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文政あやかし怪奇譚
水無月六八
現代ファンタジー異能バトル
2024年07月26日
公開日
460,470文字
完結
21世紀の男子高校生、君島亮哉は好きな女子に思いがけない好意を寄せられる。
しかし妖怪の力で、江戸時代の文政五年(1822年)にタイムスリップしてしまう。
亮哉は未来に帰る為、江戸に住む炎と影を操る女妖狐おすずと協力し、治癒と変身の術を使う幼い女の子の妖狐おあきと共に、江戸の町に巣食う妖怪を退治していく。
現代に残してきた大切な人達への想いを胸に、亮哉は21世紀と江戸時代との違いに戸惑いつつも神社で働き、精神的に成長しながら江戸の町の人達と深く関わり合っていく。

前口上 故郷は遠くにあり


 ミーンミンミンミンミン……


 真夏まなつ太陽たいようあかるくかがやくどこまでもあおそらもとせみごえ江戸えどまちひびいていた。


 木でできた二階建ての家屋かおくが並ぶ江戸えど街並まちなみ、赤茶あかちゃけた土でむき出しの土埃つちぼこりう道を、色とりどりの着物きものて、草履ぞうり下駄げたいた大勢の町の人たちがその足で歩いていた。


 稲荷社いなりやしろ象徴しょうちょうする赤い鳥居のすぐそばで、神職しんしょく見習みならいらしく白衣びゃくえ藍色あいいろはかまを身に着け、神社近くのゴミを竹箒たけぼうきいていた俺は、紺碧こんぺきの空にそびえ立つ白亜はくあしろのような真夏の入道雲を見上げながらこんなことを思う。


――江戸えどの町や人の様子ようすは見慣れないものばかりだけど


――そらあおさや入道雲にゅうどうぐもの形は、俺の故郷こきょうで見ていたものとまったく変わらないな。


――故郷ふるさとは、とおきにありておもうもの、か。


 今は帰ることができない故郷こきょうで読んでいた書の一節だったかもしれないそんな詩句しくを思い出し、俺はこの地、江戸えど深川ふかがわの町にてあざやかな青色の空を見上げ望郷ぼうきょうの思いを抱く。


 徳川とくがわ将軍しょうぐんのお膝元ひざもとであるこの江戸えどという都市において、南北に貫く大川おおかわから橋を東へと超えたところにある、江戸湾へと流れる二つの川に挟まれた「本所ほんじょ」と呼ばれる区域くいきの南端にある深川ふかがわの町は、山の手の武士の町とは異なる、下町に住む庶民がつくりだした活気に満ちた町であった。


 夏が終わり九月になればすぐ十六歳の誕生日を迎えるはずだった世間知らずの少年の身で、予期せぬ出来事から故郷こきょうに帰れなくなった俺は、ここ深川ふかがわの町にある稲荷いなり神社じんじゃにて居候いそうろうをさせてもらい、色々と神職しんしょく見習みならいとしての仕事をしている。


――井戸から水をんで運ぶとかの力仕事は大変だけど。


――江戸えどでの夏は俺の故郷こきょうの夏ほどは暑くないのは救いかもな。


 頭の後ろにものまげを取り付けている俺はそんなことを思い、ほほを伝う汗を白衣びゃくえ袖口そでぐちぬぐう。


 と、そこに俺がこの稲荷社いなりやしろにてお世話になっているおきゃんな女性の声が響いた。


「りょうぞう! りょうぞう! 来ておくれよ、用事だよ!」


 建物たてものの中にいるその女の人に、りょうぞう、と呼ばれた俺は道に面してすぐ近くの出入り口にある、小さな土間どまおもむく。


「はーい、なんですか?」


 俺は稲荷社いなりやしろ建物たてもの一部いちぶである、いつもは手習い所として子供たちが集まっている講堂こうどうを覗く。


 すると先ほどの声を発した、目が細く切れ上がっていて、前で切りそろえたつやのあるなが黒髪くろかみを後ろにてぬのっている、深紫ふかむらさきいろ着物きものた二十代半ばくらいに見える細身ほそみ女性じょせいたたみうえを歩いて近寄ってきた。 


 土間段の下にいる俺に、その女性が書状しょじょうを差し出しつつこんなことを言ってくる。


「りょうぞう、東の河に行って、さきととさまのおはらだいを貰ってきておくれ。場所はわかるよね?」

「ああ、はい。あのまつえた大きな家の旦那だんなさんでしたよね。町名主まちなぬしさんでしたっけ?」


「そうだね、失礼のないようにね。りょうぞうも江戸えどの町に来てからもうじき一月ひとつきだし、こっちの言葉ことばにも慣れてきたから平気だろうけどさ」

「ええと……まあ、最善さいぜんを尽くします」


 この綺麗きれいな女の人はすずさん。


 俺が世話になっているこの稲荷社いなりやしろ巫女みこさんである。


 いつもはこの稲荷社いなりやしろにて、子供たちにふみ算盤そろばんなどを教える手習い所のお師匠様ししょうさまをしている。今着ている深紫ふかむらさきいろの着物は、お師匠様ししょうさまとしてのいつもの格好である。


 そして、その後ろからは目がくりっとしていて、頭の後ろの髪をふわっと丸く結ってビー玉をあつらえたかんざしけている、赤茶あかちゃいろ振袖ふりそで着物きものを着た、見た目は五、六歳くらいの幼い女の子が黄色い巾着きんちゃくぶくろを持ってついてきた。


 そして、巾着きんちゃくぶくろを俺に渡し、無邪気むじゃきひとみを向けてこんなことを尋ねかける。


「りょうぃ、かったらあたしがおうまさんにけて、りょうぃをかわまでせてれてってあげよっか?」


 その幼く純真じゅんしんな女の子の申し出に、俺は返す。


「いや、江戸えどまちでは武士ぶし以外いがいが馬に乗っちゃ目立つらしいしさ。遠慮えんりょとくよ、ありがとう」


 この小さな女の子はおあきちゃん。すずさんの妹である。


 そしてそんなやり取りを聞いていたすずさんが、一見いっけんなにはいってなさそうな深紫ふかむらさきいろ着物きものうすひだりたもと右手みぎてれ、そのちいさなかげなかからたもとにはとてもはいりそうにないおおきな竹製たけせいがさをにゅるっと取り出した。


「ほらよ、あついから日差ひざしよけにかさかぶっていきな」

「ああ、ありがとうございます」


 俺が土間段どまだんの下からがさを受け取りつつすずさんの気遣きづかいにお礼を述べると、すずさんがこんなことをたずねてくる。


「東の河までの道はわかるかい? 夜の道しか知らないだろ?」

「大体わかります。俺、方位ほうい磁石じしゃくとか地図ちずとかなくても太陽たいよう大体だいたい方角ほうがくはわかるんで」


 そんなやり取りを交わしてから土間段を出て、目的地である東の河べりに向かおうとしたところ、こんなことを思いだした。


――そういや、あのあたりは俺がこの江戸に迷い込んだ場所だったな。


――だったら、もしかしたら。


 ふと思うことがあった俺は、この稲荷社で間借りさせてもらっている一室に赴き、故郷から持ってきた荷物の中から、ある薄く平たい小道具を取り出した。


 そして、暑い日差しを避けるため頭に笠を被り、東にある川に向かって書状とその小道具を巾着袋に入れて歩き出す。


――東の河までは、一里くらいあるらしいからな。


――ってことは、歩いて用事を済ませて帰ってきて夕方までには戻れるか。


――江戸の町は、庶民は基本的に歩くしかないってのは不便だけど仕方ないよな。


 そんなことを考えて、神職の白衣に藍色の袴を身に着けて笠を被った俺は、東に向かって江戸の町を歩き始めた。






 そして一時間くらい歩いて、俺は東の河の河川敷に到着した。


 透き通った水が流れている東の河の水面は、太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。


 真夏の暑い盛りだからだろう、ばしゃばしゃという音と楽しげな笑い声と共に、太陽の刺すような光が降り注ぐ川べりの浅瀬にて子供や老人、若い男や女の人が一緒に裸で水浴びをしてる光景が目に入る。


 若い女の人が恥ずかしげもなく、ふくらんだ胸をさらして水浴びをしているその様子を俺はちらりと見て、心の内にて照れた感情を抱きつつ言葉を漏らす。


「……こんな場所でみんな一緒に裸になって水浴びするなんて、俺の生まれ育ったところでは考えられないな」


――ここ江戸の町は、俺の故郷とはまったくもって価値観が違う。


――おおらかというか、何と言うか。


――若い女の人でも、裸を見られるのをほとんど恥ずかしがらないんだよな。


 水害を防ぐために土を盛り上げ、緑の葉を飾る木々がいくつもわっているつつみを越えた所にあるそれなりの広さの河川敷には、真昼のじりじりとした日差しに照らされて音のない陽炎かげろうの揺らめきが昇っている。


 つい先日の夜更よふけにすずさんとおあきちゃんと共にここに来て、なにもないようなこの町はずれの平和へいわ河川敷かせんじきにて戦った、にわとりのような風貌ふうぼうをした妖怪ようかい咆哮ほうこうくちばしを突き出して向かってくる情景じょうけいが思い起こされる。


――昼間は本当に、平和なもんだな。


――でも、いるんだよな。あんな凶暴きょうぼう妖怪ようかいが人知れずそこかしこに。


 鶏のような禍々まがまがしい妖怪に食いちぎられて指が三本なくなって、そしておあきちゃんに治癒の妖術をかけてもらって何事もなかったかのように元に戻った俺の手を見つつ、そんなことを思う。


 俺は河川敷かせんじきを歩いて川べりに近寄り、この前に妖怪ようかいたたかったさいに落ちてびしょ濡れになった、きらきらと日の光が水面で乱反射している浅瀬あさせ視線しせんを下げてのぞむ。


 少し南に下ったところで江戸湾へとつながるはずの川幅かわはばの広いその河川かせんのぞくと、さらさらとした清流せいりゅうとしか表現できないような透明な水を通して川底が見えていて、その透き通った水の中には十匹くらいのメダカの群れが泳いでいるのが見て取れた。


――こんな綺麗な水の流れる川が、そのうちあんなに濁ったドブみたいな色の川になるのか。


――本当に、時の流れって残酷だな。


 と、そこで不意に斜め後ろの方から女の人の声をかけられた。


「ちょっとちょっと、そこの川縁かわべりにいるたけたかいお兄さん!」


 俺が振り返ってそちらの方を向くと、頭に麻でできたような白い布を巻き、胸元むなもとの見えそうなゆったりとした着物きものた若い物売りのお姉さんが、何やら干し魚が何尾も入ったかごを手に持って声をかけてきたようであった。


 俺は返事をする。


「あ、俺のことですか?」

「そうだよ、そこに丈の高い男なんざあんたの他に誰がいるってんだよ? あんたさ、このあたりじゃ見ない顔だけどさ、おのぼりさんかい? いやー、面と向き合って顔見てみると、お兄さん江戸えどじゃーちょーっと見たことないくらいのれする色男いろおとこだねぇー」


 お姉さんの尋ねかけに、俺は応える。


「えーっと……一月ひとつき前に江戸に来たばっかりですね」

「そっかいそっかい、あたしは上総かずさうらから江戸えどのぼって三年みとせになるからさ、しちさわがしい江戸えどの暮らしにもぐっすり慣れちまったよ。でさ、あんたさぁ、このあたりでれたさかなしたの買ってくんないかい? まれのうら門外もんがい不出ふしゅつ秘伝ひでんのタレつけてっからさ、いたらこうばしくてたまんねぇよ?」 


 気風きっぷのいい感じの売り文句に、俺は返す。


「あーっと、俺ちょっと頼まれた小間使こまづかいの用事があるんで……その用事が済んだらまたこの辺りに寄ります」

「そっかいそっかい、お兄さんあたしごのみの色男いろおとこだからさ、一番大きなさかな取っといてやるよ。でもさ、それまでに売りきれてったら御免ごめんだよ?」


 下町に住むちゃきちゃきの江戸っ子口調のお姉さんを見送り、俺は再び透き通った水が流れている河、そしてその向こうにある雑木林ぞうきばやしはたけわらきの屋根やね家屋かおく、そこに住まう人らの素朴な暮らしに思いを馳せつつ、失われた日本の瑞々みずみずしい原風景とも呼べる眺めに視線をやる。


――このあたりで獲れた魚、か。


――江戸えどのすぐまえにある川や海で獲れてる魚が、普通に食卓に上る魚として商品になってるんだよな。


――だからこそ、ここ江戸えど近辺きんぺんの料理の事を『江戸前えどまえ』っていうのか。


――すずさんに聞いた話だと、清流にしか住まないあゆがこの辺でも普通に獲れてるらしいし。


――江戸って、こんなに緑と水が豊かで自然にあふれる美しい都市だったんだな。


 そんなことを考えてから俺は、河の近くにあった木陰こかげ移動いどうして木の下に座り、そのがさを外し、巾薄袋きんちゃくぶくろくちゆるめて中をまさぐり、故郷こきょうから持ってきた薄く平たい板のような手に収まる小道具を取り出す。


 そして、その小道具の脇にあるでっぱりを押してからしばらくして、表面を指でなぞってとんとんと何回かれる。


 江戸えどの人たちにとっては見慣れない素材でできた、珍妙ちんみょうなものとしか思えないであろう薄く小さな板を指でなぞると、その表面の上の方にこんな文字が浮かび上がってきた。


 『―圏外―』


 その生まれ故郷から江戸の町へと持ってきた小道具、スマートフォンと呼ばれている機械きかい液晶えきしょう画面がめんに表示された、サーバー情報じょうほう取得しゅとく不能ふのうを示す二文字の漢字に俺はため息をつく。


「はぁ……やっぱり駄目か……俺が江戸えどに来たこのあたりなら電波が通ってネットにつながるかもしれないって思ったんだけどな」


 夏の葉々によって木漏れ日差す木陰こかげに座ったままの俺は、モノクロフィルムではとても表現できなさそうな、江戸えどの町をおおあざやかな青色の空を見上げる。


 そして、俺の口から言葉が漏れる。


文政ぶんせい五年か……今っていったい、西暦何年なんだろ」


 俺の名前は君島きみしま亮哉りょうや、二十一世紀の東京とうきょうに生まれ育ったごく平凡な男子高校生だ。


 俺はいま、生まれ育った時代より二百年近く昔であろうこの世界で、稲荷社いなりやしろ戸主こぬしをしている親切な人間の神主さんと、人の社会で正体を隠して生きている妖狐ようこ姉妹しまいの助けを借りて、ここ江戸えどの町で神職の見習いをしている居候いそうろうとして暮らしている。


 そして、誰にも聞いてもらえるはずのないつぶやきを続ける。


江戸えど時代じだいか……魔法を使うエルフや人を襲うモンスターがいる中世ヨーロッパ風異世界とかじゃなくて、妖術を使える妖怪がいて、あるものは人に紛れて正体を隠して暮らし、あるものは闇に紛れて人を襲う、少し風変りな江戸えど時代じだい


――そもそもこの世界、本当に俺のいた世界の過去の世界なのかな。


 そんなことを考えて、貴重きちょうなバッテリー電力を消費しないように電源を切り、江戸えどでは到底とうてい使い物になりそうにないスマートフォンを手にしつつ木陰の下に座ったまま、あざやかにえた青色の空を見上げた俺は、東京とうきょうに残してきた家族、親友、そしてクラスメイトである想い人の顔を心に浮かべて呟く。


「父さん、母さん、慎司しんじ忠弘ただひろたかし……そして葉月はづき、元気にしてるかな……」


 俺は、東京とうきょう江東区こうとうくにある高校に通う平凡な一年の男子高校生だったのだが、夏休みの初日に平成へいせい時代じだいからこの、異世界ではなく江戸えど時代じだいである文政ぶんせい年間ねんかんに迷い込んでしまった。


 すずさんとおあきちゃんは正体を隠して人間社会で暮らしている、超能力のような妖術ようじゅつを使える妖狐ようこ姉妹しまいであり、その妖狐ようこ姉妹しまい本所ほんじょにて請け負っている妖怪ようかい退治たいじに巻き込まれて帰れなくなってしまった俺は、この見慣れぬ世界で暮らすことになってしまったのである。


 俺は座っている木陰こかげから、青と白のコントラストの効いた入道雲にゅうどうぐもをたたえる、未来のものと何も変わらない空を見上げながら一人ごちる。


故郷ふるさとは、とおきにありて思うもの。そして悲しく歌うもの……か」


 文政ぶんせい五年ごねんの七月、江戸えど時代じだいが始まってから二百年以上は経っているであろう、徳川とくがわ将軍しょうぐんが天下を治める泰平たいへい


 当然の事ながら、その詩歌しかんだ明治めいじ時代じだいまれの文人ぶんじんは、まだこの世に生まれていない。


 そして俺の心の中に、十年近く決して忘れなかった初恋の女性である、白いブラウスに白いスカートを身に着けた、幼かった俺に優しい笑みを向けてくれた黒髪のお姉さんの姿と言葉が思い浮かぶ。


――もしもかえりたいなら、どんなことがあってもけっしてあきらめないで――


 その遥か過去のような未来の出来事を思い返しながら、俺は故郷のものと変わらない形の雲が浮かぶ、江戸時代の太陽が照る夏の青空をただただ見上げていた。



 ◇



―文政あやかし怪奇譚―

<:a love letter for beyond the Galaxy>

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