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第14話 報い報われ

「アスタロトさん」

 目眩ましの魔術、土の魔術、光の魔術……様々な種類の魔術を行使しながら、シャムシェルはアスタロトに話しかけた。

「ボクはこれから天界でありとあらゆる惨事を起こします。派手に暴れ回るので、その合間を縫えば、シャマインからの脱出も可能でしょう。シャマインの水場には聖水がありますが、あれもどうにかします。水場の底が浅くなったタイミングで抜ければ、堕天使でも消滅せずに通れるはずです」

「そんなこと、できるのか?」

 懐疑的なアスタロトに、菫色が微笑む。

「仕掛けは色々考えていますが、太陽と月の運行を妨げれば、さすがに事態を重く見て、煉獄の番人に助けを求めるでしょう」

「あの炎の断罪者に?」

 シャムシェルはええ、と嬉しそうな笑みを浮かべた。あまりに場違いな純真無垢さにアスタロトは面食らう。

 これではまるで、困難が来ることを待ち望んでいるかのようだ。アスタロトの記憶ではシャムシェルという天使はそんな好戦的な性格ではなかったように思うのだが……天魔戦争において最前線で戦ったウリエルの副官というだけあって、思うより、戦闘意欲があるのかもしれない。

「ボクの目的はそれです。天界も窮地には当てにするほどの最高戦力、四大天使の一人、ウリエル様。それが天界の中に入ってくれば、外に出た者に対する脅威は圧倒的に少なくなるんです」

「それはそうだが……その圧倒的な戦力のウリエルをお前一人が請け負うと?」

 シャムシェルはにこ、と笑う。愛らしい顔立ちなので、花が綻ぶみたいに美しかった。

「請け負うというか、ボクは脱獄ではなく、ウリエル様に会うことが目的なので」

 何故、この者が堕天使なのだろう、とアスタロトは思った。他の堕天使に対してアスタロトがそう思うのは初めてのことだった。

 アスタロトは堕天の法の中で、人間との性的交遊という罪を犯したとされる。アスタロトはそんなことをした覚えがない。故に一貫して無実を主張している。無実なのに、神罰まで降されて、それでもこんな不当な扱いを自分が受けていいはずがない、他の堕天使たちとは違う、と思い続けてきた。

 堕天の法を犯した者たちをどこか見下して生きていた。自分は無実だから、堕天使ではない、こんな無法者たちとは違う、と。何故自分が堕天使と呼ばれなければならないのだろう、と。

 最初、シャムシェルが脱獄を持ちかけてきたのは嫌味なのだと思った。脱獄は罪だ。堕天の法を犯していなくとも、何かの罪を犯せば罪人であることに変わりはなくなる。それでアスタロトを堕天使として陥れようとしているのだ、と。自分は神罰が降されていないから、いい気になっているのだと思った。

 けれど、シャムシェルの目には何かよからぬことを企んでいるような色がなかった。濁りのない紫にアスタロトは心を動かされたのだ。

 脱獄ではなく「ウリエルに会いたい」という気持ちで動いている。やっていることは罪であるにちがいない。けれどそれを、こんな純粋な思いを叶えるためだけに、どこまでも道を踏み外そうとするシャムシェルに心が痛んだ。

「ボクはそんな打算で、アナタを利用しているんです。もちろん、ボクだけ得するわけにはいきませんから、アナタにも有用な情報を渡します」

「いや、それより、シャムシェル……何故大罪を積み重ねてまで、ウリエルに会おうとするのだ?」

 冷酷無比の断罪者。会ったら殺されてしまうかもしれないのに。

 それでもシャムシェルは笑った。

「ウリエル様を心よりお慕いしているからです。ボクにとっての全てといっても過言ではない存在なのですよ、ウリエル様は」

 まるで、とシャムシェルは口にする。

「神様みたいな方なんです」

 そんなに敬虔に、思われているなんて、なんて幸せなことなのだろう。

 その思いが一方通行であってほしくなかった。

 シャムシェルの思いが報われてほしい、とアスタロトは思ったのだ。


「第一極刑、だと……!?」

 アスタロトの声が低く、その空間に谺する。

 ミカエルがアスタロトを一瞬で見失って、しまった、と思ったときにはもう、アスタロトはウリエルの背後へ回っていた。三叉槍の先端にびりびりと雷がまとわる。

 それがウリエルの項へ突き刺さろうというとき、かん、と軽い音がした。

 ウリエルが槍の柄で軽く三叉槍をいなした音だとわかる頃には形成が逆転していた。三叉槍をいなされたアスタロトは体勢をほんの少し、ほんの一瞬崩しただけだった。だが、瞬き一つの間でウリエルは三叉槍を避けたばかりか、アスタロトの鳩尾に膝を入れ、背後に回り、手刀を首筋に叩き入れていた。

 炎すら使われない純粋な格闘。けれど威力は充分で、アスタロトはつんのめる。

 空中で力を失えば、あとは落下するだけだ。天界からすぐそこのこの高度から落ちれば、地面とぶつかるより先に肉体が塵になることもあり得る。

 がっとウリエルはアスタロトの腹に手を回して持ち上げた。何事でもないかのように。

 ミカエルに振り向く。

「生かして捕らえるのだったな」

「あ、ああ」

 ウリエルは至極あっさりと捕縛してみせたが、アスタロトはかなりの手練れ、天魔戦争にも参加した猛者だ。それを赤子同然のように捕らえてみせるとは。

 それに、ミカエルには気になることがあった。

「シャムシェルは……その、よかったのか? 神涜罪と言っていたが」

 ウリエルは断罪者だ。断罪者は罪人を正しく裁くことをモットーとする。ウリエルがシャムシェルの罪状を断じ、第一極刑に処したのは、正しい判断かもしれないが、断罪者としての信条に反するのではないだろうか。

 ミカエルの心配を小指の先ほども感じ取っていないのか、ウリエルは無表情のままだ。

「神を冒涜するのが罪なら、命でもって償うしかない。舌を抜いたところで、シャムシェルが魔術を使えなくなるわけでもなし」

「それはそうだが」

 煉獄で話を持ちかけたときはシャムシェルに情があるようだったのに、なんだかいつものウリエルに戻っていて、ミカエルは気が抜けた。

 殺すこともまた、ウリエルなりの気遣いの一つなのかもしれない。死ぬことで苦しみはその一瞬で絶たれる。第二極刑を受ける者たちからすれば、第一極刑は易しいとさえ言えるほど。

 死んだ魂は審判の時に運ばれる。断罪者によって正しく処罰を受けた堕天使なら、審判の時に人間として復活する可能性もある。人間になったなら、魔力も使えないし、脅威となることもないだろう。

 だが一つ、引っかかることがある。

 シャムシェルは何故、派手に暴れた? 何故派手に暴れた割にウリエルにあっさり殺されたのだろうか。

 目的がウリエルに会うことだったとしたら、もっと話を引き延ばしたりするものではないか?

 引き延ばす必要がなくなった? アスタロトが逃げ延びていないのに?

「ふっ……時間きっかり。さすがお前の元副官なだけあって、その正確さは目を見張るものがある。そう思わないか? ウリエルよ」

 ミカエルが何かに気づきかけたとき、その声はした。

 ミカエルとしては、一番聞きたくなかった声。

 ウリエルが両目を見開いて、徐に振り向く。

 その琥珀色の瞳に映るのはミカエルと瓜二つの隻眼の男。神をも見下すその様は傲慢の罪に数えられ、魔界では軍師をしているという。

「ルシフェル……」

 堕天使ルシファー。考えうる中で最悪の人物の登場だった。

「会いたかったぞ、ウリエル」

 会いたくなかった。

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