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抑えきれない想い ②

 ――一月末、絢乃会長が取材を受けた報道番組がTVの全国ネットで放送された。

 僕を除く社員や幹部の人たちの顔にはちゃんとぼかしが入れられており、会長と僕が心配していたプライバシー保護もきちんとなされていたので、さすがはプロの仕事と二人で感服したものだ。

 SNSでは――いい意味でも悪い意味でも騒がれることもなかったので、これは喜んでいいのか悲しむべきことなのか……。

 でも、このTV取材が要因となったのか、取引先が数社増えたことは大きな反響といえるかもしれない。TVで絢乃会長の誠実さに触れ、ぜひとも篠沢商事と仕事がしたい、と言ってきたのだ。


「ほらね、桐島さん。TVのインタビュー、受けてよかったでしょ?」


 会長は嬉しそうに、そして若干得意げにこうおっしゃっていた。――「多くの人の目に晒されるのは苦手だ」とおっしゃっていたのはどこのどなただったでしたっけ?

 とはいえ、まさかこんなに早く仕事の成果に直結するとは思ってもいなかったので、確かに取材を受けたことは正解だったのだろう。絢乃会長さまさまである。



 ――そんなことがあっての二月初旬。絢乃会長に篠沢グループの化粧品メーカー・〈Sコスメティックス〉のCM出演のお話が来た。春の新作ルージュのCMにぜひ出てほしい、と。

 彼女はコスメを始め、スキンケアからヘアケア、ボディケアに至るまでこのブランドを普段から愛用されており、僕は当然、彼女がこのオファーを受けられるものと思っていた。

 ところが、給湯室へお客様――〈Sコスメティックス〉の販売促進部と広報部の部長さんらしく、どちらも三十代くらいの女性だった――と会長のためにお茶を淹れに行っていた僕が会長室へ戻ると、思わぬ展開が待っていた。


「き……っ、キスシーン!?」


 それまでの話の流れを僕は知らなかったのだが、絢乃会長が素っ頓狂に声を上ずらせていたのだ。それも、僕が耳をダンボにしたくなるような単語を叫んで。……何ですと!? キスシーンとな!?

 どういう話の流れでそうなったのかと僕が首を傾げると、会長は何だか気まずそうにモジモジし始めた。そして、「キスシーンがあるならこの話はお断りします」とおっしゃったのだ。

 ……これはどういうことだろう? たったそれだけの理由で、愛用しているコスメブランドのCM出演を断ってしまわれるなんて、何というか絢乃会長らしくないなと僕は思った。

 でも、絢乃さんにはどうも恋愛経験がなかったらしいので、もしかしたら初めて好きになった人に申し訳なくてお断りしたのかもしれないな、とも思った。



「――どうしてCMの話、お断りしたんですか?」


 〈Sコスメティックス〉からのお客さま方がお帰りになってから、僕は応接スペースで冷めたお茶をお飲みになっていた絢乃会長に訊ねた。この日までは知らなかったのだが、彼女は猫舌らしいのだ。

 すると、このCMに出演される俳優さんが撮影でもリアルにキスをする人だからだというお答えが。


「だからといって、そんな無碍むげに断るなんて……。そんなの会長らしくないです」


 僕は思わず、彼女に対してこんな上から発言をしてしまった。まだ出会って四ヶ月しか経っていなかった僕が、彼女の一体何を知っていたというんだろう?


「……わたしね、ファーストキスは絶対、好きな人としたいの。だから断ったの」


 僕はこの返しに目をみはった。……やっぱり、彼女にはキスの経験がなかったのだ。というか、「好きな人」って言わなかったか?


「好きな人と……って、えっ? ファーストキスなんですか」


「うん」


 僕の聞き間違いかと思い、改めて訊き返すと思いっきり頷かれた。 しかも、何だか僕の顔をじっと見つめられているような……。気のせいかな? 「好きな人」って、まさか僕じゃない……よな?


「……そうでしたか。それならお断りしたのも仕方ないというか、納得できますね。ですが、会長の好きな人か……」


 僕はそれがまさか自分のことだとは思わずに、ひたすらうろたえていた。

 彼女の言葉を百パーセント信用できなかったというのも、ままあった。信じれば裏切られる、期待すればダメだった時にダメージを受けると、僕は日比野の件で刷り込まれてしまっていたのだ。絢乃さんだけがそうじゃないなんて、とても思えなかった。


 でも、そんな挙動不審な僕を、彼女はまだ見つめていて。


「…………何ですか? 僕の顔に何かついてます?」


「えっ? ううん、何でもない!」


 僕が問いかけると、慌てて目を逸らされた。これは僕に好意を持って下さっているのと、やっぱり僕のことではないのに勝手にうぬぼれていた僕に呆れていたのと、どちらの意味に捉えればよかったのだろう?



   * * * *



 ――その日、絢乃さんをお宅までお送りした帰り、僕は恵比寿にある書店に立ち寄り、女性向けの恋愛小説がズラリと並ぶコーナーをウロウロしていた。「〝オフィスラブ〟とは何ぞや?」ということを研究するのに参考になりそうな本を探していたのだが……。


「なんでこういう小説に出てくる男って、Sとか上司って大体相場が決まってんだよ……。俺、どれにも当てはまってないじゃんか」


 手に取った本のページをパラパラめくっては、グチをこぼす。

 僕はどちらかといえばSよりMだと思うし、絢乃さんが上司で僕は部下である。オフィスラブものの王道からは完全にズレていたのだ。


「――聞こえたわよ~、桐島くん」


「…………ぬぉっ!? せっ、先輩! こんなところで何してんすか!」


 フッフッフッという笑いとともに聞こえてきた声に、僕は飛び上がった。


「失礼な。あたしだって本くらい読みますぅー。っていうか、あなたこそこんなところで何してるの?」


「あー……えっと、ちょっとオフィスラブの参考までに……」


「別に男がこういうの読んだって、あたしには偏見なんかないからいいけど。もっとムフフ♡ な展開を期待したいなら、あたしのおススメはこっちのレーベル」


「だぁーーーっ!? ちょっ……センパイ!?」


 彼女が面白半分に棚から取り出した本を、僕は引ったくって吠えた。それはよりにもよって、女性向け恋愛小説の中で最も内容が濃厚な〝TL〟といわれるジャンルのレーベルのものだった。


「……これはいくら何でも生々しすぎますって。俺にはムリっすよ」


「でしょうねぇ。分かってるって、冗談だから。からかってゴメン」


 先輩は僕から返された本を棚に戻し、申し訳なさそうに肩をすくめた。


「にしたって冗談キツいでしょ。俺の悩みを知っていながらあんなの勧めるなんて」


「だから謝ってるでしょ。――そんなことより、絢乃会長をお送りした帰り?」


「はい、そうっすけど」


「じゃあゴハンまだでしょ? あたしが奢ってあげるから、一緒にどう? すぐそこの牛丼屋さん」


 どうしようかと迷っていると、僕の腹がグゥゥゥ……と鳴った。


「決まりみたいね。じゃあ行こ」



 牛丼チェーンに入り、それぞれ特盛チーズ牛丼と並盛豚丼+温玉サラダセットを注文した僕らは(どちらがどちらの注文したメニューかは想像がつくだろうと思うが)窓際のテーブルに向かい合って座った。


「――で、絢乃会長との関係はどう? 進展ありそう?」


 先輩にそう訊かれ、僕は食べる手を止めて彼女を睨んだ。


「先輩、その質問は俺には苦にしかならないです」


「そうだよねー、桐島くんって女性不信だもんね。愚問だったか。……でもさぁ、絢乃会長が相手ならあなたも大丈夫だと思うけどな」


「……俺もそう思います、けど」


 確かに先輩の言うとおりで、絢乃さんは純粋でまっすぐな人だから、もし僕に好意を持っておられたとしてもそれは疑いようもなく本心なのだろう。

 ……と、頭では理解できているのだが。心の方はそうもいかない。やっぱり、が僕に植え付けたトラウマは相当根深いようだった。

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