ぱし。
振り下ろした手を掴まれる。ラグエルは思わず悪態を吐いた。
「死に損ないが」
死に損ない——アモンが弱々しく苦笑する。
「殺すなら、心臓じゃなくて、頭を刺してくれ。脳髄を掻き回すように、顔もぐちゃぐちゃにしてくれると嬉しい」
「私にそんな嗜虐趣味はありませんよ」
言いつつ、ラグエルは目を細めた。
アモンがそんなことを言う理由を知っていた。こいつは他の誰よりも自分の顔が嫌いだ。天使だった頃からずっと。
ラグエルも在りし日に、アラボトで神に訊ねたことがある。
何故、ウリエルと同じ容姿の天使を造ったのか。
神は答えた。予備だ、と。
神の持つ力でも大きな割合を占めるのが炎、目、光である。そのうちの光たる雷の力を預かったのがラグエル、目を預かったのがガブリエル、炎を預かったのがウリエルである。
神はかつて、神の持つ全ての力を一人の天使に預けようとして、失敗した。その者は今は悪魔となり、自身の体をぼろぼろにした神ヤーウェへ復讐しようと魔界に身を潜めているとヤーウェは語った。そのことがあり、力を分散して天使に預ける発想に至ったらしい。
炎、目、光の中でその者の身を最も壊した力が炎だったそうだ。炎だけで一つの体に集約したいが、失敗することも考えて、予備の天使を造ったという。耐えられなさそうなら、二つに器を分けるのもいいだろう、と。それで、ウリエルが一人で耐えきれたために、ただの天使となったのがアモンだ。
アモンにとって、容姿はコンプレックスだった。彼はルシファーを唯一無二の友としているが、ルシファーにとっての唯一無二はどう足掻いてもウリエルだからだ。
ルシファーのウリエルへの執着は先程庇っていたことからもその異様さが伺える。ルシファーは神に反旗を翻し、ウリエルとの袂は完全に分かたれた。そのはずだ。それでもウリエルに執着し、ウリエルを魔の道に引きずり下ろそうとしている。
そんなルシファーにとって、アモンはどんな存在か。まあ、ウリエルに躊躇いなく接吻をするようなやつだ。ウリエルとよく似たアモンにだって、接吻の一つや二つ、していることだろう。ルシファーにとって、アモンはウリエルの代替品なのだ。
ラグエルは第三者であるが、そのことが非常に不快だった。
「ルシファーが数多の天使を率い、神に反旗を翻したとて、ヤーウェには痛手にはなり得ない。何故なら天使とはヤーウェの創造物だからだ。いくらでも替えが利く。だから、ルシファーだろうと、四大天使だろうと、ヤーウェにとっては替えの利く存在で、自分に従っているから代替品を造らないだけです。ましてやあなたや私など、いてもいなくてもそう変わらないでしょう」
ラグエルは、枝を握り直す。
「ですからね、どこでどう死のうと、あの神にはどうだっていいんですよ。いいんですけどね」
アモンは目を見開いた。
ラグエルの判断は早かった。ラグエルは神の喇叭という強力な神器を持つが、ラグエル自身の戦闘能力は低い。単純な力比べで、天使時代から武闘派のアモンに敵うわけがない。そうわかりきっているから、枝を刺すのではなく、折ることにした。
瞬発力に関しては、隙を見て喇叭を吹き、相手を止める能力を活かせるラグエルに分がある。ラグエルは折った枝の先をアモンの目に突き刺す。
が。
「ほら、生きたいんじゃないですか。っていうか熱いですね、やっぱり」
刺さる前に、枝は炎に焼かれ、塵となって消えた。ラグエルが手を払うように振る。アモンが本能的に放った炎に当たったらしい。
ラグエルは半目でアモンを見下ろす。
「ここはもう天界じゃありません。我々の役目はあなた方に天界に潜入されないこと、堕天使を天界から脱走させないことです。その怪我ならあなた方の生命力じゃ死にはしないでしょうけれど、当分天界には登ってこられないでしょう。優しい私に感謝してくださいね」
ラグエルはひょい、とウリエルをつまみ上げる。
それを担いで煉獄に退散……と思ったが、ルシファーがウリエルの足首を掴んだ。ウリエルがびくん、と目を覚ます。
ラグエルはあーあ、という気持ちで眺めていた。魔力も威厳も妄執も、なまじ強いためにこの悪魔は最強とされる。
「強欲はマモン、色欲はアスモディウス、嫉妬はリヴァイアサンの担当のはずですが?」
「ウリエルを置いていけ。そうすればお前は見逃してやる……」
「魔力も上手く回らない重傷でよく言いますよ。煉獄の番人と管理人が揃い踏みで不在になった今、天界はばたばたしているから、私もウリエル殿も暇ではないんですよ、ルシファー殿。今なら私でも息の根を止められそうですから、止めて差し上げましょうか?」
「駄目だ」
「っ」
思わぬ方向から突き飛ばされ、ラグエルは地面に倒れる。ラグエルがつまみ上げたウリエルがラグエルを突き飛ばしたのだ。ラグエルは一瞬驚いた後、呆れた表情を向ける。
「……ウリエル殿、私、あなたの味方なんですけど?」
「ルシフェルには、私が、とどめを刺す」
「それはお好きにどうぞなんですけど……突き飛ばす必要ありました?」
ジョークですよジョーク、とラグエルは笑う。まあ、今のルシファーなら、非力なラグエルでも簡単に殺せる、というのは事実だが、ラグエルは言葉を放っただけで、殺気を放っていない。
それを大袈裟な、とは思いこそすれど、ウリエルとルシファーの間にある謎の確執に迫ろうとは思わない。勝手にやっていろ、と思うのだ。
煉獄にミカエルが来て、シャムシェルが脱獄をしたと聞いた時点で、ラグエルはルシファーが出てくることまで想像がついた。だからウリエルを行かせたくなかったのだ。
ルシファーが天使だった頃から二人を遠目で見ることはあった。仲がいいな、とは思っていたが、天魔戦争を境にこの二人の互いへの執着度合いがおかしいことには気づいていたのだ。ウリエルはいつまでもルシファーから剥奪された天使の名で呼ぶし、ルシファーはウリエル目当てに煉獄まで来ることがしばしばあった。ラグエルは決して二人を接触させないよう、ルシファーに煉獄に立ち入る許可を出さなかったが。
シャムシェルがルシファーと契約したのではなく、シャムシェルがルシファーのためにわざわざ手引きしたのが、今回の事の顛末だと、ラグエルはわかっていた。天界の天使たちは鈍感ばかりで困る。
まあ、もはや単なる好き同士ではないのだろうが。
ウリエルはルシファーの懐から取り出したナイフを構える。ルシファーのことだ。毒も仕込んであるにちがいない。そんな刃が、ひたり、とルシファーの喉に宛がわれた。
ウリエルの手が震えている。さっさと殺れと思ったが、ラグエルは見ないようにした。迷い惑う炎の断罪者など、見たくなかったからだ。
だが、時間など与えられなかった。
周囲は海などではないのに、山を呑み込もうとする大波が迫っていることに気がついたのだ。
「手のかかる小僧共じゃ。一つ貸しだぞ、傲慢の童」
「ウリエル殿!」
ラグエルが女の姿をした悪魔の声に、ウリエルを振り向いたときには、
ざぱあっと山は波に呑み込まれた。