影の中に引きずり込まれたと思ったら、暗闇の中に倒れていた。
いや違う、暗闇ではない。目の前には白い人魂のような炎が二つ浮かんでいる。白い炎に照らされて女性の後姿が見える。
暗すぎて色がぼやけているが、どうやら長い黒髪の後ろを布のようなもので束ね、上半身に
「お
「おあき! 下がってな!」
夜の闇を
さあっと、辺りが月の光に照らされる。空に低くかかる満月が、雲の切れ間から出てくると同時に、周囲の光景が目に入ってきた。
どこかの広場だ。それも尋常じゃなく街から離れた田舎か山奥だ。周囲に自動車どころか、街灯の
どこかで川の水がさらさらと流れていて、その音が聞こえてくる。
空にはただ、満月と星々が
「来るよ!」
すず
10メートル程向こうに何かいる。四本足の
兎が消えた。次の瞬間にその兎は巫女さんの肩にかじりつき、牙を突き立てていた。
「くぅっ!」
巫女さんが叫び、上半身の
「大丈夫ですか!? こらっ! 離せ! こらっ!」
俺は、巫女さんの肩にかじりついた兎を引き
ふと、首筋に熱いものを感じた。手で左の首を触ると、首がすっぱりと切れていて、何かぬるぬるした生温かい液体が首から勢いよく噴き出しているようだった。月影が雲に隠れると同時に、血をしこたま失った俺の意識はそのまま闇に沈んでいった。
目が覚めると、天井があった。朝の光が部屋に満ちていた。
布団の中で目覚めてから一分ほどの間で、俺はさっきまで見ていた悪い夢を整理しようとする。
まず、俺は葉月の依頼によって学校から葉月の住むマンションまでスポーツバッグを届ける途中だった。そこで親友の忠弘と会い、アイスとチーズケーキを買い、着物姿の女の子を見つけ、小さな鳥居を潜ったところで影から伸びてきた手に引きずり込まれ……
――うん、夢だな。
影から手が伸びてきた時点で現実離れしている事はわかっている。問題は、その記憶をどう合理的に処理するかだ。
おそらく、俺は葉月の家にお呼ばれしたことが嬉しすぎて記憶がなくなってしまったのだろう。思春期にはよくあることだ。
そして、夢で見た内容をあたかも現実に起こったかのように位置づけてしまったのだ。
俺は、
……なんともない。
つまり、血が噴き出したと思ったのは単なる悪夢だったのだ。しかし、布団の中で仰向けに寝転んだままの俺は、ある奇妙なことに気付いた。
天井が、ただ天井だけで何もない。
「……この部屋、何で電灯がないんだ」
急いで掛け布団をはがしつつ半身を起こし、周りを見る。
畳敷きの和室には、
ふと、障子が少しだけ動き誰かが覗いた。昨日の、和服を着た五、六歳くらいの小さな女の子だ。
俺は急いで立ち上がり、障子に手をかけて開く。女の子はびっくりしてすぐに逃げてしまった。
障子の向こうには
広くない縁側に出て、俺は女の子を捜す。縁側の下を見ると、俺の履いていたグレーのスニーカーが朝顔の鉢植えの
俺は
どうやらこの敷地内に建物は二棟あるらしく、さっきまで自分がいたほうの建物は住居用であるらしい。外から見ただけでは、もう片方の建物は一階建ての木造建築であること以外はわからなかった。
塀をつたって10メートルほど進むと塀は左に曲がっており、曲がると同時に、5メートルほど向こうの方に特徴ある宗教的シンボルが目に入った。
高さ3メートルほどの大きな朱色の
鳥居に近づくと、向かって左に小さなお
今、
「お
その男は頭のてっぺんを
「兄ちゃん? なんでぇそんな身なりして?
――え? はやし? はやしって?
「兄ちゃん……まげもしてねぇなぁ……流れもんか? お稲荷さんに忍び込んでるんじゃあるめぇな?」
男が厳しい表情を見せつつ近寄ってくる。
見たところこの男は身長が160センチ台半ば程度しかなく、174センチある俺より10センチ近く背丈が低い。しかし、この気迫には半端でないものを感じる。
「あ……えーと……俺は……」
近づく男に俺は後ずさりながら、恐怖を覚える。
がしりと手首を掴まれた俺は、その
――まるで
「ちょいと番所まで一緒に来てもらおうかい」
男がそう言うと、救いの声が神社の中から聞こえてきた。
「無礼はやめておくれ。そいつは行き倒れてたのをあたいが世話したのさ」
昨日の巫女さんが神社の正面から出てきて、そう言ってくれたのであった。
男は手を離し、悪びれずに笑って応える。
「はははっ! なんでぃ! 行き倒れか! 悪かったな兄ちゃん! まげぐらい結った方がいいぜ、ごろつきに見られちまぁ!」
男はそんな風に言って俺の肩を軽く二回叩くと、地面に置いてあった
俺は男が出ていったように鳥居から出て塀の外を見る。ビルは一つもなく、木でできた二階建ての家が立ち並ぶ街並み。道行く人は全て着物を着ており、
まるで、テレビドラマの時代劇のような光景が広がっている。眼前のあざやかな青空には、白い雲のかたまりが浮かんでいる。左手の方を見ると、朝の突き抜けるような白みがかった空に、まぶしい太陽が昇っていた。
「まさか……まさか……江戸時代!?」
俺は振り返って巫女さんの方を向いた。先に見たときは暗く、後姿でわからなかったが相当な美人だ。ただ、切れ上がった目つきが少し鋭い気がした。黒い艶やかな前髪は額で綺麗に切り揃えられており、頭には天使の輪のような模様が見える。後ろに伸びる長い黒髪は筒状にした布で結わえられており、束ねられているようであった。
上半身の
巫女さんは口を開く。
「そんでさ、いくつか尋ねたいことがあるが、構わないかい?」
あの女の子にすず
「おまいさん、
俺は、神社の本殿の裏手にある住居にて、一人用の
昨日俺が着ていた木綿ジャケットはどうしたのだろうか。ジーンズにTシャツという姿で、膳に乗った朝食を食べる俺は、さぞかしシュールに見える事だろう。
その朝食であるが、白飯の量が
巫女さんは自分の事を、すず、と名乗った。俺も自分の名前を
今、
巫女さんが、膳で食事をしている俺に話しかける。
「ふーん、りょうや、っていう名かい。たいそう立派な名じゃないのさ」
「ええ、来たのは
「とうきょう……ねぇ、聞いたことないね。そりゃ
「
「『
「えっと……その
「『
「『
「とにかく、その『とうきょう』って村はここから遠いのかい?」
「おそらくは遠いとも
「『
俺は慎重に言葉を選び、疑問を
「ここは……ひょっとして江戸の町ですか?」
さっき鳥居の向こうに見た光景は、どうみても江戸時代のそれだった。
「そうだよ、徳川将軍のお
「……どっかの、
「『
とぼけてるようには思えない。俺は悪い予感がした。
「つまり今は江戸時代で……今、何年ですか? 日付は?」
「
「えっと……
「
そりゃそうだ。西暦が日本人の間で使われるようになったのは、江戸時代が終わってからの明治維新以降だったと聞いたことがある。
だが、高校一年生の俺でも中学校で学ぶ歴史くらいは知っている。何とかテスト勉強の記憶をたどって、江戸時代が始まるきっかけとなった年号を思い出す。
「関が原の
中学校で歴史の時間に習った天下分け目の関が原の合戦は、きっかり西暦1600年だ。これくらいは覚えている。
「関が原の
という事は西暦1800年以降で、1868年の
「
どうやらこのジーンズとTシャツのことを、
「妙ちくりんな服を着て、これまた見たことのない
すずさんがそこまで話したところで、
「あっ! 君は!」
俺の声にすずさんは振り返ると、女の子を手招きした。
「おあき、おまいも隣に座りな」
おあきと呼ばれた女の子は
「あたしは、あき、といいます。昨日はお姉を助けようとしてくれて有難うございました」
礼儀正しい女の子だ。見た目は五、六歳くらいにしか見えないが、この時代の子供は精神年齢が高いのかもしれない。
昨日はすずさんを助けて……助けて……あの奇妙な兎に……そうだ、首。首から噴き出した血はなんだったのだろうか。
俺は再び手で左の首筋をなぞる。
「あの、昨日ですけど、首を切られたような気がしたんですが」
俺のその言葉に、女の子が返答する。
「切られたよ、すっぱりと」
――えっ。
女の子の言葉に俺が驚きの顔を見せると、なんだかすずさんは気まずそうに目線を合わせてくれなくなった。
俺は尋ねかける。
「あの、どういう事ですか? 首をすっぱりと切られてたら、多分今頃死んでいると思うんですが」
すると、
座っていたのは濃い緑がかった茶色の着物を着た、背筋の伸びた白髪のお爺さんであった。さきほどの男のように頭のてっぺんは剃っておらず、白髪頭の後ろには控えめなまげを結っていた。
「話してもいいのではないか? おすず、おあき、この男にも何やら訳がありそうだ。
老人は立ちあがり、
そんな初老とも見える老人の言葉に、すずさんが返す。
「
――
「まあ、朝飯が終わってからでも遅くない、食べてからゆっくり話せばいい」
老人のその言葉に俺は頷くと、休めていた
二合近くは盛られていたであろう白米を、朝から食べきるのは中々骨を折ったが、なんとか膳を平らげた俺は、改めて三人の前で
「えっと……事態がよく飲み込めませんが、朝食ご
その言葉に、正座をした老人が口を開く。
「私は
――神社の名前はさっきも聞いた。聞いた事のない神社名だ。
「俺は
「きみしま……
――そういえば、栃木県の辺りは昔『
「えっと、祖父が
「『
「えっと……昭和っていうのはですね……」
話がかみ合いそうにない。
そこに、すずさんが言葉をかけてくる。
「父さま、こやつは異なる世から来たのさ」
「異なる世? それはどういう事かね?」
徳三郎さんが返すと、すずさんは先ほどから澄まして座っていた小さな女の子の背中をそっと撫でた。
「おあき、話してやれ。おまいが見た世はどんなだったのさ?」
すずさんに促され、女の子が口を開く。
「天を突くようなたいそう大きな城がいくつもあって、道は岩でできていて、柱に明るい光を放つ
これは、俺が住んでいた東京の情景を説明しているのだろう。その内容に、すずさんは俺を
「ふむ、という事はおあきが訪れた所は
「違いますよ! 俺は人間です!」
「では、そんな
二百年ほど未来から来たと言わなきゃいけないのだろうか。この時代に気が触れていると認定されたらどんな扱いを受けるのだろうかと思案していると、昨日の光景を思い出した。
「あ、そういえば二つの人魂がすずさんの
そう俺が尋ねると、すずさんはぎくりといった顔をし、目を背けた。
そこを、徳三郎さんが促す。
「おすず、見せてやりなさい」
「でも、
「よいから」
徳三郎さんの言葉に、すずさんはしぶしぶ手のひらを上に向けた。
「え!? これって……これって……どうなっているんですか!?」
俺の質問に、すずさんは決まりが悪そうに口を開いた。
「あたいはね……
――えっ。
妖狐といったら狐の妖怪だ。目の前にいるすずさんはまったく人間の格好で、狐っぽい獣耳も尻尾も生やしていない。綺麗な人間の巫女さんにしか見えない。
「妖狐って……あれですよね、昔話とか、
「そうそう、その昔話、
すずさんは目を細めて
二十一世紀の男子高校生である俺が江戸時代に来ている時点で科学法則に反しているのだから、妖狐なんかがいてもおかしくはない。俺はそんなことを思いつつ、右手を宙に浮いている人魂に近づける。
「あちっ!!」
「まぬけ! 手で
すずさんが叫んでから気持ち力を抜いた様子をみせると、炎は
この火傷を見て、徳三郎さんが女の子に指示をする。
「おあき、火傷を治してあげなさい」
「はい」
おあき、と呼ばれた女の子が俺の指の火傷に両方の手のひらをかざすと、ちりちりした火傷の痛みがあっというまに引いていった。
俺は火傷したはずの右手の指先をまじまじと見る。火傷の形跡はまったくもって消えていた。
「な……治ってる」
「あたしには、命あるものの負った傷を治すことのできる力があるの」
「す……すごいなこれ」
女の子の純真な瞳の前で、ただただ感心する。痛みも完全にひき、水ぶくれもなくなっている。そこで俺は首筋に手を当てる。
「あっ……じゃあ昨日首が切られたのは」
「そうよ、あたしが治したの。もうちょっとで命尽きるところだったけど間に合って良かった」
そうだったのか、と納得してからそこで俺はもう一度深々とお礼を言う。
「えーっと、おあきちゃん、命を助けてくれて有難うございました」
「いえいえ、お兄ちゃんの命が救われてなによりで」
お互いに笑い合った。そこにすずさんが言葉を重ねる。
「着ていた
あのジャケットを
「えっと、有難うございます。何から何まで」
俺が三人に礼を言うと、すずさんは両手を自分の頭の後ろに回し、胸を反らしつつ座ったまま背伸びをする。
「まあ、使える
「そうですか。あっ! じゃあ徳三郎さんも妖狐なんですね?」
俺がそう尋ねると、徳三郎さんは否定する。
「いや、私は
――そうなのか、意外性の中に意外性があると普通なんだな。
徳三郎さんは言葉を続ける。
「なにぶん、ここ江戸の者が
――なるほど、そんなことになったら大騒ぎだ。江戸中から人が押しかけて、この三人の暮らしは乱されてしまうだろう。
「でも、何故それを俺に教えたんですか?」
「まげも結ってない妙な
――そこまで考えての事だったのか。このご老人中々
と、そこで徳三郎さんは大きく息を吸い込み、改めて俺の顔を真正面から見る。
「それでは、君の事も教えてくれるかな? 君は一体何者で、どこから来たんだね?」
うってかわって老人の鋭い眼光が俺を射抜く。俺は