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第5話 第一天

 堕天の条件は三種類ある。

 一つがルシファーのように神に楯突くこと。

 一つがアザゼルのように人間に知識や知恵を与えること。

 最後の一つは堕天使シャムシェルが犯したもの。それは人間と性的な交わりを持つことだ。


「開けろ」

 ウリエルの低く這うような声に、ラグエルは目を見開く。

「安直な行動はおよしください、ウリエル殿。シャムシェルがあなたの嘗ての副官であったことは私も知るところ。ですがそれは所詮過去の話。あなたがシャムシェルに対して責任を負う必要はありません」

 ラグエルの視線が外れたため、ミカエルは塔を見上げるのをやめ、門の向こうを見つめる。

 ミカエルにとって、ウリエルとは長い付き合いだ。ウリエルと共に楽園エデンの番人をしていたこともある。ウリエルが堕天の烙印を押された後、楽園エデンの番人はミカエルの役目となった。

 ミカエルはウリエルが責任感が強く、頑固で、馬鹿みたいに強いことを知っている。嘗てその武器は槍ではなく、神より賜った剣だった。神から認められるほどの強さ。それは頑強さの証でもあり、ウリエルの頑固さ、頑なさを表していた。

 ミカエルは再び塔を見上げる。ラグエルも難儀なものだ。一度言ったら聞かないウリエルを諌める役は相当骨が折れることだろう。ラグエルが真面目であるが故に。

 堕天使シャムシェル。人間との淫行の罪により堕天した彼はウリエルの元副官である。天魔戦争の際、ウリエルが率いていた軍の副官だ。そのため、シャムシェルが堕天の法を犯したときは天界中が騒ぎになったものだ。その頃にはもう、ウリエルは堕天の烙印を押され、冤罪を証明はしたものの、天界に自由に出入りできなくなっていたから、人間による陰謀論が天界ではまことしやかに囁かれた。

 シャムシェル本人は自分の意思で行ったと供述しているが、どうだろうか。ウリエルに堕天の烙印が押されたことを誰よりも嘆いたのはシャムシェルだと聞く。副官として、ウリエルをひどく慕っていた。

 高潔なウリエルの副官が法を犯したというのが、当時天界を震撼させたのはまだ記憶に新しい。ウリエルはその報告のときもひどく動揺していた。煉獄の番人としての職権乱用をして、シャムシェルを第一極刑にしようとしたほどだ。

 ただ、極刑にするにはシャムシェルの罪状についての聴取や証拠が足りなかった。神もシャムシェルの容姿を変えないため、天界でも対処に困っていたほどだ。

「だが、脱獄の事実は変えようのない罪だ」

「脱獄の罪程度であなたが動く必要がないと言っているんですよ」

「ただ脱獄しただけなら、ミカエルがここに助けを求めに来るはずはないだろう。シャムシェルの能力を忘れたか、ラグエルよ」

「ええ、覚えていますとも。魔術には助けられましたからね」

 魔術。それは天界において使える者が存在しないはずだった。魔術というのは名前から察せられる通り、魔力を使う。魔力とは悪魔が犯した罪を変換した力だ。つまり魔術は一般的に悪魔が使うものとされている。

 が、シャムシェルは魔術を悪魔だけの力にしておくのは危険と判断し、魔術の習得をした。罪を魔力に変換するのは天界の第五階層や第三階層に収監されている堕天使たちを使えばできる。

 シャムシェルは七大天使まではいかなかったが、優秀な天使であり、魔術を獲得した唯一の天使である。天魔戦争においてもシャムシェルの魔術は天使側に大きく貢献した。

 それが敵となっているのである。

「脱獄は目眩ましの魔術や空間構築の魔術でどうにかした。しかも他の投獄者の脱獄幇助までした。追っ手に対しても魔術を使っているのだろう」

「ええ、そうでしょうね。ですが、天界側の不祥事です。私たちが出張るのはお門違いというものですよ」

「四大天使が助力を求めているのに、か?」

「そんなことを言っているあなたこそ四大天使の一人でしょうに」

 ラグエルの夜色が侮蔑を孕んですっと細められる。

「そもそも、シャムシェルに神罰が降されていないからおかしくなっているのでしょう? ヤーウェは何をしているのです? これだからぽんこつ神は」

「……神を愚弄するなら、お前とて斬るぞ、ラグエル」

「図星をさされて怒るのは大人気ありませんよ、ウリエル殿。それに、シャムシェルを抑えられない天界の天使は無能ですし、断罪というのなら、もう何ヵ月も断罪の天使様が天界に伺っているはずですが?」

 ラグエルの夜色がミカエルに戻ってくる。ミカエルはぎくりとした。

 断罪の天使、サリエルのことを指摘されてしまえば、何も言い返すことができない。サリエルは天界に投獄されている堕天使の断罪中である。

「サリエルの役割は断罪であり、脱獄した罪人を追いかけ回すことではないだろう」

「それはあなたも同じことなのですよ、ウリエル殿。また、逆も然り。断罪をするためには罪人を捕らえておく必要がある。即ち、逃げた罪人を捕らえるのも断罪者、処刑人の役割の一部です」

「なら、私がシャムシェルを捕らえるのも道理というわけだ」

「ちっ」

 四大天使二人を前に、堂々と大きな舌打ちをするラグエル。ラグエルが目上に失礼なのは今に始まったことではないが、様々な方角から宥めすかしていたのをとうとう論破されてしまったのが気に食わなかったのだろう。不機嫌さを隠す気もない。

 それでも尚、ラグエルは言い募る。

「わからないお方だな。罪人は天界にいるのですから、天界の罪人を捕らえるのはサリエル殿の領分という話でございますよ」

「だが、シャムシェルもアスタロトも、天界から脱走してからでは話が遅い」

「ミカエル殿、こんなところに来ていないで、あなたが鹵獲したらいかがです?」

 そのラグエルの言にはウリエルも納得したらしく、ウリエルはミカエルに声をかける。

「ミカエル。シャムシェルは今第何天にいる?」

 すると、ミカエルは苦々しい面差しで告げる。

「第二天。直に第一天に到達するだろう」

 だんっ

 そこでラグエルはものすごい音を立て、窓枠から階下へと飛び降りた。天使であるため、地面にはふわりと降り立つ。ミカエルをきっと睨み付けた。

「あのですね、そういうことはもっと早く言ってくださいませんか? 今までの会話で浪費した時間は返りませんよ?」

 言いながら、門を開く。ぎぎぎ、と重く軋む音がした。

「第一天シャマインは人界と接する天界の最下層。人界に堕天使を降り立たせるわけには参りません。いいでしょう、番人を貸し出すには充分な理由です。そういうことを早く言えば、私もこんなにごねませんでしたがね!」

 嫌味を投げ飛ばし、ラグエルは塔の上へ戻る。その背中にすまない、と謝罪を投げ、ウリエルはミカエルと並び立った。

「シャマインにはサドキエルとガブリエルがいる。俺は罪人二人が出てきたときのために付近の人界で警護をするから、ウリエル、よろしく頼む」

「ああ」

 そうやりとりして、ミカエルとウリエルは天界へ飛び立った。


 第一天シャマイン。天界の最下層、第一階層を天使たちはそう呼ぶ。シャマインの管理者はガブリエルである。人界と天界が繋がらないよう、シャマインの出入り口には深く大きな水場がある。

 ウリエルは水中から浮上した。

 水面に顔を出すと、水場を管理している天使がウリエルに気づいた。赤茶けた髪を波打たせ、憂いを帯びた色を漂わせる彼は七大天使の一人。

「ウリエル様、いらっしゃったのですね」

「久しぶりだな、サドキエル」

 慈愛の天使サドキエル。誰よりも愛深く、誰よりも他者を大事に思う天使である。争いの絶えない世界であるため、その碧眼はいつも悲しげだ。

 聖なる水場は天使ならば、中で呼吸もできるし、体も水に濡れることはない。シャマインの最下層に水場を置くのは侵入者の妨害と、侵入者の識別である。人間が入れば広大すぎる水場の中で溺れ死ぬ。悪魔や堕天使が、たとえ浮上できたとしても、体が濡れていれば、侵入者だとすぐにわかる寸法だ。

 四大天使であるウリエルだが……彼の体は濡れていた。黒く長い髪は水を孕み、一種、重石のようにすらなる。服もぐっしょりと濡れており、水場から上がると、床にぼたぼたと水溜まりを作った。

 堕天の烙印の影響で、ウリエルは天使と識別されないのである。

「着替えを」

「不要だ。時間がない」

 ウリエルの端的な返答にサドキエルは悲しげに眉をひそめる。時間がない、ということは、ウリエルはシャムシェルの相手をしに来たということだ。

 と思っているとウリエルの髪も服も瞬き一つの間に乾いてしまっていた。

「さすがですね、ウリエル様!」

 少し弾んだ幼い声がする。少女とも少年とも取れる声に、ウリエルとサドキエルは振り向く。

 水場の入り口に、愛らしい見目の人物が立っていた。濃い色をした金髪は毛先がくるりと内巻きになっており、顔に寄り添っているため、顔がいっそう小さく見える。そんな小さな顔の中で大きな面積を占める双眸は花のような紫色をしており、煌めいている。両手で杖を抱える様は幼気に見え、ひらひらとした服やピンクや紫といった色の組み合わせからも、少年というより、少女の印象が強い。

 ウリエルと目が合うと、その人物はにこ、と破顔した。

「間に合ってよかった」

 ウリエルは彼を捕らえるために来たというのに、そんなことを嬉しそうに言うのだ。

 堕天使シャムシェルは。

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