歌が終わると、ウリエルはシャムシェルの体を抱き上げ、ガブリエルに放る。ガブリエルはずしゃ、とシャムシェルの体に押し潰されながら受け止めた。
「おい、ウリエル」
ガブリエルが不機嫌に起き上がる。彼は子どもの姿をしていることもあり、華奢とはいえシャムシェルの体の方が大きかった。
サドキエルが手伝おうとすると、ガブリエルは頭を振った。死体や血は穢れとされるそれが天使でも人間でも悪魔でも関係ない。穢れに触れるのは聖水の湛えられた水場の管理人としては、躊躇われる。
一応、ガブリエルも水場の管理人なのだが、ウリエルはそんなことに配慮しない。ガブリエルが睨むと、ウリエルはそよ風でも吹いたかのように、涼しい顔をしている。
「おい、ウリエル、これをどうしろって?」
「煉獄まで運んでほしい」
「それを先に言え」
とんだディスコミュニケーションである。四大天使としての付き合いがなければ、大喧嘩になっているところである。
ガブリエルは不承不承といった顔でシャムシェルの体を抱え直す。首は頭陀袋に入れて、腰から提げる。
「で? お前はどうすんの? シャムシェルの処刑は終わったわけだから、煉獄に」
「まだだ」
ウリエルはとん、と槍で地面を突く。
「アスタロトを捕縛する」
「え」
けれど、ああ、と溜め息を吐く。ウリエルは責任感が強く、断罪者という役割に誇りを持っている。天界に所属していなくても、天界での騒動の解決に奔走するくらいには。
シャムシェルの目的はウリエルに会うこと、ウリエルに処刑されることだった。そのためには確実な罪を重ねなければならなかった。それで共に脱獄したのが堕天使アスタロトである。
アスタロトとは厄介な、とガブリエルは思っていた。
第五天マティの牢獄に捕らえられている堕天使の中でも有名人だ。アスタロトは捕らえられてからずっと無罪を主張している堕天使なのだ。
何はどうあれ、脱獄は言い逃れのできない罪である。捕縛しないと人界に害を成すかもしれない。害を成さなくとも、アスタロトの神罰を降された見目に人々は怯えることだろう。
とはいえ、外にはミカエルが待機しているはずなのだが。
「ミカエルに任せればいいんじゃない?」
「いや……何か、予感がする」
あまり表情の動かないウリエルの顔に陰が射して、ガブリエルは胸の中がもや、として、不穏な気持ちになった。
ウリエルにこんな表情をさせることのできる人物など、一人しか思い当たらない。
「シャムシェルはあいつの名を口にしていた。もしかしたら、何かしらの連絡手段を持っていて、救援を呼べたから、脱獄を実行に移したのかもしれない」
「ヤツが来るってんなら、お前はやっぱり行くな。煉獄に帰れ」
その人物相手にミカエル一人では確かに分が悪い。だが、ウリエルは……
止めるガブリエルにウリエルは振り向く。
「煉獄に帰るにせよ、どうせ通り道だ。私が逃げたところで、あいつはそれを見逃さないだろう」
「ウリエル……」
「シャムシェルを頼んだ」
それだけ言い置いて、ウリエルは水場の中に飛び込んだ。ばしゃり、と派手に水飛沫が舞う。ウリエルの堕天の烙印と聖水が反発しているのだ。
ウリエルの言い分はわかる。ガブリエルは転移術を使えるが、転移術を使おうとすると、堕天の烙印のせいで、ウリエルは弾かれてしまう。
「お喋りしてる時間がないのはわかるけど」
「ガブリエル様、やはり代わりましょうか?」
「いい、サドキエルは水場を守っていてくれ。他に脱獄を目論むやつがいないとも限らない」
ガブリエルはシャムシェルを担ぎ直して、右目を隠す前髪を掻き上げた。その下から出てくるのは奇妙な模様が刻まれた目。
「神の眸——」
ガブリエルがそう紡ぐと、ガブリエルの姿は不思議な色合いの光に包まれて、水場から消えた。
「遠路はるばるご苦労なことですね。現在、こちらの番人殿が天界のごたごたに巻き込まれているのですが、四大天使の中でも上位に名を連ねるお方が死体抱えて煉獄くんだりまでお越しとは、お暇なのでしょうか。何はともあれ歓迎いたしますよ、ガブリエル殿」
「一言どころじゃなく失礼だな、ラグエル」
煉獄の門扉で、こんなやりとりをしていたのは煉獄の管理人ラグエルとシャムシェルの死体を担いできたガブリエルである。
ラグエルの丁寧語ながら皮肉たっぷりの挨拶にガブリエルはこめかみがぴくぴくとしていた。堕天の烙印を押されてから、ラグエルの性格が変容してしまったことは知っている。知っているし、仕方ないと思う。が、許せるかどうかはまた別の話である。
「死体というのは自重を支える強張りがない分重いですからね。こんな辺境までお一人で抱えてくるのは大変だったことでしょう。神が定めた形とはいえ、ガブリエル殿の容姿は幼気でらっしゃいますからね」
「ちびじゃないわい」
「そんな不敬なことは口にしておりませんよ」
不敬だとか、どの口で言うのだろう、とガブリエルはむっとした。丁寧な言葉遣いである分、ラグエルの一言一言は余計に癪に障る。
ラグエルが塔から降りて、煉獄の門扉を開けた。ガブリエルから死体と頭陀袋を受け取ると、慣れた様子で中に入っていく。ガブリエル殿もどうぞ、と招かれた。多少無礼な口を利くが、四大天使に穢れを背負わせないよう気を回す辺りは天使としての心根が変わっていないことが伺えて、ガブリエルはなんだか複雑な気分になる。
ラグエルは堕天の烙印を押されたことで、四大天使に連なり、地位と権力を持つ七大天使の座を追われた。容姿も神罰ほどではないが、大きく変容してしまっており、それに伴って、真面目で潔癖だった性格がひねくれたように見える。
堕天が冤罪であることを証明したはいいものの、堕天の烙印によって体質が大きく変化してしまったラグエルは神の恩恵を受けることができず、天界から煉獄へと移籍した。
「これ、シャムシェルですか」
頭陀袋を開け、ラグエルは中身を確認していた。元々ラグエルは審判の時を管理する天使。死人や罪人を扱うという点では煉獄も変わりないと言えよう。
頭陀袋の血塗れの生首にも動じる様子はない。煉獄では生首が飛ぶなど日常であるし、もっと残酷な処刑方法もあるくらいだ。死というものが身近な役割を担っていたため、ラグエルは穢れへの耐性が強かった。
「そうだ。ウリエルが第一極刑にした」
「お優しいですこと。他にウリエル殿は何か仰ってはおりませんでしたか?」
「これを運んでくれとだけしか」
「ふむふむ……」
第一極刑に処された者は火葬か土葬か鳥葬となる。そのどれの指示もないとなると、シャムシェルの遺体は安置しておけ、ということだろう。
ラグエルは生首を眺めた。女児のような可愛らしい顔立ちのシャムシェル。安らかに眠っているようだ。
「とりあえず保管しておきましょう。ウリエル殿が案外そっちの気があって、慰みものに使うのかもしれませんし」
「お前、無礼にも程があるだろう」
「おや、何のことやら」
剽軽に肩を竦め、ラグエルはガブリエルの眼光をかわした。
「それより、身を清めることをおすすめしますよ。四大天使ともあろうお方が、いつまでも血の穢れを纏っているなんて、お労しいことこの上ない。煉獄に聖水はございませんが、湯浴みはできますよ」
「いや、遊んでいる時間がない。最悪、ルシファーが襲撃してくるかもしれないからな」
ガブリエルの言葉に、ラグエルがシャムシェルの首を取り落とす。
「なんですって……!?」