六月二十三日の晩、晩御飯を食べ終わった後に俺は二十一世紀の格好に着替え、スポーツバッグの中の荷物を整理していた。
大体の確認を終わらせると、
「りょうぞう、
そんなすずさんの問いかけに、スポーツバッグの中身を整理し終わった俺は応える。
「ああ、はい。でもこんな格好でこんな荷物持ってたら、いくら夜でも江戸の町じゃ目立つと思うんですがどうしましょうか?」
「ああ、着物は上から
そう言われて俺は、炎が
すずさんが、光の落とす影にある畳の上の荷物を軽く
すずさんが告げる。
「おまいさんの
「凄い力ですね」
俺がそう言って感心すると、すずさんは満足そうな顔をする。
「まあね。
そこで、俺は尋ねる。
「
「そりゃ、あたいもおあきも
すずさんの話に、俺は心の中で当惑する。
――そんな
――おあきちゃんのような幼い女の子でさえ――
ちくりと胸が痛んだような気がしたが、すぐにその思いは振りほどいた。俺は、そもそも無関係の人間なのだ。江戸の文政年間で過ごした八日間はあくまでイレギュラーな日常であり、俺は帰るべきところ、生まれ育った街である東京に帰らなきゃいけない。
俺は後ろめたさを
「はい、よろしくお願いします」
「まかせときなって、あの兎の
すずさんが笑う前で、俺は心の奥底に残る思いを振り切るかのように
徳三郎さんの
ジーンズのポケットには何も入っていない。財布もスマートフォンも学生証も、全て俺の影の中に入ってあるナップサックの中だった。
すずさんは巫女装束で、
江戸の町には電気で輝く街灯はなく、こんな下町の細い裏通りには、当然のごとく深夜には人は歩いていない。
棒にぶら下げられてゆらゆら揺れる
すずさんは、
おあきちゃんも赤茶色の着物を着てすずさんの隣を歩く。いざとなったら、すずさんの影にいつでも隠れられるようにしているとのことだ。
神社を出て、200メートルほど歩いたところで、すずさんとおあきちゃんと一緒に裏通りから表通りに顔をひょいと出すと、
木の柵の近くに接している小屋には誰かがいるようで、
俺は尋ねる。
「すずさん、あれはなんですか?」
すずさんは答える。
「ありゃ
「普通の人は通れるんですか?」
「小屋にいる
「でも、俺達は妖怪を退治しに行くんですよね? ちゃんと
「そんなの、話せるわけないだろさ」
「じゃあ、なんて言って通るんですか?」
俺がそう尋ねると、すずさんがこう応える。
「そりゃね、黙って破るのさ。りょうぞう、ちょっとこっち
すずさんはおあきちゃんと一緒に、
俺は路地ですずさんに尋ねる。
「こんな狭い路地に入ってどうするんですか?」
すると、すずさんが
「
――へ?
俺はきょとんとする。こんな深夜に知らない人の家の中に入るなんて、それこそ
すずさんは、家の壁に手を当てると、そのまま腕ごと壁の中に手をずぶりと沈ませた。
その様子を見て俺が呆然としていると、すずさんが口を開く。
「わかるかい? りょうぞう。この家の壁にできた家の
「りょう兄ぃ、この前の夜もこうやって
おあきちゃんがすずさんの
「りょうぞう、起きているときに影の中に入るのは初めてだろう? だけど、そんなに悪いものでもないよ?」
すずさんの言葉と共に、ずぶずぶと、俺たち三人の体が壁の中に沈みこむ。
俺は、改めてこの二人が超能力のような妖術を使う、人ならざる
家の影の中を通り抜け、所々にあった町木戸を抜け、夜の道を一里ほど、すなわち4キロメートルくらい歩いてどこかの河原に到着した。
川の水がさらさらと流れる音の
俺は、
「ここですか?」
「ああ、そうだよ。ここで小さな
すずさんが
すずさんの使える妖術の一つで、炎を自在に操ることができるとの説明は受けていたが、いざ目の前でその妖術を使われるとやはり不思議な感じがする。
すずさんは炎を空中に浮かべると、灯りの消えた
影の中になんでも潜ませることができるという力があるということは、つまりどれだけ多くの物品でも、何でも近くの影の中に仕舞っておけるという事なのだとか。
すずさんが、俺に向き直って話しかける。
「じゃあ、りょうぞう。
俺が
おあきちゃんが俺に話しかける。
「りょう兄ぃ、今、
俺は周りを見渡す。小さな炎に照らされた暗い河川敷には何本も生えている木のそばに小屋があり、いざとなったらそこに隠れることができそうなのを俺は確認する。
次第に、闇の向こうから何か不気味なものが飛び跳ねつつ、近づいてくるのが見えてきた。
10メートルほど向こうにいるそれは確かに小動物サイズのものであったが、兎ではなく、
大きさは60センチメートルほどで、それほど大きくはない。ふたつの大きな目はのっぺりとした青い陶器のようであり、黒目がなかった。
黄色い
不気味だ、というのが俺の率直な感想だった。
すずさんが残念そうな口調で呟いて、そして俺に告げる。
「なんだい、違うようだね。りょうぞうはそのあたりにでも隠れてな、すぐに
すずさんは俺の離れるように手で払う動作をし、反対側の手でおあきちゃんの手を握る。俺は言われた通りに、すずさんの後ろに下がった。
あまり離れすぎると妖術が解け、影の中に入っている俺の荷物が出てきてしまうらしいので、気をつけないといけない。あと、すずさんが気を失っても術が解けてしまうらしい。
すずさんはおあきちゃんの手を握り「おあき、
すると、瞬時におあきちゃんの体が柄の長さ約150センチメートル、刃が約60センチメートルくらいはある
「
駆けていくすずさんの
そしてすずさんが手に握る
ガシッ!!
地面に勢いよく
「ちぃっ!? 消えた!?」
すずさんが叫ぶ。
確かに刃が振り下ろされる間際、
そういえばこないだの兎の妖怪もいきなり消えた。その直後に、俺は首を切り裂かれたのだった。
俺は叫ぶ。
「すずさん! 気をつけてください!」
すずさんは
「りょうぞう! 気配は消えてない! どこかそのへんにいるよ!」
すずさんが叫んだその直後、すずさんの振り返った
「くぅぅっ!」
すずさんが悲鳴を上げると同時に、すずさんは
「掴んだ! ここにいる! こいつは透けて見えなくなっているんだよ!」
投げ落とされた
すずさんは頬から血を流しながら、暴れまわる透明の
すずさんが、透明の
「焼いて
すずさんの
しかし、何かおかしい。すずさんの
浮いている狐火に照らされていたすずさんの挙動が変わった。宙で透明な
狐火で照らされていたすずさんが「しまった」という表情をしたのが見えた。
おあきちゃんが叫ぶ。
「すず姉ぇ!? どうしたの!?」
すずさんが、自分に駆け寄ろうとするおあきちゃんを制するように声を上げる。
「おあき! 来るんじゃない! こいつは火喰い鶏だよ!」
そう言うが早いか、炎をたたえた
その大きさは、先ほどの60センチ程度しかない小動物レベルの大きさから、明らかに150センチを超える中型動物レベルの大きさになっていた。
鶏は、その
ボウン!!
声にならない衝撃波のようなものをすずさんに向けて撃ち出した。
ボウン! ボウン!
といった、鈍い音が風を抜け、何発もすずさんに叩き込まれる。その度に
宙に浮いていた狐火が消えた。
「すず姉ぇ!」
おあきちゃんが叫び、すずさんに駆け寄る。
透明な妖怪の腹の中にある炎に照らされ、振り返ると影の中に入れてもらっていたはずのスポーツバッグとナップサックが地面の上に現れているのがわかった。気絶したので術が解けたらしい。
「すず姉ぇ! お願い! 起きて! すず姉ぇ!」
暗がりからおあきちゃんの必死な声が響く。しかし、すずさんの妖術である狐火は復活しない。
腹の中の炎で照らされた半透明の
俺は
「おあきちゃん! なにやってるんだ! 逃げて!」
俺は走りながら、木の枝を鋭利な切り口になるようにばきりと
おあきちゃんが叫ぶ。
「でも! すず姉ぇが起きない! すず姉ぇを置いていけない! あたしは気を失ったのは治せないの!」
俺は二人に近づいていく、先ほどから少し小さくなったとはいえ、130センチメートルはあろうかという
「クェェェェェ!! クェェェェェ!」
両翼をばさばさと音を立てて羽ばたかせ、半透明の
ボウン! ボウン! という音が
一発撃つたびに、10センチメートルくらい
俺は、必死で鶏にしがみつきながら、おあきちゃんに叫ぶ。
「
おあきちゃんは「ああそうか!」と叫んでから直ちに
巨漢である
「りょう兄ぃ! すぐ戻ってくるから!」
「クェェェェ! クェェェェェ!」
ばさばさと跳ね回る、大きさが110センチメートルになった
俺の足が時々地面から離れるくらい、
しかし、計略は時として、いや、大抵はあらぬ方向へ行ってしまうものだ。
「クェェェェェ!」
首の後ろに掴まっている俺も、そちらの方向へ運ばれざるを得なかった。暗くて見えづらいが、暗闇の中には盛大に
俺は即座に、これから
ドシン!
俺は小屋の木の壁に
「ぐぅぅぅぅ!!」
俺はあまりの痛さに
俺は地面にどさりと両膝をつく。
すぐ前では、陶器のような目がいつからか青い色から
――
俺のその予感は正しかった。
「クァァァァッ!!」
ガツッ!
俺は間一髪で左に転がり、避ける。
先ほどまで俺が背にしていた板は、
ザクリ!
右手に持っていた鋭利な木の枝で、
「ギェェェェェ!」
壁に突き刺さった
ヒュルルルル! グサッ!!
風きり音がしたと思うと、先に火のついた矢が勢いよく
すずさんは引き絞った
風切り音に次いでざくりという音を立て、またもや火矢が一直線に
この弓と矢もおあきちゃんが化けたものだろうか。刺さった矢は鶏を貫くと、役目を終えたかのように虚空に掻き消えた。
「りょうぞう! 今のうちに逃げな!」
すずさんが俺に
俺と
そこで俺は考えた。あのような矢では致命的なダメージを与えることはできない。すずさんが操ることのできる狐火で攻撃しようとしても、あの
俺はスポーツバッグに駆け寄ると、大急ぎで目的のものを探す。ファスナーを開け、ここに来る前にしまい込んだ荷物の場所を探る。
向こうのほうで、がきん、がきん、という音がし始めた。視線を向けてみると、弓矢に変わっていたおあきちゃんは
俺はスポーツバッグから、ハンカチ一枚、ユーティリティライター、ポケットティッシュ、そして虫除けスプレーを取り出した。虫除けスプレーはお徳用の大型のものである。
まず、持っていた棒切れにハンカチを巻き付け、ティッシュを何枚か巻きつけた。これで火の付きは良くなるはずだ。そして、LPガスを噴射剤とした虫除けスプレーを吹き付ける。これでミニ
そしてユーティリティーライターでミニ
俺は、近くにあった手ごろな小石をアンダースローで
投げた石は上手く鶏に当たり、こちらに注意が向いたようだ。
ボワワワァァァァァ!
炎の赤さが辺りを照らす。
――狙い通りだ。
「馬鹿! 何やってんだよ! 隠れな!」
そう言われても、俺も一応男の子だ。江戸の町で夜の闇に紛れて妖怪と戦うというシチュエーションに血が沸かない道理があるものか。
俺はときおりミニ
状況は調った。俺は、川べりにて水面の上に炎の噴射を噴き出させる。
ボワァァァァァァ!
「クェェェェェ!」
大きさ80センチメートルくらいになっていた半透明の
俺は、向かってくる
ざぶん!
俺と
「クェェェェェェ! クェェェェェ!」
バサバサバサ! ジャバジャバジャバ!
水深は川べりなのでそれほど深くなく、俺の腰くらいまでだ。
また少しだけ、
腹の中の炎が段々と尽きかけているのは明白だった。俺と
――そうはいくか。
俺は左手を
ぶちり!
激痛が走る。指を三本ほど食いちぎられたらしい。
「があぁぁぁぁぁ!」
俺は叫ぶ。
左手を見てみると、人差し指と中指と薬指が消えていた。
ザクリ!
脇から伸びてきた
近づいていたすずさんが手に持つ
刺された
すずさんが叫ぶ。
「おあき! 変わり身を解け! りょうぞうを治してやんな!」
その言葉に、
「りょう兄ぃ、すぐ治してあげるから」
おあきちゃんが手をかざすと、なくなったはずの左手の指三本がイモリの肢やプラナリアの胴体が数十倍速の速さで再生されたかのように、即座ににゅるりと元通りの形になった。
川のほうを見ると、鶏が立ち上がり大きく
俺は叫ぶ。
「すずさん! そいつに火を食わせてやってください!」
すずさんは火球を一発
俺は更に叫ぶ。
「もっとです! もっともっと火を食べさせてください!」
すると、すずさんが叫び返す。
「そしたらまた大きくなるだろうが!」
「もっと食わせてやれば自滅します!」
俺の真剣な声を聞いたおあきちゃんが、すずさんに一緒に叫ぶ。
「すず姉ぇ! りょう兄ぃの言うとおりにして! お願い!」
おあきちゃんのその願いに、すずさんは一瞬戸惑いの顔を見せたが、真剣な顔つきになる。
「わかったよ! でもりょうぞう、抜けたこと言ってたら承知しないよ!」
すずさんの両手から、先ほどとは比べ物にならないくらいの大量の炎が放たれる。ぼうぼうという炎の燃え盛る音を立て、川べりにいる
「クェェェェェェッ!」
俺はその時が来たと思ったので、鶏を背にしておあきちゃんを
「おあきちゃん! 耳を塞いで!」
おあきちゃんが両手で自分の両耳を塞ぐ。その直後に大きな音が
ボッガァァァン!
肉の壁の中で爆弾が爆発するような鈍い轟音と同時に、
さっきまで両の手の平から炎を出し続けていたすずさんはきょとんとした目で、
すずさんは俺の方に顔を向け、不思議そうな表情で尋ねかけてくる。
「あれ? ひょっとしてこいつ死んじまったのかい? りょうぞう、おまいさんどういう技使ったんだい?」
俺は息を切らしつつ答える。
「さっき、
指三本失う痛みに耐えた価値はあったようだった。大型の虫除けスプレーだったから、さぞかし大きな爆発を起こすものだろうと考えてのことだった。
すずさんは、右手の人差し指と中指を合わせて動かし、少し離れたところにある蛍の光のような命のかけらの炎を操作しようとしているようだった。そして、
すずさんは見えない糸を手繰るようにその光点を招きよせる。そして、
すると、目の前にあった透明さを失った
俺はずぶ濡れになった体を震わせ、すずさんに尋ねかける。
「その紙に包んだのが、あの
「ああ、そうだよ。こいつを
光り輝く点を畳み込んだ和紙を手に持つすずさんは、心なしか気分が良さそうだった。
おあきちゃんが、俺にこんなことを尋ねる。
「もう、りょう兄ぃ、あたしが無くなった指を治せなかったらどうするつもりだったの?」
ちょっとだけ、おあきちゃんは怒っているように見えた。
「いや、あんなに血が噴き出ていたのに翌朝に血を失った感じがしなかったし、あれくらいは後で治してもらえるんじゃないかと思ってね」
俺がそう応えると、すずさんが上機嫌な口調で俺に話しかける。
「でもさぁ、りょうぞう、おまいさん男を見せたねぇ。あんなの、中々できることじゃないよ」
「りょう兄ぃ、危ないことはやめてね。あたしたちは妖狐だけど、りょう兄ぃは唯の人なんだから」
おあきちゃんの気遣いの言葉に、俺は返す。
「おあきちゃんが治してくれるんじゃなかったら、できなかったよ。ありがとう、おあきちゃん」
俺はにっこりと微笑むと、おあきちゃんは感謝されて
これで無事、妖怪退治が済んだのだがひとつ問題がある。夏だというのに涼しすぎる江戸の夜の風が吹くたびに、びしょぬれの俺は体温を奪われる。
すずさんが軽快に笑う。
「しかしりょうぞう、おまいさん、すっかり
「ええ、早く着替えてお風呂に入りたいです」
「
すずさんの言葉に、俺は体を震わせながら返す。
「今ばっかりは、あの熱いお湯が恋しいです」
すると、すずさんがこんなことを言う。
「ははっ、男を上げた夜の明けに朝風呂なんて粋じゃないかい。それでこそ江戸っ子さ」
夏の夜の闇に響くすずさんの笑い声に、俺はただただ合わせるしかなかった。