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オフィスラブ、スタート! ①

 ――そして迎えた、絢乃会長就任会見の当日。僕はおろしたての真っ白なワイシャツとまっさらな濃紺のスーツ、そして絢乃さんから送られた赤いストライプ柄のネクタイでビシッと決め、黒いコートを羽織ってアパートを出た。足元はこれも新品の、ブラウンの革靴だ。

 この日は朝九時ごろに、篠沢邸まで絢乃さんと加奈子さんの親子をお迎えに行くことになっていた。


 すでに愛車となっていたシルバーのセダンを運転して、篠沢邸のカーポートに到着したのは九時少し前だった。


「――おはようございます。桐島です。お迎えに上がりました!」


 インターフォンを押し、「はい」と彼女のキレイな声で返事があったので張り切ってそう伝えた。「すぐに出られるから待ってて」と言われて待っていると、ほんの数分でお二人が出てこられた。……が、コートの下はおそらくグレーのパンツスーツである加奈子さんに対して、絢乃さんの黒いピーコートの下からは裾に赤い一本線の入った膝丈のブルーグレーのスカートが見えていた。このスカート、見覚えがあるけどまさか……?

 それを確かめる前に挨拶を交わすと、絢乃さんが「あ、そのスーツ……」と僕の新品のスーツに気づいて下さった。


「ああ、これですか。絢乃さんがプレゼントして下さったネクタイに合わせて新調したんですよ。どうです、似合いますか?」


 僕は気づいてもらえたことが嬉しくて、彼女からのプレゼントだったネクタイに手をやった。彼女は「すごくカッコいい」と褒めて下さったが、まさかスーツを新しく買うとは思っていなかったと驚かれ、「それ高かったんじゃない?」と心配して下さった。

 僕は「量産品なのでそんなにかからなかった」と答えたが、実はそれでも三万円くらいかかっていた。ちょっとばかり痛い出費である。一応、ダメもとで経費で落としてもらえないかと領収書はもらっておいたのだが。


「それならいいんだけど。桐島くん、その時の領収書かレシートがあったら、その分絢乃に清算してもらえるわよ」


 加奈子さんがサラッとすごいことを教えて下さった。目からウロコが落ちるとはこのことかと思った。というか、小川先輩が言っていた「会長秘書だけの特別待遇」ってこのことだったのか……!

 でも、特別待遇はそれだけではなかった。送迎にかかった交通費やガソリン代も、経理部を通さず会長から直接清算されるのだという。つまり、僕の場合は絢乃さんのポケットマネーから、ということだ。


 このシステムは、今は亡き源一前会長が始められたらしい。が、それ以前の歴代会長も社員たちのために色々な工夫をして下さったと聞く。たとえば、秘書室と会長室からそれぞれ伸びる給湯室への通路。これも、絢乃会長のお祖父さまが秘書の負担を軽減するために設計してもらったのだとか。

 きっと絢乃会長も、この先僕たち社員が働きやすくなる工夫を色々として下さるに違いない。


「へぇ……、それは助かります。会長秘書って仕事量も多そうですけど、それに見合ったメリットもあるわけですね」


 僕は彼女に心から感謝している。もちろん会長秘書だけの特権に関してもそうだが、僕にここまでやる気をみなぎらせて下さったことにも。

 思えば僕が男女問わず、誰かのために一生懸命に何かをしようと思ったのは、絢乃さんに対してが初めてだった。本気で恋をしたらそう思えるようになるのだと、この時初めて分かったのだ。

 クルマを買い換えたのも、スーツを新調したのも、すべては絢乃さんをお支えするためだったのだから。


「そう。たからこれから一緒に頑張ろうね!」


「はいっ! では、車内へどうぞ。ここでは寒いですから」


 僕はお二人を、暖房を効かせたクルマの後部座席へ誘導した。

 そして、実は内心、早く絢乃さんに助手席にも乗って頂きたいなぁと思っていた。



   * * * *



 僕はクルマをスタートさせる前に、絢乃さんたちにIDカードを手渡した。それはネックストラップ付きのパスケースに入れてあって、それぞれ絢乃さんと加奈子さんのカタカナ表記のお名前と十二ケタのナンバーが刻字してある。

 僕たち社員が携帯している社員証とほぼ同じものだが、社員証に入っている顔写真がないところが大きな違いだろう。

 絢乃さんの会長ご就任が決まってすぐ、我がグループ傘下の〈篠沢セキュリティ〉から発行されたもので、僕はその前日、スーツを買いに行った帰りにカードができたと連絡を受け、その足で受け取りに行ってきたのだった。


「紛失されると再発行の手続きが面倒なので、くれぐれも失くされないようにお願いします」


 お二人に言ったこの言葉は、実は僕自身の本音でもあった。受け取りに行った時、セキュリティ会社の担当の人からイヤというほど念を押されてウンザリしたからだ。


「分かりました。失くさないように気をつけるね」


 絢乃さんが苦笑いしながらもそうおっしゃってくれた時、僕はホッと胸を撫で下ろした。彼女が「うるさい!」と機嫌を損ねるようなボスでなくてよかったなと思った。


 ふとルームミラーに視線を移すと、絢乃さんは視線を落としてスカートの裾のラインを見つめておられた。車内ではコートを脱がれていたので、僕にも彼女の制服姿の全身がはっきりと見え、彼女がどんな想いでこの日、この服装を選ばれたのか僕にも理解できた。

 彼女は意志の強い女性だが、やっぱり少なからず迷いや心配はあったのだろう。それは少しうれいを帯びた彼女の表情から窺い知ることができた。


「――ところで絢乃会長。そのお召し物は……、通われている学校の制服……ですよね」


 僕がそのことを指摘すると、彼女は「ん? そうだよ」と顔を上げられた。きっと、僕からご自分の服装がどのように見えているのか気にされていたのだろう。もしかしたら、批判的な目で見られているのではないか、と。

 でも、僕には彼女の覚悟が手に取るように分かったし、お亡くなりになった彼女のお父さまと約束したのだ。僕はいつでも絢乃さんの味方でいると。


「……それが、あなたの並々ならぬ覚悟の表れということですね。どんな批判も甘んじて受け止める、と」


 もちろん、そうなった時は彼女一人に非難を浴びせるつもりはなく、秘書である僕も一緒にと思っていた。それくらいしか、彼女をお守りするすべを知らなかったのだ。

 彼女は僕に「理解してもらえて嬉しい」とおっしゃった。やっぱり、秘書である僕に反対されたらどうしようかと気を揉まれていたらしいので、ご自身の信念を受け入れられたことを喜ばれたのだと。


「まぁ、いくら反対したところで無駄なんだけどね。この子、あの人に似て頑固だから」


 加奈子さんのこの辛辣なコメントに絢乃さんは困惑し、僕も「何もそこまでおっしゃらなくても」と思ったが、絢乃さんからの反論がないところを見るにこれは図星だったのだろうか。


 僕も正直心配ではあるが、秘書の立場でボスがお決めになったことに異議は唱えられない。だからできる限り応援はしたいと自分の気持ちをお伝えすると、絢乃さんは花が咲いたような明るい表情で「ありがとう!」と言って下さった。


「――では、そろそろ参りましょうね」


 出発まで少し時間がかかってしまったが、僕は丸ノ内へ向けてクルマを発進させたのだった。


 しばらく走らせたところで、僕は練習していた秘書らしい口調で、ちゃんとスピーチの原稿を用意しておいたので会見前に確認してほしい、と絢乃会長に言った。

 僕としては、ただ自分の仕事をキッチリしておいただけだったのだが。彼女からは「最初からそんなにマメすぎると後からストレスで胃がおかしくならないか」とかえって心配されてしまった。総務にいた頃の僕がどんな思いをしていたかをよくご存じだったからだろう。彼女は本当に優しい方だと胸が熱くなった。

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