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第20話 大海の悪魔

「うっわ」

 山を無遠慮に呑み込むもはや天災の域の水。

 そんなものを簡単に出せる存在をラグエルは一つしか知らなかった。

 これはもう飛んで逃げるしかない、とラグエルはウリエルの首根を掴み……波に呑まれた。

 その様子を見て、女はふわり、と宙に浮かびながら、ふむ、と頷く。

「なんとも呆気ないのう。自我を損失するほどの恋情に呑まれたものはすぐ溺れる。部下は苦労するのう。そうは思わぬか? アモンよ」

 髪は海を思わすターコイズブルー。夜に染まった人界の空で華やぐように靡いている。羽衣がふよふよと海月のように空を泳いだ。妖しげなエメラルドの瞳が向けられた先にいたのは、飛んでいることが奇跡と言えるほどの重傷なアモンだ。その腕にはルシファーが抱えられている。

 部下は苦労する、は流されたラグエルに当てられたものであり、こうして半死半生の目に遭いながらもルシファーを救出しているアモンにも当てられている皮肉だ。

 アモンは浅い息の中、無理矢理笑う。その歪な笑いと共に、羽衣を纏った絶世の美女に言葉を投げた。

「自我を損失するほどの恋情、なんて、レヴィアタン様も人のことは言えない、でしょう」

「無礼な。妾のは愛じゃ。それとも本当は藻屑になりたかったか? その方が汝はもう苦しまんでよかったからのう」

「助けていただき、ありがとうございます」

 レヴィアタン。それが彼女の正体だった。海の悪魔と恐れられる七つの大罪嫉妬を司る悪魔。悪魔の中でも古より存在し、人間からの畏怖も恐怖も存分に受ける悪魔だ。普段は魔界の海に生息し、鯨の姿を取っているが、ある人物と会うためにこうして女の姿を取るようになったことはアモンも知っていた。

 魔王サタンや帝王ベルゼバブですら彼女に命令することはできないという。そんな彼女が、何故自分たちを助けたのか、とアモンは不思議に思ったが、すぐに愚問であると気づいた。

「フェネクス様のご意向ですか」

「左様。フェニキシアから頼まれたのは天使ウリエルの救助だ。故に、汝らはついでに助かったに過ぎぬ。恩と思うならば、これは貸し一つぞ。汝の上司が正気に戻ったら、そのことを厳に伝えておくように」

「ウリエルを、助け……? いや、あの、レヴィアタン様のお力で流されていったようにしか見えませんが……」

「戯け」

 レヴィアタンはアモンの頭をぽこん、と叩いた。その細腕でアモンを「殴る」とするにはとても愛らしすぎる。

「傲慢のから引き離さねば、ウリエルは逃げれまい。仮に傲慢のを殺せたとして、あれはそれを一生引きずるぞ」

「そう、ですね」

 アモンは腕の中のルシファーをそっと撫でた。

 ルシファーの右目は天魔戦争でウリエルに切られたものだ。そのことをルシファーは悦び、ウリエルは悔いている。

 ウリエルがルシファーにつけた傷は、ウリエル自身の傷となるのだ。それで愉悦を覚え、ウリエルの心を手に入れようと思う友の心をアモンは浅ましく思うし、羨ましくも思う。

 自分がウリエルと同じ顔で安心するのと同時に嫌悪感を抱くのと同じだ。あまりにウリエルとルシファーを結ぶ糸はぐちゃぐちゃにほどけないように絡まってしまっている。

「ああ、フェネクス様にも、感謝しませんと」

「そうだぞ、小僧。フェニキシアの大海より果てなき御心の深さと広さに感涙し、平伏すが良い。……と、まずは魔界に戻らねばな」

 リヴァイアサンがふわりと指を振る。するとアモンの意思とは関係なしに、体から力が抜けていく。

 戸惑っていると、レヴィアタンから案ずるな、と声が降ってきた。

「どうせ妾と帰り道が同じなのじゃ。ついでだから送ってやろう。傲慢の小僧は嫌いじゃが、汝の一途さは好ましいゆえ」

「……一途なんかじゃないですよ」

「それは汝の思う己の姿じゃろう? 妾に汝の心は知れぬよ。天使も悪魔も人間も、皆等しくヤーウェの創造物じゃ。表に見せる姿と内に秘める思いが異なるのも道理。神が最も信頼を置いた天使でも、神を裏切ることがあるように、絶対的に信じられる心など存在せん。故に妾は己の目で見た事実のみを信じる。それだけじゃ」

 力の抜けた体は、ルシファーと共に木の小舟に横たえられた。レヴィアタンもふわりとそこに降り立つ。

 やがて、静かに小舟はどこかへ消えた。


 大海の力。初めて見たがラグエルは確信していた。魔術を使えるシャムシェルやルシファーですら容易に成し得ない水量を唐突に出し、周辺一帯を呑むほどに溢れさせるその力は海の悪魔レヴィアタンのものである。

 最悪な気分だ。ルシファーやアモンなど比にならないほどの凶悪な悪魔に成す術なく攻撃されるなど。否、あの悪魔は水を出しただけで、これは攻撃ですらないのかもしれない。最悪な気分のせいで、ラグエルは物事を悪い方向にしか考えられなくなっていた。

 波は荒く、ラグエルとウリエルを容赦なく流していく。アモンとルシファーがどうなったかなど、確認している余裕はなかった。ラグエルはとにかく生き延びることに集中しなければならなかったから。

 その点では、レヴィアタンが追いかけてきていない様子なのは不幸中の幸いと言えよう。だが、ウリエルとの相性がこの上なく悪い。

 ウリエルは炎を司り、レヴィアタンは海を司る。水と炎の相性は語るべくもない。ラグエルはなんとかウリエルを抱きしめて、離れないようにできたが、ウリエルは意識を閉ざしていた。この状態では喇叭も何の役にも立たない。ラグエルは必死に泳ぐしかなかった。

 上に飛べればいいのだが、渦波に足を取られて上空には出られない。

 この水は海水であるためいくらか浮きやすいが、長時間泳ぐことに慣れていないため、早く水が引かないだろうか、とラグエルは考えていた。

 レヴィアタンの大海の力はレヴィアタンが動きやすいようにするためのものだ。本来は鯨の姿をした悪魔で、巨体を誇るレヴィアタンは相応の規模の水のフィールドが必要で、それを強制的に生み出すのがレヴィアタンの大海の力である。

 シャマインの水場と言い、ラグエルは水にいい思い出がない。しかも今回は海水だ。時折水が口や鼻に入り、辛い。

 と、耐えていると、ふっと水が嘘のように消え、ラグエルとウリエルの体は落下する。

「うわあああああっ」

 聞いていない! と思いつつ、ラグエルはウリエルを必死に抱えながら、空を飛ぶ力を全開にする。操作権が全てレヴィアタンにあるとはいえ、急に消すのはやめてほしい。しかもどれだけの水嵩があったのか、地面はだいぶ遠い。

 ラグエルは慎重に下降しながら、辺りを見渡した。レヴィアタンの能力により、海水に浸った草木はへたっている。レヴィアタンの能力はただ発動するだけで災害だ。

「塩害でしばらく植物も育たないだろうな。念のためとは思って人里離れたところに落ちたけれど、こんなのは一切想定していないんですよね……」

 疲れた、とラグエルは降り立ってからすぐにへたり込んだ。

 さすがに辺境の煉獄まで飛ぶのは無理そうだ。

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