ミーンミンミンミンミン……
真夏の太陽が明るく照り輝く、どこまでも青い空の下、蝉の鳴き声が江戸の町に鳴り響いていた。
木でできた二階建ての家屋が並ぶ江戸の街並み、赤茶けた土でむき出しの土埃舞う道を、色とりどりの着物を着て、草履や下駄を履いた大勢の町の人たちが、その足で歩いていた。
稲荷社を象徴する赤い鳥居のすぐそばで、神職見習いらしく白衣に藍色の袴を身に着け、神社近くのゴミを竹箒で掃いていた俺は、紺碧の空にそびえ立つ白亜の城のような真夏の入道雲を見上げながらこんなことを思う。
――江戸の町や人の様子は、見慣れないものばかりだけど。
――空の蒼さや入道雲の形は、俺の故郷で見ていたものとまったく変わらないな。
――故郷は、遠きにありて思うもの、か。
今は帰ることができない、故郷で読んでいた書の一節だったかもしれないそんな詩句を思い出し、俺はこの地、江戸の深川の町にて鮮やかな青色の空を見上げ望郷の思いを抱く。
徳川将軍のお膝元である、この江戸という都市において、南北に貫く大川から橋を東へと超えたところにある、江戸湾へと流れる二つの川に挟まれた「本所」と呼ばれる区域の南端にある深川の町は、山の手の武士の町とは異なる、下町に住む庶民がつくりだした活気に満ちた町であった。
夏が終わり、九月になればすぐ十六歳の誕生日を迎えるはずだった世間知らずの少年の身で、予期せぬ出来事から故郷に帰れなくなった俺は、ここ深川の町にある稲荷神社にて居候をさせてもらい、色々と神職見習いとしての仕事をしている。
――井戸から水を汲んで、運ぶとかの力仕事は大変だけど。
――江戸での夏は、俺の故郷の夏ほどは暑くないのは救いかもな。
頭の後ろに、借り物の付け髷を取り付けている俺はそんなことを思い、頬を伝う汗を白衣の袖口で拭う。
と、そこに、俺がこの稲荷社にてお世話になっている、お侠な女性の声が響いた。
「りょうぞう! りょうぞう! 来ておくれよ、用事だよ!」
建物の中にいるその女の人に、りょうぞう、と呼ばれた俺は、道に面してすぐ近くの出入り口にある、小さな土間に赴く。
「はーい、なんですか?」
俺は稲荷社の建物の一部である、いつもは手習い所として子供たちが集まっている、講堂を覗く。
すると先ほどの声を発した、目が細く切れ上がっていて、前で切りそろえた艶のある長い黒髪を後ろにて布で結っている、深紫色の着物を着た、二十代半ばくらいに見える細身の女性が畳の上を歩いて近寄ってきた。
土間段の下にいる俺に、その女性が書状を差し出しつつ、こんなことを言ってくる。
「りょうぞう、東の河に行って、先の父さまのお祓い代を貰ってきておくれ。場所はわかるよね?」
「ああ、はい。あの松の生えた大きな家の旦那さんでしたよね。町名主さんでしたっけ?」
「そうだね、失礼のないようにね。りょうぞうも江戸の町に来てからもうじき一月だし、こっちの言葉にも慣れてきたから平気だろうけどさ」
「ええと……まあ、最善を尽くします」
この綺麗な女の人は、すずさん。
俺が世話になっている、この稲荷社の巫女さんである。
いつもはこの稲荷社にて、子供たちに文や算盤などを教える、手習い所のお師匠様をしている。今着ている深紫色の着物は、お師匠様としてのいつもの格好である。
そして、その後ろからは目がくりっとしていて、頭の後ろの髪をふわっと丸く結ってビー玉をあつらえた簪を着けている、赤茶色の振袖着物を着た、見た目は五、六歳くらいの幼い女の子が黄色い巾着袋を持ってついてきた。
そして、巾着袋を俺に渡し、無邪気な瞳を向けてこんなことを尋ねかけてくる。
「りょう兄ぃ。良かったらあたしがお馬さんに化けて、りょう兄ぃを河まで乗せて連れてってあげよっか?」
その、幼く純真な女の子の申し出に、俺は返す。
「いや、江戸の町では武士以外が馬に乗っちゃ目立つらしいしさ。遠慮しとくよ、ありがとう」
この小さな女の子はおあきちゃん。すずさんの妹である。
すると、そんなやり取りを聞いていたすずさんが、一見何も入ってなさそうな深紫色の着物の薄い左の袂に右手を入れ、その小さな影の中から、袂にはとても入りそうにない大きな竹製の編み笠をにゅるっと取り出した。
「ほらよ、暑いから日差しよけに笠被っていきな」
「ああ、ありがとうございます」
俺が土間段の下から編み笠を受け取りつつ、すずさんの気遣いにお礼を述べると、すずさんがこんなことを尋ねてくる。
「東の河までの道はわかるかい? 夜の道しか知らないだろ?」
「大体わかります。俺、方位磁石とか地図とかなくても、太陽で大体の方角はわかるんで」
そんなやり取りを交わしてから土間段を出て、目的地である東の河べりに向かおうとしたところ、こんなことを思い出した。
――そういや、あのあたりは俺がこの江戸に迷い込んだ場所だったな。
――だったら、もしかしたら。
ふと思うことがあった俺は、この稲荷社で間借りさせてもらっている一室に赴き、故郷から持ってきた荷物の中から、ある薄く平たい小道具を取り出した。
そして、暑い日差しを避けるため頭に笠を被り、本所の東にある河に向かって、書状とその小道具を巾着袋に入れて歩き出す。
――東の河までは、一里くらいあるらしいからな。
――ってことは、歩いて用事を済ませて帰ってきて夕方までには戻れるか。
――江戸の町は、庶民は基本的に歩くしかないってのは不便だけど仕方ないよな。
そんなことを考えて、神職の白衣に藍色の袴を身に着け笠を被った俺は、東に向かって江戸の本所の町を歩き始めた。
そして一時間くらい歩いて、俺は東の河の河川敷に到着した。
透き通った水が流れている東の河の水面は、太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。
真夏の暑い盛りだからだろう、ばしゃばしゃという音と楽しげな笑い声と共に、太陽の刺すような光が降り注ぐ川べりの浅瀬にて子供や老人、若い男や女の人が、裸になって水浴びをしてる光景が目に入る。
若い女の人が恥ずかしげもなく、膨らんだ胸を曝け出して水浴びをしているその様子を俺はちらりと見て、心の内にて照れた感情を抱きつつ言葉を漏らす。
「……こんな場所でみんな一緒に裸になって水浴びするなんて、俺の生まれ育ったところでは考えられないな」
――ここ江戸の町は、俺の故郷とはまったくもって価値観が違う。
――おおらかというか、何と言うか。
――若い女の人でも、裸を見られるのをほとんど恥ずかしがらないんだよな。
水害を防ぐために土を盛り上げ、緑の葉を飾る木々がいくつも植わっている堤を越えた所にあるそれなりの広さの河川敷には、真昼のじりじりとした日差しに照らされて、音のない陽炎の揺らめきが昇っている。
つい先日の夜更けに、すずさんとおあきちゃんと共にここに来て、なにもないようなこの町はずれの平和な河川敷にて戦った、鶏のような風貌をした妖怪が咆哮を上げ、嘴を突き出して向かってくる情景が思い起こされる。
――昼間は本当に、平和なもんだな。
――でも、いるんだよな。あんな凶暴な妖怪が人知れずそこかしこに。
鶏のような禍々しい妖怪に食いちぎられて、指が三本なくなって、そしておあきちゃんに治癒の妖術をかけてもらって、何事もなかったかのように元に戻った俺の左手を見つつ、そんなことを思う。
俺は河川敷を歩いて川べりに近寄り、この前に妖怪と戦った際に落ちてびしょ濡れになった、きらきらと日の光が水面で乱反射している浅瀬に、視線を下げて覗き込む。
少し南に下ったところで江戸湾へとつながるはずの、川幅の広いその河川を覗くと、さらさらとした清流としか表現できないような透明な水を通して川底が見えていて、その透き通った水の中には十匹くらいのメダカの群れが泳いでいるのが見て取れた。
――こんな綺麗な水の流れる川が、そのうちあんなに濁ったドブみたいな色の川になるのか。
――本当に、時の流れって残酷だな。
と、そこで不意に斜め後ろの方から女の人の声をかけられた。
「ちょっとちょっと、そこの川縁にいる丈の高いお兄さん!」
俺が振り返ってそちらの方を向くと、頭に麻でできたような白い布を巻き、胸元の見えそうなゆったりとした着物を着た、若い物売りのお姉さんが、何やら干し魚が何尾も入った籠を手に持って声をかけてきたようであった。
俺は返事をする。
「あ、俺のことですか?」
「そうだよ、そこに丈の高い男なんざあんたの他に誰がいるってんだよ? あんたさ、このあたりじゃ見ない顔だけどさ、お上りさんかい? いやー、面と向き合って顔見てみると、お兄さん江戸じゃーちょーっと見たことないくらいの惚れ惚れする色男だねぇー」
お姉さんの尋ねかけに、俺は応える。
「えーっと……一月前に江戸に来たばっかりですね」
「そっかいそっかい、あたしは上総の浦から江戸に上って三年になるからさ、しち騒がしい江戸の暮らしにもぐっすり慣れちまったよ。でさ、あんたさぁ、このあたりで獲れた魚干したの買ってくんないかい? 生まれの浦に代々伝わる御秘蔵もんのタレつけてっからさ、焼いたら香ばしくてたまんねぇよ?」
気風のいい感じの売り文句に、俺は返す。
「あーっと、俺ちょっと頼まれた小間使いの用事があるんで……その用事が済んだら、またこの辺りに寄ります」
「そっかいそっかい、お兄さんあたし好みの色男だからさ、一番大きな魚取っといてやるよ。でもさ、それまでに売りきれてったら御免だよ?」
下町に住むちゃきちゃきの江戸っ子口調のお姉さんを見送り、俺は再び、透き通った水が流れている河、そしてその向こうにある雑木林、畑、藁葺きの屋根の家屋、そこに住まう人らの素朴な暮らしに思いを馳せつつ、失われた日本の瑞々しい原風景とも呼べる眺めに視線をやる。
――このあたりで獲れた魚、か。
――江戸のすぐ目の前にある川や海で獲れてる魚が、普通に食卓に上る魚として商品になってるんだよな。
――だからこそ、ここ江戸近辺の料理の事を『江戸前』っていうのか。
――すずさんに聞いた話だと、清流にしか住まない鮎がこの辺でも普通に獲れてるらしいし。
――江戸って、こんなに緑と水が豊かで自然にあふれる、美しい都市だったんだな。
そんなことを考えてから俺は、河の近くにあった木陰に移動して木の下に座り、その編み笠を外し、巾薄袋の口を緩めて中をまさぐり、故郷から持ってきた薄く平たい板のような手に収まる小道具を取り出す。
そして、その小道具の脇にあるでっぱりを押してからしばらくして、表面を指でなぞってとんとんと何回か触れる。
江戸の人たちにとっては見慣れないはずの素材でできた、珍妙なものとしか思えないであろう薄く小さな板を指でなぞると、その表面の上の方にこんな文字が浮かび上がってきた。
『―圏外―』
その生まれ故郷から江戸の町へと持ってきた小道具、スマートフォンと呼ばれている機械の液晶画面に表示された、サーバー情報取得不能を示す二文字の漢字に俺はため息をつく。
「はぁ……やっぱり駄目か……俺が江戸に来たこのあたりなら、電波が通ってネットに繋がるかもしれないって思ったんだけどな」
夏の葉々によって木漏れ日差す木陰に座ったままの俺は、モノクロフィルムではとても表現できなさそうな、江戸の町を覆う鮮やかな青色の空を見上げる。
そして、俺の口から言葉が漏れる。
「文政五年か……今っていったい、西暦何年なんだろ」
俺の名前は君島亮哉、二十一世紀の東京に生まれ育ったごく平凡な男子高校生だ。
俺は今、生まれ育った時代より二百年近く昔であろうこの世界で、稲荷社の戸主をしている親切な人間の神主さんと、人の社会で正体を隠して生きている妖狐の姉妹の助けを借りて、ここ江戸の町で神職の見習いをしている居候として暮らしている。
そして、誰にも聞いてもらえるはずのない呟きを続ける。
「江戸時代か……魔法を使うエルフや人を襲うモンスターがいる、中世ヨーロッパ風異世界とかじゃなくて、妖術を使える妖怪がいて、あるものは人に紛れて正体を隠して暮らし、あるものは闇に紛れて人を襲う、少し風変りな江戸時代」
――そもそもこの世界、本当に俺のいた世界の過去の世界なのかな。
そんなことを考えて、貴重なバッテリー電力を消費しないように電源を切り、江戸では到底使い物になりそうにないスマートフォンを手にしつつ、木陰の下に座ったまま、鮮やかに映えた青色の空を見上げた俺は、東京に残してきた家族、親友、そしてクラスメイトである想い人の顔を心に浮かべて呟く。
「父さん、母さん、慎司、忠弘、隆……そして葉月、元気にしてるかな……」
俺は、東京の江東区にある高校に通う、平凡な一年の男子高校生だったのだが、夏休みの初日に、平成時代からこの異世界ではなく江戸時代である文政年間に迷い込んでしまった。
すずさんとおあきちゃんは正体を隠して人間社会で暮らしている、超能力のような妖術を使える妖狐の姉妹であり、その妖狐の姉妹が本所にて請け負っている妖怪退治に巻き込まれて帰れなくなってしまった俺は、この見慣れぬ世界で暮らすことになってしまったのである。
俺は座っている木陰から、青と白のコントラストの効いた入道雲をたたえる、未来のものと何も変わらない空を見上げながら一人ごちる。
「故郷は、遠きにありて思うもの。そして悲しく歌うもの……か」
文政五年の七月、江戸時代が始まってから二百年以上は経っているであろう、徳川将軍が天下を治める泰平の世。
当然の事ながら、その詩歌を詠んだ明治時代生まれの文人は、まだこの世に生まれていない。
そして俺の心の中に、十年近く決して忘れなかった初恋の女性である、白いブラウスに白いスカートを身に着けた、幼かった俺に優しい笑みを向けてくれた黒髪のお姉さんの姿と言葉が思い浮かぶ。
――もしも帰りたいなら、どんな事があっても決して諦めないで――
その遥か過去のような未来の出来事を思い返しながら、俺は故郷のものと何も変わらない形の雲が浮かぶ、江戸時代の太陽が照る夏の青空をただただ見上げていた。
◇
―文政あやかし怪奇譚―
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