おあきちゃんから詳しく季節と暦の関係について教えてもらったところ、どうやら江戸時代と二十一世紀とは、暦が少しだけずれているらしいことがわかった。
江戸時代では夏とされているのは四五六月であり、三カ月ごとに季節が巡るとのことだ。
江戸時代での六月というのは、梅雨が終わってからの晴れの日が続く暑い盛りらしく、どうやら二十一世紀でいうところの七月から八月にかけてくらいの季節であるらしい。
家をあらかた案内された後に、おあきちゃんはすずさんの手習い
しばらく経って、太陽が真南にある頃すなわち真昼くらいに、膨らんだ
東口から台所のある土間に入った徳三郎さんは、土間段に腰を下ろし、風呂敷包みを
「いやはや、
「工場で作られた工業製品ですからね、手作りの石鹸とはずいぶんと違うと思います」
そう俺が答えると、徳三郎さんはにこにこ笑いながら風呂敷包みをほどく。
「着物だ。神田まで行けば、もっと色々なものがあったのだろうがな。本所で
包みの中に入っていた着物を手に持って上げ広げると、それは俺の背丈に合いそうな
俺は、わざわざ足を運んで着物を買ってきてくれた徳三郎さんに、感謝の言葉を伝える。
「有難うございます、高くなかったですか?」
「古着だからな。新しく
「この時代にもそんな店があるんですね」
「それと、
「お金はまだあるんですか?」
「ああ、
「はい、すずさんはいつ手習いが終わるんですか?」
「
――昼八つ?
俺はそこで疑問に思って尋ねる。
「あの、朝が確か朝五つで、その次が昼四つでしたよね?」
「そうだな、朝日が昇る少し
「六つ、五つ、四つ、ときて、午後にまた増えるんですか?」
「
「ややこしいですね」
俺は渋い顔をする。
徳三郎さんは、何がややこしいのか分からないといった顔をしている。
「そうかね? 一日が十二
「ええ、俺のいた時代では一日は二十四時間で、一時間は六十分、一分は六十秒という事になっています」
そう言うと、徳三郎さんが
「未来ではそんなに時を細かく分けるのかね!?
「未来では皆、秒単位で時刻がわかる時計を身につけているんですよ」
「ふうむ、一日を八六四〇〇もの時に分けるとは……
徳三郎さんがうなるように言って目を細める。それより俺は計算の速さに驚いた。
すると、どこからか鐘が鳴り始めた。
ゴ――――――ン
「あ、捨て鐘ですね」
「そうだな、もう
「え?」
徳三郎さんの言葉に、俺はきょとんとする。
そして、時の鐘が町中に響き始めた。
最初は間隔を開け、次第に詰めてゆっくりとしたペースで、鐘が九つ鳴り響くようであった。
俺はその途中で、徳三郎さんに尋ねる。
「江戸時代なのにお昼ご飯があるんですか?」
――江戸時代は一日に朝と夕の二食じゃなかったのか?
そう思っていると、俺の疑問に徳三郎さんが答える。
「そりゃ、昔ならいざ知らず、
――なんだか、俺が江戸時代に持っていたイメージとかなり違う。
そこに、深紫色の着物を着たすずさんが、おあきちゃんを連れて現れた。
「
「りょう兄ぃも、
おあきちゃんが笑顔を見せる。
俺はすずさんに質問する。
「ご飯はこれから炊くんですか?」
「何いってんのさ。
「ああ、そうなんですか。温かいご飯を食べられるのは朝だけなんですね」
「
すずさんの言葉に、俺はなるほどと
だが、そこで俺はあることに気付く。
「妖術で出した火で
「火を
――あの妖術、やっぱり疲れるのか。
すずさんは土間に降りる。そして、俺に振り返りこんなことを言う。
「なにやってんだよ? おまいさんの初仕事だよ? そこにある
「あ、はい」
俺が応えると、おあきちゃんはすずさんに尋ねかける。
「すず姉ぇ、枝豆はいつ?」
「ああ、こいつぁ晩だ。それまで我慢しておくれ」
「わかった!」
すずさんは二十代半ばくらい、おあきちゃんは五、六歳くらい。姉妹というよりは親子に見えるような気がしないでもなかった。
「りょうや、早く運ぶの
俺は「はい」と返事をし、朝に炊かれたご飯の入っているお
昼飯を食べ終わった俺はすずさんと一緒に午後、
食べ終わってからしばらく、おあきちゃんに
二時間ほど経って、捨て鐘が三つ、時の鐘が先ほどの
すずさんが帰ってきたところで、俺はねぎらいの言葉をかける。
「お疲れ様です」
すると、すずさんがきょとんとした顔になって返す。
「ん? ああ、別に疲れちゃいないけどね。手習いはいつものことさ」
――ひょっとして、ねぎらいに『お疲れ様』という言葉を使わないのか。
俺は言葉を続ける。
「手習い所は
「そうだね、どこの手習い所も大体は
すずさんがそんなことを教えてくれたところに、おあきちゃんがうきうきした様子で尋ねかける。
「すず姉ぇ! 今日の
「ああ、今日の
そこで、俺はあることに気付いて声を上げる。
「あっ! もしかして『おやつ』の語源って
すると、今度はすずさんだけでなくおあきちゃんもきょとんとする。
「何いってるの? りょう兄ぃ?」
「やっぱり、未来の者の言う事はよくわかんないね」
奇異そうなものを見るような反応を返され、俺は
すずさんがおあきちゃんに、おやつとして小皿に入れたお菓子を渡した後、俺はすずさんと一緒に、
俺は先ほど渡された
神社を出た俺は、歩きながら辺りをきょろきょろ見回す。何から何まで全て江戸時代だ。
自動車も、電線も、ビルも、アスファルトも、二十一世紀の街らしいものは一切がなかった。
木目調の板でできた壁の上に
古風だが新品である街並みに対比するような、夏の鮮やかな空の青さが際立っていた。
進んでいる方角である西の
間違いなくここは、俺のいた時代から二百年ほど前、まだ江戸と呼ばれていた頃の東京のようであった。
道すがら雑踏の音が聞こえる。子供のはしゃぐような笑い声が聞こえる。女の人のお喋りの声が聞こえる。
すずさんは「あたいについてきな」とだけ言い、自分だけ先にすたすたと歩く。
俺は慣れない
「すずさん、ちょっと待ってくださいよ」
話しかけるもすずさんは何も言わず、更に早足になり俺から離れる。
「すずさん、歩くの速いですよ。江戸の人はこんなに速く歩くんですか?」
なんとかもう一度追いついて戸惑いの声をかけると、早足で歩いているすずさんが俺を見ずに言う。
「違うよ。いい
「え? そうなんですか?」
「そうだよ。
――俺は高校一年生で、まだ誕生日が来ていない。十五歳って江戸時代じゃ大人なのか?
「大人って……俺、いくつくらいに見えているんですか?」
俺の質問にすずさんが答える。
「そんなの、二十四、五ってとこだろ? そんなに丈が高いんだからさ」
――え?
一瞬面食らった俺は、事実として自分の年齢を告げる。
「あの、俺まだ十五なんですけど」
「ぶっ!」
すずさんが噴き出し、俺の方を見て叫ぶかのような声を上げる。
「そ、それって
それよりも、俺は江戸時代に『マジ』って言葉があったことにびっくりした。
すずさんは笑い出した。
「そ、そ、そ、そんなでかぶつで、十五って! 十五! 十五なんてまだ前髪を剃るか剃らないかっていう、ケツの青い
すずさんはうずくまって、おかしくてたまらないという風に笑い出す。
周りの通行人が集まり、俺達二人を取り囲みながら噂話を始める。
「おい、あの姉ちゃん、何笑ってんだ?」
「あー、どーもよ、あの
「へぇー、あんな
「いや、相撲取りになるには痩せっぽちの
そんな声が聞こえてくる。町の人の視線が気恥ずかしい。すずさんは笑いのつぼに入ったのか、うずくまって背中を大きく震わせている。俺は笑うすずさんの手をひっぱる。
「すずさん、立ち上がってください。
「あ、悪い悪い。しっかし、おまいさんまだ小僧だったとはねぇ」
すずさんは立ち上がり、野次馬を掻き分けてまた歩き出す。
「十五ってやっぱりまだ子供なんですね」
そんなことを言いながら俺は隣を歩く。すずさんは今度は早足で歩かないし、俺の顔を見て話してくる。
「そりゃそうさ、男はだいたい十五で元服して若者衆の仲間入りを果たすんだけど、まだまだひよっこさ」
「さっきと違って、隣を歩いてくれるんですね」
「そりゃ、りょうぞう、おまいさんが
「……りょうぞう、って俺の事ですか?」
「りょうや
「まあ、ご
「
そんな事を話しながら、町を歩いた。
履物屋で事も無く
すずさんが、隣を歩く俺に声をかける。
「じゃあ、りょうぞう、帰りに
「
「
「あ、そうなんですね」
どうやら江戸の人たちにとって、
俺達二人は街角で
すずさんが屋台の親父に告げる。
「
「へい!」
すずさんが布製の財布から、四角い穴の開いた銭を八個取り出し、台の上に置く。
「すずさん、
「一人分で十六文さ」
「でも、お金は八つですね」
「こりゃ
「ああ、なるほど」
俺は納得する。
目の前では
「へい!
目の前の台の上に、丸い木の器に盛られた
屋台には、いくつもの竹製の
すずさんは『澄箸』と書かれた竹筒から箸を一組二本取り出し、
「りょうぞう、おまいさんも食べな。江戸では
「
「江戸の
俺は、別の高校に行った物知りなもう一人の親友である、
「あ、ひょっとして
すずさんは俺の言葉に応える。
「そうそう『
すずさんは大口を開けて、箸でとった
俺もすずさんに
「じゃあ、俺もいただきます」
――えっと、
――
ズズズズー
俺は
びしっ!
すずさんに頭の後ろを手刀で叩かれた。
「品のない食べ方をすんじゃないよ!
「え? でも
「『
すずさんはそう言うと、大口を開けて音を立てずに蕎麦を口の中にかっこむ。
「へえ、知りませんでした」
俺が
「なんか、おまいさんのいたところでは江戸の暮らしが随分と曲げられて伝わっているみたいだね」
「そうかもしれませんね。
「
俺は改めて、すずさんの真似をし
「俺も
蕎麦を飲み込んでからそう喋ると、すずさんが応える。
「まあ、あたいらも何百年も昔の足利や源平の世なんてあまり正しく知らないし、お互い様なのかもね」
そんな事を話しながら二人して
すずさんと一緒に
家の東、台所のある土間口のすぐ近くには掘り抜きの井戸がある。ここの井戸から毎朝水を汲み上げ、
試しに飲んでみたら海の水みたいにしょっぱかった。なんでも、ここ本所深川では井戸を掘っても飲み水は出ず、飲み水は舟や天秤棒などで運んできた水売りの人から買うのだという。
だが、飲めない塩水でも掃除や洗濯、食器洗いや米とぎには使えるので、井戸があると何かと便利なのだそうだ。
掃除や洗濯の他には、すずさんの代わりに重いものを運んだり、
江戸時代にはメールどころか電話も郵便もなく、誰かが何らかのメッセージを離れた所にいる誰かに伝えるには、本人が直接に
郵便制度がないことに関して俺は「
徳三郎さん、おあきちゃん、すずさんと一緒に明日からの事を話し合っていると、捨て鐘が三つ鳴って、時の鐘が七回鳴り響く七つ、つまり午後四時くらいになった。
徳三郎さんが口を開く。
「む、
「りょうぞう、これ持ってけ。
すずさんに何か柔らかいものが入った白い袋を渡された。
「なんですかこれ?」
「
「ああ、有難うございます」
――こんなもので本当に汚れが落ちるのだろうか。
手ぬぐいも受け取り、俺達四人は土間口から外に出る。
そこで、俺はあることに気付いた。
「あ、そういえば家に誰もいなくなりますが、
俺がそう言うと、おあきちゃんはきょとんとした様子を見せた。
「
「ははっ、
すずさんはけらけら笑う。その隣で徳三郎さんは深刻な顔をしている。
「そうか……二百年の
そういえば今朝、俺は稲荷神社に忍び込んでいることを疑われて、男に番所に連行されそうになったのであった。この時代の人たちは、そういう価値観が俺とは異なる世界に生きているのかもしれない。
神社を出てから東の方に一町半、すなわち160メートル程進むと、弓と矢が軒先に吊り下げられた、
俺は隣を歩いている徳三郎さんに尋ねる。
「入浴料はいくらなんですか?」
「お
向かって左に男湯、右に女湯と入り口が分かれている。
すずさんとおあきちゃんが俺達に向かって手を振る。
「じゃ、父さま、りょうぞう、またお
「またねー!」
おあきちゃんの元気な声に俺も手を振り返すと、徳三郎さんと共に男湯の
番台らしき
脱衣所らしき板間には着物を置く棚がある。それぞれの四角い棚には衣類
脱衣所と洗い場の間に壁はないようだ。男達が着物を脱ぎ着している脱衣所の向こうでは、裸の男達が手ぬぐいらしき布切れで体を洗っている。
洗い場の真ん中には出入り口に平行に
着物を脱いで下着姿になったところで、俺はあることに気付く。
――しまった、シャツとトランクスのままだった。
周りの人がもの珍しそうにじろじろと俺を見る。すると、着物を脱いで
「
「あっ、そうです。江戸では珍しいかと思いますね」
周囲の人たちの視線が外れていき、何とかやり過ごせたようだと俺は安堵した。
徳三郎さんと共に素っ裸になった俺は、洗い場で体を洗おうとしたが、どうやら江戸の者は洗う前にまずかけ湯をして、湯舟に入って体を温めてから洗うのだという。
洗い場から湯舟に入るには、
徳三郎さんは
俺も真似をして、岡湯から湯を手桶で取り、自分の体にかける。そして
――熱い。
尋常じゃなく熱い。夏だというのに摂氏四十五度はありそうだ。俺は湯舟に入ると胸まで湯に浸かり、近くにいる徳三郎さんに話しかける。
「やけに熱くないですか?」
「そうかね? 今は六月で夏だからぬるいほうだよ」
「これでですか?」
俺はぼやく。
「なんだいりょうぞう。こんな
すぐ隣から女性の声が聞こえてきた。
湯船に浸かった俺がすぐ横を見ると、そこには頭に手ぬぐいを巻いて、両腕を広げ浴槽に背もたれた裸のすずさんがいた。
「えっ! ちょっと! 何で一緒に入ってるんですか!?」
すずさんの胸にある、それなりの大きさのふたつの膨らみの上半分が見えている。男兄弟しかいない俺は、
「ん? あー、ここの湯の下にちゃんと仕切りがあるよ」
すずさんは湯の下にある仕切り板を叩く。どうやら
暗くてわかり辛かったが、よく見るとすずさんのすぐ向こうでおあきちゃんも湯に浸かっている。結い髪をしたまま、頭に手拭いを巻き付けた格好になっている。
俺は戸惑いながら声をあげる。
「混浴なんですか!?」
「『
「は、恥ずかしくないんですか? 裸見られて?」
「はぁ? 裸見られるくらいがなんで恥ずかしいのさ?」
俺はそこまで聞くと、熱い湯舟に体を深く沈め、声にならない声を
「何で、男と女で一緒に歩くのが恥ずかしくて、一緒に風呂に入って裸見られるのが恥ずかしくないんだ……」
そして思う。
――価値観が違う、やっぱりここは異世界だ。