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第2話 祖母の作り話

 奈々実からルーペを受け取って、僕はスプーン裏側に刻印された四つのホールマークを覗き込んだ。

 隣に置いてあるのは彼女のスマホ。今日、アンティークショップで撮ったスプーン裏側の写真が、拡大表示されている。


「まったく同じでしょ」

「うん」


 刻まれた四つの刻印は、完全に一致していた。

 ルーペとスマホを何度も行き来しながら見比べる僕のそばで、奈々実は二人分の紅茶を淹れながら解説を始める。


「最初のマークは、メーカーズマーク。製作した銀職人シルバースミスのロゴね。WSと読めるけど正式な名称は分からない。二番目の女性の全身像は、イギリスを擬人化したと言われる女神ブリタニア。銀の含有率九五.八四パーセントの品にだけ刻印されるわ。ちなみにスターリングシルバーは、ライオンの全身像になっているのよ」

「ちょっ……ちょっと待てよ。なんで奈々実がそんな事知ってるのさ? アンティークに興味なんてあったっけ?」


 彼女の淀みない説明に驚いて、僕は慌ててその言葉を遮った。

 奈々実は育ちこそ良いもののいわゆる倹約家、悪く言えばケチで、近隣スーパーのタイムセールには詳しいけど高級ブランドやお金のかかる趣味には一切興味を示さない。

 そんな奈々実が高級アンティークに詳しいだなんて、全くの予想外だ。


「調べたのよ。そのスプーンをもらった時に」


 呆気にとられる僕を置き去りに、奈々実は説明を続けていく。


「三番目は製造された場所。王冠マークはイギリスのシェフィールド製を表しているわ。そして最後のマークがデート・レター……小文字のyのマークが製造年を表している事は分かってたんだけど、具体的に何年かを調べるには一万円以上する洋書のホールマークガイドを買わなくちゃいけなかった。それが今日、あのおじいちゃんのおかげで一九四一年製って分かったわ」

「……全く同じスプーンの、全く同じ刻印だからな。間違いないだろう」

「ほんと、ラッキー」


 紅茶を淹れ終えると、奈々実は軽く微笑んだ。


「……そんなケチな奈々実が、いくらするかも分からない、自分も持ってる高級アンティーク・スプーンを買おうとするのは、当然理由があるんだよね」

「そうだけど……どさくさ紛れにケチって言うな」


 ダージリンの香り漂うテーブルで、奈々実は優雅な所作で紅茶を飲んだ。

 父親譲りの、目鼻立ち整った美しい横顔。本当に美人は得だ。

 こうしてカップを傾けるだけで、百均で買った安物までウエッジウッドに見えてくる。葛飾区六畳一間の彼女の部屋が、英国のアフタヌーンティーサロンになってしまう。


「私が引き出物をスプーンにしたいって言ったのも、今考えてみればこれの影響だったかもね……」


 カップをソーサーに置くと、彼女は静かに語り始める。


「そのブリタニア・スプーンは、もう何年も前に亡くなった、おばあちゃんの形見なの」


* * *


 子供の頃、私は家から少し離れたおばあちゃんちに、よく遊びに行ってた。

 おじいちゃんを早くに亡くしたおばあちゃんは、孫娘が遊びに来るのを楽しみにしてくれて、いつ行っても美味しい和菓子を出してくれた。私はあれで、栗羊羹に目がない女になっちゃったんだから。


 それは……私がいけないんじゃないわ。レジの近くに和菓子を置いておく、スーパーがいけないの!

 お菓子に釣られちゃってたのは確かだけど、私はおばあちゃんと話すのも大好きだった。あなただってもし私のおばあちゃんに会ってたら、絶対好きになってたはずよ。

 だっておばあちゃんとは思えないくらい、とてもハイカラな人だったから!

 え? なんとなく昔の人を誉める時に使う言葉だと思わない? ハイカラ。私も意味は、よく知らないけど。


 とにかくおばあちゃんは、ハイカラだった。

 月に二回も美容院に行ってたし、相撲を見てもルックスのいい力士しか応援しない。

 洋画が好きで、よく一人で映画館にも行ってたみたい。

 ネタバレしない程度に面白おかしくストーリーを話してくれるから、私も気になっちゃって。友達と一緒に映画見に行く時は、必ずおばあちゃんにオススメを聞いてたなあ。


 そうそう、ウチのおばあちゃんは英語だって喋れたのよ! イギリス訛りがあるからって謙遜してたけど、東京見物で道に迷ってる外人さんには自分から積極的に喋りかけて助けてた。

 私は隣で聞いててチンプンカンプンだったけど、外人さんにサンキューサンキュー言われてる姿を見て、ウチのおばあちゃんスゴイッ! ってなってた。

 あと、おばあちゃんの名前は琴子っていうんだけど、その名の通りお琴が上手でね。弾いてる時はうっとりするような優雅な所作なのに、お琴は力強い音を響かせて……ウチのおばあちゃんはやっぱりスゴイッ! ってなってた。


 なんか、私のおばあちゃん自慢になっちゃったね。ごめんごめん。

 ……で、そんなおばあちゃんが聞かせてくれたお話があって。

 うーん……昔話っていうか、おとぎ話っていうか……。とにかく私は、そのお話が大好きだったの。

 今でもちゃんと、思い出せるくらいに。



 おばあちゃんは若い頃、町一番のお琴小町で通ってたらしく、十代後半になると何件もの縁談話が来たんだって。政府の偉い人に実業家、お医者さんもいたって話よ。

 でもそんな良縁を全部断って、おばあちゃんはまだ若い学者さんと結婚するって言い出した。しかもその学者さん、政府からの要請でイギリスに長期留学する事が決定していたの。

 もちろん実業家やお医者さんに比べたら、学者さんの稼ぎは少ない。しかも海外で暮らさなきゃいけないとなると、周りの家族はいい顔しなかった。でも政府から認められて留学するほどの人だったから、大っぴらに反対する事もできなかったそうよ。

 おばあちゃんはその学者さんの事が好きだったのはもちろんだけど、一度でいいから外国で暮らしてみたかったんだって。

 きっと若い頃からハイカラな人だったんだよねえ、おばあちゃん。


 とにかく二人は無事結婚。おばあちゃんは旦那さんと一緒にイギリスに渡ったの。

 最初は慣れない環境や英語の勉強で大変だったらしいけど、半年も経つと喋れるようになってきて楽しく暮らせてたみたい。

 そのうち旦那さんはおばあちゃん同伴でパーティに出席するようになって……とにかくそのパーティで、おばあちゃんは抜群にモテた。

 だって当時はまだ日本人なんて珍しかっただろうし、なんといってもおばあちゃんはお琴小町だよ? 

 琴を爪弾くオリエンタル黒髪美人なんて、身分の高い英国紳士にモテないわけがないじゃない!

 そんなある日、おばあちゃんの旦那さんは流行り病に罹って、あっという間に亡くなった。たった一人残されたおばあちゃんに、日本政府は帰国命令を出した。

 でもおばあちゃんは帰りたくなかった。

 その時は若かったし、政府のお金で働く事もなく生活していたし……とにかくイギリスの刺激ある生活が気に入ってたらしいの。

 知り合いのイギリス人将校に相談したら、彼のお屋敷でメイドとして雇ってもらうことになった。

 おばあちゃんはとっても喜んだそうよ。これで今までと変わらずイギリスで生活できるって。


 ここで初めておばあちゃんは、現実の厳しさを知った。

 今まではお客さんとして扱われていたのに、今度はパーラー・メイドとして、お客さんの前で芸を披露しなきゃいけない。

 パーラー・メイドっていうのは、お客さんの接待が仕事のメイドなんだって。

 お琴なんて一日に何回弾かされたかわからなかったし、ラインダンスまでやらされたって言ってた。

 そう、ラインダンス。あの、みんなで横になって踊るやつ。

 おばあちゃんはそう言ってたけど、要はエッチっぽい服を着せられて……バニーガールみたいな? それで踊らされたんじゃないかな。

 私はまだ子供だったから、詳しくは教えてくれなかったけど……。

 おかげで私は高校生になるまで、「ラインダンスははしたない踊り」だと思ってたわ、あはは。

 でね、休みの日なんてそれこそなくって。風邪で熱を出した時だって笑顔でお琴を弾かなきゃいけない。

 だんだんそんな生活が嫌になってきて、おばあちゃんは日本に戻りたくなってきた。

 でもその頃になると日本政府からは全くの音沙汰なしで、とても帰国させてくれなんて言える状況じゃなかった。逆に帰国命令を無視したとして、罰せられることも十分に考えられたしね。

 でも、このままイギリスでメイドのまま一生を終えたくない。


 そう思っていた矢先、おばあちゃんは魔法のスプーンを手に入れた。

 そのスプーンを振ってみるとおばあちゃんの身体はみるみる小さくなって、ポケットに収まるくらいになっちゃうんだって。

 ある日、日本人の若いお客さんがお屋敷にやってきた。おばあちゃんはチャンスは今しかないと、魔法のスプーンを振るった。

 おばあちゃんは小さくなると、そのお客さんのポケットに忍び込んだ。

 狙い通りその男の人は、日本行きの船に乗った。で、その人こそ、イギリス留学から帰るおじいちゃんだったんだって!

 船の中でおじいちゃんに気づかれないよう、おばあちゃんは魔法のスプーンで色んなピンチを乗り切った。

 大きくなって食べ物を取りにいったり、小さくなってネズミの背に乗って逃げたり。

 日本に着くまでの四十日間、おばあちゃんは船の上で大冒険を繰り広げ、それを面白おかしく話してくれた。

 最後はなんとか無事に日本に戻ってきて、おじいちゃんと結婚して、こうして奈々実と話しているんだよって。

 でもおじいちゃんはいまだに知らないから、内緒にしといてねって。


 え? ああ、最後の大冒険が駆け足だったのは……今思うとあの話、『スプーンおばさん』っていうアニメにそっくりだったの。

 私は当時あのアニメが大好きで……そうそう、魔法のスプーンでおばさんが小さくなっちゃう話。

 きっとおばあちゃんは私が好きなのを知ってて、自分の体験を『スプーンおばさん』の話で脚色して、面白おかしく聞かせてくれたんじゃないかな。

 子供だった私はすっかり信じ込んじゃって、「魔法のスプーン見せて!」っておばあちゃんにお願いした事があった。

 するとおばあちゃんは「奈々実が使ったら目に見えないくらい小さくなって、スプーンが振れなくて元に戻れなくなっちゃうかもね」って言って脅すの。

 私も怖くなっちゃってスプーン見せてとは言わなくなったけど、魔法のスプーンのお話は大好きで、何度も聞かせてもらった。


 それから何年か経って、私が高校を卒業するちょっと前、おばあちゃんは亡くなった。

 おばあちゃんは家族の皆に、それぞれ形見を残してくれてた。

 これはお父さんの分、これはお母さんの分、みたいな感じで箱があって、おばあちゃんが大切にしていた品々が入ってたみたい。

 もちろん、私の分の箱もあった。本やアクセサリーがいくつか入っていたんだけど、その中に、このスプーンも入ってた。

 私はこれを見た瞬間、おばあちゃんの魔法のスプーンの話を思い出した。

 これはあのお話の、魔法のスプーンだって。

 でも手紙もメッセージもなくて。ただこのスプーンだけが、おばあちゃんの形見として私に遺された。

 お父さんとお母さんに聞いても、こんなスプーンは見た事がないって言ってた。

 おばあちゃんから聞いた魔法のスプーンの話をしても、お父さん達は聞いたことがないって。

 ただ、おばあちゃんがイギリスにいた経緯はその通りで、魔法のスプーンで帰ってきたっていうのだけ、子供向けにおばあちゃんが考えた作り話だろうって言ってた。


 一人になって、私は恐る恐るスプーンを振ってみたけど、やっぱり小さくはならなかった。

 それでも心の奥底に、モヤモヤしたものが残った。

 どうしておばあちゃんは、『スプーンおばさん』の話としてじゃなく、自分のお話として聞かせたのだろう?

 どうしておばあちゃんは、それっぽいスプーンを持っていたのに、見せてくれなかったのだろう?

 どうしておばあちゃんは今になって、このスプーンを私に遺してくれたんだろう?

 それであれこれスプーンの事を調べてみたんだけど、結局分かった事はホールマークの意味くらい。

 お父さん達が言うように、おばあちゃんの話は私のために脚色した作り話で、たまたまそれっぽいスプーンが見つかって私にくれたのかなって思う事にした。

 でも今日、これと同じスプーンがもう一つある事を知って……当時の疑問が一気に蘇ったの。

 ブリタニア・スプーンを遺してくれたおばあちゃんは、ひょっとして私に何か伝えたいことがあったんじゃないかって。


* * *


 奈々実は紅茶で喉を潤すと、シリアスな口調から一転、明るい声を出した。


「結婚式の引き出物にスプーンを贈る意味はね、『食べ物に困らず、幸せをすくう事ができますように』っていうヨーロッパの風習から来ているの。それもこのスプーンを調べた時に初めて知って。私が結婚する時も、引き出物はスプーンがいいなって思ってたの!」

「こんな貴重なスプーンを何十本も配ったら、僕たちが食べる物に困っちゃいそうだけどね」


 僕らははひとしきり笑うと、奈々実は真剣な顔で問いかける。


「この話をあのおじいちゃんにしたら、売ってくれないかな?」

「うーん、どうだろう。奈々実にとってこれが特別なスプーンだっていうのはよく分かったけど……あの店主にも、手放せない理由があるはずだからな……」


 奈々実が笑顔でお願いすれば大抵の男は言う事を聞いてくれるわけだけど……あの店主ははっきりと断っていた。

 彼は彼で、何か特別な思い入れがあるはずだ。


「でもどうして奈々実は、あのアンティークショップのスプーンが欲しいの? 思い出のスプーンはそれ一本で十分じゃないか」

「おばあちゃんがどうして私にブリタニア・スプーンを遺してくれたのか。その意味は確かめようもない事だけど……もしスプーンが二本手に入ったら、何か分かる事もあるんじゃないかって……」

「二本揃うと、小さくなれるかも?」

「あはは、そういう事だって、もしかしたらありえるかもよ」

「分かったよ」


 僕は少し呆れながらも、奈々実の父――克之さんの最後の言葉を思い出す。


『奈々実の事をよろしく頼む』


 こういう事を、よろしく頼まれたわけじゃないとは思うけど。


「僕もちょっと興味あるし……おばあちゃんの魔法のスプーンに隠された秘密、もう少し詳しく調べてみようか。何か分かればあの店主を説得する材料になるかもしれない」

「協力してくれるの⁉ ホント⁉ やった!」


 喜ぶ奈々実に微笑むと、僕はテーブルの上のスプーンに目を落とす。

 一匙のブリタニア・スプーンは何も語らず。

 ただ神秘的な輝きを放ちながら、僕ら二人を見守っているように見えた。

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