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第三幕 本所深川の稲荷社

「ふむ……二百年ほど後の世から……かね」

 徳三郎さんが興味深そうにあごに手を当てる。


「『未来みらい』ってやつかい? にわかには信じられないね」

 すずさんが怪訝けげんな顔を見せる。


「二百年も後の世ってあの隠り世かくりよがそうだったの?」

 おあきちゃんが興味深そうに俺を見つめる。


 俺は感情を吐き出すように告げる。

「ええ、俺もびっくりしましたよ。目覚めたら江戸時代だったんですから」


「『江戸時代えどじだい』か。それはつまり、今のような江戸えど御公儀ごこうぎがあるときということかね?」


 徳三郎さんが尋ねるので、俺は返す。


「ええ、俺の時代では江戸は『東京とうきょう』という名前になっています」

「『東京とうきょう』……『東京ひがしのみやこ』ということか。もしや二百年にひゃくねんのちには、徳川とくがわ将軍しょうぐんおさめるは終わっているということかね?」


「そうですね、現代……俺のいた時代では民主みんしゅ主義しゅぎです。つまり、日本の国や地方の政治せいじは、選挙せんきょ国民こくみんえらばれた政治家せいじかめています」


 俺がそう言うと、徳三郎さんは感慨かんがい深そうに何度もうなずき、すずさんは目を細め、神妙しんみょう面持おももちでゆっくりと俺に告げた。


「りょうや、それ誰にも言うんじゃないよ。役人やくにんの耳に入ったら島流しになるからさ」


 俺はごくりと唾を飲んだ。その時代時代に応じて言ってはいけない禁忌タブーというものがあるのは当然だ。


 おあきちゃんが俺に尋ねる。

「徳川の御公儀ごこうぎがいつか終わるの?」


「えっと……俺は十九世紀せいき維新いしんがあって、あたらしい政府せいふになったって学んだけど」

「『世紀せいき』? 『維新いしん』? 『政府せいふ』? 耳慣れない言葉ばっかり」


 不思議そうな顔を見せるおあきちゃんに、俺は返す。


「ああ、この時代では使わない言葉も結構あるみたいだね。つまり、百年以内に徳川の世が終わるってことになるかな」


 俺の話を聞き、徳三郎さんがこんなことを達観たっかんした口調で述べる。


「世の中は無常むじょうなものだよ。鎌倉かまくら北条ほうじょうの治める世も、室町むろまち足利あしかがの治める世も、三百年もは続かなかった。徳川の御公儀ごこうぎ永久とこしえに続かなくても、何も無理はないものだ」


――そういうものだろうか。


 すずさんが悩んだ様子で口を開く。

「それにしてもまいったねぇ。おまいさんをこちらに連れてきたのはあたいだから、帰してやるのがまっとうなんだけど、ややこしくなったねぇ」


「昨日はすずさん、何をしてたんですか? あの兎みたいな生き物は何だったんですか?」


 俺がそう尋ねると、すずさんが返す。


「なに、容易たやすい話さ。ととさまが神官しんかんをやっているから、色々悪さするあやかしの話が入ってくるのさ。そいつをあたいが裏でこっそりと調伏ちょうぶくを代わりに行って、しずまったら後に礼を貰うって訳さ」


――あやかし? あやかしって……妖怪ようかい


「つまり、妖怪ようかい退治たいじですか?」

「ああ、近頃ちかごろは『妖怪ようくゎい』とも言うね。とにかく、事も無く調伏できたら後の日に父さまが御祓おはらいをして、おあしとして金子きんすを頂くって事になってるのさ。もちろん、妖狐のあたいらが裏で調伏しているなんて誰も知らないけどね」


 つまり、俺が二十一世紀から江戸時代に飛ばされたのは妖怪の力で、すずさんはその妖怪を退治する妖狐だったのか。随分とファンタジーな話だ。


「俺がこの時代に来たのも、その妖怪のじゅつだったんでしょうか?」

「なんとも言えないさ。ひょっとしたらあたいのすべとあのあやかしすべが、変なふうにはまっちまったのかもしれないしね」


「結局、あの兎みたいな妖怪は、どうなったんですか?」

「逃げられたよ。かなり探し回ったんだけどねぇ、もう影も形も見当たらなかった」


――えっ。


――それって……帰れないってことでは。


「あの……ひょっとして、俺もう帰れないんですか?」


 俺の体がぶるぶる震えるも、すずさんは気にしない様子で声をかけてくる。


「なんだいなんだい!? そんな暗い顔なんかしなさんな! 東京とうきょうってのがどんなのかは知らないけどさ、江戸えども慣れれば楽しいもんだよ?」


「……そんなわけにはいきませんよ」


 そう、俺には帰るべき場所がある。二十一世紀の東京には俺の家族が、友達が、そして何より葉月がいる。俺はどうしても帰らなければいけない。


 すずさんは気楽そうに言う。

心配しんぱいすんじゃないよ。あの兎みたいなのを調伏して、御魂みたまをこのやしろ合祀ごうしすりゃ、あのあやかしすべも使えるからさ。このやしろの近くでだけだけどね」


「そうなんですか、それなら今晩にでも行ってさっそく……」

「待ちな、待ちな、あいつは三月みつき前から追っているけど、満月の夜にしか出ないのさ。次の満月の晩まで待たないといけないよ」


「じゃあ……最低でも、一ヶ月はこの時代にいなければいけないって事ですか?」


「おのずとそうなるねぇ」

 すずさんはあっけらかんと言う。


――そんな……一ヶ月も江戸時代で暮らせるのか?


 困った顔をしている俺に、すずさんが話しかける。 


「まあ、ここに連れてきたのはあたいのせいだし。心配すんな、必ず元の世に帰してやるよ」

「お願いしますよ」


 と、そこでどこか遠くから、寺で鳴っているかのようなかねの音が聞こえた。


 ゴ―――――ン


 鐘の音がゆっくりと鳴っている最中にて、すずさんが立ち上がる。


「おっといけない、もう朝五つだよ! 手習い所てならいじょが始まるよ!」


――手習い所てならいじょ


「じゃ、あたいは手習いを教えに行ってくるよ。父さまもおあきも、てきに話しといてくれ」


 すずさんはそう言うと、巫女みこ装束しょうぞくのままどこかに去ってしまった。


 再び鐘の音がどこかから聞こえてきた。


 最初は間隔かんかくが長く、次第しだいめてゆっくりと鐘が鳴り響く。


 鐘の音が鳴っている最中に、俺は徳三郎さんに尋ねる。


「手習い所ってなんですか?」

「おすずは、このやしろで手習い所の師匠をしているのだよ。読み書き算盤そろばんと言えばわかるかな?」


「ああ、寺子屋てらこやの事ですか?」


 俺の言葉に、おあきちゃんがきょとんとする。


寺子屋てらこやって何?」


 それを聞いて徳三郎さんが、隣にいるおあきちゃんに伝える。


上方かみがたでは、『手習い所てならいじょ』の事を『寺子屋てらこや』というのだよ」

「へえ、そうなんだ」


 おあきちゃんはつぶらな瞳を徳三郎さんに向ける。


 俺も知らなかった。寺子屋とは上方かみがた、つまり京都や大阪のような関西の語句で、関東では手習い所という名前なのか。


 徳三郎さんが俺に話しかける。


「まあ、こうなったのも何かのえんだ。一部屋貸すから使うといい。そうだな……住み込みで神職しんしょくの見習いをしているとでもしておこう」

「すいません、有難うございます」


「お兄ちゃん、ここに住むの?」


 おあきちゃんの目が輝き、徳三郎さんが応える。


「そうなるな。まあ、ただ飯という訳にはいかないがね」


 江戸時代に無一文の宿無しで放り出される心配がないというだけでも、生存できるかどうかがまったく違う。俺は見ず知らずの人間に部屋を貸してくれるという、二十一世紀では考えられない親切心に心から感謝した。


「掃除でも、お使いでもなんでもしますので」

「そうしてくれると助かるな。ところで昨夜おすずが持ち帰ってきた君のだが、何が入っているのかね?」


 徳三郎さんが部屋に置いてあるスポーツバッグに視線をやるので、俺は応える。


「あ、わかりません。友達がバレー部の合宿の為に用意した荷物ですから」


「『ばれえぶ』? 何それ?」


 聞きなれない外来語に、おあきちゃんは目をきょとんとさせていた。






 徳三郎さんは何か探しものがあると言って、どこかに行ってしまった。


 俺はスポーツバッグを開けて中身を確かめる。そのそばではおあきちゃんが、興味きょうみ津々しんしんに話しかけてくる。


「ねえお兄ちゃん? お兄ちゃんの名、さっき『りょうや』って言ってたよね?」

「ああ、君島きみしま亮哉りょうや名字みょうじはきみしまで、名前なまえがりょうや」


「『りょうや』ってどんな字?」


  その問いかけに俺は、別の高校に進学したもう一人の親友が言っていた話の内容を思い出す。


「えっと……三国志さんごくし諸葛しょかつりょう孔明こうめいってわかる?」

「わかる! ととさまとよく読んでる!」


「その『りょう』に……えっと、志賀しが直哉なおやの『』だよ」

「『志賀しが直哉なおや』って、誰?」


 ああそうか、志賀しが直哉なおやは明治時代生まれの文豪だ。江戸時代にはまだいないのか。


「えっと、『さばく』って字の『ころも』を『くち』に変えた字。漢文かんぶんで『かな』と読むって習ったね」


「へえ、じゃあこれから『りょうぃ』って呼んで良い? あたし、おぃが欲しかったの!」

「ああ、じゃあどうぞ」


 そんな事を話しながら、二つのバッグの中身を外に出し並べていく。


「へぇー、見たことのないものばっかり」


 おあきちゃんは好奇心に溢れた目で、未来の様々な合宿道具を見る。


 まず救急箱。開けてみると、消毒液に正露丸に風邪薬、アセチルサリチル酸錠剤、抗生物質入り傷薬、冷却シート、酔い止め薬、虫刺され薬、包帯、体温計、捻挫用ねんざよう湿布しっぷ、テーピングテープなどが入っていた。


 ハンカチ六枚。ハンドタオルが九枚。レインコートが一着。折り畳み傘が一つ。新品の石鹸せっけんが六つ。シャンプーとリンス、そして洗顔料。新品の旅行用歯ブラシセット一つ。


 ティッシュ箱が一箱、ポケットティッシュが十個、濡れティッシュボックス一つ、大きなポリ袋三枚、ビニール袋二十枚セット。


 手回し式のハンドルがついている携帯充電器一つ。LEDハンディライト一つ。


 蚊取り線香と、それを入れる金具。ホイッスル、熊よけ鈴、ランニング用蛍光タスキ、はさみ、日焼け止めスプレー、虫除けスプレー、コールドスプレー。充電池を入れる器具と、単三充電池六個。蛸足コンセント一個、そしてドライヤー。


 遊具としてかトランプ一セット、インスタントカメラ一つ、オペラグラス一つ、コンビニで売られているような花火セット一式に、ユーティリティライター一つ。


 これで終わりかと思ったら、バッグの奥に何か光るものを見つけたので、俺はつまんで拾い取る。


「ビー玉? 何でこんな所に?」


 透明な色のないビー玉だった。


 すると、そのビー玉を見ておあきちゃんが感激したような声を上げる。

「うわっ! それ何? とおってる! ビイドロのたま!?」


――ガラスでできたビー玉がそんなに珍しいのかな? まあ、江戸時代だし。


「ああ、欲しいならあげるよ。多分誰かの忘れ物だし」


 俺は、まるいビー玉をおあきちゃんに手渡した。

「ありがとう! あたしのたからにする!」


 ビー玉が相当に嬉しいようで、おあきちゃんは満面の笑顔をみせた。


――しかし、女子バレー部の人が、何故ビー玉を。


――女子バレー部の合宿で……


――ん?


 何か不自然ふしぜんなことに気付きそうになったところで、徳三郎さんが戻ってきた。脇に布のかたまりを抱え、留め具がついた黒いものを手に持っている。


「私が若い頃に使っていた付けまげだ、使うと良い。江戸の町ではまげが無いとしかとした男とは見られんのだよ」


 俺は一礼して付けまげを受け取る。黒くられた竹でできている留め具は充分な弾力があり、これなら髪に付ける事ができそうだ。


「りょう兄ぃ、あたしが付けてあげる」


 そう言われたのでおあきちゃんに付けまげを手渡し、背中を見せて座る。おあきちゃんは子供らしく背が低いので、俺が座らないと手が届かないだろうと思っての配慮はいりょだった。


 座っている俺の頭の後ろで、おあきちゃんがまげを付けようとしてくれている感触が伝わる。


「はい、できたよ」


 おあきちゃんが、いかにも幼い子供っぽい可愛らしい声で俺に言う。


「ありがと、うん、ちゃんとぴったり付いている感じがする」


 お礼を言い、立ち上がる。俺が頭の後ろを撫でると、まげの突起とっきを手のひらに感じる。


「そして、こちらは私の着物だ。少し君には小さいかも知れんがな」


 徳三郎さんに手渡された布のかたまりを広げると、焦茶色こげちゃいろの着物であった。身長が160センチ強ほどの徳三郎さんは、身長が174センチある俺を見上げると、息を漏らす。


「それにしても、たけが高いな。六尺ろくしゃく近くはありそうだ。未来みらいには君のような大男が多いのかね? それとも君はとりわけたけが高いのかね?」

「俺は普通よりちょっと高いだけですよ」


 先ほど、鳥居の前で俺に詰め寄った男も、160センチ台半ば程度しかなかったことを思い出す。そういえば、江戸時代の人の平均身長は現代よりかなり低かったと聞いたことがある。


 着物を手に持った俺は、困った事に気が付く。


「すいません、着物の着方きかたが、ちょっとわからないんですが……」


「ふむ、おあき、ちょっと部屋から出ていなさい」


 徳三郎さんが声をかけると、おあきちゃんは「はい」とだけ言い、部屋を出てふすまを閉める。


 Tシャツを脱ぎ、ジーンズを脱ぎ、靴下を脱ぎ、シャツ一枚とトランクスのみの格好になる。俺は徳三郎さんに手ほどきを受けて、何とか着物を身につけた。


――しかし、これは。


「やはり、君には着物の丈が合わないな」


 徳三郎さんの声に俺もうなずく。


「つんつるてんですね」


 着物の下から、すねがかなり露出ろしゅつしてしまっている。10センチ以上身長が違うのだからしょうがない。


 徳三郎さんが困った顔で伝える。

「これでは外を歩いたら目立つな。どこかで新しく着物を調ととのえないとしかたがないかね」


 着物を新しく買う必要があるという事か。この時代に量産りょうさん衣料品いりょうひんやすく買えるチェーン店なんてないだろうし、お金の面で負担をかけるのは心苦しい。


「何か持ってきた物の中に、お金になるものがあればいいんですが……」


 俺は、たたみの上に並べられたバレー部合宿用の荷物に目をやる。


「でも、どれがいいかな……オーパーツなんか遺しちゃまずいし……」


 俺はかがんで、折り畳み傘を手に取る。この折り畳み傘なんか金持ちに高く売れるとは思うが、その後の事を考えると実行はできない。すると、徳三郎さんが荷物を拾い上げて尋ねてくる。


亮哉りょうやくん、『あくいし』とは何の事だね?」


――あくいし? 


 俺は徳三郎さんの手元に目をやると、横文字で『石鹸』と書かれた紙ケースがあった。


――右から左に訓読みしてあくいしってことかな?


「ああ、未来では文字を横に並べて左から右に読むので『石鹸せっけん』って読むんですよ。この時代に石鹸せっけんってないんですか?」


「何かの文献ぶんけんで読んだような……石鹸せっけん石鹸せっけん……」


 徳三郎さんは、ひたいに指を当てて懸命に思い出そうとしていた。


「身体を洗ったりするのに使う、白いかたまりです」


 俺がそう言うと、徳三郎さんは左手で右手の甲をぽんと叩いた。


「シャボンのことかね!?」


「シャボン? ああ、そうです。水に溶かしてストローで吹くと、シャボン玉ができます」

ほど、シャボンか。『すとろう』というのは葦管あしのくだの事かね?」


「ええ、おそらくは似たようなものでしょう」

「シャボンならば、献残屋けんざんやに売ればまとまった金子きんすになるな。それで身の回りのものを調ととのえようかね」


 徳三郎さんが明朗めいろうな顔つきになったので、俺は一も二もなくうなずいた。





 徳三郎さんはここ深川ふかがわから北にある、南本所みなみほんじょで知人があきなっているというお店で石鹸を売ってくると言い、家を出た。


 石鹸はそのままではなく、箱から取り出して布に包み、どこかにあった手頃てごろな大きさの桐箱きりばこおさめ、そこはかとなく高級品に見えるようにしていた。


 石鹸を取り出すときに、俺が破った包みのプラスチックビニールを徳三郎さんが手に取って、見たことのない素材を興味深そうに触っていたのが印象深い。


 石鹸を売ってくるついでに、着物屋で俺の体に似合いそうな服も買ってきてくれるらしい。本当に何から何まで申し訳ない。


 徳三郎さんが出かける前にひもはかってもらったところ、俺の身長は江戸の尺貫法しゃっかんほうでは五尺七寸あり、並みの背丈が五尺二寸[約157センチメートル]の江戸の男の中では、かなり大男の部類に入るらしい。


――だったら、180センチある忠弘ただひろだったらどんな扱いになるんだ。


 そんなことを考えながら、俺は先ほどのつんつるてんの焦茶色の着物を身につけ、一人和室で胡坐あぐらをかいて待っていた。


 ふすまが開き、女の子が入ってくる。


「りょう兄ぃ、お話済んだ?」

 おあきちゃんがお澄まし顔で近寄る。


「ああ、おあきちゃん。最初はどうしようかと思ったけど、もうそれなりに落ち着いたよ」

「ねえ、あたしもっと隠り世かくりよみたいな未来のお話聞きたいんだけど、良い?」


 くりくりした目が俺の顔を覗き込みつつ、そう好奇心いっぱいの様子で尋ねかけてくるも、俺はやんわりと断った。


「ああ、ごめん。どんな影響……つまり悪い事になるかがわからないから、あまり未来の話はしちゃダメだと思うんだ」


「ちぇー」

 おあきちゃんは頬を膨らませる。


 俺はおあきちゃんに尋ねる。

「それより、この家を案内してよ、いつ帰れるか分からないけど、トイレとかお風呂とかの場所を知っておきたいし」


「うん! いいよ!」

 おあきちゃんは元気な声を出し、言葉を続ける。


「『といれ』って物置ものおきの事? 戸入といれ?」

「あ……えっと、かわやって言えば良いのかな?」


かわやならこっちだよ、ついてきて」


 手を引っ張られ、縁側に出る。縁側に沿って歩くと、神社の本殿の裏手らしきものが見えた。


「けっこう広いね、この家はどれくらいの広さ?」

十間じっけん四方だよ」


――十間じゅっけん[約18メートル]というのは、昔の長さの単位だ。


――たしか、一間いっけん四方しほう一坪ひとつぼだから、十間じゅっけん四方しほうで……


「百坪か、ずいぶんと広いね」

やしろだったらこんなもんじゃないかな? 元々この辺りは徳川のお侍に貰った土地だったって聞いたことあるけど」


 すずさんは、ここを本所ほんじょ深川ふかがわだと言っていた。つまり後の東京都江東区こうとうくに、百坪もの邸宅を持っているということになる。徳三郎さんって結構なお金持ちなのだろうか。


 そんな事を考えて廊下ろうかを歩いているうちに、かまどがある土間が現れた。かまどの上には大きなおかまがあり、近くにはおひつがある。そして、台の上にあるかごの中には枝豆が入っていた。


 おあきちゃんが俺に振り向き、口を開く。

「ここが台所だいどころめしいたり、魚をさばいたりするところ。未来では台所だいどころの事をなんて言うの?」

「いや、未来でも台所だいどころだよ」


「へえ、そうなんだ。父さまの下駄げたがあるからいてついてきて」


 おあきちゃんはそう言うと、段差に腰をかけて、土間にあった赤い花緒はなおの小さな草履ぞうりく。


 俺も土間に降り、その隣にあった下駄の鼻緒に足の指を通し、おあきちゃんに尋ねる。


かわやいえの外にあるの?」

「たいそう広いお屋敷ってわけでもないからね。これくらいのおうちなら、かわやはおうちの外だよ」


 おあきちゃんが笑う。


 土間の東口から外に出た俺は青空を仰ぎ見た。午前中の太陽がまぶしい。


 おあきちゃんは再び、俺を先導する。

「こっち、こっち」


 俺はついていく。


 神社の大きな建物の東側にある庭には物干し竿などがあり、巫女服の白衣と共に俺の木綿コットンジャケットが洗濯されて吊るされていた。


 右手に神社の本殿がある大きな建物、左手に木の塀とドブみぞ。手を引っ張られて進むと視界が開け、道に出た。道を歩く人は朝見たときよりずっと多く、繁華街の街角のように人が行きかっていた。道幅は大体、9メートルくらいだろうか。


 全員が、当然のように江戸時代の人間の格好をしている。ほとんどの男が頭のてっぺんを円く剃っており、皆まげをしていた。


 藍色あいいろの着物を着た職人らしき中年男性、鼠色ねずみいろの着物を着た杖をついた老人、上品な紺色こんいろの着物と黒い長羽織を着た裕福そうな若い男などが歩いていた。


 女性は女性で、頭の上を色鮮やかな石の付いたかんざし見事みごとな細工の施されたくしなどで飾り、髪を結っていた。女性の着物は男性のものとは異なり、植物のつるや夏の花であるふじ繊細せんさい若葉わかばなどの鮮やかで多彩な模様に染め上げられ、その色もまた様々であった。  


 黄緑に近い萌黄もえぎ色や淡い紫に近い菖蒲あやめ色、ブルーグリーンに近い浅葱あさぎ色など、色とりどりの着物を身につけていた。


 俺は感嘆の息を口から漏らす。

「凄いな、本当に江戸時代なんだ」


 また、先ほど教えられたようにほとんどの人がずいぶんと背が低い。女性に至っては、ほぼ全員が身長150センチもない。


 天秤棒を担いでいる小柄な男が左から歩いてきた。

「あさがお~あさがお~はいらんかね~」


 天秤棒から吊るされた二つの棚には、朝顔の植わった小さな鉢がいくつも収まっていた。あんな小さな体の何処どこにそんな力があるのかと、俺は感心した。


 俺を先導していたおあきちゃんが、指を差しつつ振り返って声をかけてくる。

「りょう兄ぃ、かわやはここだよ」


 指差した先、小さなヤツデの木のすぐ近くに、こぢんまりとした小屋がある。どう考えても下水道が整備されてなさそうな、汲み取り便所べんじょ特有のの臭いが鼻をつく。


「道に面しているのは、神社だから? 誰でも使えるように?」


 俺がそう尋ねると、おあきちゃんはうなずく。


「それもあるけどね、道行く人が出したものが溜まったら、肥取こえとりの人がわりの良い値で買い取ってくれるの」


「え? 買い取るって? 人糞じんぷんを? 肥料用とか?」


 俺がそう驚きの声を上げると、おあきちゃんはこたえる。


「東の河向こうにある、葛飾かつしかの村で青菜あおなを育てるのに使うんだって。で、歳末さいまつにまとめて金子きんすを受け取るの。それで、そのおかねですず姉ぇが買ってきてくれた甘味かんみを、父さまと一緒に食べるのが年明けの楽しみなの」


 おあきちゃんは軽快な声で喋り、俺は先人の構築しているよくできた社会システムに感心する。


「ああそっか、お金を貰えて回収もしてくれるから下水道もいらないのか。ちゃんと有用にリサイクルされているんだね」

「『りさいくる』って何?」


 おあきちゃんが尋ねるので、俺は返す。


「使えるものは、ちゃんともう一度使えるように工夫くふうすることだよ」

「そんなの当たり前じゃない? わざわざ言葉があるなんて変なのっ!」


 にこにこしたおあきちゃんの顔がまぶしい。確かに現代人はものを粗末に扱い過ぎかもしれない。


 と、そこで、近くから子供の騒ぐ声が聞こえることに気付いた。小学校の教室のような、そんな感じのざわめきだった。


 俺は口を開く。

「なんか、子供の声がするね」


「お姉ぇが師匠をしている、手習い所の子供だよ。覗いてみる?」


 おあきちゃんに促され、神社の前のほうに回る。どうやら朱の鳥居を真南の正面に据えており、東が手習い所の講堂、西が儀式などを執り行う本殿らしい。鳥居の近くには先ほど見た水桶みずおけ柄杓ひしゃくが置いてあった。手水ちょうずなのだろう。


 子供がくような小さな草履ぞうりがいくつも並べてある土間から、畳敷きの講堂を覗いてみる。畳の上に小さな机が扇状おうぎじょうに並べられており、六歳から十二歳くらいまでの児童が男女織り交ぜて三十人ほどおり、すみふでで半紙に文字を書いていた。


 すずさんは巫女服から深紫ふかむらさき色の着物に着替えており、小学生くらいの児童達に文字の書き方を指南しなんしていた。


 俺は隣にいるおあきちゃんに尋ねる。

「全部で何人くらい?」

「今年は二十九人」


「年齢がばらばらだけど、学年とかはないの? 年齢で分けるとか」


 俺がそう尋ねると、おあきちゃんは不思議そうな顔をする。


よわいで分けたりしないよ。それぞれの頭のつくりも、学び進みの度合いも違うんだから」

「つまり、それぞれの子供に合った学習をさせるってことか」


――なるほど、確かにその方が合理的かもしれない。


――あれ? 男女が同じ部屋で学んでいるけど、戦前は男と女の教育は別じゃなかったっけ? 


 疑問に感じた俺は、続けておあきちゃんに尋ねる。


「男の子も女の子も一緒に教育を受けるの?」

「女の子だけの所も男の子だけの所もあるらしいね。でも、ここで学ぶのは、読み書き算盤そろばんだけだからね。女の子はお裁縫さいほうとか三味線しゃみせんとか学びたければ別の所で学ぶの」


「へえ、じゃあ本当に小学校みたいなものなんだ」


――男女別の教育ってひょっとして戦前の一時的なものだったのか。


「りょう兄ぃは、読み書き算盤そろばんできる?」

算盤そろばんはできるよ。子供の時に習ってて、一級持っているから。読み書きは……」


 俺は返答に詰まる。二十一世紀の楷書かいしょ印字いんじされた印刷文字ならば当然に読み書きはできるが、江戸時代の文字なんて読み書きできるのだろうか。


 俺は言葉を続ける。

「できないかもしれないな。草書そうしょって言うんだっけ? この時代の文字は慣れないから」


「あっ! じゃああたしが読み書き教えてあげよっか?」

 おあきちゃんの表情が明るくなる。


「ああ、じゃあお願いするよ」

 俺がにこやかに答えると、おあきちゃんは喜んだ表情を見せる。


「じゃあ、りょう兄ぃがあたしの一番弟子だね」

「お手柔らかにね。で、お風呂は何処どこ?」


 俺が質問すると、おあきちゃんは東の方、神社の外を指差す。


「あっちの方に、一町半いっちょうはんほど行った所に湯屋ゆやがあるよ」


「えっ? ひょっとして……いえに無いの?」

うちの中にお風呂があるのなんてお大名か長者さんくらいだよ。りょう兄ぃのおうちにはお風呂があるの?」


 おあきちゃんはにこにこ笑い、俺は返す。


「ああ、一応あるけど」

「すごーい! ひょっとして、りょう兄ぃのおうちって長者さんなの!?」


「いや……普通の庶民だよ。街にある普通の家」


「未来では市井しせいのおうちにもお風呂があるんだ。へえー、いいなー」


 おあきちゃんはうきうきした口調で俺に伝える。


 と、そこでまたどこか遠くから、鐘の音が鳴り響いた。


 ゴ――――――ン


 ゆっくりと鐘が鳴っている途中で、おあきちゃんが口を開く。


「あ、ひる四つの捨て鐘だね」

「捨て鐘って何?」


 俺が尋ねると、おあきちゃんが返す。


「時の鐘を鳴らす前に、町の皆に気付かせるために三つ鳴らすの」

「へぇー」


 俺が間の抜けた返事をすると、捨て鐘が鳴り終わり、再び鐘が鳴り響く。


 十五秒くらいの間隔で非常にゆっくりと四つの鐘が鳴り終ったところで、おあきちゃんが口を開く。


「多分に、そろそろ蝉が鳴き始めるよ」

「蝉? あれ? 今日って何月何日だっけ?」


――さっきすずさんに教えてもらった日付は……確か……


「六月十六日だよ」


――やっぱり、まだ六月中旬なのに蝉?


「まだ蝉の季節には早いんじゃない?」


 そう俺が疑問をていすると、おあきちゃんが不思議に思ったかのような顔で返してくる。


「未来では夏に蝉が鳴かないの?」

「いや? 普通に鳴くけど、六月半ばは蝉の声が鳴るような時期じゃ……」


 ミーン


 ミーンミーンミーン

 ミーンミーンミーン


 二十一世紀の東京と変わらない蝉の声が鳴りはじめた。


 おあきちゃんがにっこりとした笑みを見せる。


「ね? 鳴き始めたでしょ?」


 夏の蝉の声は深川ふかがわの町に、どこまでも響いていた。

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