「ふむ……二百年ほど後の世から……かね」
徳三郎さんが興味深そうに
「『
すずさんが
「二百年も後の世ってあの
おあきちゃんが興味深そうに俺を見つめる。
俺は感情を吐き出すように告げる。
「ええ、俺もびっくりしましたよ。目覚めたら江戸時代だったんですから」
「『
徳三郎さんが尋ねるので、俺は返す。
「ええ、俺の時代では江戸は『
「『
「そうですね、現代……俺のいた時代では
俺がそう言うと、徳三郎さんは
「りょうや、それ誰にも言うんじゃないよ。
俺はごくりと唾を飲んだ。その時代時代に応じて言ってはいけない
おあきちゃんが俺に尋ねる。
「徳川の
「えっと……俺は十九
「『
不思議そうな顔を見せるおあきちゃんに、俺は返す。
「ああ、この時代では使わない言葉も結構あるみたいだね。つまり、百年以内に徳川の世が終わるってことになるかな」
俺の話を聞き、徳三郎さんがこんなことを
「世の中は
――そういうものだろうか。
すずさんが悩んだ様子で口を開く。
「それにしてもまいったねぇ。おまいさんをこちらに連れてきたのはあたいだから、帰してやるのがまっとうなんだけど、ややこしくなったねぇ」
「昨日はすずさん、何をしてたんですか? あの兎みたいな生き物は何だったんですか?」
俺がそう尋ねると、すずさんが返す。
「なに、
――あやかし?
「つまり、
「ああ、
つまり、俺が二十一世紀から江戸時代に飛ばされたのは妖怪の力で、すずさんはその妖怪を退治する妖狐だったのか。随分とファンタジーな話だ。
「俺がこの時代に来たのも、その妖怪の
「なんとも言えないさ。ひょっとしたらあたいの
「結局、あの兎みたいな妖怪は、どうなったんですか?」
「逃げられたよ。かなり探し回ったんだけどねぇ、もう影も形も見当たらなかった」
――えっ。
――それって……帰れないってことでは。
「あの……ひょっとして、俺もう帰れないんですか?」
俺の体がぶるぶる震えるも、すずさんは気にしない様子で声をかけてくる。
「なんだいなんだい!? そんな暗い顔なんかしなさんな!
「……そんな
そう、俺には帰るべき場所がある。二十一世紀の東京には俺の家族が、友達が、そして何より葉月がいる。俺はどうしても帰らなければいけない。
すずさんは気楽そうに言う。
「
「そうなんですか、それなら今晩にでも行ってさっそく……」
「待ちな、待ちな、あいつは
「じゃあ……最低でも、一ヶ月はこの時代にいなければいけないって事ですか?」
「おのずとそうなるねぇ」
すずさんはあっけらかんと言う。
――そんな……一ヶ月も江戸時代で暮らせるのか?
困った顔をしている俺に、すずさんが話しかける。
「まあ、ここに連れてきたのはあたいのせいだし。心配すんな、必ず元の世に帰してやるよ」
「お願いしますよ」
と、そこでどこか遠くから、寺で鳴っているかのような
ゴ―――――ン
鐘の音がゆっくりと鳴っている最中にて、すずさんが立ち上がる。
「おっといけない、もう朝五つだよ!
――
「じゃ、あたいは手習いを教えに行ってくるよ。父さまもおあきも、
すずさんはそう言うと、
再び鐘の音がどこかから聞こえてきた。
最初は
鐘の音が鳴っている最中に、俺は徳三郎さんに尋ねる。
「手習い所ってなんですか?」
「おすずは、この
「ああ、
俺の言葉に、おあきちゃんがきょとんとする。
「
それを聞いて徳三郎さんが、隣にいるおあきちゃんに伝える。
「
「へえ、そうなんだ」
おあきちゃんは
俺も知らなかった。寺子屋とは
徳三郎さんが俺に話しかける。
「まあ、こうなったのも何かの
「すいません、有難うございます」
「お兄ちゃん、ここに住むの?」
おあきちゃんの目が輝き、徳三郎さんが応える。
「そうなるな。まあ、ただ飯という訳にはいかないがね」
江戸時代に無一文の宿無しで放り出される心配がないというだけでも、生存できるかどうかがまったく違う。俺は見ず知らずの人間に部屋を貸してくれるという、二十一世紀では考えられない親切心に心から感謝した。
「掃除でも、お使いでもなんでもしますので」
「そうしてくれると助かるな。ところで昨夜おすずが持ち帰ってきた君の
徳三郎さんが部屋に置いてあるスポーツバッグに視線をやるので、俺は応える。
「あ、わかりません。友達がバレー部の合宿の為に用意した荷物ですから」
「『ばれえぶ』? 何それ?」
聞きなれない外来語に、おあきちゃんは目をきょとんとさせていた。
徳三郎さんは何か探しものがあると言って、どこかに行ってしまった。
俺はスポーツバッグを開けて中身を確かめる。その
「ねえお兄ちゃん? お兄ちゃんの名、さっき『りょうや』って言ってたよね?」
「ああ、
「『りょうや』ってどんな字?」
その問いかけに俺は、別の高校に進学したもう一人の親友が言っていた話の内容を思い出す。
「えっと……
「わかる!
「その『
「『
ああそうか、
「えっと、『
「へえ、じゃあこれから『りょう
「ああ、じゃあどうぞ」
そんな事を話しながら、二つのバッグの中身を外に出し並べていく。
「へぇー、見たことのないものばっかり」
おあきちゃんは好奇心に溢れた目で、未来の様々な合宿道具を見る。
まず救急箱。開けてみると、消毒液に正露丸に風邪薬、アセチルサリチル酸錠剤、抗生物質入り傷薬、冷却シート、酔い止め薬、虫刺され薬、包帯、体温計、
ハンカチ六枚。ハンドタオルが九枚。レインコートが一着。折り畳み傘が一つ。新品の
ティッシュ箱が一箱、ポケットティッシュが十個、濡れティッシュボックス一つ、大きなポリ袋三枚、ビニール袋二十枚セット。
手回し式のハンドルがついている携帯充電器一つ。LEDハンディライト一つ。
蚊取り線香と、それを入れる金具。ホイッスル、熊よけ鈴、ランニング用蛍光タスキ、
遊具としてかトランプ一セット、インスタントカメラ一つ、オペラグラス一つ、コンビニで売られているような花火セット一式に、ユーティリティライター一つ。
これで終わりかと思ったら、バッグの奥に何か光るものを見つけたので、俺はつまんで拾い取る。
「ビー玉? 何でこんな所に?」
透明な色のないビー玉だった。
すると、そのビー玉を見ておあきちゃんが感激したような声を上げる。
「うわっ! それ何?
――ガラスでできたビー玉がそんなに珍しいのかな? まあ、江戸時代だし。
「ああ、欲しいならあげるよ。多分誰かの忘れ物だし」
俺は、まるいビー玉をおあきちゃんに手渡した。
「ありがとう! あたしの
ビー玉が相当に嬉しいようで、おあきちゃんは満面の笑顔をみせた。
――しかし、女子バレー部の人が、何故ビー玉を。
――女子バレー部の合宿で……
――ん?
何か
「私が若い頃に使っていた付けまげだ、使うと良い。江戸の町ではまげが無いと
俺は一礼して付けまげを受け取る。黒く
「りょう兄ぃ、あたしが付けてあげる」
そう言われたのでおあきちゃんに付けまげを手渡し、背中を見せて座る。おあきちゃんは子供らしく背が低いので、俺が座らないと手が届かないだろうと思っての
座っている俺の頭の後ろで、おあきちゃんがまげを付けようとしてくれている感触が伝わる。
「はい、できたよ」
おあきちゃんが、いかにも幼い子供っぽい可愛らしい声で俺に言う。
「ありがと、うん、ちゃんとぴったり付いている感じがする」
お礼を言い、立ち上がる。俺が頭の後ろを撫でると、まげの
「そして、こちらは私の着物だ。少し君には小さいかも知れんがな」
徳三郎さんに手渡された布のかたまりを広げると、
「それにしても、
「俺は普通よりちょっと高いだけですよ」
先ほど、鳥居の前で俺に詰め寄った男も、160センチ台半ば程度しかなかったことを思い出す。そういえば、江戸時代の人の平均身長は現代よりかなり低かったと聞いたことがある。
着物を手に持った俺は、困った事に気が付く。
「すいません、着物の
「ふむ、おあき、ちょっと部屋から出ていなさい」
徳三郎さんが声をかけると、おあきちゃんは「はい」とだけ言い、部屋を出て
Tシャツを脱ぎ、ジーンズを脱ぎ、靴下を脱ぎ、シャツ一枚とトランクスのみの格好になる。俺は徳三郎さんに手ほどきを受けて、何とか着物を身につけた。
――しかし、これは。
「やはり、君には着物の丈が合わないな」
徳三郎さんの声に俺も
「つんつるてんですね」
着物の下から、
徳三郎さんが困った顔で伝える。
「これでは外を歩いたら目立つな。どこかで新しく着物を
着物を新しく買う必要があるという事か。この時代に
「何か持ってきた物の中に、お金になるものがあればいいんですが……」
俺は、
「でも、どれがいいかな……オーパーツなんか遺しちゃまずいし……」
俺は
「
――あくいし?
俺は徳三郎さんの手元に目をやると、横文字で『石鹸』と書かれた紙ケースがあった。
――右から左に訓読みして
「ああ、未来では文字を横に並べて左から右に読むので『
「何かの
徳三郎さんは、
「身体を洗ったりするのに使う、白い
俺がそう言うと、徳三郎さんは左手で右手の甲をぽんと叩いた。
「シャボンのことかね!?」
「シャボン? ああ、そうです。水に溶かしてストローで吹くと、シャボン玉ができます」
「
「ええ、おそらくは似たようなものでしょう」
「シャボンならば、
徳三郎さんが
徳三郎さんはここ
石鹸はそのままではなく、箱から取り出して布に包み、どこかにあった
石鹸を取り出すときに、俺が破った包みのプラスチックビニールを徳三郎さんが手に取って、見たことのない素材を興味深そうに触っていたのが印象深い。
石鹸を売ってくるついでに、着物屋で俺の体に似合いそうな服も買ってきてくれるらしい。本当に何から何まで申し訳ない。
徳三郎さんが出かける前に
――だったら、180センチある
そんなことを考えながら、俺は先ほどのつんつるてんの焦茶色の着物を身につけ、一人和室で
「りょう兄ぃ、お話済んだ?」
おあきちゃんがお澄まし顔で近寄る。
「ああ、おあきちゃん。最初はどうしようかと思ったけど、もうそれなりに落ち着いたよ」
「ねえ、あたしもっと
くりくりした目が俺の顔を覗き込みつつ、そう好奇心いっぱいの様子で尋ねかけてくるも、俺はやんわりと断った。
「ああ、ごめん。どんな影響……つまり悪い事になるかがわからないから、あまり未来の話はしちゃダメだと思うんだ」
「ちぇー」
おあきちゃんは頬を膨らませる。
俺はおあきちゃんに尋ねる。
「それより、この家を案内してよ、いつ帰れるか分からないけど、トイレとかお風呂とかの場所を知っておきたいし」
「うん! いいよ!」
おあきちゃんは元気な声を出し、言葉を続ける。
「『といれ』って
「あ……えっと、
「
手を引っ張られ、縁側に出る。縁側に沿って歩くと、神社の本殿の裏手らしきものが見えた。
「けっこう広いね、この家はどれくらいの広さ?」
「
――
――
「百坪か、ずいぶんと広いね」
「
すずさんは、ここを
そんな事を考えて
おあきちゃんが俺に振り向き、口を開く。
「ここが
「いや、未来でも
「へえ、そうなんだ。父さまの
おあきちゃんはそう言うと、段差に腰をかけて、土間にあった赤い
俺も土間に降り、その隣にあった下駄の鼻緒に足の指を通し、おあきちゃんに尋ねる。
「
「たいそう広いお屋敷ってわけでもないからね。これくらいのお
おあきちゃんが笑う。
土間の東口から外に出た俺は青空を仰ぎ見た。午前中の太陽がまぶしい。
おあきちゃんは再び、俺を先導する。
「こっち、こっち」
俺はついていく。
神社の大きな建物の東側にある庭には物干し竿などがあり、巫女服の白衣と共に俺の
右手に神社の本殿がある大きな建物、左手に木の塀とドブ
全員が、当然のように江戸時代の人間の格好をしている。ほとんどの男が頭のてっぺんを円く剃っており、皆まげをしていた。
女性は女性で、頭の上を色鮮やかな石の付いた
黄緑に近い
俺は感嘆の息を口から漏らす。
「凄いな、本当に江戸時代なんだ」
また、先ほど教えられたようにほとんどの人がずいぶんと背が低い。女性に至っては、ほぼ全員が身長150センチもない。
天秤棒を担いでいる小柄な男が左から歩いてきた。
「あさがお~あさがお~はいらんかね~」
天秤棒から吊るされた二つの棚には、朝顔の植わった小さな鉢がいくつも収まっていた。あんな小さな体の
俺を先導していたおあきちゃんが、指を差しつつ振り返って声をかけてくる。
「りょう兄ぃ、
指差した先、小さなヤツデの木のすぐ近くに、こぢんまりとした小屋がある。どう考えても下水道が整備されてなさそうな、汲み取り
「道に面しているのは、神社だから? 誰でも使えるように?」
俺がそう尋ねると、おあきちゃんは
「それもあるけどね、道行く人が出したものが溜まったら、
「え? 買い取るって?
俺がそう驚きの声を上げると、おあきちゃんは
「東の河向こうにある、
おあきちゃんは軽快な声で喋り、俺は先人の構築しているよくできた社会システムに感心する。
「ああそっか、お金を貰えて回収もしてくれるから下水道もいらないのか。ちゃんと有用にリサイクルされているんだね」
「『りさいくる』って何?」
おあきちゃんが尋ねるので、俺は返す。
「使えるものは、ちゃんともう一度使えるように
「そんなの当たり前じゃない? わざわざ言葉があるなんて変なのっ!」
にこにこしたおあきちゃんの顔が
と、そこで、近くから子供の騒ぐ声が聞こえることに気付いた。小学校の教室のような、そんな感じのざわめきだった。
俺は口を開く。
「なんか、子供の声がするね」
「お姉ぇが師匠をしている、手習い所の子供だよ。覗いてみる?」
おあきちゃんに促され、神社の前のほうに回る。どうやら朱の鳥居を真南の正面に据えており、東が手習い所の講堂、西が儀式などを執り行う本殿らしい。鳥居の近くには先ほど見た
子供が
すずさんは巫女服から
俺は隣にいるおあきちゃんに尋ねる。
「全部で何人くらい?」
「今年は二十九人」
「年齢がばらばらだけど、学年とかはないの? 年齢で分けるとか」
俺がそう尋ねると、おあきちゃんは不思議そうな顔をする。
「
「つまり、それぞれの子供に合った学習をさせるってことか」
――なるほど、確かにその方が合理的かもしれない。
――あれ? 男女が同じ部屋で学んでいるけど、戦前は男と女の教育は別じゃなかったっけ?
疑問に感じた俺は、続けておあきちゃんに尋ねる。
「男の子も女の子も一緒に教育を受けるの?」
「女の子だけの所も男の子だけの所もあるらしいね。でも、ここで学ぶのは、読み書き
「へえ、じゃあ本当に小学校みたいなものなんだ」
――男女別の教育ってひょっとして戦前の一時的なものだったのか。
「りょう兄ぃは、読み書き
「
俺は返答に詰まる。二十一世紀の
俺は言葉を続ける。
「できないかもしれないな。
「あっ! じゃああたしが読み書き教えてあげよっか?」
おあきちゃんの表情が明るくなる。
「ああ、じゃあお願いするよ」
俺がにこやかに答えると、おあきちゃんは喜んだ表情を見せる。
「じゃあ、りょう兄ぃがあたしの一番弟子だね」
「お手柔らかにね。で、お風呂は
俺が質問すると、おあきちゃんは東の方、神社の外を指差す。
「あっちの方に、
「えっ? ひょっとして……
「
おあきちゃんはにこにこ笑い、俺は返す。
「ああ、一応あるけど」
「すごーい! ひょっとして、りょう兄ぃのお
「いや……普通の庶民だよ。街にある普通の家」
「未来では
おあきちゃんはうきうきした口調で俺に伝える。
と、そこでまたどこか遠くから、鐘の音が鳴り響いた。
ゴ――――――ン
ゆっくりと鐘が鳴っている途中で、おあきちゃんが口を開く。
「あ、
「捨て鐘って何?」
俺が尋ねると、おあきちゃんが返す。
「時の鐘を鳴らす前に、町の皆に気付かせるために三つ鳴らすの」
「へぇー」
俺が間の抜けた返事をすると、捨て鐘が鳴り終わり、再び鐘が鳴り響く。
十五秒くらいの間隔で非常にゆっくりと四つの鐘が鳴り終ったところで、おあきちゃんが口を開く。
「多分に、そろそろ蝉が鳴き始めるよ」
「蝉? あれ? 今日って何月何日だっけ?」
――さっきすずさんに教えてもらった日付は……確か……
「六月十六日だよ」
――やっぱり、まだ六月中旬なのに蝉?
「まだ蝉の季節には早いんじゃない?」
そう俺が疑問を
「未来では夏に蝉が鳴かないの?」
「いや? 普通に鳴くけど、六月半ばは蝉の声が鳴るような時期じゃ……」
ミーン
ミーンミーンミーン
ミーンミーンミーン
二十一世紀の東京と変わらない蝉の声が鳴りはじめた。
おあきちゃんがにっこりとした笑みを見せる。
「ね? 鳴き始めたでしょ?」
夏の蝉の声は