ああ、そこの
屋次郎さんが指差した先を見ると、台の上に小さな
俺は竹蔵さんに、これまた近くにあった木の器を渡してお願いする。
「竹蔵さん、これに冷や水一杯お願い。砂糖は入れないで」
本当は
竹蔵さんは心得たとばかりに外に出て、すぐに器に水を溜めて戻ってきた。
「りょうの字、こいつでヤジさんに薬を飲ませんだな」
「ああ、ちょっと器を貸して」
俺は竹蔵さんから水の入った器を受け取り、塩をひとつまみ入れる。昔、弟の
俺は
そして
「うわっ!
屋次郎さんがそう言って鼻をつまむ。
――生まれて初めて正露丸の臭いを嗅ぐのだから、そりゃそうだろう。
「臭いし、苦いけど本当によく効くんだ。噛まずに水で飲んで」
俺がそう言いつつ、
「これ……飲むのかい?」
臭いに顔をしかめる屋次郎さんの言葉に、俺は
「実はよぅ、りょうや。俺ぁ生まれてこの方、薬なんか飲んだ事ねぇんだよ」
屋次郎さんがそんなことを言って
「なんでぇなんでぇ!? ヤジさんそれでも江戸っ子かい? 年下に薬なんちゅうたいそうなもん恵まれて飲まねぇなんて江戸っ子の面汚しにも程があらぁ!」
その言葉に屋次郎さんは意を決したようで、悪臭放つ正露丸の丸薬を三粒口に入れ、持っていた器の水で一気にごくりと飲み干した。
器を顔から離した屋次郎さんが渋い顔をする。
「かぁぁ!
すると後ろから、竹蔵さんが言葉をかける。
「なぁに言ってんだヤジさん。昔っから、良薬は口に苦しっていうじゃねぇか。そこまで苦ぇ薬なら、きっと
「それもそうだな。ありがとな、りょうや。深く礼をするぜ」
屋次郎さんが座ったままお辞儀をして、笑って白い歯をみせる。
俺は適当に挨拶をして、その場を切り上げた。
夕方と翌朝の分を六粒部屋に残して、俺と竹蔵さんは屋次郎さんの部屋を出た。
そろそろ真昼だろうか、真夏の太陽が頭上でぎらぎらと照っていた。俺は、こんな炎天下で水を売り歩く竹蔵さんの事も心配になった。
俺は竹蔵さんに声をかける。
「竹蔵さんは、こんな暑い日に天秤棒担いで
「『
「あ……えっと、
「ああ、
――よくそんな事を仕方ないってすらりと言えるよな。
どうやら、この時代は命の価値が軽いようであった。
「竹蔵さん、
俺がそこまで言うと、竹蔵さんはぽかんといった顔をする。
「りょうの字、お前ぇ、まさか……」
――まずい、でしゃばりすぎたか。未来の知識を言ったのはまずかったか。
俺はごくりと唾を飲み込む。
そして竹蔵さんが言葉を続ける。
「お前ぇさん、医術の心得があんのか!? 凄ぇなぁ!」
「あ、いや、医術っていうか、保健の授業で習っただけで……」
「へぇー『
俺が竹蔵さんに詰め寄られながら、なんとかかんとか誤魔化していると、小さな人影が近づいてきた。
身長140センチメートル弱で頭の上で髪を結った、右目元に泣き
その女の子が竹蔵さんに尋ねる。
「竹蔵にいちゃん、屋次郎にいちゃんの具合はどうさね?」
「ああ、お
女の子は恥ずかしそうに口元を着物の
俺は手を振って挨拶した。
「こんにちは、君もここの長屋の人?」
すると、女の子はそそくさと竹蔵さんの後ろに隠れてる。そして俺におびえているかのように、泣き
「ああ、悪ぃ、悪ぃ。お
竹蔵さんがフォローを入れると、お
「オレ、こんなでっかい人と話なんかしたことないさね」
すると、竹蔵さんが応える。
「こいつはな、ほら、
「ああ、あの噂の人かね!」
お
「屋次郎にいちゃんに薬をくれて有り難う。オレからも礼を言います」
口元を引き締めてぺこりと礼をする姿は、うって変わってしっかりした印象だ。
俺は応える。
「ああ、また誰かが
「それにしても
確かに、俺は身長が174センチメートルでこの子は140センチメートル弱。
竹蔵さんが口を開く。
「お
「あー、うん、ちょっとさ。
こんな十歳か十一歳程度の子供でも仕事をしているのかと、俺は心の中で感心した。
正午の九つの時の鐘が鳴って、俺は
神社に戻った俺は、すずさんとおあきちゃんが寝ていた西の客間に足を運ぶ。
すずさんもおあきちゃん同様、暑い中すぅすぅと寝息を立てて寝ていた。
「すずさん、起きてください。お昼ですよ」
肩を掴んでゆさゆさと揺すると、すずさんが起きる。
「ああ、りょうぞう。用事は済んだのかい?」
「はい、ちゃんと屋次郎さんに薬を渡してきました」
俺がそう返事をすると、すずさんはおあきちゃんの頬をつついて起こそうとする。
「おあき、昼飯を作るから起きな」
「……ううん、暑いからあまり食べたくない」
おあきちゃんが目元を指でこすりながら、ゆっくり上体を起こす。
そこに、俺が伝える。
「今日は俺が作るよ。町で
先ほど、町にある乾物屋で
すると、おあきちゃんが笑顔になる。
「
「おっと、
おあきちゃんも、すずさんも喜んでくれたようだ。
「ユーティリティーライターがあるので火もつけられます。
俺がそう告げると、すずさんがこんなことを呟く。
「やっぱり、冬の
上機嫌のように思えるすずさんの声を背に、俺は台所に向かった。
ざるに乗せて井戸水で冷やした素麺を三人で食べたところ、すずさんもおあきちゃんも大変喜んでくれた。醤油にみりん、そしてダシとして
「ごちそうさま」
おあきちゃんが膳の前で手を合わせる。俺とすずさんも同じく手を合わせる。
「でも、ちょっと少なかったね」
おあきちゃんが幼い女の子らしい可愛らしい声でそう言うので、俺は返す。
「デザートを用意してるんだ。ちょっと待ってて」
俺がそう言い立ち上がると、後ろからおあきちゃんが声をかけてくる。
「りょう兄ぃ、『でざあと』って何?」
「すぐにわかるよ」
俺は部屋を出ると、土間段を降り外に出て井戸に近づく。
そして井戸から伸びている縄を引っ張り
俺は台所にて包丁で半分だけ適当にスイカを切って、盆に載せ、ほんのちょっとだけ塩をふる。おあきちゃんとすずさんの元に持っていくと、おあきちゃんは目を輝かせた。
「
「ああ、
すずさんはそんなことを言って、
もちろん俺もその場に座り、涼を取るためにスイカを手に持ちかじりついた。品種改良があまり進んでいないのかそんなに甘くはなく、種も多かったが、三人で向かい合って座りながら食べるスイカはそれ以上の価値がある味がした。
外からは相変わらず、夏の暑さを表すかのように、けたたましく蝉の声が鳴り響いていた。
それから二日が過ぎ、七月七日の夕暮れになっていた。
稲荷神社の前、鳥居の傍には
この笹竹は昨日の六日、
屋次郎さんは「
講堂の土間段に座る薄着のすずさんが、竹骨に紙の貼られた
「りょうぞう、おまいさんも何か願いを書きな」
「ええ、そうですね」
俺は講堂に上がり、用意されていた
何を書くかなんて決まっていた。
『東京に帰って、皆に会えますように』
これだけだった。
俺の短冊を覗き込んだすずさんが、後ろから
「りょうぞう、それ『
戦後の新しい漢字は知らないのは当然だ。俺が振り返って簡単に返事をすると、すずさんが何やら口元を緩めにやにやしている様子がわかる。
「ひょっとして未来に、
「……別にいいでしょう、俺には俺の事情があるんですよ」
葉月に抱く恋心を見透かされたような気がした。俺は少し気恥ずかしくなって、土間段を降り、笹竹に向かう。
おあきちゃんが自分の短冊を手に持ち、笹竹に何とか取り付けようと頑張っている所だった。
「おあきちゃん、おあきちゃんはどんな願いを書いたの?」
俺が尋ねると、おあきちゃんは俺のほうを向いて、短冊の紙を
「な、なんでもない! りょう兄ぃには内緒!」
何だか焦っているように見えたが、そもそも俺には女の子の秘密を覗き見る趣味はない。
しかし、いつの間にかおあきちゃんの後ろに回りこんだすずさんが、えいやっ、という掛け声と共に、おあきちゃんの短冊を奪い取った。
「返して! すず姉ぇ! 返して!」
おあきちゃんはぴょんぴょんと手を伸ばして飛び跳ねる。しかし、すずさんの手に持たれた短冊は、そこより随分上に掲げられて届かない。すずさんは、上を向いて短冊を読み上げる。
「えーと、何々、『
おあきちゃんがその願いを俺に聞こえるように読み上げられ、シルエットが固まる。
すずさんは笑いながら、「こらっ」と言って手刀でおあきちゃんの頭を軽く叩く。
カナカナカナカナ……
赤い夕べに鳴り響く蝉の声は、既に