二〇〇八年某日。
医師から、これが最後の別れになると告げられて、僕と
病室のリクライニングベッドに横たわるのは、奈々実の父――克之さん。やつれた顔で俯いていたが、僕らを見ると幾分目元が和らいだ。
ベッドの傍には妻の
「奈々実、
末期がん患者に施されるモルヒネの影響で、長らく克之さんの意識ははっきりしていなかった。
しかし今日の義父は、明朗な声で僕達を出迎えてくれる。
奈々実は呆気なく涙を零し、父の元に駆け寄った。
「お父さん……」
奈々実はベットに跪き、父の右手を取って涙で濡れた頬にあてがう。
最愛の家族に両手を取られた克之さんは、ふっとその視線を僕に向けた。
義父の目鼻立ち整った風格ある面立ちに、僕は思わず背筋を伸ばす。
「すまないね、仁君。どうやら式までは持たないようだ」
威厳のある、低く落ち着いた声。
一人娘の花嫁姿を見る事も叶わず、泣き崩れる家族に囲まれて尚、克之さんは理性ある態度を崩さない。
モルヒネを断り全身の激痛に耐えてまで手に入れた正気で、僕に何かを伝えようとしている。
「いえ、こうして貴重な時間を頂けるだけで嬉しいです。ありがとうございます」
「仁君はしっかりしてるな。奈々実はご覧の通りこんな感じで……いつまで経っても子供のままだ」
ベッドの足元で顔を伏せている奈々実は、「だって、だって」と嗚咽混じりに繰り返す。
「至らない娘だが、仁君。奈々実の事をよろしく頼む……」
「はい。必ず、幸せにします」
克之さんは表情を緩ませると、右手を差し出そうとする。
その動きに気が付いて、奈々実は実父の震える腕を両手でしっかり支えながら、僕に向けて伸ばしてくれた。
僕は克之さんと固い握手を交わす。石のように無骨で冷たい彼の手に、少しでも自分の体温が届くよう力を混める。
克之さんはそのまま、ゆっくりと目を閉じた。
わずかに握り返していた右手からも、すっと力が抜けていく。
これが……そうなのか。
命尽きる前に直接伝えたいと、最後に振り絞った義父の一言は――ごくありふれた、娘を思う親の言葉だった。
泣き叫ぶ妻子に囲まれた克之さんは、穏やかな表情で息を引き取った。
* * *
「これは、おいくらですか?」
たまたま通りがかった英国アンティークの雑貨店『アンティークショップ・シキシマ』で、奈々実は競馬新聞に目を落とす老店主を振り返ると、ショーケースを指差した。
レジにいた老店主は面倒くさそうに顔を上げ、僕達を見て動きが固まった。
視線の先は、もちろん奈々実だ。
まったく美人はこれだから。
奈々実に言わせると、まったく男はいくつになってもこれだから。らしいけど。
店主は慌てて新聞を折り畳むと、いそいそとレジスペースから出てくる。
ショーケースに顔を覗き込むと、彼女の細い指先が示すシルバー・スプーンを確認した。
「お嬢さんはお目が高い……だがこれは、非売品じゃ」
「えーっ!? 売り物じゃないのに、どうして他のスプーンと一緒に陳列しているんですか?」
「本物のアンティークというのは、そこにあるだけで周りの食器を輝かせてくれる。昔の上流階級だって、一本残らず最高級のカトラリーを揃えていたわけじゃない。ひとつの本物が、その他たくさんの既製品を魅力的に見せてくれるものなんじゃ」
なるほど、奥が深い。
奈々実の指名したスプーンはショーケース中央に堂々と鎮座し、値札なんて野暮で分かりやすい価値がなくても、本物の輝きを放っている。
だからこそ、それを取り囲むその他大勢のスプーンも、そこそこの品だと錯覚してしまうのだ。
同じショーケース内に飾られてるわけだから、多少格は落ちても同じ舞台に立てるだけの価値があるはず。付けられた値札も、そう考えればお買い得だと思ってしまう。
店主はショーケースの鍵を開け、クロス越しに中央のスプーンを取り出し机に置いた。
「見るだけならどうぞ。でも直接は触らないでくれ。銀は手油に弱いから」
クロスの上でライトアップされたシルバー・スプーンは、一目見ただけで他とは違う繊細な装飾が施されていた。
他のスプーンは、草花に見立てたブライトカットが施されたものばかりだが、これは圧倒的に装飾の線が細く、長い。
スプーン先端の丸いつぼ部分から柄えの表面に沿って、十本以上もの細い銀線が真っすぐ持ち手へ伸びている。柄尻えじりは下側に少し角度が付けられて、その表面には曲線で8の字が描かれている。
昔の銀食器シルバー・カトラリーに、これほど細かい細工ができるなんて……とにかく高そうだという事は、よく分かる。
「ほんとにこれ……すごい事だわ」
奈々実は腰を屈めスプーンに顔を近づけ、大きな瞳を見開いている。
「これ、本当にアンティークなんですか? まるで現代の3Dプリンタで造ったみたいに精巧だ」
「彼氏さんは疑り深いな。英国のシルバーカトラリーには、漏れなくホールマークが刻印されている。偽物なんて作ったらすぐにバレてしまうよ。ほら、ここにあるだろう?」
店主はクロス越しにスプーンの先端を軽く摘まむと、くるっとひっくり返した。
裏面にはなるほど、小さい刻印が四つ並んでいる。
しかしそれが何を意味するものか、素人の僕にはサッパリ分からない。
「この四つのホールマークから、このスプーンは一九四一年製、英国シェフィールドで製造されたブリタニア・スプーンだと分かる。スターリングシルバーは聞いた事があるだろう? 銀の含有率九二.五パーセント以上のものをそう呼ぶんだが、ブリタニアはその上。銀の含有率は九五.八四パーセントで、実用的な硬度ギリギリまで銀を使っておる。銀食器の人気があった当時でも、ブリタニアのカトラリーは滅多に造られていない」
「昔は金と銀に、同等の価値があったんでしたっけ?」
「ちょっと違う」
僕のうろ覚えの知識に、店主は自慢げにウンチクを垂れる。
「イギリスにおいて、金と銀がどちらも希少な鉱石であった事は確かだが、職人はただ金属を売っていたわけではない。金はジュエリー、宝飾品に多く用いられ、銀はカトラリー、食器や雑貨に好んで用いられた。古くからそれぞれの金属特性を生かし、使い分けてきた歴史そのものが、アンティークに価値を与えていると言ってもよい」
「銀のジュエリーや金のスプーンは、ナンセンスというわけですね」
僕の相槌に、老店主は満足そうに頷いた。
「イギリスでは昔から、赤ん坊が生まれた時に銀のスプーンを贈る習わしがある。その由来は『あの子は銀のスプーンを口に咥えて生まれてきた』と、良い家柄の子を例える言い回しから来ている。こういう英国文化を知っておれば、金のスプーンより銀のスプーンの方が価値があると思えるだろう?」
「とても興味深いです! このスプーンも本当に素敵だし……写真を撮ってもいいですか? 後で自分でもホールマークを調べてみたいです!」
奈々実の明るい声に気を良くした店主は、写真だけならと許可をする。
奈々実はスマートフォンを取り出すとスプーンの裏側を撮影し、ちゃっかり裏返してもらって表側の装飾も写真に納めた。
「これってやっぱり……売ってもらう事はできないんですよね?」
「本物のアンティークには、果たすべき役割、あるべき場所がある……申し訳ないが、これを手放す気にはなれないんじゃ」
「そうですか……残念ですけど、分かりました! 写真まで撮らせてもらって、ありがとうございます!」
奈々実は明るくそう言うと、店主に名刺を差し出した。
「これ、私の名刺です。もし気が変わって売る気になったら、真っ先にご連絡下さい!」
「お、そ、そうか」
面食らう老店主にお辞儀をすると、奈々実は僕の腕を取ってアンティークショップの出口へ歩いていく。
おいおい、他のスプーンは見なくていいのかよ?
半ば強引に立ち去ろうとする彼女に声をかけようと、その横顔を覗き込んだ瞬間、僕は言葉を失ってしまった。
奈々実は唇を噛みしめ、大きな瞳にうっすらと涙を浮かべていた。
* * *
「やっぱ既製品だと、あそこまで凝ったデザインのものってないよな~」
「……」
カタログを広げてわざと大きな声を出してみるも、奈々実は無反応。顎も頭も上の空。
彼女は自分のベットに背中を預け、焦点の合わない視線をただひたすら部屋の天井に向けていた。
結婚式の引き出物はスプーンがいいという彼女の要望に答えて、街で色んな雑貨店を見て回ったまでは良かったものの……あのブリタニア・スプーンとやらに、ここまで心を奪われてしまうとは。
百円の古本を買うのにたっぷり三十分は迷う奈々実が、値段も分からない高級アンティークを名刺まで渡して買おうとしている事も、なんだか気がかりだ。
そして店を立ち去る際に流した、涙も。
「奈々実、聞いてる?」
「聞いてない」
「君が突然心奪われたのが、イケメンじゃなくスプーンだったのは不幸中の幸いだけどさ。そろそろ話してくれてもいいんじゃないかな?」
ばっと首を戻して僕に振り向くと、奈々実はにんまりと笑った。
「ふふっ、スプーンに嫉妬しちゃった?」
「話してくれないなら、この部屋にあるスプーン全部、黙って燃えないゴミの日に出しちゃうくらいには」
「それは……困るなあ」
彼女は苦笑しながら立ち上がり、机の引き出しを開けた。小さな長方形の箱を手に戻ってくる。
「これを捨てられちゃったら、さすがに困るからね……」
彼女はテーブルの上に置いた箱を開けた。
中に入ってたのは、磨き上げられたアンティークのシルバー・スプーン。
「これって……」
「そういうこと」
それは、例のアンティークショップで見つけたものと全く同じ。
ブリタニア・スプーンの細く長い銀線は、室内光を反射して妖しい煌めきを放っていた。