シャムシェルは特筆すべきところのない天使だった。顔が少女のように美しいけれど、容姿が美しいのは天使であるなら当たり前であり、容姿の良さを誇る必要も、容姿の良さをひけらかす必要もない。
そんな容姿の美しさに誇りを持ち、傲ったことで、天使にあるべき心根を失ったベリアルという愚者がいる。それは己の容姿を利用し、人間を誑かしたため、堕天使とされた。
愚かなことだ、とシャムシェルはベリアルを見て思った。ブロンドの髪に赤い目をした天使。ベリアルは人間からすれば鼻筋も通っていて美しいのだろうが、人間より高位の存在であるには頭が弱かった。それを愚かだとは思ったが、憐れとは思わなかった。シャムシェルはベリアルに微塵も興味がなかったから。
だって天使の容姿がいいのは当たり前だ。そのように神が造形している。天使にとって、見目がいいことは何ら特別ではない。むしろ、何故ベリアルは自分が特別だと思ってしまったのだろう。
それに、普通の天使よりも神より直接能力を分け与えられた四大天使の方が格段に特別であるし、美しい。シャムシェルはそのことを知っていた。
ああ、ベリアルは四大天使様のことを知らなかったのだな、とそのことは憐れに思った。あの貴き四人を知らずに生きて、傲って、堕天使となるのなら、仕方ない。天使にもそんな物知らずがいたとは驚きだが、神に近しい天使になど、そうそうお目にかかる機会はないのだから、知らなくても無理はないのかもしれない。
シャムシェルは会ったことがあった。
「シャムシェル」
神の姿を直接見たことはない。ただ、第七天アラボトに呼ばれたことはあった。堕天使の長ルシファー、当時の名をルシフェルという、息を飲むような美しさの高位の天使に導かれて、神の膝元まで参じたことが、一度だけ。
シャムシェルの名を呼ぶ神、ヤーウェの声は、男性なのか、女性なのか、大人なのか、子どもなのか、老人なのか、どうにも判別のつかない声をしていた。けれど、どのような見た目、どのような年齢であっても、きっとこの神のことを嫌いになることはないであろう不思議な確信を持たせる声であった。
ルシフェルだけでも存在感が凄まじいのに、ヤーウェは更に存在が重みを伴っていて、シャムシェルは垂れた頭を上げることができない。
「シャムシェル、そう堅くならなくてもいいよ。私は神だなんて呼ばれているけれど、大層なものじゃない」
そんな一言で、ふわりと肩が軽くなる。シャムシェルは顔を上げた。
直視すれば目が潰れると言われている神は光り輝いてなどいなかった。ただ、人影が幕の向こうにある。
「しかしながら、どうしてボクをお呼びなのでしょう。一天使にしか過ぎませんのに」
「ははは、謙虚だね。謙虚な君が謙虚でいられなくなるように、力を与えたい」
どんな力か、仔細を聞いていないのに、とんでもない力を持たされるような気がして、シャムシェルは一歩退いてしまう。
ルシフェルがそっとその肩を抱いた。
「恐れることはない。俺の進言だ」
「ルシフェル様の?」
「そうそう」
ヤーウェは苦笑混じりに告げた。
「ルシフェルからの進言でね、君にウリエルの隣に立てるような力を与えようと思って」
「ウリエル様って、楽園の番人をしてらっしゃるウリエル様でございますか!?」
黒髪に琥珀色の目。色こそ派手ではないものの清廉な存在感と強さを持つ大天使。神の作りし楽園の管理を任されているウリエルは天使の間では有名であり、天使たちの憧れでもあった。
そんなウリエルの隣に立てるという話は、シャムシェルにとって夢のようであり、恐ろしくもあった。
単騎無敵の大天使ウリエルの隣に立つに相応しい能力とは如何なるものか、想像もつかなかったのだ。
神の力の一部を授かるミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルの四人も、力を得る代償を負っている、とシャムシェルは耳にしたことがある。高貴な天使でも代償を支払わねばならないほどの強大な力。どんな力をそれぞれが持っているのか詳しくないこともあって、想像のつかない恐ろしさがシャムシェルの胸にはあった。
そんなシャムシェルの不安を見抜いたのは、ルシフェルの空色の双眸だ。
「心配することはない、シャムシェルよ。お前に与える力は俺の力の一部だ」
「ルシフェル様の? ということはまさか」
菫色の目を大きく見開いたシャムシェルにルシフェルは頷く。
「察しが良くて助かる。お前に授ける力とは魔力だ。ウリエルでは届かない部分をどうか、その力で補ってくれ」
かくして、ヤーウェの見守る下で、シャムシェルはルシフェルから魔力を授かり、魔術を扱えるようになった。
わかっていた。分不相応な立場だ。シャムシェルはこのまま、名前のない立場の天使でいる方が幸せだ。だが……
「ルシフェル、様……」
堕天使ルシファーによる、神への謀反が行われ、天使と悪魔を巻き込んだ史上最大の天魔戦争へと縺れ込んだ。
シャムシェルは理解する。
「何故だ、ルシフェル!!」
「ははは、取り乱すお前の姿もなかなか乙なものだな、ウリエル」
対峙する二人を見て、普段は目にしないウリエルの取り乱した姿と、不敵に笑うルシファーに……
ああ、自分はこの人の代わりにウリエル様の隣にいられるように、力を分け与えられたのだ、と。
魔力。それは人間が持ってはいけないもの。禁忌の力。天使も持っていないもの。持ってしまえば全てが狂ってしまうような力だから、許された天使にしか使えない。堕天した悪魔が使えるのは、天使でも人間でもない、神から完全に見放された存在だからだ。
だから、戦時中、シャムシェルはウリエルに一つ、頼みごとをした。
「ウリエル様。ボクがもし、道を踏み外してしまうようなことがあったら」
「駄目だ、やめろ、お前はあいつのようになるな。お願いだから」
「ウリエル様」
取り乱すウリエルを見てシャムシェルは微かな優越を覚えた。自分がいなくなることをお慕いするこの人が、こんなにも恐れてくれる。その事実が誰かの身代わりだとしても、ウリエルの美しい眼に自分しか映らないというのは、いい気分だった。
ルシフェル様、ひどい人。あなたに敵う人なんて存在するわけないじゃないですか。
シャムシェルはウリエルを抱きしめ、背中をさすりながら告げる。
「そのようなことが、万が一にでもあったら、あなたがボクを殺して止めてください」
「嫌だ」
「ボクもあなた以外に殺されるのは嫌ですよ」
シャムシェルの言葉に、ウリエルがはっとする。
涙が出なくて乾いた赤い目に、シャムシェルの菫色が映る。反射した色は見たこともない花のようで綺麗だった。
「お願いです。あの人のようにならないように、どうかあなたが、ボクを屠って、そして」
とたん、とシャムシェルの華奢な体が床に崩れる。そう見せかけて、起き上がることはもうなかった。
飛んだのは正真正銘シャムシェルの首だ。どくどくと血を流し、水場を赤く染めていく。
あまりにも一瞬で、あまりにもあっさりとした決着に、氷壁から見ていたガブリエルとサドキエルは唖然としている。
そんな中、転がり落ちていった首を拾い上げ、ウリエルは絶命したシャムシェルと向き合う。
その閉じられた瞼の奥。菫色が現れることはもうないのだろう。
血の気が失われていくシャムシェルの唇に、ウリエルはそっと自分の唇を重ねた。親愛のようで、友愛のような慕情が含まれたキスは一刹那にも見たないような、それでいて、永遠にも思える時間の重さが感じられた。
唇を放すと、ウリエルは氷壁を炎で溶かしながら、シャムシェルの首を抱え、何か口ずさんでいた。
るらるりらんららる、といったような、とても意味があるようには思えない文字の羅列と軽やかなメロディライン。シャムシェルからの魔力が絶たれて溶けていく氷壁の中、ガブリエルが目を見開く。
「鎮魂歌だ」
「え?」
「ウリエルだけが歌える、天使を光へ還す鎮魂歌だ」
ウリエルという名の意味は「神の炎」ともう一つ。
「そして、ウリエル様だけに許された歌で、ボクを光へ、還してくださいね」