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第四幕 文政年間での生活


 おあきちゃんから詳しく季節と暦の関係について教えてもらったところ、どうやら江戸時代と二十一世紀とは、暦が少しだけずれているらしいことがわかった。


 江戸時代では夏とされているのは四五六月であり、三カ月ごとに季節が巡るとのことだ。


 江戸時代での六月というのは、梅雨が終わってからの晴れの日が続く暑い盛りらしく、どうやら二十一世紀でいうところの七月から八月にかけてくらいの季節であるらしい。


 家をあらかた案内された後に、おあきちゃんはすずさんの手習い指南しなんの手伝いに行ってしまった。


 しばらく経って、太陽が真南にある頃すなわち真昼くらいに、膨らんだ風呂敷ふろしき包みを背負った徳三郎さんが帰ってきた。


 東口から台所のある土間に入った徳三郎さんは、土間段に腰を下ろし、風呂敷包みを板敷いたじきに置いてこんなことを言う。


「いやはや、中々なかなか高値たかねで買い取ってくれたよ。あのような形が整って、白く別品べっぴんなシャボンは見たことがなかったらしい」


「工場で作られた工業製品ですからね、手作りの石鹸とはずいぶんと違うと思います」


 そう俺が答えると、徳三郎さんはにこにこ笑いながら風呂敷包みをほどく。


「着物だ。神田まで行けば、もっと色々なものがあったのだろうがな。本所で調ととのえるならこんなものだろう、見てみるといい」


 包みの中に入っていた着物を手に持って上げ広げると、それは俺の背丈に合いそうな紺色こんいろ無地むじの着物のようであった。それと、神職の人が仕事しごとで着る白衣びゃくえと、藍色あいいろはかまを買ってきてくれたのだという。


 俺は、わざわざ足を運んで着物を買ってきてくれた徳三郎さんに、感謝の言葉を伝える。


「有難うございます、高くなかったですか?」

「古着だからな。新しくあつらえるとそれなりに高値たかねだが、古着ならそんなに高いものでもないよ」


「この時代にもそんな店があるんですね」

「それと、寝巻ねまきと襦袢じゅばん新品しんぴんふんどしも買ってきた。後は、晴れの日の草履ぞうりと遠出用の草鞋わらじ、雨の日の下駄げたそろえないとな」


「お金はまだあるんですか?」

「ああ、午後うまのあとは私には神職としての仕事しごとがあるから、おすずと共に買い求めに行くといい」


「はい、すずさんはいつ手習いが終わるんですか?」

未刻ひつじのこく、つまり昼八つには終わるよ」


――昼八つ?


 俺はそこで疑問に思って尋ねる。


「あの、朝が確か朝五つで、その次が昼四つでしたよね?」

「そうだな、朝日が昇る少しさきに鳴るのが明け六つだ」


「六つ、五つ、四つ、ときて、午後にまた増えるんですか?」

うま正刻しょうこく、つまり正午しょうごにまた鐘の数は九つに戻るのだよ。そして一刻いっときごとに減っていき、深夜の日付の変わる正刻しょうこくにまた九つに戻り、また一刻いっときごとに一つずつ減っていくのだよ」


「ややこしいですね」


 俺は渋い顔をする。


 徳三郎さんは、何がややこしいのか分からないといった顔をしている。

「そうかね? 一日が十二ときなのは当たり前だから、難しいとは思わんが……未来では違うのかね?」


「ええ、俺のいた時代では一日は二十四時間で、一時間は六十分、一分は六十秒という事になっています」


 そう言うと、徳三郎さんが驚愕きょうがくの表情を見せる。

「未来ではそんなに時を細かく分けるのかね!? もとより測れるのかね!?」


「未来では皆、秒単位で時刻がわかる時計を身につけているんですよ」

「ふうむ、一日を八六四〇〇もの時に分けるとは……ごころかれるが、ひどく忙しそうな世の中なのだな」


 徳三郎さんがうなるように言って目を細める。それより俺は計算の速さに驚いた。


 すると、どこからか鐘が鳴り始めた。


 ゴ――――――ン


「あ、捨て鐘ですね」

「そうだな、もう正午しょうごだからおすずが昼飯を食べに来るな」


「え?」


 徳三郎さんの言葉に、俺はきょとんとする。


 そして、時の鐘が町中に響き始めた。


 最初は間隔を開け、次第に詰めてゆっくりとしたペースで、鐘が九つ鳴り響くようであった。


 俺はその途中で、徳三郎さんに尋ねる。


「江戸時代なのにお昼ご飯があるんですか?」


――江戸時代は一日に朝と夕の二食じゃなかったのか? 


 そう思っていると、俺の疑問に徳三郎さんが答える。

「そりゃ、昔ならいざ知らず、文政ぶんせいの世ならおおよその者は昼飯は食べるものだよ」


――なんだか、俺が江戸時代に持っていたイメージとかなり違う。


 そこに、深紫色の着物を着たすずさんが、おあきちゃんを連れて現れた。


午前うまのまえが終わったので、昼飯を食べようかい」

「りょう兄ぃも、座敷ざしきで一緒に食べようよ!」


 おあきちゃんが笑顔を見せる。


 俺はすずさんに質問する。

「ご飯はこれから炊くんですか?」

「何いってんのさ。めしは朝に一日分を炊いて、昼と晩は冷えた飯を食べるんだよ」


「ああ、そうなんですか。温かいご飯を食べられるのは朝だけなんですね」

食毎しょくごとに炊けるとでも思ってんのかい? まきだってタダじゃないんだよ?」


 すずさんの言葉に、俺はなるほどとうなずく。確かに電気炊飯器も電子レンジもない生活ならば、毎食温かい飯を食べられる生活というのは贅沢ぜいたくなのかもしれない。


 だが、そこで俺はあることに気付く。


「妖術で出した火でかないんですか?」

「火をまきもくべずに絶え間なく燃やし続けるのは、疲れるのさ。種火たねび代わりに使うくらいだね」


――あの妖術、やっぱり疲れるのか。


 すずさんは土間に降りる。そして、俺に振り返りこんなことを言う。


「なにやってんだよ? おまいさんの初仕事だよ? そこにあるめしの入ったおひつを座敷に持って行っておくれ。あたいは味噌汁を持っていくからさ」

「あ、はい」


 俺が応えると、おあきちゃんはすずさんに尋ねかける。


「すず姉ぇ、枝豆はいつ?」


「ああ、こいつぁ晩だ。それまで我慢しておくれ」

「わかった!」


 すずさんは二十代半ばくらい、おあきちゃんは五、六歳くらい。姉妹というよりは親子に見えるような気がしないでもなかった。


「りょうや、早く運ぶの手伝てづたいな」


 俺は「はい」と返事をし、朝に炊かれたご飯の入っているおひつを座敷まで運んだ。






 昼飯を食べ終わった俺はすずさんと一緒に午後、履物はきものを買いに行く約束をした。やはり江戸の町でスニーカーはまずいのだろう。


 食べ終わってからしばらく、おあきちゃんにすずりでの墨のすり方や簡単な草書での平仮名を教えてもらいつつ、部屋で待っていた。


 二時間ほど経って、捨て鐘が三つ、時の鐘が先ほどのここのつより一つ少ないやっつ鳴った。おそらく午後二時くらいの時間帯だ。


 すずさんが帰ってきたところで、俺はねぎらいの言葉をかける。

「お疲れ様です」


 すると、すずさんがきょとんとした顔になって返す。

「ん? ああ、別に疲れちゃいないけどね。手習いはいつものことさ」


――ひょっとして、ねぎらいに『お疲れ様』という言葉を使わないのか。


 俺は言葉を続ける。


「手習い所は昼八ひるやっつで終わりなんですね」

「そうだね、どこの手習い所も大体はやっつで終わりだね。子供らは手習い所が終わったら、家に帰って菓子とか食べるのさ」



 すずさんがそんなことを教えてくれたところに、おあきちゃんがうきうきした様子で尋ねかける。


「すず姉ぇ! 今日のやっつのお菓子は何?」

「ああ、今日のやっつはあられだよ」


 そこで、俺はあることに気付いて声を上げる。


「あっ! もしかして『おやつ』の語源って昼八ひるやっつからですか!?」


 すると、今度はすずさんだけでなくおあきちゃんもきょとんとする。


「何いってるの? りょう兄ぃ?」

「やっぱり、未来の者の言う事はよくわかんないね」


 奇異そうなものを見るような反応を返され、俺はにが笑いをした。





 すずさんがおあきちゃんに、おやつとして小皿に入れたお菓子を渡した後、俺はすずさんと一緒に、下駄げた草履ぞうり、そして草鞋わらじを買うために家を出た。


 俺は先ほど渡されたこん色の着物を着て、徳三郎さんの下駄げたを借りて歩いていた。お金は既にすずさんが、徳三郎さんから受け取っているはずだ。


 神社を出た俺は、歩きながら辺りをきょろきょろ見回す。何から何まで全て江戸時代だ。


 自動車も、電線も、ビルも、アスファルトも、二十一世紀の街らしいものは一切がなかった。


 木目調の板でできた壁の上にかわらが並んだ屋根が乗った、江戸時代らしい純和風の二階建ての家と、文字の入った渋い色合いののぼりが、町中にはどこまでも並んでいる。


 古風だが新品である街並みに対比するような、夏の鮮やかな空の青さが際立っていた。


 進んでいる方角である西の彼方かなたには、二十一世紀にはとても見られないような澄みわたった空気の向こうに、未来のものと同じ輪郭りんかくをした薄青色うすあおいろの富士山が堂々どうどう鎮座ちんざしている。


 間違いなくここは、俺のいた時代から二百年ほど前、まだ江戸と呼ばれていた頃の東京のようであった。


 道すがら雑踏の音が聞こえる。子供のはしゃぐような笑い声が聞こえる。女の人のお喋りの声が聞こえる。


 土埃つちぼこりの匂い、辻でさかなを焼いている匂い、団子を焼いているかような香ばしい匂いがする。そして、下水道など整備されてないのであろう、においたる悪臭あくしゅう時折ときおり鼻に入る。


 すずさんは「あたいについてきな」とだけ言い、自分だけ先にすたすたと歩く。


 俺は慣れない下駄げただが、なんとか早足で歩きすずさんに追いつく。


「すずさん、ちょっと待ってくださいよ」

 話しかけるもすずさんは何も言わず、更に早足になり俺から離れる。


 下駄げたいた足を懸命に動かし、すずさんを追いかける。


「すずさん、歩くの速いですよ。江戸の人はこんなに速く歩くんですか?」


 なんとかもう一度追いついて戸惑いの声をかけると、早足で歩いているすずさんが俺を見ずに言う。


「違うよ。いいとしした男と女はね、町中では連れ立って歩かないもんなんだよ」


「え? そうなんですか?」

「そうだよ。夫婦めおとでも血縁けつえんでもない大人の男と大人の女はね、隣に並んで歩かないもんなのさ。恥ずかしいって思うもんだよ」


――俺は高校一年生で、まだ誕生日が来ていない。十五歳って江戸時代じゃ大人なのか?


「大人って……俺、いくつくらいに見えているんですか?」


 俺の質問にすずさんが答える。


「そんなの、二十四、五ってとこだろ? そんなに丈が高いんだからさ」


――え?


 一瞬面食らった俺は、事実として自分の年齢を告げる。


「あの、俺まだ十五なんですけど」

「ぶっ!」


 すずさんが噴き出し、俺の方を見て叫ぶかのような声を上げる。


「そ、それって真面まじかい!? あー! 吃驚びっくりしたよ!」


 それよりも、俺は江戸時代に『マジ』って言葉があったことにびっくりした。


 すずさんは笑い出した。

「そ、そ、そ、そんなでかぶつで、十五って! 十五! 十五なんてまだ前髪を剃るか剃らないかっていう、ケツの青い餓鬼がきじゃないかい!」


 すずさんはうずくまって、おかしくてたまらないという風に笑い出す。


 周りの通行人が集まり、俺達二人を取り囲みながら噂話を始める。


「おい、あの姉ちゃん、何笑ってんだ?」

「あー、どーもよ、あの大入道おおにゅうどうあんちゃん、まだ十五なんだとよ」


「へぇー、あんな丈高たけだかなのに子供なのかい。相撲取りになれんじゃないかね?」

「いや、相撲取りになるには痩せっぽちの青瓢箪あおびょうたんすぎんだろ」


 そんな声が聞こえてくる。町の人の視線が気恥ずかしい。すずさんは笑いのつぼに入ったのか、うずくまって背中を大きく震わせている。俺は笑うすずさんの手をひっぱる。


「すずさん、立ち上がってください。下駄げた草履ぞうりと、あと草鞋わらじを買わなきゃ」

「あ、悪い悪い。しっかし、おまいさんまだ小僧だったとはねぇ」


 すずさんは立ち上がり、野次馬を掻き分けてまた歩き出す。


「十五ってやっぱりまだ子供なんですね」


 そんなことを言いながら俺は隣を歩く。すずさんは今度は早足で歩かないし、俺の顔を見て話してくる。


「そりゃそうさ、男はだいたい十五で元服して若者衆の仲間入りを果たすんだけど、まだまだひよっこさ」

「さっきと違って、隣を歩いてくれるんですね」


「そりゃ、りょうぞう、おまいさんが餓鬼がきだってわかったからな」

「……りょうぞう、って俺の事ですか?」


「りょうや小僧こぞうを縮めたんだ。洒落しゃれてんだろ?」

「まあ、ご自由じゆうに」


自由じゆう? 我侭わがままなんかわないよあたいは?」


 そんな事を話しながら、町を歩いた。






  履物屋で事も無く下駄げた草履ぞうり、それから草鞋わらじを購入した俺達は帰路についていた。その他色々な生活必需品も購入し、俺はそれらの入った風呂敷包みを手に下げて歩いていた。


 すずさんが、隣を歩く俺に声をかける。

「じゃあ、りょうぞう、帰りに蕎麦そばでも食って帰ろうかね?」


晩御飯ばんごはんですか?」

めしじゃないよ、江戸っ子は小腹を満たすために蕎麦そばを食うもんなのさ」


「あ、そうなんですね」


 どうやら江戸の人たちにとって、蕎麦そばはファストフードのようなものらしい。


 俺達二人は街角で蕎麦そばを売っている屋台に近づいた。のぼりには草書体の平仮名文字で『そば』と書かれている。なお、屋台と言っても車輪はなく、お祭りで神社などにある屋台のようなものだった。


 すずさんが屋台の親父に告げる。

二人分ににんぶんおくれ」

「へい!」


 すずさんが布製の財布から、四角い穴の開いた銭を八個取り出し、台の上に置く。


「すずさん、蕎麦そばはいくらなんですか?」

「一人分で十六文さ」


「でも、お金は八つですね」

「こりゃ四文銭しもんせんだよ、八枚で三十二文さ」


「ああ、なるほど」

 俺は納得する。


 目の前では蕎麦そば屋の親父が蕎麦そばを丸い器に盛り、湯気がのぼる温かそうなつゆをかける。


「へい! 二人前ににんまえお待ち!」


 目の前の台の上に、丸い木の器に盛られた蕎麦そばが置かれ、同時に置いてあった四文銭八枚が回収される。


 屋台には、いくつもの竹製のはしがささった竹筒が二つあり、それぞれ『澄箸』と『済箸』と書かれていた。おそらくは、洗ってあるすみ箸と使い終わったすみ箸で洒落しゃれを効かせているのだろう。


 すずさんは『澄箸』と書かれた竹筒から箸を一組二本取り出し、蕎麦そばの盛られた器を手に取る。


「りょうぞう、おまいさんも食べな。江戸では蕎麦そばを食べないと江戸患えどわずらいになっちまうからね」

江戸患えどわずらい? なんですかそれ?」


「江戸のしゅうがかかるやまいさ。歩けなくなってまいには死んじまうのさ」


 俺は、別の高校に行った物知りなもう一人の親友である、たかしが教えてくれた雑学を思い出す。


「あ、ひょっとして脚気かっけのことですか?」


 脚気かっけは確かビタミンB1の欠乏で起こる病気だ。玄米を食べずに白米ばかり食べていてはビタミンB1が不足する。江戸の人は蕎麦そばに含まれるビタミンB1で脚気予防をしていたのか。


 すずさんは俺の言葉に応える。

「そうそう『脚気かっけ』というね。夏の蕎麦そば素直すなおに言って、犬も食わない味気ないもんだけどね。なんせ昨年の秋にいた蕎麦そば粉だからさ。でも、やまいにならないためにもちゃんと食わないといけないよ」


 すずさんは大口を開けて、箸でとった蕎麦そばを口の中に入れる。もちろんどこかに座るわけはない、立ち食いである。


 俺もすずさんにならって、すずさんの左に並び『澄箸』と書かれた竹筒から箸を取る。

「じゃあ、俺もいただきます」


――えっと、蕎麦そばの正しい食べ方は……


――麺類めんるいなんだから、ラーメンみたいにすするのが昔からの作法だよな、そりゃ。


 ズズズズー


 俺は蕎麦そばを音を出してすする。


 びしっ!


 すずさんに頭の後ろを手刀で叩かれた。


「品のない食べ方をすんじゃないよ! 蕎麦そばを音を出してすする奴があるかい!」

「え? でも落語らくごとかだとすすりません?」


「『落語らくご』? ああ、落し噺おとしばなしのことかい? ありゃただはなしだよ。蕎麦そばはこうやって手繰たぐるもんなのさ。見てな」


 すずさんはそう言うと、大口を開けて音を立てずに蕎麦を口の中にかっこむ。


「へえ、知りませんでした」


 俺がまばたきをすると、すずさんはジト目で俺を見る。


「なんか、おまいさんのいたところでは江戸の暮らしが随分と曲げられて伝わっているみたいだね」

「そうかもしれませんね。時代劇じだいげきとかでしか知りませんし」


時代劇じだいげきか、さっきも言ってたね。昔を演じた、ときげきってとこかい? お芝居はただのお芝居さ」


 俺は改めて、すずさんの真似をし蕎麦そばをかっこむように口に入れる。


「俺も結構けっこう戸惑っているんですよ。思っていたのとかなり違いますし」


 蕎麦を飲み込んでからそう喋ると、すずさんが応える。


「まあ、あたいらも何百年も昔の足利や源平の世なんてあまり正しく知らないし、お互い様なのかもね」


 そんな事を話しながら二人して蕎麦そばを食べていると、頭上の空にどこかの小鳥の鳴き声が響いた。






 すずさんと一緒に名賀山みょうがやま稲荷社いなりやしろに帰った俺は、明日から始まる神職の手伝いの簡単な説明を受けていた。


 家の東、台所のある土間口のすぐ近くには掘り抜きの井戸がある。ここの井戸から毎朝水を汲み上げ、手水ちょうず桶の水を入れ替えるのだそうだ。


 試しに飲んでみたら海の水みたいにしょっぱかった。なんでも、ここ本所深川では井戸を掘っても飲み水は出ず、飲み水は舟や天秤棒などで運んできた水売りの人から買うのだという。


 だが、飲めない塩水でも掃除や洗濯、食器洗いや米とぎには使えるので、井戸があると何かと便利なのだそうだ。


 床箒ゆかぼうき雑巾ぞうきんの使い方は二十一世紀とそんなに変わらない。ただ、バケツがなくおけで水を溜めるのは少々不便かもしれないと思った。


 掃除や洗濯の他には、すずさんの代わりに重いものを運んだり、細々こまごまとしたお手伝いやお使い、言付ことづけなどを請け負う事を確認した。


 江戸時代にはメールどころか電話も郵便もなく、誰かが何らかのメッセージを離れた所にいる誰かに伝えるには、本人が直接におもむいて伝えるか、他の誰かに頼んで言伝ことづてあるいは手紙てがみで伝えてもらう必要があるとのことだ。俺が小間使こまづかいとしてそれをするだけでも、徳三郎さんにとっては、かなり助かるらしい。


 郵便制度がないことに関して俺は「飛脚ひきゃくは使えないんですか?」といたが、あれは江戸えど大阪おおさかの間でやりとりするような、遠隔地だけのものらしい。


 徳三郎さん、おあきちゃん、すずさんと一緒に明日からの事を話し合っていると、捨て鐘が三つ鳴って、時の鐘が七回鳴り響く七つ、つまり午後四時くらいになった。


 徳三郎さんが口を開く。


「む、ゆう七つだな、では皆で湯屋ゆやにいこうかね」


 湯屋ゆやとは、つまり銭湯せんとうの事だ。すずさんが土間に降り、何か袋を取り出す。


「りょうぞう、これ持ってけ。湯屋ゆやは初めてなんだろ?」


 すずさんに何か柔らかいものが入った白い袋を渡された。


「なんですかこれ?」

湯屋ゆやなんだからさ、ぬか袋だよ。江戸えど市井しせいじゃシャボンでなくて、このぬか袋で汚れを落とすのさ」


「ああ、有難うございます」


――こんなもので本当に汚れが落ちるのだろうか。


 手ぬぐいも受け取り、俺達四人は土間口から外に出る。


 そこで、俺はあることに気付いた。

「あ、そういえば家に誰もいなくなりますが、かぎはかけないんですか?」


 俺がそう言うと、おあきちゃんはきょとんとした様子を見せた。


かぎ? 錠前じょうまえだよね? りょう兄ぃ、くらでもないのにそんなものかけないよ?」


「ははっ、稲荷社いなりやしろ真昼間まっぴるまからぞくなんかが忍び込んだら、町のしゅう袋叩ふくろだたきにされちまうよ」

 すずさんはけらけら笑う。その隣で徳三郎さんは深刻な顔をしている。

「そうか……二百年ののちの世では、住処すみかですらじょうをしないといけないのだな……」


 そういえば今朝、俺は稲荷神社に忍び込んでいることを疑われて、男に番所に連行されそうになったのであった。この時代の人たちは、そういう価値観が俺とは異なる世界に生きているのかもしれない。





 神社を出てから東の方に一町半、すなわち160メートル程進むと、弓と矢が軒先に吊り下げられた、欄干らんかんのついた二階がある建物があった。この弓矢ゆみや湯屋ゆやを示し、『ゆみる』と『る』をかけているのだという。


 俺は隣を歩いている徳三郎さんに尋ねる。

「入浴料はいくらなんですか?」


「おしろかね? おしろは私たちは月究つきぎめで、君は一度ひとたび八文だな」


 向かって左に男湯、右に女湯と入り口が分かれている。


 すずさんとおあきちゃんが俺達に向かって手を振る。


「じゃ、父さま、りょうぞう、またおあとで」

「またねー!」


 おあきちゃんの元気な声に俺も手を振り返すと、徳三郎さんと共に男湯の暖簾のれんをくぐり、中に入る。


 番台らしき高座たかざにはお爺さんが座っており、俺は用意してくれた銭を台に置く。


 脱衣所らしき板間には着物を置く棚がある。それぞれの四角い棚には衣類かごがあり、中に着物などを入れられるようであった。棚の上の部分の細い領域には、『い』や『ろ』や『は』といった風に平仮名ひらがなが書かれており、認識番号の代わりとなっている。


 脱衣所と洗い場の間に壁はないようだ。男達が着物を脱ぎ着している脱衣所の向こうでは、裸の男達が手ぬぐいらしき布切れで体を洗っている。


 洗い場の真ん中には出入り口に平行にみぞが走っており、床をつたう汚れ湯はすべてそちらの方に流れている。床板の傾斜により、湯水は全てそのみぞに流れていくような設計になっているらしい。


 着物を脱いで下着姿になったところで、俺はあることに気付く。


――しまった、シャツとトランクスのままだった。


 周りの人がもの珍しそうにじろじろと俺を見る。すると、着物を脱いでふんどし一丁になっていた徳三郎さんが助け舟を出してくれた。


亮哉りょうやくん、それが南蛮なんばん渡来とらい襦袢じゅばんかね?」


 ふんどし姿になった徳三郎さんの機転きてんに、俺は応える。

「あっ、そうです。江戸では珍しいかと思いますね」


 周囲の人たちの視線が外れていき、何とかやり過ごせたようだと俺は安堵した。


 徳三郎さんと共に素っ裸になった俺は、洗い場で体を洗おうとしたが、どうやら江戸の者は洗う前にまずかけ湯をして、湯舟に入って体を温めてから洗うのだという。


 洗い場から湯舟に入るには、石榴口ざくろぐちという高さ三尺、つまり90センチメートルほどの低い出入り口をくぐらなければならないらしい。何でも湯気や温かさを逃がさないためであるとか。


 徳三郎さんは石榴口ざくろぐちそばにある、岡湯おかゆという洗い場で使う湯を手桶ですくってかけ湯をすると、慣れた様子で石榴口ざくろぐちをくぐり、「ごめんなさい」という掛け声と共に湯舟に入っていった。


 俺も真似をして、岡湯から湯を手桶で取り、自分の体にかける。そして石榴口ざくろぐちくぐる。小柄な江戸の男と違い、なかなかくぐるのは大変だ。


 石榴口ざくろぐちを潜ると、格子のはまった小さな採光窓が一つだけあり、かなり暗い中に湯舟があるのが見える。俺は「ご免なさい」と言いながら湯舟に入る。


――熱い。


 尋常じゃなく熱い。夏だというのに摂氏四十五度はありそうだ。俺は湯舟に入ると胸まで湯に浸かり、近くにいる徳三郎さんに話しかける。


「やけに熱くないですか?」

「そうかね? 今は六月で夏だからぬるいほうだよ」


「これでですか?」

 俺はぼやく。


「なんだいりょうぞう。こんな日向水ひなたみずくらいで熱いなんざ吐くだなんて、しだらないねえ」


 すぐ隣から女性の声が聞こえてきた。


 湯船に浸かった俺がすぐ横を見ると、そこには頭に手ぬぐいを巻いて、両腕を広げ浴槽に背もたれた裸のすずさんがいた。


「えっ! ちょっと! 何で一緒に入ってるんですか!?」


 すずさんの胸にある、それなりの大きさのふたつの膨らみの上半分が見えている。男兄弟しかいない俺は、白肌しろはださらしたすずさんのあられもない格好に動揺する。


「ん? あー、ここの湯の下にちゃんと仕切りがあるよ」


 すずさんは湯の下にある仕切り板を叩く。どうやら湯面ゆおもての下に男湯と女湯を隔てている板があるらしい。


 暗くてわかり辛かったが、よく見るとすずさんのすぐ向こうでおあきちゃんも湯に浸かっている。結い髪をしたまま、頭に手拭いを巻き付けた格好になっている。


 俺は戸惑いながら声をあげる。


「混浴なんですか!?」

「『混浴こんよく』? ああ、入込湯いりこみゆのことかい? 寛政かんせいの頃に男と女の風呂を別にすべき、っていう御触書おふれがきが出た事は出たんだけどねぇ。湯屋を建て替えるのなんて楽じゃないからさ、こんな風に入り口だけ別にしてんのさ」


「は、恥ずかしくないんですか? 裸見られて?」

「はぁ? 裸見られるくらいがなんで恥ずかしいのさ?」


 俺はそこまで聞くと、熱い湯舟に体を深く沈め、声にならない声をつぶやく。


「何で、男と女で一緒に歩くのが恥ずかしくて、一緒に風呂に入って裸見られるのが恥ずかしくないんだ……」


 そして思う。


――価値観が違う、やっぱりここは異世界だ。

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