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第4話 解答編その1

 柿色の空はすっかり翳り、夕闇がひたひたと地上へ忍び寄ってくる。

 駅から走ってきた僕が『アンティークショップ・シキシマ』に着いた時、老店主は玄関扉の看板を裏返して店を閉めるところだった。


「あのっ、すいませんっ!」

「おや、あんた。この前の……」

「ちょっとだけ、お話を、聞かせてもらってもいいですか……敷島、幸士郎さん」


 乱れる呼吸を整えながら、僕はポケットから取り出した新聞記事のコピーを渡す。老店主は記事を見ると、驚いた顔で僕を見上げた。


* * *


「ここで、少し待っていなさい」


 店内に置いてあったアンティーク・ダイニングセットの椅子を引くと、老店主――敷島幸士郎さんは、奥へと消えていく。

 しばらくすると、二人分の紅茶のセットが乗ったトレイを持って、戻ってきた。


「すみません、お構いなく」

「アンティークショップ経営なんてのはね、貴重なカトラリーで紅茶を楽しむ事くらしか、いいところがないんじゃよ」


 敷島さんは、手慣れた手つきでヴィクトリア王朝時代らしきティーカップに、淹れたての紅茶を注ぐ。僕は「いただきます」と言ってから口を付けた。

 緑茶に似た渋みと、ほのかな甘み。緊張で固くなっていた僕の身体が、少し解れた気がした。


「さて。こんな昔の新聞記事まで引っ張り出してきて、君はどうしたいんだい? てっきり儂は、この前の彼女のためにブリタニア・スプーンを売ってくれと、大金持って交渉しに来たのかと思ったのじゃが」


 軽い口調の冗談に、僕は笑ってかぶりを振った


「敷島さんが、あのスプーンをお金で手放すはずがない事は分かってます。売る気もないのに堂々と、ショーケースの真ん中に飾っているのには理由があると」

「それは以前言った通りじゃよ。本物のアンティークは、そこにあるだけで周りの食器を輝かせてくれる。客寄せパンダみたいなものじゃ」

「それを聞いた時、僕もなるほどって思いました。でもそれは、とって付けたような理由でしかなかった。現に奈々実は、ブリタニア・スプーンを見てから他のスプーンなんて見向きもせず、夢中になってしまいましたからね」

「ではなぜ儂は、売る気もないブリタニア・スプーンを展示していると思ったんだい?」

「辿り着いた答えが、その新聞記事です。だから僕は、売る売らないは別にして、あなたにお伝えしたかった」

「……何を?」

「あのブリタニア・スプーンには、他に果たすべき役割と、あるべき場所がある事を」


 怪訝な顔を見せる敷島さんに、僕は自分のスマホを差し出して、表示されている写真を見せた。

 最初は興味なさそうに見ていた敷島さんだったが、慌ててポケットから老眼鏡を取り出すと、食い入るように画面を見つめる。

 そこには、片手にブリタニア・スプーンを持っておどける、奈々実のポートレイトが写っていた。


「これは……」

「実は、あなたがお持ちのブリタニア・スプーンと同じ物を、奈々実は持っています」

「バカな、どうしてこれを……」

「奈々実の祖母の、形見分けだそうです」


 老店主は顔を上げると、訝しげな目で僕を覗き込む。


「……彼女のおばあさんの、お名前は?」

「森口琴子さんです」

「そんなバカな。だって彼女は……」

「あなたにお渡しした奈々実の名刺――伊藤は、結婚後の彼女の姓です。旧姓は森口。森口奈々実」

「なっ……!?」

「つまり奈々実は、一九四一年十一月三十日、あなたと一緒に日本に帰ってきた森口勝治さんの、孫娘になります」


 しばらく声を失っていた敷島さんは、改めて奈々実が微笑むスマホの画面に目を落とすと、だんだんと穏やかな顔つきになっていく。


「道理で……感慨深いのぉ。まさか今更、森口と琴子さんの孫娘に会うなんて」


 ポツリとそう呟くと、老店主は近くのショーケースに視線を飛ばした。

 その中央には、圧倒的な存在感を放つブリタニア・スプーンが、まるで僕達の会話に聞き入ってるかのように静かに佇んでいる。


「勝治さんの奥様、琴子さんについても、敷島さんはよくご存じなのでしょうか?」

「儂は森口と琴子さんの結婚式に、招待されておるからの。琴子さんの花嫁姿は、そりゃあ美しかったよ。奈々実さんを初めて見た時も、若い頃の琴子さんに瓜二つで驚いたんだが……孫娘だと分かってようやく合点がいったよ」


 奈々実の写真を見つめる、皺の集まる目がきゅっと細まる。

 まるで、自分の孫娘の話でもしているかのように。


「新聞記事にはもう一人、一緒に帰ってきた女学生、内田陽子さんの名前があります。彼女が今どちらにいらっしゃるか、ご存じないでしょうか?」

「さあねえ……内田さんとはそれっきり会ってないから」

「……勝治さんや琴子さんとは、帰国後も親交はあったんですか?」

「結婚式の後は、森口と会う機会は自然と少なくなっていった。だがそれは、仕方のない事じゃ。一度社会に出ると、学生時代の友人とはどうしても縁遠くなってしまうものじゃからのう」


 その気持ちはよく分かる。数年前に大学を卒業した僕ですら、学生時代の友人達とはほとんど会っていない。

 昭和初期に留学するような二人なら、仕事の忙しさも相まって、付き合いが薄まっていくのは当然だろう。

「それより……形見分けって事は、もう琴子さんは……」

「琴子さんは、五年ほど前にお亡くなりになっています。勝治さんは、それよりももっと以前に」

「そうだったか……」

「また、森口夫妻の一人息子で、奈々実の父である克之さんも……つい先月亡くなりました。大腸がんです」

「えっ……! それはまた、お若いだろうに……ご愁傷様でした」


 同年代が亡くなっても驚かないが、その下の世代が亡くなると驚きを隠せない。

 僕はそこに、年齢を積み重ねた以外の意味を見出してしまう。


「僕と奈々実は籍だけ先に入れているんですけど、結婚式は二か月後でして……。身内に不幸があってどうしようか悩んだのですが、式は予定通り挙げる事にしました」

「それがいい。奈々実さんのお父さんも、きっとそう望んでいるはずだろうから」


 老店主の優しい言葉に会釈を返すと、僕は静かにカップを置いた。


「奈々実も、彼女の両親も、ブリタニア・スプーンの存在を知らず、初めて知ったのは琴子さんが亡くなった時でした。なぜ琴子さんはスプーンを今まで隠していて、亡くなった後に形見として遺したのか。なぜその贈り先は息子夫婦でなく、当時高校生の奈々実だったのか。そういった疑問に答えてくれるような遺書は、一切見つかりませんでした」

「……」

「敷島さんは、どこでブリタニア・スプーンを手に入れましたか?」

「……儂が手に入れたのは随分昔の事で、もう忘れてしまったよ……」

「なら、僕が答えましょう。あなたはそれを、琴子さんから受け取りましたね」


 僕の確信めいた声色に、老店主は一瞬狼狽えた。


「なぜ、そう思うんじゃ?」

「一九四一年十月、イギリスにいたあなたと森口さんは、琴子さんの日本帰国の手引きをした。その際に、琴子さんは二本のブリタニア・スプーンを、あなたと森口さんに、一本ずつ手渡していたんです」


 老店主は、静かに首を横に振る。


「琴子さんは儂らと同じ船には乗っていない。新聞記事にも、彼女の名前は書かれていないじゃないか」


 そう、そこがずっと引っ掛かっていた。

 魔法のスプーンで小さくなって船に忍び込むなんて、ファンタジーな話を信じてしまいそうになるくらいに。

 だが、琴子さんの名前がないからこそ確信できる。


 琴子さんは――、


「琴子さんはあなた達の手引きで内田陽子さんになりすまし、船に乗りこみ帰国した。違いますか⁉」

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