レヴィアタンによって、大規模の塩害がもたらされた。これを元に戻すのは相当骨が折れる。
人界に落ちてきたよしみでどうにかしてやりたいが、喇叭の雷ではどうにもならないし、ウリエルの炎で焼畑をしても効果は薄そうだ。何より塩は燃えない。
塩害への対処法としては石灰を撒くことだが、被害規模が多すぎる。神の眸を持ち神の創造の力をある程度使えるガブリエルならどうにかできるかもしれないが、彼は四大天使。天界からそう簡単に降りてきて良い人物ではない。
そこまで考えて、ウリエルを背負ったラグエルは地べたにへたり込む。
「重い……」
そう、波に呑まれてウリエルもラグエルもびしょ濡れのままなのだ。ウリエルは神の炎を器用に使い、服や髪の水分だけ飛ばすことができるようだが、ラグエルにはできない。ウリエルと比べてラグエルは軽装で髪も短いためそれほどではないが、ウリエルは括った状態で地べたにつきそうなほどの長く艶やかな髪の持ち主であり、ラグエルより厚着である。一番上のローブがないだけましだろう。
ラグエルは体力がある方ではない。それが波に揉まれた倦怠感も手伝って、体が重いように感じているのである。
「まったく……堕天の烙印さえなければもう少しましなのに。というか人界の被害を考えない辺りさすが悪魔のババアめ……」
レヴィアタンが聞いていたらもう一度大海を展開されかねない罵詈雑言を吐きながら、ラグエルはウリエルをずりずりと引きずり、海水の被害を受けていない木に辿り着いた。その木に背を預けて、ずりずりと地面へ落ちていく。ウリエルをちゃんと寝かせてやる余裕などない。
服を脱がせてやればいいのだが、ウリエルが厚着をする理由をラグエルは知っている。その最たるものがラグエルの背中にもある堕天の烙印だ。堕天の烙印は語るまでもなく、天使にとって忌み物である。これを押された屈辱は何千年経とうと消えることはない。
ラグエルは隠していないのだが、元々が薄着だったので、着込むのに抵抗があるのである。煉獄ではマントを軽く羽織ったりするが、基本、背中を見られることはまずないため、薄着のままでいる。
だが、ここは人界だ。烙印を見られたらどうなるか、あまり想像したくない。何せ人間が押した烙印だ。最悪、再び押されることになるかもしれない。
「ウリエル殿、起きてください」
ラグエルはゆさゆさとウリエルを揺する。ウリエルは無反応だ。ひ弱なラグエルでさえ生きているのだから、相性が悪くとも、ラグエルよりは体が頑丈なウリエルは生きているはずだが、起きる様子がない。
参ったな、と思う。せめて塩のついた服を洗いたいのだが、川がどこにあるのかわからない。人里離れたところに降りたのがこんなところで仇になるとは。
川といっても、レヴィアタンの大海によって淡水ではなくなっている川もあるだろうから、なるべく早く離れたい。だが、ラグエル一人ならともかく、気絶したウリエルを連れてだと、ラグエルにはきつい。
自分の非力がつくづく呪わしい。ラグエルは立てた膝に顔を伏せた。
ラグエルは神の光の力こそ授かったが、ラグエルそのものは脆弱であり、ラグエルそのものの身体能力は高くない。その上で堕天の烙印で弱体化している。そもそも悪魔に堕ちて強くなっているルシファーやアモンに太刀打ちできるはずもないのだ。
管理者というただの門番に収まっているのも、ラグエルに戦闘能力に欠如しているからだ。雷は強力だが、連発していいものではないし、ラグエルはウリエルのような出力調整はできない。できて、相手の動きを止めるくらいだ。
敵にとっては戦闘中に強制硬直させられるのは厄介この上ないのだが、ラグエルはそもそも戦闘が好きではない。だから、雷もすぐに使った。ルシファーとアモン相手では、ラグエルは足手まといになる。そう判断して、人界まで叩き落としたのだ。
絶対ガブリエルは怒っているだろうな、と思いつつ、自分の衣服を破り、喇叭を磨き始めた。ウリエルが起きない限り、二人で移動するのは不可能に近い。ならば暇潰しに喇叭を磨こう、と思う。喇叭も先程の海水で腐蝕するかもしれない。喇叭がなくなったら、ラグエルは無能に成り下がる。それだけは避けたかった。
レヴィアタンが援護とは随分豪華だが、二度と御免だ。だが、追ってこないところを見ると、単純な離脱のための援護だったらしい。力押しにも程がある。
圧倒的な力を持つ者は相手を殺すことなく無力化できるというが、レヴィアタンの大海はまさにそれだろう。一応命だけは見逃してもらえたらしい。それが幸運とも言えないが。
喇叭を磨き終えたが、ウリエルが起きる様子がない。さっさと煉獄に帰らないといけないのに、と溜め息を吐いたところで、喇叭に反射して映る背後遠くにいる人物に気づく。黄色いワンピースを着た少女だ。山暮らしや登山者にしては軽装であるし、幼いのが気になるが、悪魔や堕天使ではない。
「そこのお嬢さん」
ラグエルが声をかけると、あからさまに怯えたようにびくん、と肩を跳ねさせる少女。ラグエルは振り向いて、少女の顔を確認する。
なるほど、とラグエルは得心する。少女の耳は立っており、少し尖っている。俗に「悪魔の耳」と呼ばれるものだ。人間から忌まれて育ってきたのだろう。
ラグエルは立ち上がり、少女に歩み寄った。少女はラグエルの臍辺りまでしか身長がない。ラグエルは地面に片足を突き、少女と目線を合わせた。
「大丈夫ですよ。忌まれ子だとして、私はあなたを差別しませんから。私の名前はラグエル。厄介事に遭って困っていたんです。あなたの名前を教えていただけますか?」
「……ぁ、アン……」
消え入りそうな声で少女が答えた。まだ怯えられているな、と思っていると、アンが遠慮気味に問いかけてくる。
「ラグエルはもしかして、天使のラグエル様?」
うーん、とラグエルは悩む。堕天の烙印を背負っているし、いくら冤罪と証明したからといって、天使と素直に名乗るのも躊躇われる。
「まあ、由来はそのラグエル様で合っていますよ。山に一人は危ないですが、アンお嬢さんはどうしてここに?」
「お、お母さんが……海でもないのに大波が見えたって……」
「ああ……」
ラグエルは思わず遠い目をする。アンの母が目にしたのは幻覚でもなんでもなく大波である。ついいましがた、ラグエルが被害に遭ったものだ。
子どもの足で歩いて来られる距離、ということは、あと少し効果範囲が広ければ、アンのいる集落も呑み込まれていたことだろう。間一髪である。
しかし、ただの村ではなさそうなのがラグエルにはわかった。ラグエルの名前が伝わっている時点でかなりきな臭いし、危険があるかもしれない場所に幼気な女の子を一人で確認に向かわせるとは。それにアンの黄色い装束。
「お嬢さんはもしかして、ユダの民ですか?」
びく、と解けかけていた警戒の色が戻る。ラグエルは参ったな、と思った。
ユダの民とは、背信者の集まりである。神を信じていない異端として、僻地に追いやられた人間たちだ。まさかこんな山の近くにいるとは。
「アンお嬢さん、大丈夫ですよ。ユダの民だからといって、差別することはありません。ひとまず、私の連れが気を失っていて動けないのです。大人を呼んできてはいただけませんか?」
ラグエルの優しい語りかけにアンは躊躇いながらもこくりと頷いた。
背に腹は変えられない、とラグエルは判断したのだ。ユダの民の集落に行けば、手厚い歓迎を受けることだろう。
彼らは神を信じず、天使を信仰する者たちなのだ。