ジジジジジジジジ
アブラゼミの鳴き声が江戸の町に響く。
俺が江戸時代の文政年間に来てから、七日が過ぎていた。暦の上では六月二十二日になっている。
俺は頭上に、二十一世紀と全く変わらずぎらぎら照り付ける真夏の太陽を
アスファルトで
徳三郎さんに聞いたところ、
町行く人たちの雑踏もまばらだ。江戸の人たちは、このような出歩くのが
建物の脇からおあきちゃんが出てきて、ひょこひょこと俺に近づき、
「りょう
この時代では『お
俺は頬を伝う汗を、
「ああ、ありがとう。じゃあお言葉に甘えるよ」
「暑い時には熱いものを飲むと、体に良いんだよ」
「そうなんだ。俺のいた
「うふふ、何言ってるの? 麦茶も熱いお茶じゃないの?」
おあきちゃんが純真な笑顔を見せる。
「ああ、麦茶も江戸では熱い飲み物なんだね」
俺がそう応えると、天秤棒を担ぎ、甘酒を売り歩く
「あまーい、あまーい」
夏の暑い
俺のいた時代、二十一世紀にあったコンビニエンスストアは夜中も開いている
俺は
「すいません、甘酒二杯お願いします」
「へい! 十六文でござい!」
江戸に来た当初、元々財布の中には平成の
そして今、この財布の中にはこの時代の四角い穴が開いた銭がいくらか入っている。すずさんに小遣いとして与えられたものであった。
棒手振りの男は天秤棒を地面に下ろし、木箱の中に入っていた釜みたいな容器から、甘酒を小さな椀に
「へい! おじょうちゃん、熱いのでお気をつけて」
「ありがとう!」
おあきちゃんがお礼を言って、お椀に入った甘酒を貰い、俺は財布から出した
「
「あ……そうです、これは西洋の財布でして」
俺が取り繕うと、男が返す。
「
「え? 噂? どういう風にですか?」
「なんでも、
――徳三郎さん! どんな説明をしたんですか!
俺がそんなことを心の中で思ってるのを知る訳もなく、
「そんなでっけぇのに、まだ十五なんだって? やっぱ噂どおり、
「え……えーと、はい。父はオランダ人らしくて……」
俺は話を合わせるも、口が少し引きつっている感じがする。
「そっか、
「あ……ありがとうございます」
俺はお礼を言い、棒手振りの男からお椀に注がれた甘酒を受け取る。
「あ、そういやヤジさんが
「ヤジさんって誰ですか?」
「
――ああ、最初に目覚めた朝に俺に詰め寄ったあの男か。
俺はそんなことを思いだし、目の前の気さくな棒手振りの男に告げる。
「そうですか。じゃあ
「おおそうか!? じゃあ伝えとくよ。きっとヤジさん喜ぶぜ」
「ありがとうございます……えっと……」
「
俺は熱い甘酒の入った
甘酒を飲んだ後、
俺は隣に座るおあきちゃんに尋ねる。
「おあきちゃんは学ばなくてもいいの?」
「あたしは、もう漢文だって読めるよ」
「そうなんだ、優秀なんだね。俺、漢文とかは苦手だよ。未来で習ってはいたんだけどね」
「りょう兄ぃも未来で、手習い所みたいな
「ああ、『
「夏が休みなんだ? どんなところ?」
その言葉に、俺は表情が曇る。
「十五歳になって初めの四月から三年間、『
俺は深いため息をつく。
二十一世紀での時間の経過がこちらと同じなのだとしたら、もう向こうでは既に、俺が行方不明になってから七日が経過しているはずだ。父親と母親、それに四歳離れた小学六年生の弟の顔が心に浮かぶ。
「父さん、母さん、
そういえば、十年前に家に帰れなかったときはこんな事を考えなかった。まだ五歳の幼かった俺は、両親が一歳の弟にかまいっきりだったので
そう、俺はあの時、あの初恋の
手を繋いで家まで送り届けてくれたその女性の優しさに報いるため、俺は
しかし、俺が再びそのお姉さんに会うことは、
俺が弟の前で家族の中で、いつでも兄としての尊厳を保つよう
お姉さんの言葉が脳裏に浮かぶ。
――家に帰りたいならお姉ちゃんと一つだけ約束してくれる?――
――じゃあ
「りょう兄ぃ、なに考えてるの?」
いつの間にかおあきちゃんが俺の前にきて、視界を大きく占めるくらいに顔を近づけていた。
「あ、いや、残してきた友達の事とかだよ」
「さっき言っていた、
「あー、うん。同じ高校……手習い所みたいなところで一緒に学んでいるんだよ。あともう一人、別の高校で学んでいる
「ふーん、未来ではそんなに大きくなっても手習い所みたいなところに行くんだ。十八で終わりなんだね。あたしもそういう
「おあきちゃんは手習い所で学ぶつもりはあるの?」
俺が尋ねると、おあきちゃんは頬をぷくっと膨らませる。
「だって、もう読み書きも
「そうなんだ。なんでだろうね?」
「
――え? 化けるって?
「化けるって……
「『
――それって結構凄くないか?
おあきちゃんが俺の手を引っ張る。
「りょう兄ぃに見せてあげるね、あたしの化ける力」
俺は引っ張られて立ち上がり、おあきちゃんに東の方の庭に連れてこられる。人の目は一切ない。
おあきちゃんが声を出す。
「ここならいいか」
建物の裏手、ちょうど表通りの死角になっているところに到着する。おあきちゃんは俺に向き直り、手を繋いだままにこやかに告げる。
「じゃあ、りょう兄ぃ、友達の……そうだね、
言われた通りに、俺はおあきちゃんの手を握ったまま、親友である
するとほんの一瞬で、身の丈110センチほどの小さな女の子であるおあきちゃんが、身長180センチある
目の前に現れた制服姿の
おあきちゃんが化けた
「わーっ! 凄いね! りょう兄ぃのお友達って、こんなに
――その太い声でその幼げな女の子の口調はやめてくれ、怖いから。
「うふふ、いつも見上げているりょう兄ぃがこんなちびすけさんに見えるのね。なんか変なの」
女の子のように両こぶしを頬にあてて笑う忠弘を見て、俺はすずさんがおあきちゃんを、
姿は変わっても、精神がついていかないから非常に不自然なのだ。
「なんだか体が軽いね。この人って力持ちなの?」
目の前の忠弘が、小さくジャンプを繰り返しながら俺に尋ねるので、俺は若干引いた感じで答える。
「忠弘は陸上やってて、走るのが速いんだけど……ひょっとして忠弘の
「『
「つまり、本物の忠弘のように速く走れたりするの?」
俺が尋ねると、忠弘に扮するおあきちゃんが笑顔をみせる。
「うん!
忠弘姿のおあきちゃんが
「待って待って! その格好じゃまずいよ!」
忠弘の強い力に抗うよう、引っ張る。
そのとき、表通りの方から声がした。
「ごめーん! ごめーん!
どうやら誰かが尋ねてきたようだ。
俺はおあきちゃんに告げる。
「ほら、誰か来たよ。おあきちゃんも元の姿に戻って」
俺がそう言うと、忠弘の姿をしたおあきちゃんが小さく
「まあいいや、
遠くから「はいよー」というすずさんの声が聞こえる。どうやらすずさんが対応してくれているらしい。
俺はいつもの姿に戻ったおあきちゃんと共に表通りに出る。すずさんが何らかの紙包みを使いの男から受け取っているところだった。
すずさんは手に包みを持って俺達二人に向き直る。
「ああ、おあき。ビイドロの
「
おあきちゃんが駆け寄り、うきうきした様子で包みを受け取る。
俺も後ろから近寄ると、包み紙を開いたおあきちゃんの手には、先日俺が渡したビー玉があつらわれた、
「ああ、こないだのビー玉、
俺が尋ねると、おあきちゃんは目を輝かせて向き直る。
「うん! すず
手元の
「へえ、器用に
「あたしはこんなに
おあきちゃんが笑顔を見せ、すずさんがおあきちゃんからビー玉の
「おあき、あたいがつけてやるからじっとしてな」
すずさんは、おあきちゃんの結われた髪に
おあきちゃんはにこにこした様子で、結い髪に取り付けられた
「どう? りょう兄ぃ? 似合ってる?」
「あー、うん。似合ってるよ」
「うふふ、嬉しい!」
おあきちゃんは向き直り、両こぶしを両頬につける。
やっぱりおあきちゃんにはそっちの格好の方が似合っているなと考えなが
ら、俺は心の中で苦笑いをしつつ微笑んだ。
夕七つ[午後四時ごろ]になって、四人で湯屋に行き、帰ってきたところで神社の前にて見た事のある男の影を見つけた。
「おっ!
あの大工の屋次郎さんとか言う人だ。屋次郎さんは紐で吊るされた魚の開きを持って、俺達に近づく。
「確か、りょうや、とかいう名でまだ十五なんだって? 聞いたぜ、かなり苦労してたってのにお稲荷様に忍び込んでるなんて疑って悪かったな。こいつはいつかの
屋次郎さんから、
「あ……いいんですか? こんなもの頂いて」
「いやいや、
俺は一瞬戸惑ったが、そういうのなら受け取るのが道理だろうと判断した。
「そうですか。じゃあせっかくですので、皆で有難くいただきます」
そんなことを言いながら俺が魚の干物を受け取ると、その男はこんなことを言ってきた。
「そんな風に
――え? 『ほうかん』ってなんだ?
屋次郎さんという大工の男は言葉を続ける。
「いくら
俺は隣にいるすずさんに小声で尋ねる。
「……すずさん、『ほうかん』ってなんですか?」
「……知らないのかい? 座敷遊びをするときの、太鼓持ちのことさ。旦那を持ち上げる為に『です』とか『でげす』って
――語尾に『です』をつける口調って、この時代じゃ丁寧な口調じゃなくて、卑しい口調なのか。
屋次郎さんという男が、小さなことを気にしない
「ま、そういうわけなんでよ。これからもちょくちょくお参りに来るんで、よろしくな。そんな言葉遣いなんかじゃなくていいぜ」
「あ……わ、わかりま……わかった。よろしく」
――いつも忠弘や葉月に対して話しているような口調でいいのだろうか。
屋次郎さんが
「すずさん、この口調が変ならどうして教えてくれなかったんですか?」
「いや? 未来じゃそれが
すずさんは手を頭の後ろに回し、
夜になって、
徳三郎さんが床の間を背にした
各々が綿の入った四角い座布団の上で正座をしながら食事をしている。俺も、もう七日目ともなると慣れたものである。
飯は全てすずさんが作ってくれたものだ。高く盛られた
なお、すずさんの近くには大きめの
徳三郎さんが俺に話しかける。
「
「ああ、はい。なんとか」
「ところで、君をこの江戸に連れてきた
俺は目を見開いて尋ねる。
「え? あの妖怪が現れるのは、満月の晩だけじゃなかったんですか?」
江戸の暦は二十一世紀のような太陽暦ではなく月の満ち欠けに沿った暦らしく、新月
すると、徳三郎さんが答える。
「今日、前に出た
――そういえば、俺が江戸に引きずりこまれた時のシチュエーションをまだ聞いてなかったな。
「すずさん、俺が江戸に来る前にどんなことがあったんですか?」
俺が尋ねると、膳の前で酒を呑んでいたすずさんが答える。
「いやさ、兎みたいな
「影の中に隠す? どういう意味ですか?」
「ああ、あたいのもうひとつの
――へえ、そりゃ便利な能力だ。
すずさんは言葉を続ける。
「まあ、無理に
――そうか、倒さなくても、あの兎の妖怪の近くで影に入れば帰れるかもしれないのか。
俺がそう思いつつすずさんの隣を見ると、何故だかおあきちゃんがしょんぼりとしているのが見て取れた。
「おあきちゃん、どうしたの?」
俺がそう尋ねると、おあきちゃんが少しうつむいてから顔を上げ口を開く。
「りょう
「えっ? そりゃ……帰れるなら帰らなきゃ」
すると、おあきちゃんはまた頬をぷくっと膨らませる。そして
「……せっかく、お
その言葉に対してすずさんが
「おあき、
「わかってるけど……ごちそうさま」
おあきちゃんは、食べ終わった御膳の前で手を合わせ食後の挨拶を言って、食器の乗った膳を片付けるため台所に持っていく準備を始める。
すずさんが、隣にいるおあきちゃんに語りかける。
「おあき、
その言葉に、おあきちゃんは「はーい」とだけ言って、膳を持って座敷から出て行った。
明日、明日の夜にあの兎の妖怪と向き合い、なんとしても江戸から東京に帰る。そして家族や親友、何より葉月にもう一度会おうと俺は決意した。