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第二幕 江戸の文政年間へ


 影の中に引きずり込まれたと思ったら、暗闇の中に倒れていた。


 いや違う、暗闇ではない。目の前には白い人魂のような炎が二つ浮かんでいる。白い炎に照らされて女性の後姿が見える。


 暗すぎて色がぼやけているが、どうやら長い黒髪の後ろを布のようなもので束ね、上半身に白衣びゃくえ、下半身に緋袴ひばかまを身に着けた巫女みこさんのようであった。一緒に影に引きずり込まれた小さな女の子が、俺の隣で巫女さんの後姿に叫ぶ。


「おぇ!? すずぇ!?」

「おあき! 下がってな!」


 夜の闇をまとう人影は、威勢の良い声をあげた。夜の虫の声が闇の中に響く。


 さあっと、辺りが月の光に照らされる。空に低くかかる満月が、雲の切れ間から出てくると同時に、周囲の光景が目に入ってきた。


 どこかの広場だ。それも尋常じゃなく街から離れた田舎か山奥だ。周囲に自動車どころか、街灯のあかりひとつ見えやしない闇が広がっていた。


 どこかで川の水がさらさらと流れていて、その音が聞こえてくる。


 空にはただ、満月と星々が煌々こうこうと輝いていた。今俺がいるこの場所も、コンクリートやアスファルトのない、ただの土くれの上だった。


「来るよ!」


 すずぇと呼ばれた巫女さんは両手を動かし、何かをつぶやいているようだ。月の光は辺りを白銀の色にさらしている。


 10メートル程向こうに何かいる。四本足のうさぎのようだ。いや、何かおかしい。兎のようなそれには牙の生えた口があり、目がなく、白く輝く宝石のようなものが額に埋め込まれていた。二つの耳は刃のように鋭かった。


 兎が消えた。次の瞬間にその兎は巫女さんの肩にかじりつき、牙を突き立てていた。


「くぅっ!」


 巫女さんが叫び、上半身の白衣びゃくえに血が滲んだ。俺は心で恐怖や不安を感じるより前に、体が動いていた。スポーツバッグをその場に両方置いて、巫女さんに駆け寄る。


「大丈夫ですか!? こらっ! 離せ! こらっ!」


 俺は、巫女さんの肩にかじりついた兎を引きがそうと兎をつかんだが、兎はまたもや瞬時に消えた。


 ふと、首筋に熱いものを感じた。手で左の首を触ると、首がすっぱりと切れていて、何かぬるぬるした生温かい液体が首から勢いよく噴き出しているようだった。月影が雲に隠れると同時に、血をしこたま失った俺の意識はそのまま闇に沈んでいった。





 目が覚めると、天井があった。朝の光が部屋に満ちていた。


 布団の中で目覚めてから一分ほどの間で、俺はさっきまで見ていた悪い夢を整理しようとする。


 まず、俺は葉月の依頼によって学校から葉月の住むマンションまでスポーツバッグを届ける途中だった。そこで親友の忠弘と会い、アイスとチーズケーキを買い、着物姿の女の子を見つけ、小さな鳥居を潜ったところで影から伸びてきた手に引きずり込まれ……


――うん、夢だな。


 影から手が伸びてきた時点で現実離れしている事はわかっている。問題は、その記憶をどう合理的に処理するかだ。


 おそらく、俺は葉月の家にお呼ばれしたことが嬉しすぎて記憶がなくなってしまったのだろう。思春期にはよくあることだ。


 そして、夢で見た内容をあたかも現実に起こったかのように位置づけてしまったのだ。


 俺は、頚動脈けいどうみゃくをあからさまに裂傷れっしょうしていたと思われる左の首筋に恐る恐る手を当ててみる。


……なんともない。


 つまり、血が噴き出したと思ったのは単なる悪夢だったのだ。しかし、布団の中で仰向けに寝転んだままの俺は、ある奇妙なことに気付いた。


 天井が、ただ天井だけで何もない。


「……この部屋、何で電灯がないんだ」


 急いで掛け布団をはがしつつ半身を起こし、周りを見る。


 畳敷きの和室には、障子しょうじふすま。床の間に置いてある小さな竹筒とそこに挿している花。水墨画の掛け軸。小さな箪笥たんすと小さな机。そしてスポーツバッグが二つ、お守りのついたナップサックが一つ。上半身は木綿コットンジャケットがなく、Tシャツで下半身はジーンズのままだった。


 ふと、障子が少しだけ動き誰かが覗いた。昨日の、和服を着た五、六歳くらいの小さな女の子だ。


 俺は急いで立ち上がり、障子に手をかけて開く。女の子はびっくりしてすぐに逃げてしまった。


 障子の向こうには縁側えんがわがある。縁側を越えた前のほうには1メートルほどの幅の庭があり、木でできた塀がある。その向こうには人の行きかう音が聞こえる。しかし不思議な事に、車の音はまったくしなかった。


 広くない縁側に出て、俺は女の子を捜す。縁側の下を見ると、俺の履いていたグレーのスニーカーが朝顔の鉢植えのそばに綺麗にそろえて置いてあるのを見つけた。


 俺は躊躇ちゅうちょなくスニーカーをいて、塀に沿って左に向かう。塀が切れている所、すなわち外に出られる場所を探した。


 どうやらこの敷地内に建物は二棟あるらしく、さっきまで自分がいたほうの建物は住居用であるらしい。外から見ただけでは、もう片方の建物は一階建ての木造建築であること以外はわからなかった。


 塀をつたって10メートルほど進むと塀は左に曲がっており、曲がると同時に、5メートルほど向こうの方に特徴ある宗教的シンボルが目に入った。


 高さ3メートルほどの大きな朱色の鳥居とりい。朱色の鳥居が塀の中と外を区切っていた。


 鳥居に近づくと、向かって左に小さなお賽銭箱さいせんばこがあり、上にはしめ縄がはってあり、賽銭箱を挟むように一組の提灯ちょうちんがぶら下がっている。鳥居の向こう側には、水の入ったおけ柄杓ひしゃくが置いてあり、上には手ぬぐいが吊るされていた。どうやらこの建物は神社であるらしい。


 今、鼠色ねずみいろの素っ気無い着物を着た男が一人、四角い穴の開いたお金を賽銭箱に投げ込み、ぱんぱんと拍手かしわでを打った。年は十八くらいだろうか。


「お稲荷いなり様、どーか今日の棟上むねあげが上手くいきますように」


 その男は頭のてっぺんをまるっており、まげをしていた。どう見ても二十一世紀の人間の格好ではない。時代劇に出てくる町人のような格好をしていた。男は、ここにいる俺に気付いたらしく、こう言った。


「兄ちゃん? なんでぇそんな身なりして? 囃子はやしのもんか? ずいぶんと大入道おおにゅうどうだなぁ!」


――え? はやし? はやしって?


「兄ちゃん……まげもしてねぇなぁ……流れもんか? お稲荷さんに忍び込んでるんじゃあるめぇな?」


 男が厳しい表情を見せつつ近寄ってくる。


 見たところこの男は身長が160センチ台半ば程度しかなく、174センチある俺より10センチ近く背丈が低い。しかし、この気迫には半端でないものを感じる。


「あ……えーと……俺は……」


 近づく男に俺は後ずさりながら、恐怖を覚える。


 がしりと手首を掴まれた俺は、そのけわしい面持ちの男の強い握力と腕の力に顔をゆがめる。俺が腕を振りほどこうとしても、一切いっさい合切がっさい動かなかった。


――まるで万力まんりきはさまれたみたいだ! なんて力だ! 


「ちょいと番所まで一緒に来てもらおうかい」


 男がそう言うと、救いの声が神社の中から聞こえてきた。


「無礼はやめておくれ。そいつは行き倒れてたのをあたいが世話したのさ」


 昨日の巫女さんが神社の正面から出てきて、そう言ってくれたのであった。


 男は手を離し、悪びれずに笑って応える。


「はははっ! なんでぃ! 行き倒れか! 悪かったな兄ちゃん! まげぐらい結った方がいいぜ、ごろつきに見られちまぁ!」


 男はそんな風に言って俺の肩を軽く二回叩くと、地面に置いてあった大工だいくの持っているような道具箱をひょいと担ぎ上げ、鳥居を潜り雑踏ざっとうの中に消えていった。


 俺は男が出ていったように鳥居から出て塀の外を見る。ビルは一つもなく、木でできた二階建ての家が立ち並ぶ街並み。道行く人は全て着物を着ており、草鞋わらじ下駄げたなどで土ぼこり舞う赤茶けた地面の上を歩いていた。


 まるで、テレビドラマの時代劇のような光景が広がっている。眼前のあざやかな青空には、白い雲のかたまりが浮かんでいる。左手の方を見ると、朝の突き抜けるような白みがかった空に、まぶしい太陽が昇っていた。


「まさか……まさか……江戸時代!?」


 俺は振り返って巫女さんの方を向いた。先に見たときは暗く、後姿でわからなかったが相当な美人だ。ただ、切れ上がった目つきが少し鋭い気がした。黒い艶やかな前髪は額で綺麗に切り揃えられており、頭には天使の輪のような模様が見える。後ろに伸びる長い黒髪は筒状にした布で結わえられており、束ねられているようであった。


 上半身の白衣しらぎぬに対比するような、下半身の緋袴ひばかまが鮮やかさを見せる。身長は160センチメートル程度。腰がくびれていて、胸がそれなりに膨らんでいる細身ほそみな女性であり、二十代半ばといったりんとした風貌ふうぼうに色気をつけるには充分であった。


 巫女さんは口を開く。


「そんでさ、いくつか尋ねたいことがあるが、構わないかい?」


 あの女の子にすずぇと呼ばれたこの巫女さんは、俺の目をまっすぐ見て言葉を続ける。


「おまいさん、何処どこから来たんだい?」






 俺は、神社の本殿の裏手にある住居にて、一人用のぜんの前に正座して朝食を頂いていた。巫女さんの前で食事をする事など生まれて初めてであった。


 昨日俺が着ていた木綿ジャケットはどうしたのだろうか。ジーンズにTシャツという姿で、膳に乗った朝食を食べる俺は、さぞかしシュールに見える事だろう。


 その朝食であるが、白飯の量が尋常じんじょうじゃなく多い。いつも一食で食べる量の三倍から四倍の量がある。わずかな沢庵たくあん漬物つけもの味噌汁みそしるで山盛りの白米を食べなければならなかった。


 巫女さんは自分の事を、すず、と名乗った。俺も自分の名前を君島きみしま亮哉りょうやと名乗ると興味深そうに目を細めた。


 今、緋袴ひばかま穿いた巫女さんは、膳の前に座っている俺の近くにてやはり正座をしていて、見たことのない珍奇ちんきな者に対するかのような視線を向けてきている。


 巫女さんが、膳で食事をしている俺に話しかける。


「ふーん、りょうや、っていう名かい。たいそう立派な名じゃないのさ」

「ええ、来たのは東京とうきょうからです」


「とうきょう……ねぇ、聞いたことないね。そりゃ何処どこくににある村だい?」

日本にほん首都しゅとですよ、東京とうきょう江東区こうとうくに住んでいます」


「『日本にほん』はわかる、日本ひのもとの事だろさ。だが『首都しゅと』ってなにさ」

「えっと……そのくにで一番大きなまちですかね? いや、政府せいふ機関きかんのある都市としかな?」


「『政府せいふ機関きかん』? 聞いたことない言葉だね、漢語かんごかい?」

「『漢語かんご』? ああ、中国ちゅうごくの言葉ですか。さぁ、漢語かもしれませんね」


「とにかく、その『とうきょう』って村はここから遠いのかい?」

「おそらくは遠いともえるし……近いともえますね……というか、村じゃないですし。あの……俺も質問しつもんというか、確認かくにんがあるんですがいいですか?」


「『質問しつもん』に『確認かくにん』か、よく漢語を使うね。尋ねられたら答えるが、あんまり難しい言葉を使うんじゃないよ」


 俺は慎重に言葉を選び、疑問をていした。


「ここは……ひょっとして江戸の町ですか?」


 さっき鳥居の向こうに見た光景は、どうみても江戸時代のそれだった。


「そうだよ、徳川将軍のお膝元ひざもとさ。江戸の本所深川ほんじょふかがわにある、名賀山稲荷みょうがやまいなりさ」


「……どっかの、時代劇じだいげきセットというわけじゃ……ないですよね」

「『時代劇じだいげきせっと』? どういうだい?」


 とぼけてるようには思えない。俺は悪い予感がした。


「つまり今は江戸時代で……今、何年ですか? 日付は?」

文政ぶんせい五年の六月十六日さ」


「えっと……西暦せいれきで……わかる訳ないですよね」

貞享暦じょうきょうれきとかじゃなくて、『西暦せいれき』か……確か蘭学らんがくで使っている西洋せいようこよみだよね? あたいは知らないね」


 そりゃそうだ。西暦が日本人の間で使われるようになったのは、江戸時代が終わってからの明治維新以降だったと聞いたことがある。


 だが、高校一年生の俺でも中学校で学ぶ歴史くらいは知っている。何とかテスト勉強の記憶をたどって、江戸時代が始まるきっかけとなった年号を思い出す。


「関が原の合戦がっせんから今までどれくらいっていますか?」


 中学校で歴史の時間に習った天下分け目の関が原の合戦は、きっかり西暦1600年だ。これくらいは覚えている。


 巫女みこさんが頓狂とんきょうな声を上げる。

「関が原の合戦かっせんん!? また昔の事を言うねぇ! あれからなんぞ二百年は経ってんじゃないかい!?」


 という事は西暦1800年以降で、1868年の明治維新めいじいしんより前といったところか。おかしな事に、俺はタイムスリップをしてしまったらしい。胸の奥から声にならない戸惑とまどいの気持ちがこみ上げてくる。


 巫女みこさん、いや、すずさんは、おかまいなく不思議そうな目で俺を見て語りかけてくる。


せきはら合戦かっせんっている。すこしばかり漢語かんごおおもするが、ちゃんと日本語ひのもとことばしゃべる。だがおとこなのにまげも結ってないし、何よりその南蛮なんばんふうのように見えなくもない着物……ゆったりとしたころもじゃなくて、ぴったりとしたふくだね」


 どうやらこのジーンズとTシャツのことを、南蛮なんばんふくのようなものだと思っているらしい。


「妙ちくりんな服を着て、これまた見たことのない履物はきものを履いている……おまいさん、日本ひのもとの者なのかい? そうでないのかい? どっちだい?」


 すずさんがそこまで話したところで、ふすまが少し開いて子供の大きくつぶらな瞳が見えた。俺は思わず言葉を発する。


「あっ! 君は!」


 俺の声にすずさんは振り返ると、女の子を手招きした。


「おあき、おまいも隣に座りな」


 おあきと呼ばれた女の子はふすまをゆっくり少しだけ開け、鴨居かもいくぐふすまを閉め、俺の前で正座して一礼した。


「あたしは、あき、といいます。昨日はお姉を助けようとしてくれて有難うございました」


 礼儀正しい女の子だ。見た目は五、六歳くらいにしか見えないが、この時代の子供は精神年齢が高いのかもしれない。


 昨日はすずさんを助けて……助けて……あの奇妙な兎に……そうだ、首。首から噴き出した血はなんだったのだろうか。


 俺は再び手で左の首筋をなぞる。

「あの、昨日ですけど、首を切られたような気がしたんですが」


 俺のその言葉に、女の子が返答する。


「切られたよ、すっぱりと」


――えっ。


 女の子の言葉に俺が驚きの顔を見せると、なんだかすずさんは気まずそうに目線を合わせてくれなくなった。


 俺は尋ねかける。 

「あの、どういう事ですか? 首をすっぱりと切られてたら、多分今頃死んでいると思うんですが」


 すると、にわかにふすまがゆっくりと大きく開き、座っている初老の男の姿が現れた。もう一人隠れていたようだ。


 座っていたのは濃い緑がかった茶色の着物を着た、背筋の伸びた白髪のお爺さんであった。さきほどの男のように頭のてっぺんは剃っておらず、白髪頭の後ろには控えめなまげを結っていた。


「話してもいいのではないか? おすず、おあき、この男にも何やら訳がありそうだ。みだりに噂を広めたりはしないだろう」


 老人は立ちあがり、敷居しきいをまたぎ部屋に入る。身長はおおよそ160センチ強くらいだろうか。


 そんな初老とも見える老人の言葉に、すずさんが返す。


ととさま、しかし」


――ととさま? この人は二人の父親なのだろうか?


「まあ、朝飯が終わってからでも遅くない、食べてからゆっくり話せばいい」


 老人のその言葉に俺は頷くと、休めていたはしを動かし始めた。





 二合近くは盛られていたであろう白米を、朝から食べきるのは中々骨を折ったが、なんとか膳を平らげた俺は、改めて三人の前で坐礼ざれいをした。


「えっと……事態がよく飲み込めませんが、朝食ご馳走様ちそうさまでした」


 その言葉に、正座をした老人が口を開く。


「私は徳三郎とくさぶろうだ、この名賀山みょうがやま稲荷社いなりやしろにて神官をしている」


――神社の名前はさっきも聞いた。聞いた事のない神社名だ。


「俺は君島きみしま亮哉りょうやといいます、よろしくお願いします」


「きみしま……下野しもつけの方にそんな名の村があったな。苗字をおおやけに名乗ることが許されているのか? 生まれはそこかね?」


――そういえば、栃木県の辺りは昔『下野しもつけ』と呼ばれていたと聞いた事がある。


「えっと、祖父が昭和しょうわの頃に栃木とちぎから東京に出て来たんですが……」


「『栃木とちぎ』か。日光に通じる大きな宿場町しゅくばまちだな。ただ、『しょうわ』は元号げんのごうかね? 正和しょうわ年間は覚えるところ、もう五百年ほど昔のものだが」

「えっと……昭和っていうのはですね……」


 話がかみ合いそうにない。


 そこに、すずさんが言葉をかけてくる。

「父さま、こやつは異なる世から来たのさ」


「異なる世? それはどういう事かね?」


 徳三郎さんが返すと、すずさんは先ほどから澄まして座っていた小さな女の子の背中をそっと撫でた。

「おあき、話してやれ。おまいが見た世はどんなだったのさ?」


 すずさんに促され、女の子が口を開く。

「天を突くようなたいそう大きな城がいくつもあって、道は岩でできていて、柱に明るい光を放つともしびが埋め込まれててね。広い道にはまばゆい光を放つ騒がしい化け猪のようなあやかしが行きかってた。このお兄ちゃんがいたところはこの世ならざる隠り世かくりよみたいなところだった」


 これは、俺が住んでいた東京の情景を説明しているのだろう。その内容に、すずさんは俺をにらみつける。


「ふむ、という事はおあきが訪れた所は魑魅魍魎ちみもうりょうの住まう現世うつつよならざる隠り世かくりよであり、りょうや、おまいさんは人ならざる物の怪もののけたぐいということかい?」

「違いますよ! 俺は人間です!」


「では、そんな隠り世かくりよに住んでいたおまいさんは一体なんなんだい?」


 二百年ほど未来から来たと言わなきゃいけないのだろうか。この時代に気が触れていると認定されたらどんな扱いを受けるのだろうかと思案していると、昨日の光景を思い出した。


「あ、そういえば二つの人魂がすずさんのそばに浮いていたと思うんですが、あれはなんだったんですか?」


 そう俺が尋ねると、すずさんはぎくりといった顔をし、目を背けた。


 そこを、徳三郎さんが促す。

「おすず、見せてやりなさい」

「でも、ととさま!」

「よいから」


 徳三郎さんの言葉に、すずさんはしぶしぶ手のひらを上に向けた。


 てのひらからゆっくりと炎のかたまりが現れ、宙の一点に留まった。


「え!? これって……これって……どうなっているんですか!?」

 俺の質問に、すずさんは決まりが悪そうに口を開いた。

「あたいはね……妖狐ようこなんだよ」


――えっ。


 妖狐といったら狐の妖怪だ。目の前にいるすずさんはまったく人間の格好で、狐っぽい獣耳も尻尾も生やしていない。綺麗な人間の巫女さんにしか見えない。


「妖狐って……あれですよね、昔話とか、御伽噺おとぎばなしとか、漫画とかアニメとかによく出てくる」

「そうそう、その昔話、御伽噺おとぎばなし……『あにめ』ってなにさ」


 すずさんは目を細めて怪訝けげんな顔で返す。俺も本当にすずさんが妖狐なのか確信が持てない。でも、目の前に浮いている炎のかたまりを見ると、どこかに手品のタネがあるようには見えない。


 二十一世紀の男子高校生である俺が江戸時代に来ている時点で科学法則に反しているのだから、妖狐なんかがいてもおかしくはない。俺はそんなことを思いつつ、右手を宙に浮いている人魂に近づける。


「あちっ!!」


 覿面てきめん火傷やけどした。


「まぬけ! 手でじかに触ったら火傷するに決まってんだろうが!」


 すずさんが叫んでから気持ち力を抜いた様子をみせると、炎は虚空こくうき消えた。俺の右手指先は水ぶくれをおこしていて、ちりちりとした痛みが襲いかかってきた。


 この火傷を見て、徳三郎さんが女の子に指示をする。


「おあき、火傷を治してあげなさい」

「はい」


 おあき、と呼ばれた女の子が俺の指の火傷に両方の手のひらをかざすと、ちりちりした火傷の痛みがあっというまに引いていった。


 俺は火傷したはずの右手の指先をまじまじと見る。火傷の形跡はまったくもって消えていた。


「な……治ってる」


「あたしには、命あるものの負った傷を治すことのできる力があるの」

「す……すごいなこれ」


 女の子の純真な瞳の前で、ただただ感心する。痛みも完全にひき、水ぶくれもなくなっている。そこで俺は首筋に手を当てる。


「あっ……じゃあ昨日首が切られたのは」


「そうよ、あたしが治したの。もうちょっとで命尽きるところだったけど間に合って良かった」


 そうだったのか、と納得してからそこで俺はもう一度深々とお礼を言う。


「えーっと、おあきちゃん、命を助けてくれて有難うございました」

「いえいえ、お兄ちゃんの命が救われてなによりで」


 お互いに笑い合った。そこにすずさんが言葉を重ねる。


「着ていた袢纏はんてんは、どろがついたので洗ってやったよ。有難く思いな」

 あのジャケットを袢纏はんてんだと思われているようだった。


「えっと、有難うございます。何から何まで」


 俺が三人に礼を言うと、すずさんは両手を自分の頭の後ろに回し、胸を反らしつつ座ったまま背伸びをする。


「まあ、使えるすべはあたいもおあきも、これだけじゃないがね」

「そうですか。あっ! じゃあ徳三郎さんも妖狐なんですね?」


 俺がそう尋ねると、徳三郎さんは否定する。


「いや、私はただなる人だよ。ゆえあってこの二人の身を預かる戸主こぬしをしている。町の者の目があるので、この二方共ふたかたともの父親という事になっている。まことには違うのだがな」


――そうなのか、意外性の中に意外性があると普通なんだな。


 徳三郎さんは言葉を続ける。

「なにぶん、ここ江戸の者が稲荷明神いなりみょうじんに抱く信仰はあつい。そこに、人の傷をいやす力のあるまことのおきつねさまがいる、なんていう噂が広まったらどうなると思う?」


――なるほど、そんなことになったら大騒ぎだ。江戸中から人が押しかけて、この三人の暮らしは乱されてしまうだろう。


「でも、何故それを俺に教えたんですか?」

「まげも結ってない妙な恰好かっこうの流れ者がそんな事を言いふらしても、誰も信じないだろうからな」


――そこまで考えての事だったのか。このご老人中々思慮しりょが深い。


 と、そこで徳三郎さんは大きく息を吸い込み、改めて俺の顔を真正面から見る。


「それでは、君の事も教えてくれるかな? 君は一体何者で、どこから来たんだね?」


 うってかわって老人の鋭い眼光が俺を射抜く。俺は観念かんねんして、ありのままを話すことにした。


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